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2008年8月 9日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (105)

お盆休み突入、アーンドなんやかんやでエントリー200件目でございます。地球温暖化が着々と進行中なのが実感できるほどクソ暑い今日この頃、皆様にはいかがお過ごしでございましよーか。こないだなんか、昼飯を食ってたらいつの間にか大雨で外が大洪水状態になってて、オドロキましたよ、ええ。このまますっかり遭難して、ラーメン屋で一晩過ごすのかなーとか思ったことでありますが、ま、それならそれでいっかー。とりあえず食料はあるしな(笑)。

などと厄体もないことを呟きつつ、まだ終わらん「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は(0:40:49)から(0:44:18)まで。

このうち、(0:40:49)から(0:41:15)のシークエンスに関しては、「90歳の姪」が表すものを含めて、すでにこちらなどで詳述しているのでここでは繰り返さない。あえて付け加えておくべき事項があるとすれば、「スミシー」のスペルの問題についてだろうか。「インランド・エンパイア」では「Smithy」になっており、匿名を希望する映画監督が使用する「アラン・スミシー(Alan Smitee/Smithee/Smythee)」とは異なっている。これについては、後者の「スミシー」が「監督=映画を作る側」が使用する「匿名」であるのに対し、前者を「映画を受容する側」の「匿名性/一般性」を表すものとして峻別するために、リンチが故意にスペルを変更した可能性を指摘しておきたい。

さて、(0:42:13)以降のシークエンスでは、舞台は「ニッキーの屋敷」の内部に移る。「屋敷の外観」のエスタブリッシュメント・ショットを挿んだ後のシークエンスで表象されるのは、「映画制作」の問題が「ニッキーの屋敷」の内部における「トラブル=機能しない家族」の事象に関係づけられる様子である。

ピオトルケとデヴォンが二階にいることを、ニッキーは執事の示唆によって知るわけだが、このときの執事の表情をみる限り、彼は「トラブル」の存在(あるいは発生)を察知している。執事(およびメイドたち)は「マリリン・レーヴェンス」による「示唆」を認知しており、それが「トラブル=機能しない家族」の要因となることは了解済みだ。それは、ピオトルケとデヴォンの行方を尋ねるニッキーに対して、「すみません。旦那様がバークさんを二階に連れていきました(I'm sorry. He's taken Mr. Berk upstairs)」と答えた執事の表情からも、明らかである(0:41:39)。だが、おそらくそれ以前から、彼/彼女たちは「ニッキーの屋敷」の内部に発生している「トラブル」を認識している。レーヴェンスによる「示唆」はその「新たな要素」に過ぎない。

執事の返答をきいて、ニッキーは二階に上がる。そこではピオトルケとデヴォンの会話(といえるのなら、だが)が展開され、ニッキーはそれを「覗き見る」ことになる。

彼らが交わす会話の詳細は次回に譲るとして、このシークエンスにおける「映像的特徴」として指摘できるのは、ニッキーがピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見ている」という構造そのものである。これは、(0:18:14)で提示された「ニッキーと友人たちの様子を、ピオトルケが階上から覗き見ている」という構造に「対置/対応」されるものだ。この二つのシークエンスを対比させたとき、まず目にとまるのは、前者において「覗き見」をするのがニッキーであるのに対し、後者がピオトルケであるという「視点に関する対置関係」……つまり「覗き見るもの」が入れ替わっていることである。だが、むしろ重要なのは、前者において「覗き見られる対象」が「家の階上で発生している事象」であるのに対し、後者の「覗き見られる対象」が「階下で発生している事象」である点だ。つまり、「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」が、一連の「覗き見」のシークエンスにおいても認められるわけである。

ただし、ここでの「高低のアナロジー」によって提示されているのは、「家」と「ストリート」の対置関係ではない。なぜなら、事象は”「家」の「内部」”にのみ発生しているからだ。それでは、この二つのシークエンスに現れる「高低のアナロジー」は何を表象しているのだろうか? たとえばピオトルケが「ニッキーと友人たち」を二階から見下ろすという「図式」にも表れているように、「家」の内部における「二階」は「夫(の抽象概念)」の「領域」である。また、このシークエンスにおいても、「二階」で発生している事象はピオトルケとデヴォンという二人の「夫」によるものだ。加えて、ピオトルケが「実力者」であるという言及(0:22:39)や、後にピオトルケが「サーカス」という「組織」に参加すること(1:45:11)から提示されるように、「夫の領域」である「二階」は「公的」なイメージを付随させることになる。そうした事項をもとに捉えるなら、ここで提示されているのは「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」という「対置関係」なのである。

興味深いのは、この後に現われる”三つ目の「覗き見」のモチーフ”……(0:57:40)でリフレインされる”「スミシーの家」のベッド・ルームを「覗き見る」ピオトルケ”のシークエンスである。このシークエンスを”「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」の対置”という観点からみたとき、そこでは「高低のアナロジー」が消滅していることが……「観る側」であるピオトルケの「視点」と「観られる側」であるニッキーとデヴォンがまったくの同一高度上に存在し、フラットな位置関係が描かれていることが確認されるはずだ。つまり、ここでは「公的なもの」あるいは「私的なもの」という区別が存在せず、すべてが同一水準に存在しているのである。「スミシーの家」の内部を(登場人物=スーと演技者=ニッキーの混淆物である)スー=ニッキーの「内面」として受け取るならば、そこにあるのはスー=ニッキーの「主観=私的なもの」のみであるはずで、「客観=公的なもの」が侵入する余地はない。逆にそれは「スミシーの家」と「ニッキーの屋敷」の構造自体に反映されており、そもそも「スミシーの家」は「二階」をもたない(もてない)のだ*。

「ニッキーの屋敷」で発生した「覗き見」と「スミシーの家」で発生したそれとの大きな差異は、まさしくこうした点にあるわけだが、同時にこの「視点位置の変遷」と「舞台の転移」は、演技者=ニッキーの「内面」としての「家」が「ニッキーの屋敷」から「スミシーの家」にシフトしたことを……ニッキーによる登場人物=スーへの「感情移入/同一化」が深化したことを指し示しているといえるだろう。この第三の「覗き見」のシークエンスがそのまま”1回目の「Axxon N.」の発現”シークエンスに連鎖していくことや、それがそのまま「スミシーの家」の実体化につながっていくころからもわかるように、「内面」が「外界化」し、「私的なもの」と「公的なもの」の境界が消滅していく様子が描かれているわけである。

次回では、このシークエンスにおけるピオトルケとデヴォンのやり取りを中心に追いかけてみることにする。

(この項、続く)

*そのかわり「スミシーの家」には、「公的なもの」と「私的なもの」(あるいは「外的なもの」と「内的なもの」)が交錯する場所としての「裏庭」が存在する。

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