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2008年8月

2008年8月31日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (111)

なんやかんやで、やっと「ダーク・ナイト」を観たりしたのだけど、コレが9.11以降のアメリカで大当たりする状況ってのは、なんか非常に複雑なものがありますナー。かつ、アチラの映画評をあれこれ探しても、そのあたりに触れているものがどうにも見当たらないというのが、かえって不気味とゆーか、「根の深さ」を表わしているとゆーか。ま、なんかまとめられるようだったら、またの機会に詳しく。

とゆーよーなコトに関係なく続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについての第三回目ということで。

概論的なところが終わったところで、では、具体的な映像を追いかけてみよう。ポイントとなるのは、カット(16)以降における女性/ニッキー/スーと男性/デヴォン/ビリーの会話である。念のため、重要と思われるカット(16)からカット(37)までの、台詞部分のみを再掲しておこう。

(16)ニッキー: (ささやき声で) You remember... remember that night...
(17)ニッキー: (画面外で) when I said that thing...about it being a--
(18)ニッキー: (画面外で) Oh, you feel that?
デヴォン: Yeah.
(19)ニッキー: (画面外で) Oh, remember--
(20)ニッキー: (画面外で) remember I told you... about thing,
(21)ニッキー:this thing that happened?
(22)ニッキー: (画面外で。ため息)
(23)ニッキー: It's a story that happened yesterday,
(24)ニッキー: (画面外から) but I know it's tomorrow.
デヴォン: That doesn't make sense.
(25)ニッキー: It was that scene that we did yesterday, when I'm getting groceries for you with your car. And it was in that alley,
(26)ニッキー: (画面外から) and I parked the car. There's always parking there.
(27)ニッキー: So there I am.
デヴォン:
(画面外から) What?
(28)デヴォン: Sue, damn.
ニッキー: (画面外から) It's a scene we did yesterday. You weren't in it. That one when I'm in the alley.
(29)ニッキー: I' going to get groceries for you with your car, and I park there 'cause there's always parking. You know the one.
(30)ニッキー:(画面外から)I see this writing on metal.
(31)ニッキー:And I start remembering something. I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory. I start to remember. And I-- I don't know. I don't know what it is.
(32)ニッキー: (画面外で)[荒い呼吸音]
(33)ニッキー: It's me. Devon, It's me. Nikki.
(34)ニッキー: (画面外で) [荒い息をしている]
デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!
(36)ニッキー:(画面外から)  Oh, Please. Please.
デヴォン:
[笑い声]
ニッキー:
(画面外から) Please. Oh--
(37)ニッキー: (ささやき声で) Look at me.
デヴォン: (画面外で)[笑い声]
ニッキー: Please.

まず明解に指摘できるのは、女性/ニッキー/スーが話しているのが”「Axxon N.」の発現”に関連した事項であるということだ。それは、カット(30)における「鉄の上に書かれた文字を見た(I see this writing on metal)」という言及によって明らかである。あわせて指摘できるのは、彼女がカット(25)からカット(30)にかけて語っている事象が(「鉄の上に書かれた文字」を含め)、このシークエンス直後の(1:00:00)からのシークエンスにおいて、「具体的映像」としてそっくりそのまま提示/反復されていることだ。

「インランド・エンパイア」がしばしば映画作品として「自己言及」を行なっていることについては何度か触れたが、この二つのシークエンスの関連によって表されるものも、そうした「自己言及」のひとつとして受け取ることが可能だだろう。(0:57:39)において語られていることが、(1:00:00)から映像として提示される……つまり、「インランド・エンパイア」の実上映時間(我々=受容者にとっての「実時間」でもある)のうえで、「昨日の話(It's a story that happened yesterday)」であったことが「明日、発生する(but I know it's tomorrow)」のだ。

要するに、(「感情移入=同一化」などの問題と同じく)これもまた「インランド・エンパイア」という映画作品による、自身を具体例とした”「映画」というメディアに関する記述”……「自己言及」に他ならない。基本的に「映画」というメディアが提示する「映像」自体が「過去=昨日」に撮影されたものであること、その「映像」は反復性/再現性をもって「明日」以降も同一性を保ちつつ上映/提示され「受容対象」となること、あるいは実際の「撮影」の順序が映画内の時系列に沿って行なわれるわけではないこと、はたまた「フラッシュ・バック」などの「物語記述」の技法としての時系列操作の問題……等々、「映画」が種々の「時間コントロール」を伴うメディアであり、そうした「時間コントロール」自体が「映像としての表現」の一要素であることが、”「昨日の話」「明日の事件」の関連性”という表現で表象されているのだ。当然ながら、「インランド・エンパイア」あるいは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「登場人物」であり、その「時間コントロール」下にある男性/デヴォン/ビリーには、自らが属する「時間」に関する概念が「理解できない(That doesn't make sense)」(カット(24)(34))。当然ながら、同じ立場である女性/ニッキー/スー自身にも「どういうことだかわからない(I don't know what it is)」(カット(31))ことになる。「インランド・エンパイア」の「時間概念」を理解できるのは、それに対してメタな視点をもてる「我々=受容者」だけなのだ。

また、このカット(31)における女性/ニッキー/スーの言及を子細にみると、それが(0:14:56)における「訪問者1」の言及と対応したものであることが確認される。

訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I?

訪問者1: I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight.
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.

これらの「訪問者1」による言及が、上述したような「映画」というメディアが内包する「時間」(あるいは「空間」)の諸要素に関連していることは、すでに当該シークエンスについて述べる際に指摘したとおりだ。これらは「映画製作」における「時間/空間コントロール」の概念につながり、また一方でそれを受容する者はそうした「時間/空間コントロール」の制御下におかれ、結果として「実時間/実空間に対する見当識の失当」を引き起こすことになるわけである。

だが、「yesterday」「tomorrow」とあわせ、女性/ニッキー/スーによる言及と「訪問者1」の言及を関連付けるもうひとつの「キー・ワード」……「remember」が示唆するものをみたとき、「訪問者1」の言及がそれ以外の概念をも含み、非常に複合的な意味合いを内包していることが逆照射されることになる。それを端的に表わしているのが、カット(31)における女性/ニッキー/スーの言及だ。みてのとおり、ここで記述されているのは、「映画」における「時間/空間のコントロール」や「時間/空間に対する見当識の失当」に関してではない。そこで語られているのは、「何かを思い出す(And I start remembering something)」という肯定的な文脈上における、「記憶(memory)」についてなのだ。

これもまた、前回述べた「演技者=ニッキーの『内面』における登場人物=スーのアイデンティティの形成」に、過去、彼女が「夫=ピオトルケ」との「トラブル」に際して抱いた「感情」が関与していることを示唆している。この「演技」と「記憶」に関する問題は、「ロコモーション・ガール」によって表される「情緒の記憶」という表現につながっていく。そう考えるとき、「訪問者1」による「それはあなたが思い出せないでいるものだ(But it isn't something you remember)」という言及が何を指し示しているのかが、おぼろげに見えてくる。彼女の言及によれば、それは「宮殿に至る道」であり、そこへは「市場の裏側の路地」を通ることによって到達できる。そして、女性/ニッキー/スーが”「Axxon N.」の発現”を目撃し「何かを思い出した」のは、「市場(いちば)で食料品を買った後の路地」であるのだ。「市場ーいちばーしじょう」という複合的なイメージの連鎖に基づき、「『映画』というメディアが内包する商品/工業製品としての性格が、作品に対してもたらす制限からの脱却」という概念と、「登場人物を演じるうえで演技者が援用する自身の『情緒の記憶』」という概念の両方が、少しずつずれながら「訪問者1」の言及に内包され、ともに「宮殿に至る道」として語られているのである。

もうひとつ、キー・ワードとして表出しているのが、女性/ニッキー/スーが男性/デヴォン/ビリーに対して何度も繰り返す「私を見て(Look at me)」である。このキー・ワードはこの後、「スミシーの家」の小部屋でロコモーション・ガールの一人によって(1:09:20)、あるいは「スミシーの家」の裏庭におけるホーム・パーティの席上でスー=ニッキーによって(1:37:21)、あるいは、ポーランドの夜の「ストリート」においてロスト・ガールによって(2:11:22)、それぞれ「リフレイン」され「変奏」される。より正確に述べるなら、これら三つの「リフレイン」においては、必ず「あなたは私(たち)を以前から知っているか?(...and tell me if you've know me/us before)」という問いかけが伴われている。つまり、これらの諸例をみるかぎりにおいて、「Look at me」というキー・ワードは「自己のアイデンティティの確認」のために発せられているのだ。こうした文脈上に捉えるなら、当然ながらこのシークエンスにおける女性/ニッキー/スーの「Look at me」も、彼女の「自己確認」の試みとして捉えられることになる。ただし、この「自己確認の試み」の命題が、「自分がニッキーであるのかスーであるのか」などという「対立概念」の範囲に収まらない。それは上述した「ロコモーション・ガール→スー=ニッキー→ロスト・ガール」という「Look at me」のリレーに表されている。彼女たちはそれぞれ自分たちの「自己確認」を試みるが、それは「自分(たち)がどういう存在であるのか」という実存的かつ根源的な問いかけの反映に他ならない。

ここで見落としてはならないのが、まずカット(13)において、男性/デヴォン/ビリーが……

デヴォン: Shh... (ささやき声で) Look at me.

……という具合にこのキー・ワードを発していることだろう。「インランド・エンパイア」は基本的に女性を中心にした視点で描かれているが、それはイコール”男性が「機能しない家族」の問題を抱えておらず、「自己確認」も必要としていない”ことを表わしているわけではない。それは作品構成上「省略」を受けているだけであり、男性もまた同じ問題を抱えていることは、「インランド・エンパイア」の随所で断片的に示唆されている。この男性/デヴォン/ビリーによる「Look at me」も、そうした断片的な示唆のひとつなのである。

いずれにせよ興味深いのは、こうした「自己確認」の問いかけが、「Look at me」という”自らを「観られるもの」と規定する発言”によってなされることだ。この後「インランド・エンパイア」が三度にわたる”「Axxon N.」の発現”をとおして、「演技者=ニッキー」「登場人物=スー」「受容者=ロスト・ガール」の三者間における”「観るもの」と「観られるもの」の関係性の発生から消滅まで”を描き、”「映画」における「視線の問題」”に関するいろいろな事象を提示することを考えると、これは非常に示唆的だといえるだろう。

しかし、だ。”「映画」における「視線の問題」”そのものが”優秀な「感情移入装置」としての「映画」”を指し示すのであれば、このシークエンスにおいて「ピオトルケの視線」が「主観ショット」で提示されていること自体が……すなわち、彼の「視線」を我々=受容者が「共有」し、”「スミシーの家」のベッド・ルーム”=”ニッキーの「内面」の奥深いところ”への侵入を「共有」していること自体が、これまた非常に「示唆的な表現」ではないだろうか。なぜなら、あるいは、これも「インランド・エンパイア」による、自身を具体例とした「『映画』における視線の問題」の提示であり、「自己言及」であり得るのだから。もし、この見方が正しいのなら、これもまたリンチによる「周到な仕掛け」のひとつであるわけだ。

(この項、おしまい)

2008年8月28日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (110)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。引き続き前回と同じ(0:56:39)から(1:00:00)までのシークエンスについて、ひとくさり、ふたくさり、あ、もひとつついでに、みくさり。

さて、このシークエンスが「インランド・エンパイア」の作品構造上、どのように機能しているかについては前回で説明したとおり。それはそれとして、さて、では、このシークエンスの映像群はいったい何を表象しているのだろう?

この後、徐々に明らかになっていくように、「インランド・エンパイア」において「スミシーの家」の内部で発生している事象は、基本的に「家族間のトラブル」に関するものである。その具体的な一例が「ピオトルケにとってあり得ないスーの妊娠」(1:29:26)であり、その結果としての「ピオトルケによるスーへの暴力」(2:16:32)だ。この「家族間のトラブル=機能しない家族」というテーマは、その最初期からリンチ作品に繰り返し登場するものである。たとえば「イレイザー・ヘッド」における「奇形の幼児殺し」や「ツイン・ピークス」における「リーランドによるローラ殺害」にはじまり、リンチ作品のなかでももっとも具象的な作品であるといえる「ストレイト・ストーリー」においてさえ、「兄と弟の長年の確執」という形で「機能しない家族」は描かれている。その根底には、これまたリンチが映画作品のみならず絵画作品においても一貫して採りあげ続けてきた「家=何かよくないことが起きる可能性がある場所」というモチーフが存在しており、「スミシーの家」はその典型例なのだ。

「家」が「何かよくないことが起きる可能性がある場所」であり得るのは、そこが「外界から遮断され、外からはその内部で何が発生しているかわからない場所」だからであり、リンチ作品において、それは「『人間の内面』の象徴」としての「家」という発想/表現につながっていく。たとえば「ロスト・ハイウェイ」における「砂漠の小屋」がフレッドの「内面の奥深い場所」として成立し、そこに住むミステリー・マンがフレッドの「隠匿された意識」の「代弁者/代行者」であり得るのはこうした発想に基づくものだ。そして、「スミシーの家」もまた、そうした発想/表現の延長線上にあるものとして、登場人物=スーの(あるいは彼女に「感情移入=同一化」する演技者=ニッキーの)「内面」の表象として捉えられ、その「内部」で発生している事象は、ニッキーの(あるいはスーの)「内面」で発生している「思考」や「感情」の表われであると理解される。その端的な例が、たとえば、(1:06:06)からの「スー=ニッキーによるベッド・ルームのピオトルケ目撃」から「『情緒の記憶=ロコモーション・ガールたち』との邂逅」へと続くシークエンスだ。それが提示しているのは、演技者=ニッキーが、登場人物=スーの「トラブル」が「夫との関係」に起因していることを理解したうえで、自らの「夫との関係」において体験した「感情=情緒の記憶」たぐる過程において、演技者=ニッキーの「内面」で発生している事象の映像化に他ならない。リンチが採用する諸表現がきわめて「表現主義的」なものと捉えられるのは、それらがこうした「人間の内面の映像化」であるからである。

前置きが長くなったが、このシークエンスにおける「スミシーの家」のベッド・ルームで発生している事象も、上述したようなリンチ固有のテーマやモチーフの表われとして理解されるものである。まず、「スミシーの家」の内部で発生している他の事象と同じく、このシークエンスで発生している事象も「トラブル=機能しない家族」の個別例のひとつである。と同時に、それはニッキーの「内面」で発生している事象であり、彼女が抱く「意識/感情」の反映なのだ。とういうような観点からみたとき、このシークエンスの映像自体にも、それがニッキーの「内面」で発生している事象であることの具体的な証左が散りばめられていることに気づくことになる。

たとえば、シークエンス全体をとおして認められる「青」のモチーフだ。総論部分で述べたように、「青」のモチーフは「心理展開の要請」を表すものとして、「物語展開の要請」を表す「赤」のモチーフに対置されるものである。このシークエンスはその「青」のモチーフが初めて表出する場面であり、そこで発生している事象が「心理/内面」に関連していることを指し示している。だが、より端的にそれを指し示しているのは、カット(34)およびカット(35)における男性/デヴォン/ビリーと女性/ニッキー/スーのやり取りだ。

(34)デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!

これをみる限り、男性は相手に「スー」と呼びかけている。それに対し、女性は自分がニッキーであると主張し、相手の男性に「デヴォン」と呼びかけている。(0:54:07)からのシークエンスなどのように、「インランド・エンパイア」は何度か「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影風景」の映像を提示してきたが、そこにみられたのは「演技者の混乱」……すなわち「ニッキーによる、自身とスーとのアイデンティティの混同」として理解されるものだった。だが、このシークエンスで発生している事象は、それとは真逆の現象である。すなわち、ここで描かれているのは、いわば「登場人物の混乱」……つまり、「スーによる、自身とニッキーのアイデンティティの混同」なのだ。

しかし、リンチ作品において、これが”「(作品内)非現実」の「(作品内)現実」化”……要するに、「架空世界の登場人物が、現実に現れる」というような「常套表現=クリシェ」を指し示していないことは明瞭である。それはあまりに「ナラティヴな理解」に過ぎるし、なによりも、その後「インランド・エンパイア」が提示する映像が伝えるものに合致しない。では、なぜ、ここで「アイデンティティの構造」が裏返されるのか? それが指し示すものは二点ある。一点目は、このシークエンスが「ニッキーの内面」であり、それまで描かれていた客観描写から主観描写へと転移したことだ。「外界」から「内面」へと「視点」が裏返ったとき、そこで発生している事象もまたそれにあわせて裏返るのである。二点目は、演技者=ニッキーの「内面」において、登場人物=スーのアイデンティティが形成された(あるいは、形成される過程にある)という事実だ。

ニッキーの「内面」において、スーのアイデンティティが形成されたこと……つまり「登場人物=スー」が生まれたこと、そしてそれが「演技者=ニッキー」のアイデンティティを混在させた”「スー=ニッキー」と呼ぶべきもの”の成立につながっていくことに関しては、この後に発生する”一回目の「Axxon N.」の発現”のシークエンスにおいて明瞭に示唆される。「ステージ4」の内部において、「視線の交換」を行った後の「演技者=ニッキー」が消滅するシークエンスがそれである(1:02:31)。そして、この「ニッキーの消滅」が「ステージ4」で行われた「リハーサル」のシークエンス(0:27:00)で発生していることは、この「登場人物=スーの成立」がどのように起きたかを誤解のしようもないほど明確に説明している。「登場人物=スー」は、演技者=ニッキーがリハーサル時にみせた、優れた「演技能力」によって成立しているのだ。

もちろん、ニッキーの「演技能力」の高さは、「リハーサル」のシークエンスで彼女が流す「涙」によって表わされているように、その「感情移入=同一化」の能力によるものである。これらの事項すべてから読み取れるのは、ここで発生している事象は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」そのものであるということだ。言葉を変えれば、演技者がどう登場人物の役になりきるか、それは演技者の「内面」においてどのような過程を経て成立するか……そうした事柄が「凝縮」され、「複合的」な形で伝えられているわけである。

ここでいう「複合的」とは、このベッド・ルーム内で発生している事象が、複数の文脈上に同時に置くことができるという意味だ。上述した「登場人物=スーのアイデンティティの形成」は、一連の「『ON HIGH』の撮影風景」を表わすシークエンスの文脈上にある。と同時に、以前にも述べたように、このベッド・ルームのシークエンスは、「窃視」のモチーフを内包した一連のシークエンス……(0:18:14)からの「二階からニッキーたちを見下ろすピオトルケ」のシークエンス、あるいは(0:42:13)からの「ピオトルケによるデヴォンへの恐喝を覗き見るニッキー」のシークエンスの文脈上にもあるのだ。この「窃視」のモチーフが、”ニッキーの「夫」としてのピオトルケ”が付随させている「監視/干渉」のイメージの表われであることについてはすでに何度か触れたが、このシークエンスにおいてもこの”「窃視」=「監視/干渉」のイメージ”は、「ベッド・ルームに侵入するピオトルケの主観視点」という形で明瞭に認められるのである。

このシークエンスが「ニッキーの『内面』」における事象を表わしており、彼女の「心象風景」であることを前提にするなら、この「ピオトルケの視線の侵入」という表現そのものが特に興味深いものになる。なぜなら、この”ピオトルケによる「監視/干渉」のイメージ”はニッキーの「内面」において発生しているものであり、そうしたイメージの発生自体が”彼女がピオトルケにによる「監視/干渉」を受けていると感じていること”と同義だからだ。彼女の抱く「夫=ピオトルケに対する『感情』」が「登場人物=スーのアイデンティティの成立」に関与していることが、このシークエンスに”「ピオトルケによる視線の侵入」が現れること”によって表象されているのである。

同時に、「夫=ピオトルケ」に対してこのような「感情」が表われていること自体が、演技者=ニッキーにとっての”「トラブル=機能しない家族」の発生”を物語っていることはいうまでもない。総論で述べたように、これもまた「トラブル=機能しない家族」の「個別例」のひとつであり、他の「個別例」とあわさって”「機能しない家族」の抽象概念”を構成する一要素なのである。前述したように、登場人物=スーもまた、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」のなかで彼女の「トラブル=機能しない家族」を抱えている。”演技者=ニッキーの「内面」における登場人物=スーの成立”にあたって、ニッキーの「感情移入=同一化」の能力が機能していることについては先に述べたとおりだが、その「感情移入=同一化」は、ともに「トラブル=機能しない家族」を抱えているという「共感」に裏付けられて発生しているのだ。これ以降の「スミシーの家」のシークエンスにおいて、ニッキーの「夫」であった「ピオトルケ」がスーにとっても「夫」であり得るのは、まさに「登場人物=スーのアイデンティティ」がこのような経緯を経て形成されたからに他ならない。

このようにみる限りにおいて、このシークエンスが最終的に提示しているのは、演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じるうえにおいて、どのようにスーに対して「感情移入=同一化」したかである。このモチーフについては、後に表われる「スミシーの家」のシークエンスにおいて、”演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を表わす「ロコモーション・ガールたち」との邂逅”という表現によって、形を変えて再提示されることになるだろう。

あるいは、このシークエンスにおける諸表現から読み取れるのは、「インランド・エンパイア」が内包する「機能しない家族」というテーマと「映画における『感情移入=同一化』」というテーマの、最初の接触である。いままで別々の事象として描かれていた二つのテーマが、このシークエンスにおいて接合される。そして、これが”「映画」による「感情移入=同一化」を通じての「自己確認」”という「インランド・エンパイア」の最終的なテーマに発展していくのだ。

(この項、まだ続く)

2008年8月25日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (109)

なーんかこのまま秋になっちゃうんですかねー。地球温暖化はどーなったんでしょーか。大山崎が暑い暑いと連呼していたら、地球温暖化は免れるのかもしれません。それでどーなるかは、責任もたないけど(笑)。

それはそれとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:56:20)から(1:00:00)まで。

大きく作品構成的観点からみるなら、このシークエンスは(0:36:24)から提示され続けてきた「映画を作ることの映画」に関する事象にひとつの区切りがつけられるポイントである。一連の「撮影現場」のシークエンスを通じて提示されてきた演技者=ニッキーの「混乱」はエスカレートし、このシークエンスにおいてひとつの「集約点」を迎える。だが、ここまで描かれてきた「撮影現場」のシークエンスが、ニッキーを「第三者の視点」で外側から捉えたものであったのに対し、これ以降の「インランド・エンパイア」は”一回目の「Axxon N.」の発現”とそれをキーにする”「スミシーの家」の実体化”を経て、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「混淆物」であるスー=ニッキーの「内面」描写を重ねていくことになる。このシークエンスが果たしているのは、こうした「外面」から「内面」へという作品構成上の「転回」に対する「ブリッジ」として機能である。

このシークエンスの映像的特徴としてまず目につくのは、「インランド・エンパイア」がくり返し「リフレイン」する数々のモチーフが集中的に現れていることだ。たとえば、「心理的展開の要請」を指し示す「青のモチーフ」は、「スミシーの家」のベッド・ルームを舞台にしたシークエンス全体を通して基調色として用いられている。あるいは、「侵入する視点」というリンチ固有のモチーフは、「ピオトルケの主観視点」という形で明瞭に確認されるのだ。そうした映像的特徴からみてもこのシークエンスは特異であり、全体構成のなかで非常に重要なポイントのひとつであることが理解される。では、上述したような作品構成上の「転回点」に対するブリッジとしての機能以外に、このシークエンスのどこがどのように重要な役割を果たしているのか?

結論からいうと、「インランド・エンパイア」がこの時点まで平行して提示してきた二つのテーマが、始めて関連付けられ接合されるのがこのシークエンスなのである。二つのテーマとは、もちろん、「映画というメディア」と「機能しない家族」のことだ。

それについて詳述する前に、まずはこのシークエンスが提示する具体的な映像を追いかけてみよう。

どこか
(1)ニッキーのアップ。ニッキーの斜め左からのショット。暗闇の中でニッキーがゆっくりと上方を見上げる(スロー・モーション)
[ノイズ]
(2)ツー・ショット。ニッキーの右斜め後ろからのショット。ニッキーとデヴォンが暗闇の中でキスを交わす(スロー・モーション)
[高まるノイズ]
(3)ツー・ショット。デヴォンの左斜めやや後ろからのショット。暗闇の中でキスを交わしているニッキーとデヴォン(スロー・モーション)
(ディゾルヴ)

「スミシーの家」のベッド・ルーム 内部
(ディゾルヴ)
(4)ミドル・ショット。スミシーの家のベッド・ルームの内部。青い光であふれている。ベッドに向かってクロース・アップ。ベッドの上の上掛けが盛り上がり、誰かがその下にいるのがわかる。なおも盛り上がった上掛けに向かってクロース・アップ。
(5)ツー・ショット。ニッキーとデヴォンのアップ。喘いでいるニッキー。
ニッキー: You feel that?
デヴォン: Yeah.
ニッキー: Oh...
(6)デヴォンのアップ。
デヴォン: You move like that again and I'll come.
ニッキー: (画面外から) Okay.
(7)ニッキーのアップ。ベッドに横たわっている。うごめいているデヴォンの影が画面右端に見える。
ニッキー: Wait. Stop. Stop, baby.
(8)デヴォンのアップ。
ニッキー: (画面外から) Oh, God. Oh, yeah.
(9)ニッキーとデヴォンのツー・ショット。喘いでいるニッキー。
ニッキー: Just do it one more-- Oh, yeah.
ニッキー: Oh, God.
デヴォン: Yeah.
ニッキー: Oh, God damn.
(10)デヴォンのアップ。たまらないように首を上下に振るデヴォン。
デヴォン: (笑って) Yeah.
ニッキー: (画面外から) Yeah, Yeah.
(11)ニッキーのアップ。
ニッキー: Okay. Our first time. Fucking this good.
(12)デヴォンのアップ。
デヴォン:  You're talking through the whole thing.
(13)ニッキーのアップ。
ニッキー: Oh, Please.
デヴォン: (画面外から)You talk too fucking much.
ニッキー: Uhh!
デヴォン: (笑う)
デヴォン: (画面外から) Are you gonna talk through this whole thing?
ニッキー: Oh, God. Stop.
デヴォン: Shh... (ささやき声で) Look at me.
(14)デヴォンのアップ。ニッキーはあえいでいる。
(15)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの入り口への廊下から見た、ベッド・ルームの内部。視点は、ゆっくりと部屋の中に入っていく。向かいの壁際に置かれたクローゼットと、その上に置かれた四角い電気スタンドのシルエットが見える。左手の壁の陰に隠れて、まだベッドは見えない。
ニッキー: (画面外で) Ohh... Ohh...
(16)ミドル・ショット。ピオトルケがゆっくりとベッド・ルームの入り口に姿を現す。
ニッキー: (画面外で) Mmhh...
入り口からベッドの方向を見ているピオトルケ。
ニッキー: (ささやき声で) You remember... remember that night...
(17)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの中に入っていく視点。徐々にベッドが視界に入ってくる。
ニッキー: (画面外で) when I said that thing...about it being a--
(18)ベッド・ルームの入り口のところに立つピオトルケ。彼はベッドのほうを見詰めている。
ニッキー: (画面外で) Oh, you feel that?
デヴォン: Yeah.
[荒い呼吸音]
(19)
ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームの内部。ニッキーとデヴォンいるベッドが観える。
ニッキー: (画面外で) Oh, remember--
(20)ピオトルケのアップ。ベッド・ルームの入り口に立って、ベッドのほうを見詰めている。
ニッキー: (画面外で) remember I told you... about thing,
(21)ニッキーのアップ。
ニッキー:this thing that happened?
(22)デヴォンのアップ。黙ってニッキーの言うことに耳を傾けている。
ニッキー: (画面外で。ため息)
(23)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's a story that happened yesterday,
(24)デヴォンのアップ。
ニッキー: (画面外から) but I know it's tomorrow.
デヴォン: That doesn't make sense.
(25)ニッキーのアップ。
ニッキー: It was that scene that we did yesterday, when I'm getting groceries for you with your car. And it was in that alley,
(26)デヴォンのアップ。デヴォンは狐につままれたような顔をしている。
ニッキー: (画面外から) and I parked the car. There's always parking there.
(27)ニッキーのアップ。
ニッキー: So there I am.
デヴォン: (画面外から) What?
(28)ニッキーのアップ。困惑した表情である。
デヴォン: Sue, damn.
ニッキー: (画面外から) It's a scene we did yesterday. You weren't in it. That one when I'm in the alley.
(29)ニッキーのアップ。
ニッキー: I' going to get groceries for you with your car, and I park there 'cause there's always parking. You know the one.
(30)デヴォンのアップ。
ニッキー:(画面外から)I see this writing on metal.
(31)ニッキーのアップ。
ニッキー:And I start remembering something. I'm remembering... and...ohh...this whole thing starts flooding in, this whole memory. I start to remember. And I-- I don't know. I don't know what it is.
(32)デヴォンのアップ。上目遣いにデヴォンはニッキーをまじまじと見る。
ニッキー: (画面外で)[荒い呼吸音]
(33)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's me. Devon, It's me. Nikki.
(34)デヴォンのアップ。無言でニッキーを見詰めるデヴォン。
ニッキー: (画面外で) [荒い息をしている]
デヴォン: It's not making any sense. What is this, Sue.
(35)ニッキーのアップ。
ニッキー: It's me. Devon, It's me Nikki. look at me, you fucker!
(36)デヴォンのアップ。
デヴォンが顔をゆがめて笑う。
ニッキー: (画面外から)  Oh, Please. Please.
デヴォン: [笑い声]
ニッキー: (画面外から) Please. Oh--
(37)ニッキーのアップ。
ニッキー: (ささやき声で) Look at me.
デヴォン: (画面外で)[笑い声]
ニッキー: Please.
(フェイド・アウト)
(フェイド・イン)
(38)ミドル・ショット。ピオトルケの主観ショット。ベッド・ルームに続く廊下。青い光と影が廊下にたゆたっている。廊下を後退していく視点。
(フェイド・アウト)

(0:56:20)から(0:56:39)までのシークエンスは、どこを舞台にしているのかを含めて、非常に不明瞭なショットの積み重ねで構成されている。その背景はほとんど「暗闇」であり、場所の特定自体が不能だ。場所の不明瞭性を受けて、そこで提示されている映像そのものも非常に不明瞭である。果たして、このキス・シーンは「ニッキーとデヴォンの不倫」を指し示しているのか? それとも、彼女/彼が演じる「スーとビリー」による「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影風景なのか? それを判別する材料も一切ない。次第に高まるノイズとスロー・モーションによる映像が、何かがエスカレーションしていることを表わしているだけだ。この「不明瞭さ」をごく素直に受けとるなら、このシークエンス自体が、直後に提示される”「スミシーの家」のベッド・ルーム”のシークエンスへの「ブリッジ」として機能しているを指し示していることになるだろう。後述するように、このシークエンスで提示されている映像そのものが、ベッド・ルームのシークエンスで提示される映像と関連付けられている。”「Axxon N.」の発現”および”「スミシーの家」の実体化”という「転回点」に向けての「移行」は、このシークエンスからベッド・ルームを舞台にしたシークエンスを含めて、段階的に行われているわけだ。

(0:56:39)からの「スミシーの家」のベッド・ルームのシークエンスへは、ディゾルヴによるカッティングによってつなげられるが、直前のシークエンスでの「不明瞭さ」は、このシークエンスにおいても引き継がれている。舞台となっている「場所」が具体的にどこであるのか、実はこの時点で我々=受容者には判断する材料がない。そこが”「スミシーの家」のベッド・ルーム”であることは、「スミシーの家」が実体化した後、(1:06:06)からの映像によって明示されるまで了解されないのだ。直前のシークエンスと同様、この「場所」の「不明瞭性」はそこで発生している「事象」自体の「不明瞭性」にそのまま直結し、そこで発生する疑問もまた同じである。すなわち、この映像が提示しているのは、「ニッキーとデヴォンの不倫現場」なのか? それとも二人が演じる「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影現場」なのか?

だが、実体化した後の「スミシーの家」の内部で発生する事象の数々を目撃した我々は、少なくともこのシークエンスに関する限り、そうした「具象的な問いかけ」が無意味であったことを知らされる。そして、それを知る過程をつうじて、この「スミシーの家」こそがリンチが繰り返し提示する「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』」というモチーフのヴァリエーションであり、同時にその「内部」が演技者=ニッキー(および登場人物=スー)の「内面」を表象していることを了解するのである。

こうした了解に基づけば、このシークエンスが保持する「不明瞭性」とは、実はその「抽象性」の表われに他ならないことが理解されるだろう。これまで、「インランド・エンパイア」は「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の撮影風景」という形で、「(作品内)現実」と「(作品内)非現実」という概念の「対立(あるいは混同)」を何度か描いてきた。しかし、このシークエンスで発生している事象に対して、そうした「対立概念」はまったく適用できない。明らかに「撮影風景」を表わす一連のシークエンスで描かれていた「ニッキーとデヴォン(あるいはスーとビリー)関連」の事象を継続して描きながら、このシークエンスは突然、その「表現方法」を「具象性」(あるいは「半具象性」)から深い「抽象性」へとずらすのである。このシークエンスが「ブリッジ」として機能している理由は、このように、「インランド・エンパイア」がこれまで提示してきたものの内容と、これから提示するであろうものの形式をともに内包している点にあるのだ。

(この項、続く)

2008年8月21日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (108)

うええええ、お盆休みが終わったら終わったで、ドタバタ忙しいんでやんの。ワケのわからんことになっていた各方面のトラブルをシュートしつつ、修羅場を縫って進む(笑)「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話であるが、気がついたら「X回目」の「108回目」である。うむ、「煩悩」でやんスな(笑)。

もう採り上げるべきシークエンスも残り少なくなってきた感じだが、今回は(0:55:24)から(0:56:20)まで。デヴォンとプロデューサーが「4-7」の製作が中断された理由と、それが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影に影響を与えているかどうかを語るシークエンスである。まずは、具体的な映像から。

スタジオのオフィス 内部
(1)デヴォンのアップ。
プロデューサー: (画面外から) And we just don't know the actual real reasons 
(2)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: why this film wasn't finished. Now, you know some stories. 
(3)デヴォンのアップ。憮然とした表情である。
プロデューサー: (画面外から) But stories are stories. Hollywood's full of them.
(4)プロデューサーのアップ。
プロデューサー: Thank god. In this case, the same thing-- stories which grew out of imagination. And we're surrounded by these screwball stories every day. And they shouldn't be taken as truth or given credence... and jeopardize Nikki's performance.
どうだと問いたげにデヴォンを見つめるプロデューサー。
(5)デヴォンのアップ。まだ納得できない様子である。
デヴォン: Unless the stories are true.
(6)プロデューサーのアップ。デヴォンの台詞に被せるように。
プロデューサー: Devon.
言葉を切り、デヴォンを見つめるプロデューサー。
(7)デヴォンのアップ。黙ったまま、不満気にプロデューサーを横目で睨んでいる。
(8)プロデューサーのアップ。しばらく黙ったままデヴォンを見つめる。
プロデューサー: There is absolutely no proof that anything bad happened around this film.

 

二人の遣り取りには、「ストーリー(story)」という言葉が繰り返し登場する。これがこのシークエンスにおけるキー・ワードであるのは間違いないだろう。

もっとも「具象的」に受けとるなら、いうまでもなく、ここで言及されている「ストーリー」とは、キングズレイがデヴォンとニッキーに話した、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の原型とされる「4-7」という映画作品に関する「噂話/裏話」である(0:30:28)。つまり、過去において「4-7」という映画が撮影途中に製作を打ち切られたこと、打ち切られた理由が主演の俳優二人が殺されたことであり、その映画は呪われていること……という「ストーリー」である。この「噂話/裏話」は、カット(3)のプロデューサーによる「ハリウッドはそうした『ストーリー』で満ちあふれている」という言及によって、「サイド・ストーリー」あるいは「ゴシップ・ストーリー」全般のことにつながっていく。ネガティヴな「ストーリー」もあればポジティヴな「ストーリー」もあり、なかには「伝説化」していく「ストーリー」もあるかもしれない。マリリン・レーヴェンスが「商品」にした「ニッキーとデヴォンの不倫」という「ストーリー」も、そのなかのひとつであるわけだ。

しかし、「ストーリー(story)」という概念が内包するものを考えるなら、このプロデューサーによる一連の言及自体も「複合的」なものとして理解されることになる。「ストーリー」は「噂話」であるし「記事(news report)」であるし、「嘘(lie)」のことであるだろう。だが、同時にそれは「物語(tale)」であるし、「小説や映画の筋」のことでもあるのだ。ハリウッドには「噂話/裏話」だけでなく、「映画作品」という形の「ストーリー」もまた満ちあふれている。すでにフィルムとして(あるいは「商品」として)完成された「ストーリー」が存在すれば、まだそこまで至っていない「スクリプト」あるいは「企画」段階の未完成な「ストーリー」も存在する。あるいは「4-7」のように、あるいは「クィーン・ケリー」のように、完成に至るまでの間になんらかの理由で製作が「中断」される「ストーリー」もごく稀に存在するのだ。それら全体をも含めて、それこそ「よくある話(we're surrounded by these screwball stories every day)」なのである。もちろん、「インランド・エンパイア」自体が、そうした「ストーリー=映画作品」の一本なのである。

逆に最大限「抽象的」に捉えるなら、「ストーリー」という概念がもつ根本的なもの、つまり「事件や出来事を記述したもの(an account describing incidents or events)」という概念に帰着することになる。かつ、この”「事件」や「出来事」の発生”という事象自体が、”我々が「外界」を認識すること”と関係しているのは指摘するまでもないだろう。そもそも、我々が「認識」しない(できない)「事件」や「出来事」は、はたして我々にとって「発生」したことになるのだろうか? このような関連性の上に捉えるならば、このシークエンスにおいて「ストーリー」というキー・ワードによって言及されているのは、やはり”我々が「外界」を認識すること”全般についてだ。何度か述べたように、我々の「外界認識」には、必ず「物語化すること=ストーリー(ナラティヴ)を作ること」が伴う。その「外界認識=物語」が正しいかどうかを……すなわち「出来事」と「出来事」の間に認められた「因果律」が本当に存在するかどうかを我々は経験則に従って判断するしかなく、そこには決定的な「正確性」あるいは「客観性」など存在しない。むしろ往々にして我々が「主観」と「感情」に歪められた「物語」をすら作り上げてしまうことを鑑みるならば、カット(4)のプロデューサーの言及どおり、まさしく”「ストーリー=外界認識」は「真実(truth)」からではなく「想像(imagination)」から生まれ育つ”のである。いわばハリウッドだけでなく、我々が存在する「世界」そのものが「ストーリー」に満ちあふれているのだ。

「インランド・エンパイア」は、「感情移入」や「視線の問題」といった映画というメディア全般に関する言及を行うが、それはそのまま「インランド・エンパイア」という映画作品自身に関する「自己言及」であると同時に、我々=受容者の問題に収斂していくことについては、何度か述べたとおりだ。このシークエンスにおける「ストーリー」というキー・ワードによって表わされるものも、やはり「インランド・エンパイア」自身に関する「自己言及」であると同時に、受容者である我々の問題に帰着していく。そうした視点でみたとき、非常に興味深いのは、プロデューサーが発する最後の「台詞」である。「この作品に関して、何かよくないことが起きているという決定的な証拠は何もない」と彼は語るが、さて、この「作品(film)」とは、何を指すのか? 単純に受け取るなら、もちろんこれは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のことに他ならない。だが、これが「インランド・エンパイア」に関する「自己言及」であり、かつ「我々=受容者の問題」であるならば、この「作品(film)」が「インランド・エンパイア」自身を指していないと言いきれるだろうか? もしそうであるならば、あるいはこれは、時系列整理や人物整理を行い、「殺人」などの「事件」や「出来事」が散りばめられた「何かよくないことが起きる物語」として「インランド・エンパイア」を「認識」しようとするであろう受容者に対する、痛烈な「牽制球」ではないのか。

(0:36:24)から提示され続けた「演技者=ニッキーの感情移入」や「撮影現場の混乱」を表象する一連のシークエンスは、この直後の”「スミシーの家」のベッド・ルーム”のシークエンスで明瞭な「集約点」としての区切りをみせる。その後の「インランド・エンパイア」が提示する映像群が、ニッキー=スー=ロスト・ガールの「内面描写」の度合を深めていくことを考えるとき、このシークエンスで提示される「ストーリー」というキー・ワードが”「外界認識」の問題”に集約されていくことは、非常に興味深いといえる。なぜなら、そうした「表現主義的な映像群」こそが、ニッキー=スー=ロスト・ガールが「どのように『外界=世界=映画』を認識したか」を表わすものに他ならないからだ。受容者=ロスト・ガールによるこの「外界認識」は……「映画=世界」を体験したことによって発生した「感情移入=同一化」とその結果としての「自己確認」は、最終的に彼女自身の「内的変化」へとつながっていくのである。

2008年8月16日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (107)

オリンピック期間中も関係なくチマチマと続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。あいかわらず時事ネタ・フリーなんである(笑)。今回は(0:44:19)から(0:52:19)までを、飛び飛びに。

この後、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する撮影風景がいくつか提示される。そのうち、「演技者=ニッキーの混乱」に関連するシークエンス群については既に述べたので、ここでは触れない。残る撮影風景のほとんどは、演技者ではなくスタッフを中心に描かれているが、そこに発生しているのは「統制のとれた活動」というよりはむしろ「混沌と混乱」である。こうした「スタッフの混乱」を描いたシークエンスを以下に列挙してみよう。この一連のシークエンスでは、日本語字幕では訳出されていない「台詞」が多々あるので、それを補完するために原文も同時に引用しておく。

パート1 (0:44:19)-(0:45:40)
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah. Yes. Look. Bucky Jay, are you there?
キングズレイ: (横に立つスタッフに向かって) Is-- Is he-- Is he up there?
スタッフ: (画面外から) He's there, yes.
キングズレイ: (メガホン越しに) I-- I think we-- we haven't still got the 2K quite in the right place. I-- I think I'd say up two feet. You'd know better than me. But, uh, it's-- it's still...
バッキー・ジェイ: (画面外から) Boss, you want that 2K down?
バッキー・ジェイ: (画面外から) You want it down?
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah. Uh, I'd say about... two feet down, Bucky.
バッキー・ジェイ: (画面外から) How far do you want it to go down?
キングズレイ: (メガホン越しに) Yeah, a bit-- a bit more. Keep--
バッキー・ジェイ: (画面外から、さえぎるように) No. How far?
キングズレイ: (メガホン越しに) Another foot, Bucky. (he looks at assistant)
バッキー・ジェイ: (画面外から) I haven't even-- I haven't even touched it yet!
キングズレイ: (メガホン越しに) Well, then put it two feet from where it is-- No, a foot down from where it is now, Bucky.
バッキー・ジェイ: How much?
キングズレイ: (メガホン越しに) What?
バッキー・ジェイ: (画面外から) Got it, boss!
キングズレイ: (メガホン越しに) Uh, Bucky, I-- Bucky, just lower it two feet, would you? From there. No, Bucky. It's going up. I want it down, Bucky. Two feet lower.
バッキー・ジェイ: (画面外から) First goddamn time I-- I had a cramp! Just minute! I'm getting on it!
ファーストA.D.: He's got issues with his wife.
キングズレイ: (苦笑いして) Yeah. Okay.
キングズレイ: (メガホン越しに) Thank you, Bucky.

パート2 (0:45:40)-(0:45:51)
キングズレイ: (画面外で) Can we have someone else do--
ファーストA.D.:(画面外で) Let me go talk to him.
キングズレイ: Uh, just, uh... relax for a minute. Yeah, Okay.

パート3 (0:45:51)-(0:45:59)
スタッフ : (画面外で) Listen--
ファーストA.D.:  (画面外で) Okay, the medic-- the medic's gonna see him, check it out, see what's going on, 'cause it just--he's not acting right.

パート4 (0:45:59)-(0:46:33)
ファーストA.D.: (画面外で) Yeah, but who's-- If he was on anything, I'd kick him out right off the set.
スタッフ: (画面外で) Phill's on it.
キングズレイ: (画面外で) Okay.
ファーストA.D.: Phil-- Phil's in-- We've got Phil up there now. Bucky Jay's gonna take a little coffee break.
キングズレイ: (画面外で) Okay. Fine.
ファーストA.D.:
Please, guys, let's work on these lighting cues, all right? We need to work together.

パート5 (0:49:43)-(0:50:08)
キングズレイ: Here we are. I was right. Didn't anyone else read the script? The light should fade after Billy's line: "Do you see?" Look.
キングズレイ: (スタッフに向かって) Well?
ファーストA.D.: All right. All right. (インカムに向かって) Uh, we go again, please. Back to one, everybody.
スタッフ: [ノルウェイ語で] (画面外の別のスタッフに向かって) n#vdo+&es. (Ole Johan, I gave you too late cue for that fade out. It was my fault.)
別のスタッフ:(画面外から) [ノルウェイ語で] 9v37$(k&.

パート6 (0:50:08)-(0:50:19)
アル: (画面外で) It was a car.
キングズレイ: (画面外のスタッフに向かって)  No, it was a click, Al. It wasn't a car. It was a click.
ファーストA.D.: (インカムに向かって) Guys on lockups outside. Can we work on that, please? I-- Really, I can't have cars going by.

パート7 (0:50:19)-(0:52:19)
ファーストA.D.: (画面外で) I thought we had, uh, ITC.
キングズレイ: (画面外で) I don't think it was a car. I think it was click.
キングズレイ: (画面外で) It's something in the wire. I don't know what--- will you pick that up?

パート1~4では、「ステージ4」を舞台に「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションが提示される。キングズレイ監督と照明係バッキー・ジェイとの間の、照明用ライトの位置についての遣り取りである。だが、実はこの「成立しない会話」が「機能しない家族」というテーマのヴァリエーションに収束していくことは、以前にも述べたとおりだ。残念なことに、日本語字幕ではアシスタント・ディレクターがキングズレイに耳打ちする「彼は嫁さんとの間に問題を抱えてまして(He's got issues with his wife)」という台詞が訳出されておらず、このシークエンスが内包するものを明確に伝えていない。バッキー・ジェイが抱える「妻との間の問題」は、当然ながら「機能しない家族」の「個別例」のひとつであり、ニッキーやスーやドリスが抱える「機能しない家族」の諸例とあわせて、「機能しない家族」の抽象概念を構成するのである。あわせて、バッキー・ジェイが演技者でもなければ登場人物でもない「スタッフ」であり、かつ彼が「男性」であるにもかかわらず「個別例」として提示されていることは、「機能しない家族」という概念の「一般性/普遍性」を強調するものだといえるだろう。

この後パート2~4において、バッキー・ジェイを医者に診せたり、彼の代役を探したり、ようやっとフィル(Phil)という交代要因が持ち場についたりと、実はバッキー・ジェイの不在が撮影現場に大きな影響を与える様子がいくつか描かれる。また、このバッキー・ジェイがらみのパートの諸映像から思い浮かぶのは、「ロスト・ハイウェイ」のプロデューサーであったディーパック・ナヤールによる、「映画製作」は「金と時間と人間によるパズル」であるという言及だ。ここで提出されている事象は、そうした「人的パズル」の解を求める作業であり、映画製作が集団作業であることの一端を垣間見させるものである。

パート5でも、引き続き「照明」に関するトラブルが発生する。今回はライトの位置ではなく、どのタイミングでライトをフェイドさせるかという、ライティング操作の「キュー」の問題だ。だが、パート4を子細にみると、最後にファーストA.D.によって「キューのタイミング」について注意が促されている。であるならば、やはりパート5で発生しているのも「バッキー・ジェイという熟練スタッフの不在」が引き起こしている「混乱」だといえなくもなく、もしそうであるならばこのパート5もバッキー・ジェイのエピソードの一部なのである。それを裏書するように、このパートにおいても、「異国語を喋るスタッフ」という形で「成立しない会話」のモチーフが断片的に提示される。これをストレートに捉えるなら、やはり「コミニュケーションの断絶」……スタッフ間の「コミニュケーション不全」に起因していると理解されるだろう。だが、よりポイントとなると思われるのは、キングズレイが照明スタッフたちに向かって言う「誰も台本を読んでないのか?(Didn't anyone else read the script?)」という発言だ。「台本」があくまで「言語」によって記述されるものであることを考えるなら、これもまた”「言語」と「映像」の間に横たわる「差異/断絶」”を表わすモチーフのヴァリエーションとして機能していることになる。キングズレイをはじめとするスタッフたちが現在行っているのは、「言語」で記述されている「台本」を「映像(の言語)」に置換していく作業に他ならないのである。

パート6およびパート7においては、撮影時の自動車の音と「キュー」出し用のクリックの混乱による「トラブル」が描かれる。このシークエンスをみるかぎり、現場のトップであるはずのキングズレイ自身ですら「混乱」しているのは明白だ。これらの撮影時の「ドタバタ=トラブル」が実際にリンチが体験したものかどうか、非常に興味深いところだが、いずれにせよ、こうした「混乱」の制御を目的とした「トラブル・シュート」=「介入/コントロール」の必要性が、一連のシークエンスによって強調されていることは間違いない。

そこで働くスタッフたちが、こうした「介入/コントロール」の対象であること……「動物」であることは、パート7でフレディが他のスタッフから「金」を借りているショットによって示唆される。そこでフレディが発する「台詞」が、彼がニッキーとデヴォンに無心をするシークエンス(0:40:01)における「台詞」の「リフレイン」であることからわかるように、このショットにおける「スタッフたち」と「ニッキー/デヴォン」は、どちらも「動物=自律しながらも上位からのコントロールを受けるもの」であるという点で「等価」である。当然ながら、この”「動物」としての「等価性」”は、この項で取り上げたシークエンスに登場するすべての「スタッフたち」に対して適用されるもんだ。なによりも、一連のシークエンスにおいて描かれる、「トラブル」に対してスタッフたちが「介入/コントロール」を行う様子は、フレディによる「犬」に関する言及…………「犬たちが自身の考えに基づいて困難な状況から抜け出す様子(I have seen dogs reason their way out problems, watched them think through the trickiest situations)」(0:39:28)という言及そのままではないだろうか。

2008年8月13日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (106)

まったりと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は前回の続き、(0:42:13)から(0:44:18)までのシークエンスについての第二回目であったりする。

さて、では二階に上がったニッキーが、ピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見る」シークエンスを、実際の映像に従ってみてみよう。

ニッキーの屋敷の内部 廊下
(1)ミドル・ショット。廊下へ続く開口部。薄暗い廊下の壁には、額縁の入った風景画が掛けられているのが見える。その右手には、部屋の内部が見える。部屋の壁際には縁取りのある鏡と、その前に置かれた机が見える。鏡の左の壁には照明が取り付けられており、点灯している。
ニッキーが廊下の奥から現われ、開口部の左角のところに立ち、左手のほうをうかがう。
(2)ニッキーのアップ。薄暗い廊下から左手の方を窺っているニッキー。不安そうな表情だ。背後の廊下の天井に取り付けられた照明が見える。背後の壁には、左手からの灯りによるニッキーの影がうつされている。
[足音]
(3)ミドル・ショット。左半分が開けられた両開きの扉。扉の手前、左手には二人の少女を抱いて椅子に座る白髪の老人の絵がかかっている。その前に置かれた台の上には、左から白い陶器の踊り子、鉢の上に積まれた果物、白い花が生けられた緑の花瓶が置かれている。画面右手下には、壷が見切れている。扉の向こうには、明るい照明にてらされた白い壁と、閉ざされた木の扉が見える。両開きの扉をくぐって、まずダーク・スーツにネクタイ姿のデヴォンが、それからノーネクタイに白いワイシャツ姿のピオトルケが姿を現わす。
ピオトルケ: I'm listening to you, but... I don't hear you.
そのまま進み、バスト・ショットのツー・ショットまで近づいて、立ち止まる二人。画面左手にデヴォン、画面右手にでピオトルケ。ピオトルケを見るデヴォン。
デヴォン:
I'm not exactly sure what you're getting at.
ピオトルケ: I'm going put my arm around you.
ピオトルケは右腕をデヴォンの肩に回す。
ピオトルケ: I want to holds you close. You don't mind that, do you?
笑みを浮かべるデヴォン。
(4)デヴォンのアップ。笑いを浮かべ、ちらりを下を見てから、再びピオトルケを見る。
デヴォン: What do you mean?
(5)ピオトルケのアップ。真顔である。
ピオトルケ: Well, sometimes people don't say exactly what they mean, (笑みを浮かべて小首を傾げ)and you have been guilty of this all evening.
(6)デヴォンのアップ。次第に笑いが消え、不安そうな表情になる。
デヴォン: Yeah.
(7)ピオトルケのアップ。にんまりと笑いを浮かべている。
ピオトルケ: Now I'll tell you something, and I will mean everything I say.
(8)デヴォンのアップ。ひきつった表情を浮かべている。
(9)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: My wife is not a free agent. I don't allow her that.
(10)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から)The bonds of marriage are real bonds.
(11)ピオトルケのアップ。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)The vows we take, we honor... and enforce them...
(12)デヴォンのアップ。呆然としている。
ピオトルケ: (画面外から) for ourselves... by ourselves, or... if necessary...they're enforced for us.
(13)ピオトルケのアップ。かすかに笑みを浮かべている。
ピオトルケ: Either way, she is... bound. Do you understand this?
(14)デヴォンのアップ。呆然としている。
(15)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: There are consequences to one's actions. And there would, for certain, be consequences to wrong actions. Dark, they would be...
(16)デヴォンのアップ。
ピオトルケ: (画面外から) and inescapable.
(17)ピオトルケのアップ。真顔に戻っている。
ピオトルケ: (言い聞かせるように)Why instigate a need to suffer?
(18)ツー・ショット。
ピオトルケは笑みを浮かべつつ、デヴォンの肩から腕を外す。足音を立てつつ、両開きの扉をくぐって立ち去るピオトルケ。脱力した表情を浮かべて立ち尽すデヴォン。
(19)ニッキーのアップ。不安気な表情を浮かべている。
踵を返し、立ち去るニッキー。
(フェイド・アウト)

まず、ピオトルケによる言及の前半(カット(3)-(8))にみられるのは、「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションである。ピオトルケ自身が発言しているように、ピオトルケはデヴォンの言っていることを「聞こえているが、理解できない(I'm listening to you, but... I don't hear you)」。この状態は、(0:34:00)で提示された「ポーランド語を理解できないニッキー」と同じ状態だ。同時に、この「聞こえるが、理解できない」ピオトルケの状態は、(2:01:35)からのシークエンスでピオトルケが発する「聞こえるが(ロスト・ガールの姿が)見えない」という言及と「対置」されるものであることがわかる。いずれにせよ、これらのシークエンスで描かれているのは「コミニュケーションの不在」であり、その結果としての「一方的な関係」以外のなにものでもない。ピオトルケとデヴォンは、まるで異なった言語を使用しているように、互いの意思疎通が図れていないわけだが、それは何に所以するのか。

それが明確になり始めるのは、カット(9)-(14)にかけてのピオトルケがニッキーとの「夫婦の絆(The bonds of marriage)」を語るシークエンスである。彼の言うことは、真っ当過ぎるほど真っ当で、健全だ。だが、「インランド・エンパイア」をあくまで「映画についての映画」としてみたとき非常に興味深いのは、彼が主張する「婚姻に関する価値観」が、黄金期の「ハリウッド映画」が提示し続けた「価値観」そのままだということである。だが、もちろんそれはハリウッドがそうした「価値観」を信じていたからではない。それ以前からときとして「映画」というメディアが抱えている扇情性は政界や宗教界から度々糾弾を受けていたが、20年代以降のハリウッドで顕在化した度重なるスキャンダルのおかげで、その糾弾は世論までを巻き込んで一層激しくなった。それが「映画」の商品価値の下落につながることを恐れたハリウッドは、対応策として「映画製作倫理規定(プロダクション・コード)」いわゆる「ヘイズ・コード」を設けることになるわけだが、その規定の第二項である「性」の項目には、以下のような条文が謳われていた。

「結婚の制度ならびに家庭の神聖さを称揚しなければならない。低級な形での性的関係を受容されたものであるとか、あるいは普通のことであるように示唆してはならない」*

あるいは、この条文に関する「具体的条項の根拠」として、以下のような文章がある。

「結婚と家庭の神聖さを尊重するために、三角関係、すなわち既婚者に対する第三者の恋愛の扱いには注意を要する。これを扱うことによって制度としての結婚に反感を抱かせてはならない」**

この「規定」が制定された1930年から、それに代わるものとして「レイティング・システム」の運用が開始される1968年までの間、ハリウッドで作られる映画はすべてこの規定条文の制限下にあり、1934年からは「PCA(映画製作倫理規定管理局)」いわゆる「ブリーン・オフィス」によるシナリオや完成作品のチェックが義務付けられた。繰り返すが、これはハリウッドによる自主規制であり、法的な縛りがあったわけではない。だが、事実上、「PCA」の認可のない作品を上映する映画館が存在しなかったことを考えると、この「映画製作倫理規定」がこの時期のハリウッド映画に与えた影響が多大なものであったことが理解できるだろう***。当然ながら、リンチが好む50年代ハリウッド映画もこの「規定」下のもと「健全な価値観」を提示しつづけ、その当時の「文化的状況」の形成に少なからず寄与したのである。だが、こうした「健全な価値観」をハリウッド映画が「売り」続ける一方で、たとえばヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズのような芸能記者たちはまた違った「ハリウッドの価値観」を「売って」いた。非常に大雑把な言い方をすれば、ハリウッドはあからさまに「建前」と「本音」を持ち、その両方を「商品化」してきたといえるのだ****

というような事項を念頭においたとき、このシークエンスが提示する「ニッキーの屋敷」の内部で発生している事象は、上述したような「ヘイズ・コード」下のハリウッド映画界における「価値観に関する二重構造」の図式化として捉えられる。「公的なイメージ」を付随させた場所である「二階」において、同じく「公的イメージ」を付随させるピオトルケが「健全な価値観」を語る。そして、その語る相手はデヴォンであり、物陰から様子を窃視しているのはニッキーだ。デヴォンとニッキーはともに「映画界」に属し、かつこの二人はピオトルケが語る「価値観」とは異なった「価値観」……マリリン・レーヴェンスによって「商品化」された「健全でない価値観」そのものなのである。デヴォンの言うことをピオトルケが「聞こえるが、理解できない」のは、まさしくこうした「立場の違い」に起因しているのだ。

また、「二階」に付随する「公的なもの」のイメージを考えたとき、ある疑問が浮かび上がる。このシークエンスにおけるピオトルケによるデヴォンへの「恫喝」が、「スミシーの家」の「裏庭」でサーカス団員たちが繰り広げた「ハンマー争奪戦」(1:43:37)と、はたしてどれだけの質的差異があるのか……という疑問だ。いずれにせよ、ニッキーの意志がなんら反映されていない以上、ピオトルケのニッキーとの「絆」に関する言及は一方的なものである。ここではニッキーは「獲得されるべき対象」でしかなく、その意味合いにおいて「ハンマー」と実質上の差異はない。

続いて、カット(15)-(17)にかけて、ピオトルケは「行動は結果を伴う(There are consequences to one's actions)」というキー・ワードを述べる。同様のキー・ワード……「行動は結果を伴う(Actions do have consequences)」は、「訪問者1」によってすでに発せられており(0:17:06)、このピオトルケの言及がその「リフレイン」であることは言うまでもない。だが、同じキー・ワードであっても、「訪問者1」が述べた意味合いと、ピオトルケが述べる意味合いは、「同義」であると同時に少しく「異なって」いるように思える。「訪問者1」によるこのキー・ワードが「映画」に関する「ナラティヴ」を成立させる「因果律」……つまり、”「原因」と「結果」の関連性”について述べていることについては、すでに述べたとおりである。受容者側は、「作品」が提示する「原因」(と思われるもの)と「結果」(と思われるもの)を関係づけながら受容行為を行い、その作品が内包する「ナラティヴ」を再構成する。こうした行為こそが、一般的な意味合いでの「作品解釈」であり「作品理解」であるわけだ。

だが、この”「原因と結果の関連付け」=「解釈」を通じた「理解/認識」は、「非現実=架空」に対してのみ適用されるわけではない。それは「現実」に対しても、等しく適用される。「現実」に発生した事象であれ、あるいは「非現実=架空」で発生した事象であれ、我々は基本的に”「原因」と「結果」の関連性の構築”という形で……つまり、「ナラティヴの再構成=物語化」することで「理解/解釈/認識」しようとするのだ。こうした観点からみたとき、「訪問者1」が「非現実=映画」に対する「物語化を通じた理解」を述べているのに対し、ピオトルケは「現実」に対する「物語化を通じた理解」を述べている。逆にいうと、両者の差異は、「理解/解釈/認識」する「対象の差異」でしかない。であるならば、これらのキー・ワードのリフレインでもって「インランド・エンパイア」が提示しているのは、我々が「理解」し「認識」する対象としての「映画=非現実」と「現実」の「等価性」である。そして、それがリンチの言う「映画=世界」という概念の「言い換え」であることは、いまさら指摘するまでもないだろう。


*
「映画 視線のポリティクス」(加藤幹郎・筑摩書房刊)P.161

**同 P.172

***「映画製作倫理規定」の条文に対する抜け道の模索……たとえばビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」における「回想方式」の採用などを含めての話である。この作品における「回想方式」採用の理由に関しては、「映像/言説の文化社会学」(中村秀之・岩波書店刊)で触れられている。

****リンチ作品が、その最初期から「機能しない家族」や「なにかよくないことが起きる可能性がある場所としての家」というテーマを提示し続けてきたことは、以前にも述べたとおりである。つまり、リンチは、自らが成長期に享受したハリウッド映画の「結婚や家族の神聖性」に対して、ずっと疑義を投げかけてきているわけだ。50年代ハリウッド映画作品が提示した「家族像」から、(リンチやスピルバーグを含む)40年代末のベビー・ブーム期に生まれた映画監督たちが提示する「家族像」への変遷については、「サバービアの憂鬱」(大場正明・東京書籍刊)に詳しい。

2008年8月12日 (火)

リンチの新DVDボックス・セットのおハナシ

本日のDugpa.comネタ。

Dllimegreen 「David Lynch - the Lime Green Set」という銘打たれた、デイヴィッド・リンチ作品のDVDボックス・セットが北米で発売されるらしい。収録された作品はリンチ自らのチョイスだそうで、発売予定日は11月18日、予価$179.95也。

DVD9枚+CD1枚という構成で、現在のところわかっている収録作品その他は以下のとおり。

ERASERHEAD – REMASTERED VERSION
THE SHORT FILMS OF DAVID LYNCH
THE ELEPHANT MAN
WILD AT HEART
INDUSTRIAL SYMPHONY No. 1 – DVD DEBUT
BLUE VELVET – NEW LYNCH APPROVED 5.1 SOUND MIX
DUMBLAND
ERASERHEAD SOUND TRACK
THE ELEPHANT MAN EXTRAS – DVD DEBUT
MYSTERY DISC – DVD DEBUT

とりあえずの目玉は「インダストリアル・シンフォニー No.1」の初DVD化でありますかね。あと、「MYSTERY DISC」ってのも中身が非常に気になるところではあります。なんだ、その「福袋」みたいなのは(笑)。「ブルー・ベルベット」のサウンド・リミックス版って、今出てるヤツとも違うんでしょうかね、よくわかりません(笑)。

ううむ、なんやかんやで日本円で2万円弱かあ。さて、どーしたものでしょーか。「初期短篇集」とか「DUMBLAND」のDVDを既に持ってなければ、速攻で「買い」なんでありますけどなあ。「イレイザー・ヘッド」のサウンドトラック・アルバムも中古を探してやっと手に入れたのになあ、「ワイルド・アット・ハート」のDVDも日米あわせて四種類持ってるしなあ……まー、四種類が五種類になっても、あんまり変わらないかもなあ……と、ほぼヤケクソ気味な大山崎なのでした(笑)。

とりあえず、続報を待て! っつーことで(笑)。

8/13追記:その後の追加情報によると、やはり「ワイルド・アット・ハート」と「ブルー・ベルベット」の映像素材は既発売のものと同一で、「ブルー・ベルベット」の5.1chサウンド・トラックのみリンチがリマスターしているとのことらしい。また、「インダストリアル・シンフォニー No.1」はリマスターされている様子。発売はRykoからとのことだけれど、Rykoの公式ページでは現在のところ、まだなにもアナウンスはされていない模様だ。

2008年8月 9日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (105)

お盆休み突入、アーンドなんやかんやでエントリー200件目でございます。地球温暖化が着々と進行中なのが実感できるほどクソ暑い今日この頃、皆様にはいかがお過ごしでございましよーか。こないだなんか、昼飯を食ってたらいつの間にか大雨で外が大洪水状態になってて、オドロキましたよ、ええ。このまますっかり遭難して、ラーメン屋で一晩過ごすのかなーとか思ったことでありますが、ま、それならそれでいっかー。とりあえず食料はあるしな(笑)。

などと厄体もないことを呟きつつ、まだ終わらん「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回は(0:40:49)から(0:44:18)まで。

このうち、(0:40:49)から(0:41:15)のシークエンスに関しては、「90歳の姪」が表すものを含めて、すでにこちらなどで詳述しているのでここでは繰り返さない。あえて付け加えておくべき事項があるとすれば、「スミシー」のスペルの問題についてだろうか。「インランド・エンパイア」では「Smithy」になっており、匿名を希望する映画監督が使用する「アラン・スミシー(Alan Smitee/Smithee/Smythee)」とは異なっている。これについては、後者の「スミシー」が「監督=映画を作る側」が使用する「匿名」であるのに対し、前者を「映画を受容する側」の「匿名性/一般性」を表すものとして峻別するために、リンチが故意にスペルを変更した可能性を指摘しておきたい。

さて、(0:42:13)以降のシークエンスでは、舞台は「ニッキーの屋敷」の内部に移る。「屋敷の外観」のエスタブリッシュメント・ショットを挿んだ後のシークエンスで表象されるのは、「映画制作」の問題が「ニッキーの屋敷」の内部における「トラブル=機能しない家族」の事象に関係づけられる様子である。

ピオトルケとデヴォンが二階にいることを、ニッキーは執事の示唆によって知るわけだが、このときの執事の表情をみる限り、彼は「トラブル」の存在(あるいは発生)を察知している。執事(およびメイドたち)は「マリリン・レーヴェンス」による「示唆」を認知しており、それが「トラブル=機能しない家族」の要因となることは了解済みだ。それは、ピオトルケとデヴォンの行方を尋ねるニッキーに対して、「すみません。旦那様がバークさんを二階に連れていきました(I'm sorry. He's taken Mr. Berk upstairs)」と答えた執事の表情からも、明らかである(0:41:39)。だが、おそらくそれ以前から、彼/彼女たちは「ニッキーの屋敷」の内部に発生している「トラブル」を認識している。レーヴェンスによる「示唆」はその「新たな要素」に過ぎない。

執事の返答をきいて、ニッキーは二階に上がる。そこではピオトルケとデヴォンの会話(といえるのなら、だが)が展開され、ニッキーはそれを「覗き見る」ことになる。

彼らが交わす会話の詳細は次回に譲るとして、このシークエンスにおける「映像的特徴」として指摘できるのは、ニッキーがピオトルケとデヴォンの様子を「覗き見ている」という構造そのものである。これは、(0:18:14)で提示された「ニッキーと友人たちの様子を、ピオトルケが階上から覗き見ている」という構造に「対置/対応」されるものだ。この二つのシークエンスを対比させたとき、まず目にとまるのは、前者において「覗き見」をするのがニッキーであるのに対し、後者がピオトルケであるという「視点に関する対置関係」……つまり「覗き見るもの」が入れ替わっていることである。だが、むしろ重要なのは、前者において「覗き見られる対象」が「家の階上で発生している事象」であるのに対し、後者の「覗き見られる対象」が「階下で発生している事象」である点だ。つまり、「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」が、一連の「覗き見」のシークエンスにおいても認められるわけである。

ただし、ここでの「高低のアナロジー」によって提示されているのは、「家」と「ストリート」の対置関係ではない。なぜなら、事象は”「家」の「内部」”にのみ発生しているからだ。それでは、この二つのシークエンスに現れる「高低のアナロジー」は何を表象しているのだろうか? たとえばピオトルケが「ニッキーと友人たち」を二階から見下ろすという「図式」にも表れているように、「家」の内部における「二階」は「夫(の抽象概念)」の「領域」である。また、このシークエンスにおいても、「二階」で発生している事象はピオトルケとデヴォンという二人の「夫」によるものだ。加えて、ピオトルケが「実力者」であるという言及(0:22:39)や、後にピオトルケが「サーカス」という「組織」に参加すること(1:45:11)から提示されるように、「夫の領域」である「二階」は「公的」なイメージを付随させることになる。そうした事項をもとに捉えるなら、ここで提示されているのは「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」という「対置関係」なのである。

興味深いのは、この後に現われる”三つ目の「覗き見」のモチーフ”……(0:57:40)でリフレインされる”「スミシーの家」のベッド・ルームを「覗き見る」ピオトルケ”のシークエンスである。このシークエンスを”「公的なもの=階上の事象」と「私的なもの=階下の事象」の対置”という観点からみたとき、そこでは「高低のアナロジー」が消滅していることが……「観る側」であるピオトルケの「視点」と「観られる側」であるニッキーとデヴォンがまったくの同一高度上に存在し、フラットな位置関係が描かれていることが確認されるはずだ。つまり、ここでは「公的なもの」あるいは「私的なもの」という区別が存在せず、すべてが同一水準に存在しているのである。「スミシーの家」の内部を(登場人物=スーと演技者=ニッキーの混淆物である)スー=ニッキーの「内面」として受け取るならば、そこにあるのはスー=ニッキーの「主観=私的なもの」のみであるはずで、「客観=公的なもの」が侵入する余地はない。逆にそれは「スミシーの家」と「ニッキーの屋敷」の構造自体に反映されており、そもそも「スミシーの家」は「二階」をもたない(もてない)のだ*。

「ニッキーの屋敷」で発生した「覗き見」と「スミシーの家」で発生したそれとの大きな差異は、まさしくこうした点にあるわけだが、同時にこの「視点位置の変遷」と「舞台の転移」は、演技者=ニッキーの「内面」としての「家」が「ニッキーの屋敷」から「スミシーの家」にシフトしたことを……ニッキーによる登場人物=スーへの「感情移入/同一化」が深化したことを指し示しているといえるだろう。この第三の「覗き見」のシークエンスがそのまま”1回目の「Axxon N.」の発現”シークエンスに連鎖していくことや、それがそのまま「スミシーの家」の実体化につながっていくころからもわかるように、「内面」が「外界化」し、「私的なもの」と「公的なもの」の境界が消滅していく様子が描かれているわけである。

次回では、このシークエンスにおけるピオトルケとデヴォンのやり取りを中心に追いかけてみることにする。

(この項、続く)

*そのかわり「スミシーの家」には、「公的なもの」と「私的なもの」(あるいは「外的なもの」と「内的なもの」)が交錯する場所としての「裏庭」が存在する。

2008年8月 4日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (104)

お盆休みまであと一週間っちゅうことで、いろいろ切羽詰まりまくりの大山崎です。んが、それとはまーったくカンケーなく、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話は続いちゃったりなんかして(概ね、広川太一郎風)。今回は、(0:38:39)から(0:40:49)までを追いかけてみることにする。

以前にも述べたように(0:36:24)から(1:00:00)までの間、「インランド・エンパイア」は「映画を作ることについての映画」として、前項で挙げた「撮影風景」のシークエンスに加え、「映画製作そのもの」に関連するシークエンスを集中的に提示する。今回とりあげるシークエンスもそのひとつであり、そこでの「主役」は助監督のフレディだ。スタッフ側からみた「映画製作」に関するシークエンスであるという言い方も
できるのではないかと思うが、まずは具体的な映像から追いかけてみることにしよう。

ステージ4 内部
(1)ミドル・ショット。暗いステージの内部。三脚のディレクターズ・チェアが横に並べて置かれている。正面からのショット。やや背後に置かれた真ん中のディレクターズ・チェアには、フレディが座っている。背後のパネルには「7」と書かれた白い文字が二ヶ所ある。白地に花柄のドレスを着たニッキーが、画面右手から登場する。続いて明るい色のスーツを着たデヴォンも右手から登場する。
ニッキー: (向かって左側のディレクターズ・チェアに座りながら)[溜息](足を組む)
デヴォン: (向かって右側に座りながら)[溜息]
フレディー: (ニッキーに向かって)Going well?
ニッキー: (フレディを振り返って)Very well. Thank you, Freddie.
デヴォン: (フレディを振り返って) Very enjoyable.
フレディ: (デヴォンの方を向き) "Enjoyable,"(左手の人差し指でデヴォンを指差しながら) yes, that's the word.
(2)ニッキーのアップ。画面の右寄りにいるニッキー。フレディの方を振り返ったままである。
ニッキー: Are you enjoying yourself, Freddie?
(3)フレディのアップ。ニッキーの方を見ている。背後のパネルには「7」の白い文字が見える。
フレディ: well...there's a vast network, right?
(4)フレディを見ているデヴォンのアップ。背後のパネルにはステンシルで書かれた「7」の文字が見える。
フレディ: (画面外から) An ocean of possibilities.
(5)ニッキーのアップ。フレディが何を言い出したのかわからないまま、彼の方を見つめている。
(6)フレディのアップ。
フレディ: I like dogs. I used to raise rabbits. I've always loved animals...their nature...how they think. I have seen dogs
(7)ニッキーのアップ。半ば口を開け、呆然とフレディの方を見つめている。
フレディ: (画面外から) reason their way out problems, watched them think through
(8)フレディのアップ。
フレディ: the trickiest situations. Do you have a couple of bucks I could borrow? I've got this damn landlord.
(9)ニッキーのアップ。しばし呆然とフレディの方を見ているが、やがて彼が「金の無心」をしていることに気づく。
ニッキー: Oh.
うつむいて画面外で財布をさぐるニッキー。彼女は画面外でフレディにお札を渡す。
(10)デヴォンのアップ。彼はニッキーがフレディに金を渡すのををながめている。
(11)フレディのアップ。画面外で受け取ったお札をガサガサとしまう。
フレディ: Thanks. I've got a lot of nerve, I know, seems like only yesterday
(12)ニッキーのアップ。とまどったように一瞬目をフレディからそらし、再びフレディの方を振り返る。まだとまどっており、目をまばたかせるニッキー。
フレディ: (画面外から) that I was carrying my own weight.
(13)フレディのアップ。
フレディ: Yeah.
(14)ニッキーのアップ。落ち着かなげに視線を伏せつつ、フレディから目をそらすニッキー。
(15)デヴォンのアップ。デヴォンもフレディを振り返ったままだったが、やがて目を伏せ、まばたきをしながら無言で正面に向き直る。
(16)ニッキーのアップ。正面を向いたまま、居心地の悪そうな表情を浮かべ、唇を引き締めている。ディレクターズ・チェアの上で身じろぎし、自分の正面の方を向くニッキー。
(17)デヴォンのアップ。デヴォンは自分の膝に目を落としてる。が、やがて何かを感じ、フレディのほうを振り返る。
(18)フレディのアップ。彼はデヴォンをじっと見詰めている。
(19)フレディとデヴォンのツー・ショット。デヴォンをじっと見詰めているフレディ。デヴォンも見詰め返していたが、やがてはっとしたようにズボンのポケットを左手で探り、黒い財布を取り出す。彼は財布から何枚かの札を取り出し、フレディーに渡す。それを左手で受け取るフレディ。
(フェイド・アウト)

このシークエンスにおけるフレディの発言には、さまざまな要素が盛り込まれている。非常に大雑把な言い方をするなら、フレディは映画監督としてのリンチ自身が投影されており、彼の言及にはリンチの私的な部分の思いが表われていると捉えられる。

なによりもポイントになる事項として、「動物(animal)」に関する言及がここで初めて登場する。具体的に挙げられる動物名は「犬」であったり「ウサギ」であったりするが、フレディの言及をみる限りにおいて、彼が「動物好き」であるのはその「外見」からでなく、むしろその「性質」や「思考形態」といった「内面」に関してであることがうかがえる。そうした「動物の内面」に関するものとして、フレディが具体例を挙げて特に強調しているのは、「困った状況から犬がどう抜け出すか」についてだ。この言及によって第一義的に提示されているのは、「犬」が「固有の思考形態」を持ち、自律して周囲の状況に対応する動物であることだ。が、同時に、犬が自律的に対応している様子を”フレディという「上位のもの」が見ている”という構図もあわせて読み取ることが可能である。つまり、「インランド・エンパイア」がこの後何度か提示する「動物=自律しつつも、より上位の存在の介入/コントロールを受けるもの」という概念の基本構造が、すでにこのフレディの言及に内包されているということだ。

しかし、「犬」や「ウサギ」に対して「上位のもの」であるフレディも、”「家主」への支払い”を理由にニッキーとデヴォンから「金銭の無心」をする(カット(8))。すなわち、「賃借関係」という点において、フレディも「家主」から「介入/コントロール」を受ける存在であり、「家主」にとってフレディは「動物」であるという「多重構造」が、この言及によって示唆されているわけだ。”あるものに「介入/コントロール」を行う存在が、より上位のものの「介入/コントロール」を受ける”という構造も、たとえば”ファントムやピオトルケによって表されるもの”に関する描写として、この後、繰り返し提示されることになる。

もう一点、指摘できるのは、この”「動物」に関する言及が「金の無心」へと連鎖していく流れ”は、「工業製品」あるいは「投資対象」としての「映画」という文脈上に捉えられるものであり、「映画製作」が多額の資金を必要とすることの「反映」として理解されるということだ。当然ながら、映画作品に投下される「資金」は、厳重な「介入/コントロール」のもとにあるわけで、「資本のコントロール」は「商品」としての「映画」の内容への「介入/コントロール」へとそのままつながっていくことになる。こと映画制作に関する限り、フレディの言う「困った状況(trickiest situations)」のなかに「金銭的な状況」が含まれているのは確実であり、その「処理」に関しては、これまたフレディが自分自身を指していうように「いい根性をしている(I've got a lot of nerve)」ことが必要とされるはずだ。

また、映画製作が大規模な「共同作業」であり、「漠然としたネットワーク(there's a vast network)」によって成立するものである以上、フレディが述べるように「自分のことだけ考えていればいい(I was carrying my own weight)」という状態が現実的に無理であることは明らかである。あるいはリンチにとって、「イレイザー・ヘッド」やそれ以前の初期中短編を作っていた「少し前まで(only yesterday)」は、基本的に自分が判断し自分で動くことによって物事を進めることが可能であったかもしれない。しかし、「エレファント・マン」で商業映画製作の世界へ足を踏み入れたときに、一人ですべてを処理することはもはや不可能であることを、リンチは身をもって了解済みだ*。逆に、「インランド・エンパイア」の製作に際してリンチが採用した「DV撮影による素材集積」と「その素材を使った作品構築」という手法は、この「共同作業」の規模をいかに縮小して「自力で処理をする」範囲を広げるかというコンセプトに基づいているように思える。それはリンチにとって、いわば「イレイザー・ヘッド」製作時の製作手法への回帰であり、言葉を変えれば「自由度の拡大」に他ならないことは言うまでもないだろう。

このシークエンスがフレディを中心に展開していることは、すでに指摘したとおりだ。映像を観れば明らかなように、ニッキーとデヴォンはフレディに終始主導権を握られ、彼の「脈絡のない突飛な発言」に対して積極的な反応ができないばかりか、請われるまま「金の無心」にすら応えてしまっている。”「動物」と「介入/コントロール」という概念の表象”という観点からみたとき、こうした状況が何を指し示しているのかは明瞭だろう。少なくともこのシークエンスにかぎっていえば、ニッキーとデヴォンの二人は、フレディの「介入/コントロール」下にある「動物」なのだ。フレディの発言によって表わされるものだけでなく、このシークエンスで発生している「フレディとニッキー&デヴォンのやりとり」という事象自体が、「動物」という概念と「介入/コントロール」という概念の関連性を記述する「図式」として機能しているのである。

一方で、フレディのいう「可能性の海(An ocean of possibilities)」という表現は、リンチの自著である「Catching the Big Fish」の書名を想起させるものだ。この本の序文で、リンチは「アイデア」を「魚」にたとえ、それは自分の「内面」にある「Unified Field」において獲得されるものだとしたうえで、「より大きな魚を獲るためには、より深く水の中に潜らなければならない」と書名の由縁を語る。そして、リンチ自身にとって重要なのは「映画のためのアイデア」だが、その他「ビジネス」や「スポーツ」を含めたあらゆる分野に役立つ「魚=アイデア」が、そこでは泳いでいるはずだと述べる。どのような理由に基づくのかはともかくとして、リンチが「水」のイメージに「アイデア」や「可能性」といったポジティヴな事項を関連づけていることは指摘できるように思う。あるいは、「砂の惑星」をはじめとしたリンチ作品で時々提示される”「水」のイメージと「炎」のイメージの相克”といった表現とも通底しているものであるのかもしれないが、ここでは可能性の言及のみに止めておこう。

もうひとつ、重要な要素として、フレディとデヴォンの背後にあるパネルには「7」の文字が何度か現われる。これもまたリンチ作品に現われる「テクスチャーとしての文字」であるのは間違いないと思うが、問題はこのシークエンスの舞台が「スタジオ4」の内部であることだろう。組み合わせれば「4-7」となるこのテクスチャーが、後に明らかにされるようにやはり「一般性/普遍性」につながるものであるなら、このシークエンスで発生している事象そのものが「一般的/普遍的」なものであることの示唆となる。つまり、フレディが行う言及の数々は、「ON HIGH」という個別例にのみ当てはまるものでなく、「映画製作に関する一般論」として受け取ることが可能なわけだ。

しかし……これらの「困った状況(trickiest situations)」を差し引いても、リンチにとって「映画製作作業」は「楽しい(Enjoyable)」ものであろうことも、また確かだ。

*「エレファント・マン」の製作時、主人公メリックの特殊メイクをリンチが自分で用意したがうまくいかず、プロデューサーのメル・ブルックスから「二度とこういうことには手を出しちゃだめだ。君は監督の仕事だけでも十分大変なんだから」と釘をさされたというエピソードが残されている。(「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.138)

2008年8月 1日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (103)

お盆を控え、なんかやたら忙しい大山崎です。いっそのこと、お盆休みも年末年始休暇もゴールデン・ウィークも、なーんもないフラットなほーが楽チンかもしれない……とゆーよーなことを、どーも去年の今頃も書いたような記憶があって「でじゃ=う゛」なわけですが、「なんなら毎日、日曜日にするか? ん?」とか言われそーで口に出すのはヤめております今日この頃(笑)。

それはそれとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(0:36:24)から(1:00:00)までの一部を概括する形で。

これ以降、「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作撮影風景を中心にした一連のシークエンスを提示する。それらのなかでも非常に明瞭な連続性をもって捉えられるのが、演技者=ニッキーが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を深化させていく過程のシークエンスである。具体的に挙げるなら……

パートA (0:36:24)-(0:38:39)
撮影現場 ガーデン・ハウス 内部

パートB (0:46:33)-(0:49:43)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートC (0:52:19)-(0:54:07)
撮影現場 ステージ4 内部

パートD (0:54:07)-(0:54:24)
撮影現場 ビリーの屋敷 内部

パートE (0:56:12)-(1:00:00) 
スミシーの家 ベッド・ルーム 内部

……の五つのシークエンスである。

確かにこれらのパートは、「演技者のアイデンティティの混乱」を描いたものとして、「クリシェ(常套句的表現)」といっていいぐらい、非常にわかりやすい。とりわけパートD以降は、明瞭に「演技者が抱えたアイデンティティ・クライシス」として受け取ることが可能だ。「インランド・エンパイア」全編を通じてもっとも具象的な部分であり、たとえば今敏の「パーフェクト・ブルー」などといった作品の延長線上に「インランド・エンパイア」を置く意見は、この部分に焦点を当てたものであるといえる。

ただし、この後「インランド・エンパイア」は、受容者=ロスト・ガールを含めたさまざまなレベルの「感情移入=同一化」や「見当識の失当」を描き、それをとおした「自己認識の獲得」や”「機能しない家族」の機能回復”というテーマを明瞭にしていくことは何度も述べたとおりだ。リンチが「演技者=ニッキーの混乱」を表す一連のシークエンスを過剰なぐらい「明示的」かつ「具象的」に描いているのは、上述したような諸テーマへの「導入部」としての機能を負わせるためだ。そのなかでも”映画における「感情移入=同一化」”というテーマに関していうなら、現在触れているパートA~パートDにおける「(作品内)現実のフェイクとしての撮影風景」のリピートが、”「ハリウッド・ブルバード」におけるスー=ニッキーの(フェイクの)死”(2:29:18)の「導入部」あるいは「予告」として機能しているのは明白である。そのことは、パートA~パートDおよび「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスが、すべて「構造」の面からみてまったく同一の「パターン」を踏襲していることからもみてとれるだろう。これらのシークエンスにおいて、ニッキー(あるいはデヴォン)がスー(あるいはビリー)を演じている映像が提示され、それからキングズレイたちスタッフや撮影カメラなどの機材が「フレーム」に映り込む……という「パターン」が繰り返し提示されているのである*。そして、最終的に、「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスによって明示される”「感情移入=同一化」の破断”をつうじて、この「感情移入=同一化」の問題が「演技者」だけでなく「受容者=我々」側の問題でもあることが明示される。「演技者=ニッキー」から「受容者=ロスト・ガールの混乱」へと受け継がれた「混乱」は、ここでついに「我々」のものとなるのである。

もうひとつ、また違った「我々=受容者側の問題」を浮かび上がらせるのが、以前にも触れた「ニッキーとデヴォンの不倫関係」であるといえる。映画評などをみるかぎり、上述した”「演技者の混乱」の問題”とこの”「役柄をトレースした演技者間の不倫」の問題”は、多くの場合「混同」され「同一視」されている。別項でも触れたとおり、ニッキーとデヴォンの間に実際に不倫関係が成立していることを指し示す映像は「インランド・エンパイア」に存在せず、この二つの問題を同一視する根拠はどこを探しても見つからない。にも関わらず多くの人がこの二つの異なる「問題」を切り分けられず、ニッキーともども「混乱」の中に巻き込まれているのである。しかし、我々はなぜこのような「混乱」を起こすのか?

それは、我々=人間が「物語=ナラティヴ」を求める動物であること、正確にいえば、物事を「物語化」することによって理解する動物であるからに他ならない。”パートDおよびパートEの「ニッキーの混乱」”、マリリン・レーヴェンスによる「示唆」、そしてデヴォンによるニッキーへの「イタリアン・レストランへの誘い」(0:51:00)といったいくつかの「点」の間を我々は「線」を引いて結びつけ、成立する可能性のある「因果律」を「補完」する。それは非常に当然なことであり、我々はそのようにして「欠落」を埋めつつ(あるいは「省略」を把握して)「映画」などを受容する。そればかりでなく、日常のすべてのものをそうした「作業」をつうじて解釈し認識している。我々にはこの「方法」でしか……つまり「物語化」することでしか「世界/外界」を認識できないのだ。

だが、「インランド・エンパイア」は……いや、リンチ作品は、こうした我々の”「世界/外界」に対する認識作業”自体に対しての「再認識」を迫る。我々が「補完」した「物語」は、本当に正確なのか? フレッドやダイアンがそうであったように、自らの「願望」や「感情」によってその「物語=外界認識」は歪められてはいないか? ニッキーが抱く「演技者の混乱」を「クリシェ」としてのみ安直に捉えたとき、我々は「演技者間の不倫」という、「物語」における「クリシェ」にも同時に捕らわれてしまってはいないだろうか?

デヴォンとニッキーの間に不倫関係が成立していたか、あるいは成立していなかったのか、「インランド・エンパイア」は一切明らかにしない。であるのにもかかわらず、我々はそこに「幻の因果律」をみてしまう……そうした「表現」によって浮き彫りにされるのは、”「物語化」をつうじた「外界認識」”という、これまた「我々側の問題」なのである。ある意味で、多くの解釈が「インランド・エンパイア」を時系列整理や人物整理をつうじてナラティヴに理解しようと試みていること(そして、破綻していること)自体が、我々が普段から”いかに「物語化=言語化」することによって、物事を理解しているか”の証明に他ならない。加えて、自分たちが「こうあって欲しい」と望む「物語」を造りあげる動物であることを、「インランド・エンパイア」のそのもの受容を通じてだけでなく、その周辺情報からも我々は自覚させられるのである。

「インランド・エンパイア」がきわめて「映画を観ることについての映画」でありえるのは、まさしくこうした緒事項においてだ。この作品は、「映画を観る作業の再確認」を我々=受容者に対して突きつけ、「自覚的に映画を受容すること」を要求する。そして、それに応えられるかどうかは受容者次第だ。

*パートCでは映像提示の順序が逆になっているが、「OKだ。二人もいいかな?(We got it. You two happy?)」というキングズレイの声がニッキーのアップに被せられて、シークエンスは終わる。また、パートEにおいても、実は「ピオトルケの視点」が「撮影カメラの視点」と重なっているのは明らかだ。

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