フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (104) »

2008年8月 1日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (103)

お盆を控え、なんかやたら忙しい大山崎です。いっそのこと、お盆休みも年末年始休暇もゴールデン・ウィークも、なーんもないフラットなほーが楽チンかもしれない……とゆーよーなことを、どーも去年の今頃も書いたような記憶があって「でじゃ=う゛」なわけですが、「なんなら毎日、日曜日にするか? ん?」とか言われそーで口に出すのはヤめております今日この頃(笑)。

それはそれとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(0:36:24)から(1:00:00)までの一部を概括する形で。

これ以降、「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作撮影風景を中心にした一連のシークエンスを提示する。それらのなかでも非常に明瞭な連続性をもって捉えられるのが、演技者=ニッキーが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を深化させていく過程のシークエンスである。具体的に挙げるなら……

パートA (0:36:24)-(0:38:39)
撮影現場 ガーデン・ハウス 内部

パートB (0:46:33)-(0:49:43)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートC (0:52:19)-(0:54:07)
撮影現場 ステージ4 内部

パートD (0:54:07)-(0:54:24)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートE (0:56:12)-(1:00:00) 
スミシーの家 ベッド・ルーム 内部

……の五つのシークエンスである。

確かにこれらのパートは、「演技者のアイデンティティの混乱」を描いたものとして、「クリシェ(常套句的表現)」といっていいぐらい、非常にわかりやすい。とりわけパートD以降は、明瞭に「演技者が抱えたアイデンティティ・クライシス」として受け取ることが可能だ。「インランド・エンパイア」全編を通じてもっとも具象的な部分であり、たとえば今敏の「パーフェクト・ブルー」などといった作品の延長線上に「インランド・エンパイア」を置く意見は、この部分に焦点を当てたものであるといえる。

ただし、この後「インランド・エンパイア」は、受容者=ロスト・ガールを含めたさまざまなレベルの「感情移入=同一化」や「見当識の失当」を描き、それをとおした「自己認識の獲得」や”「機能しない家族」の機能回復”というテーマを明瞭にしていくことは何度も述べたとおりだ。リンチが「演技者=ニッキーの混乱」を表す一連のシークエンスを過剰なぐらい「明示的」かつ「具象的」に描いているのは、上述したような諸テーマへの「導入部」としての機能を負わせるためだ。そのなかでも”映画における「感情移入=同一化」”というテーマに関していうなら、現在触れているパートA~パートDにおける「(作品内)現実のフェイクとしての撮影風景」のリピートが、”「ハリウッド・ブルバード」におけるスー=ニッキーの(フェイクの)死”(2:29:18)の「導入部」あるいは「予告」として機能しているのは明白である。そのことは、パートA~パートDおよび「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスが、すべて「構造」の面からみてまったく同一の「パターン」を踏襲していることからもみてとれるだろう。これらのシークエンスにおいて、ニッキー(あるいはデヴォン)がスー(あるいはビリー)を演じている映像が提示され、それからキングズレイたちスタッフや撮影カメラなどの機材が「フレーム」に映り込む……という「パターン」が繰り返し提示されているのである*。そして、最終的に、「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスによって明示される”「感情移入=同一化」の破断”をつうじて、この「感情移入=同一化」の問題が「演技者」だけでなく「受容者=我々」側の問題でもあることが明示される。「演技者=ニッキー」から「受容者=ロスト・ガールの混乱」へと受け継がれた「混乱」は、ここでついに「我々」のものとなるのである。

もうひとつ、また違った「我々=受容者側の問題」を浮かび上がらせるのが、以前にも触れた「ニッキーとデヴォンの不倫関係」であるといえる。映画評などをみるかぎり、上述した”「演技者の混乱」の問題”とこの”「役柄をトレースした演技者間の不倫」の問題”は、多くの場合「混同」され「同一視」されている。別項でも触れたとおり、ニッキーとデヴォンの間に実際に不倫関係が成立していることを指し示す映像は「インランド・エンパイア」に存在せず、この二つの問題を同一視する根拠はどこを探しても見つからない。にも関わらず多くの人がこの二つの異なる「問題」を切り分けられず、ニッキーともども「混乱」の中に巻き込まれているのである。しかし、我々はなぜこのような「混乱」を起こすのか?

それは、我々=人間が「物語=ナラティヴ」を求める動物であること、正確にいえば、物事を「物語化」することによって理解する動物であるからに他ならない。”パートDおよびパートEの「ニッキーの混乱」”、マリリン・レーヴェンスによる「示唆」、そしてデヴォンによるニッキーへの「イタリアン・レストランへの誘い」(0:51:00)といったいくつかの「点」の間を我々は「線」を引いて結びつけ、成立する可能性のある「因果律」を「補完」する。それは非常に当然なことであり、我々はそのようにして「欠落」を埋めつつ(あるいは「省略」を把握して)「映画」などを受容する。そればかりでなく、日常のすべてのものをそうした「作業」をつうじて解釈し認識している。我々にはこの「方法」でしか……つまり「物語化」することでしか「世界/外界」を認識できないのだ。

だが、「インランド・エンパイア」は……いや、リンチ作品は、こうした我々の”「世界/外界」に対する認識作業”自体に対しての「再認識」を迫る。我々が「補完」した「物語」は、本当に正確なのか? フレッドやダイアンがそうであったように、自らの「願望」や「感情」によってその「物語=外界認識」は歪められてはいないか? ニッキーが抱く「演技者の混乱」を「クリシェ」としてのみ安直に捉えたとき、我々は「演技者間の不倫」という、「物語」における「クリシェ」にも同時に捕らわれてしまってはいないだろうか?

デヴォンとニッキーの間に不倫関係が成立していたか、あるいは成立していなかったのか、「インランド・エンパイア」は一切明らかにしない。であるのにもかかわらず、我々はそこに「幻の因果律」をみてしまう……そうした「表現」によって浮き彫りにされるのは、”「物語化」をつうじた「外界認識」”という、これまた「我々側の問題」なのである。ある意味で、多くの解釈が「インランド・エンパイア」を時系列整理や人物整理をつうじてナラティヴに理解しようと試みていること(そして、破綻していること)自体が、我々が普段から”いかに「物語化=言語化」することによって、物事を理解しているか”の証明に他ならない。加えて、自分たちが「こうあって欲しい」と望む「物語」を造りあげる動物であることを、「インランド・エンパイア」のそのもの受容を通じてだけでなく、その周辺情報からも我々は自覚させられるのである。

「インランド・エンパイア」がきわめて「映画を観ることについての映画」でありえるのは、まさしくこうした緒事項においてだ。この作品は、「映画を観る作業の再確認」を我々=受容者に対して突きつけ、「自覚的に映画を受容すること」を要求する。そして、それに応えられるかどうかは受容者次第だ。

*パートCでは映像提示の順序が逆になっているが、「OKだ。二人もいいかな?(We got it. You two happy?)」というキングズレイの声がニッキーのアップに被せられて、シークエンスは終わる。また、パートEにおいても、実は「ピオトルケの視点」が「撮影カメラの視点」と重なっているのは明らかだ。

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (104) »

「インランド・エンパイア」を観た(X回目)」カテゴリの記事

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/215302/42034594

この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (103):

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (104) »

最近のトラックバック