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2008年7月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (99)

今回の「インランド・エンパイア」話は、ちょいと趣向を変えて、「マリリン・レーヴェンス」の原型となったのかもしれない二人の女性芸能ゴシップ・コラムニストについて、ぶっ書いてみる。一人はルエラ・パーソンズ(Louella Parsons)、そしてもう一人はヘッダ・ホッパー (Hedda Hopper)である。

Parsons ルエラ・パーソンズは1881年8月、イリノイ州生まれ。1910年ごろからの「シカゴ・トリビューン」紙の記者や映画会社とのシナリオの仕事を皮切りに、1914年には「シカゴ・レコード-ヘラルド(Chicago Record-Herald)」紙に映画関係の芸能記者として自分を売り込み、雇われる。当時はまだ、いわゆる「ザ・トラスト」の流れをくむ映画会社による東海岸での映画製作が続いており、シカゴでも「ザ・トラスト」の特許の縛りから逃れた独立系の映画製作会社が存在していた。それと並行してハリウッドでの映画製作が1907年から始まっており、そのためニュー・ヨークとロスアンジェルス間で映画スターの行き来が発生していた。その際、汽車は経由地であるシカゴで2時間停車する。そこを狙って移動中の映画スターからインタビューを取る……というのがパーソンズのアイデアであり、それが認められての採用であったらしい。こうして、世界最初の「映画コラムニスト」が誕生する。

ところが、1918年、突然「シカゴ・レコード-ヘラルド」紙は買収され、彼女はそこでの仕事を失ってしまう。このときの買収したのが新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)であり、彼女は東海岸に移り、「ニュー・ヨーク・モーニング・テレグラフ(New York Morning Telegraph)」紙でシカゴ時代と同様の映画コラムを書くことになった。ニュー・ヨークでの仕事を続けていたパーソンズは、1923年、大きなチャンスを得る。彼女の書いたコラムがハーストの目に止まり、抜擢を受けた彼女は好条件で雇われ、ハースト傘下の「ニュー・ヨーク・アメリカン(New York American)」紙で映画コラムを書くことになったのである。

1925年、結核を患ったパーソンズは、療養のためにアリゾナ州を経てカリフォルニア州パーム・スプリングスへ転地したが、これが新しい転機となった。翌年、回復した彼女はニュー・ヨークでの仕事への復帰をハーストに申し出るが、それに対して彼はこう答える……「いまや映画産業の中心はハリウッドだ。そこが君の留まるべき場所だと思う」。映画産業の興隆は西海岸を中心にして続いていくだろうこと、そこで作られる映画作品が今後大きな文化的影響力を持つであろうこと……つまりは「ハリウッドがネタとして美味しいこと」*に彼らは気づいていたのである。西海岸に活動拠点を移したパーソンズに、ハーストは大きなプレゼントを用意した。彼女の書いた芸能記事が、全米400紙以上の新聞に配信されることになったのだ。このコラムを武器に、パーソンズはハリウッドでの影響力を高めていく。

1928年、パーソンズはコラム執筆のかたわら、ラジオで芸能インタビュー番組を担当し始める。だが、番組は短命で終わり、その後も何度か番組を担当したものの、初めて大きな人気になったのは、1934年から始まった「ハリウッド・ホテル(Hollywood Hotel)」という番組だった。番組の中では出演した映画スターがこれから公開される映画の宣伝として、台本の一部を読み上げるというコーナーがあり、いわゆる映画の「スニーク・プレヴュー(sneak preview)」というコンセプトを初めて採用したのは、この番組が最初である。

パーソンズは芸能コラムニストとして不動の座を維持し続け、1964年に引退するまで、ハリウッドに対して大きな影響力を発揮した。ときとして彼女が「記事にしないこと」は「記事に書くこと」と同じくらい重要であり、さまざま思惑のもとにさまざまな情報が彼女の元に集まった。その調査力は多くのアシスタントによるものだったが、ハリウッドのあらゆる所に多くの「情報提供者」を直接抱えてもいたらしい。嘘か本当かわからないが、ある女優が妊娠していることを当の本人よりも先に知っていたなどという話もあるぐらいだから恐るべしである。だが、彼女の書く記事はしばしば「事実」と「虚構」の混淆物であり、純然たる「報道」であるとは限らなかったらしい。

しかし、今なお語り草となっているのは、彼女と、同じく芸能コラムニストだったヘッダ・ホッパーとの間の「確執」だ。

Hedda ヘッダ・ホッパーは1885年3月、ペンシルヴァニア州生まれ。劇団のコーラス・ガールを経て、俳優だった夫とともに1915年にハリウッドに移住する。「Battle of Hearts」(1916)で映画デヴューした後、1930年代半ばまでに端役として100本を越えるサイレント映画に出演したが、基本的にずーっと鳴かず飛ばず。何か他の収入源を探していた彼女に芸能コラムニストの話が舞い込み、執筆を開始したのが1937年、50歳を越えてからの転身だったということになる。

皮肉なことに、ホッパーが芸能コラムニストとしてデヴューするにあたっては、ルエラ・パーソンズの助けがあった。彼女をウィリアム・ランドルフ・ハーストに紹介したのは他ならぬパーソンズであり、彼の伝手でホッパーは「ワシントン・タイムズ-ヘラルド(Washington Times-Herald)」紙の芸能コラムニストの職を手に入れる。これで終われば単なる「いい話」なのだが、その後、「ワシントン・タイムズ-ヘラルド」紙が「ロスアンジェルス・タイムズ(Los Angeles Times)」紙に買収され、ホッパーの記事が全国配信されるようになったころから話はヤヤこしくなった。そもそも生来のゴシップ収集能力を買われて芸能コラムニストに転身したホッパーのこと、ハリウッドの映画業界を舞台に、彼女とルエラ・パーソンズとの間で文字どおり「抜きつ抜かれつ」の「スッパ抜き合戦」が始まってしまったのだ。当然ながら、パーソンズにとって、ホッパーは「縄張荒し」以外のなにものでもなかったわけである。

ホッパーのトレード・マークとなったのは、写真でも被っているような派手な「帽子」だった。芸能コラムニストとして後発だった自分を目立たせるためのパフォーマンスであったのか、あるいは女優だった頃からのナチュラルな好みだったのか、ちょっとわからない。が、自伝のタイトルが「From Under My Hat」だったりするところをみると、こうした「外見上の差異」をセールス・ポイントとして意識していたことは間違いないだろう。一応はジャーナリスト出身であり、対称的に地味な服装でとおしたルエラ・パーソンズとしては、こうしたホッパーのパフォーマンス自体が目障りだったかもしれない。

こうした出自の違いは執筆スタイルにも表れていて、正直な話、パーソンズと比べてホッパーはあまり文章が堪能だったわけでないようだ……というより、本人はスペルや文法すら怪しかったという説があるくらいで、口述筆記を行い、何人かのゴースト・ライターがリライトして仕上げた記事をチェックするというのが、ホッパーの記事作成手順だった。「シナリオ作成術」に関する著作もあるパーソンズとは、このあたりも好対称であったといえるだろう。ホッパーの筆は辛辣であり、自分が気に入らないスターに関しては、記事でケチョンケチョンにけなしたが、さて、これも「口述筆記」による「口の勢い」だったのかどうか。「鳴かず飛ばずの女優だったホッパーの、スターに対するルサンチマンの表れ」という見方もあるが、真相はなんともである。ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)などの政治家や、FBI長官のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)ともコネクションがあり、それを取材活動に活用するとともに、逆にマッカーシーの「赤狩り」が映画業界に対し行われた際には、その対象となる映画関係者のリスト・アップを行って彼に協力したという話もある。

1939年11月からCBSで始まった「The Hedda Hopper Show」を皮切りに、ホッパーもパーソンズと同じくラジオでの芸能ゴシップ番組を担当するようになる。さまざまなラジオ局でいろいろな番組を担当した後、テレビにも進出し、1960年1月には「Hedda Hopper's Hollywood」というスペシャル番組がNBCでオン・エアされた。この番組にはホッパーの親友だったルシル・ボール(Lucille Ball)をはじめ、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)などの過去のスターを含む多彩なゲストが出演した。

1966年に肺炎で死去する直前まで、ヘッダは「シカゴ・トリビューン」系列の各紙や映画情報誌にコラムを書きつづけた。

……とまあ、この二人がハリウッド黄金期における「芸能ゴシップ・コラムニスト」の二大巨頭であったわけだが、彼女たちが「ポジティヴなもの/ネガティヴなもの」を全部ひっくるめた「ハリウッド伝説」の成立に直接的間接的に寄与したこと、ひいてはリンチのスタンディング・ポイントである50年代アメリカの文化的/社会的状況のある面を形成する一端として機能したことは間違いないだろう。面白いのは、ハーストがオーソン・ウェルズの「市民ケーン」(1941)の公開を阻止しようとした際には、当然ながらパーソンズもホッパーもそれに加担する記事を書いたことだ。彼女たちの間に横たわる確執や差異はともかくとして、その行動原理が基本的に同じものであったことは、このことからも明らかである。

もし本当に「マリリン・レーヴェンスのモデル」としてリンチが彼女たちを意識したのだとしたら、ウェイト的に高いのは、どちらかというとヘッダ・ホッパーのほうではないだろうか……と個人的には思う。テレビ番組のホストをつとめたのもさることながら、実はホッパーはリンチのフェイヴァリット作品である「サンセット大通り」(1950)に、セシル・B・デミルとならんで本人役で出演しているのだ。ホッパーの出演シーンは終盤近く、ギリスの死体が運び出された直後のデズモンド邸で一人の警官が電話を掛けようとすると、誰かが先に別の電話機で回線を使っていてつながらない。警官は「誰が電話を使っているんだ?」と受話器に向かって怒鳴るが、そのとき先に電話を使っていたのがホッパーだ。彼女は「こっちの話の方が重要だから、そっちが切れ」と強引に主張して逆に警官に電話を切らせ、「タイムズ」へ電話送稿を続けるのである……どういう手を使って入り込んだのかはわからないが、警官で一杯のノーマ・デズモンドの寝室から。いや、ホントに取材中にそーゆーことをやってたんだろうな、と思わせるエピソードではある。いずれにせよ、こういう芸能記者に目を付けられたのではニッキーもたまったもんじゃなく、デヴォンがマリリンを挑発するに至っては「ナニすんだよ、ヲイ」な感じだったであろうことは想像に難くない。

当然ながら、二人ともHollywood Walk of Fameに「星」を残している。ヘッダ・ホッパーの「星」は「6313 1/2 Hollywood Blvd.」にあり、一方のルエラ・パーソンズには二つの「星」がある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6300 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画界での業績に対して(6418 Hollywood Blvd.)である。


*
実際、1921年に起きた喜劇俳優のロスコー・アーバックルによる女優暴行殺人事件(裁判では「事故」ということで決着がついた)を始めとして、20年代のハリウッドではさまざまな「醜聞事件」が頻発した。ルエラ・パーソンズたちにとっては「美味しいネタ」であったわけだが、相継ぐ不祥事を起こす映画業界に対する世間の非難が高まり、それは以前からあった宗教界や政界からの「映画の作品内容」への批判を激化させる「引き金」となった。対抗手段として映画産業は作品の「自主検閲」を強め、最終的にこの流れはいわゆる「ヘイズ・コード」と呼ばれる「映画製作倫理規定」の制定と、その厳格な運用につながっていくことになる。

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