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2008年7月12日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (98)

うおお、暑いぞ。というわけで、外出する気分にもなれず、クーラーが入った部屋に引き篭ってビールを飲みつつ書きなぐる「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きであったりする。いやあ、やっぱ昼から飲むビールがうまいのう。メタボ一直線だのう。

この後、「インランド・エンパイア」はしばらくの間、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品の「プリ・プロダクション期間」における事象を提示する。タイム・スタンプでいうなら、(0:19:13)から(0:23:59)までの間がそれにあたる。そこで描かれているものは、「映画スタッフの顔合せ」であったり、「テレビ」のトークショーでの紹介であったりで様々だ。だが、そのいずれのシークエンスにおいても、「インランド・エンパイア」が内包するいろいろな「もの」が表出している。

これらの事象を表す映像に先立ち、以下のような映像が提示される。

ハリウッド 屋外 (0:19:13)
ロング・ショット。「HOLLYWOOD」のサインの遠景。ズーム・アウトしながら、下方にパンして、灰色の屋根に白い壁の建物と、その壁に大きく書かれた「ステージ32」の表示を映し出す。

いうまでもなく、このショットは「エスタブリッシュメント・ショット」として機能している。これから提示される「場所」が「ハリウッド」であることはもちろん、題材とされている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がハリウッド映画であることや、演技者=ニッキーが「ハリウッド伝説化」することまでを全部合わせて我々=「インランド・エンパイア」の受容者に向けて説明しているわけだ。なおかつ、直後に提示されるシークエンスの舞台が、下方にパンした後の「建物」の……「ステージ32」の「内部」であることまでを説明して、このショットは終わる。

続いて提示される(0:19:23)-(0:20:36)のシークエンスも、基本的に我々=受容者のための「説明」のためのものであることは明白だ。そこでは演技者であるニッキーやデヴォンだけでなく、監督のキングズレイなどのスタッフについての「説明」もなされる。だが、「受容者に対する説明=エスタブリッシュメント・ショット」という視点からみたとき、このシークエンスの映像は少しおかしい。というのは、そこにはニッキーとデヴォンとキングズレイの「位置関係」を「説明」するショットが欠落しているのだ。かろうじて「説明的」に機能しているのは(0:19:30)のミドル・ショットだけだが、そこにはニッキーの姿はない。明らかに「視線」を交換しているはずのニッキーとデヴォンのツー・ショットすら存在せず、結果として、このシークエンスにおけるニッキーの正確な位置は明らかにされないまま終わってしまう。おそらくは、キングズレイの「視線」の方向にニッキーがいるのであろうという推測はできるが、それを裏付ける映像は完全に欠落している。普通に考えて、これは矛盾している。「インランド・エンパイア」全体をマクロにみれば、このシークエンスがデヴォンとキングズレイたちといった主要登場人物の紹介という重大な機能を果たしているのにもかかわらず、このシークエンス「自体」の説明というミクロな機能を果たせていないのだから。

なぜこのような「カッティング=表現」がされているかについては、いろいろな考え方ができるように思う。たとえば、「ハリウッド」におけるニッキーの演技者としての「位置」の不確かさや、まだ顔合わせをしたばかりで「分断」された状態のスタッフ/演技者の関係性など、この「曖昧さ」を伴った「表現」の解釈として思いつくものは様々にある。特に前者に関しては、これから展開されるのが「ニッキーの伝説化」である以上、あるいは必然的なものであるといえるはずだ。だが、より重要なのは、極論すればニッキーが同じ部屋の中にキングズレイやデヴォンたちと一緒にいるのかどうか、それすら映像的には保証されていないという「事実」であり、そういう「表現」が採用されているいうことである。これがどういうことであるかについては、後ほどもう一度触れよう。

「歓声と拍手」をサウンド・ブリッジとして続く「マリリン・レーヴェンス・ショー(The Marilyn Levens Starlight Celebrity Show)」のシークエンス(0:20:36)-(0:22:19)には、多くのものが内包されている。まず確実にいえるのは、これば「テレビ」というメディアの表象であるということだ。「映画」およびその周辺に関連するものの情報が、「テレビ」という類似/対抗メディアによって伝えられるという状況が、まず提示される。ロスト・ガールが「モニタ」で観ている「ノイズ」に、このショーの映像が内報されているかどうかは微妙なところだが、過去何度か触れたように、ニッキーやデヴォンという「演技者個人」に対する「関心」が、結果的に「感情移入=同一化」に連結されることは見逃してはならないだろう。

そして、そこで提示される「話題」は、ある意味でニッキーにとって新たな「トラブル=機能しない家族」の発生であるという側面を持つ。マリリンによって挑発的にデヴォンとの間を問われること自体が、演技者=ニッキーにとって本意でないのは彼女の様子をみても明らかだ。たとえば、ドロシー・ラムーアがそれまでの自分のイメージを変えるためにサロンを焼くパフォーマンスを必要だった事実の根底には、受容者を含めた周辺がそうした情報を求め(正確性は問題ではない)、メディアが乗るという構造が存在していたことは間違いない。誰かの「イメージ」は、ときとして、本人の意志とは関係なく第三者によって作られる。ショーのアナウンサーが「言及」するように、(「スターが夢を作る」のと同時に)「夢がスターを作る(dreams make stars)」のである。ドロシー・ラムーア自身の「イメージ」がその出世作での役柄の「イメージ」によって「規定」されたように、「ニッキーとデヴォン」との関係がマリリンの言動によって「規定」されようとしているのだ。おそらく、「マリリン・レーヴェンス・ショー」を観た視聴者の何割かは、「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として理解したはずである。こうした意思に反した「セクシャリティ」の「切り売り」は、ニッキーにとって「自らの意思が反映できない一方的な関係」であることは間違いない。ニッキーにとっては、これは広範な意味での”「娼婦」と「客」の関係”の強要である。

だが、では、我々は……「インランド・エンパイア」を受容している「我々」はどうなのだろう? 

この後のシークエンスを綿密にみれば明白なのだが、「スーとビリーの不倫」を表す映像は間違いなく存在するものの、「ニッキーとデヴォンの不倫」を表す具体的かつ明瞭な映像は、実は「インランド・エンパイア」のどこにも存在しない。たとえばニッキーとデヴォンはイタリア料理レストランでの食事の約束をするが(0:51:04)、食事の後に何が起きたかの映像はもちろん、食事をする場面の映像すら欠落している。本当に二人が食事に行ったのかさえ、我々には確認不能なのだ。(0:56:20)からのシークエンスに至っては、デヴォンは一貫して自分が「ビリー」を演じているという認識であることが伺え、あまつさえその「場所」は「スミシーの家」のベッド・ルームであることを考えると、この「映像」を100パーセント「作品内現実」のものとして捉えることは不可能だ。このように、ニッキーとデヴォンの間になんらかの”関係”が発生していたのか、いなかったのか、映像上はまるで定かではないのである……そう、ちょうど、「ステージ32」の中の部屋にニッキーがいるかどうかも定かでないのと同じように。

にもかかわらず、多くの映画評が「女優のニッキーがリメイク映画の撮影をしているうち、演じる役と同様に共演者と不倫関係に陥っていく」という配給会社が出した「内容紹介」を検証もせずに引用し、かつ多くの受容者が「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として受け止めてしまっている状況は、「マリリン・レーヴェンス・ショー」が表すものとの対比において実に興味深い。マリリン・レーヴェンスによる「仄めかし」や「虚言」を彼女の番組の視聴者たちが「既定事実」として受け取るのとまったく同じように、「インランド・エンパイア」の受容者である我々は「ニッキーとデヴォンの不倫」を「作品内の既定事実」であると思い込むのだ。我々にとっての「事実」とは、ときとして、我々が「事実」と思い込みたい「錯誤」のことである。そうした我々自身の「認識の構造」を、「インランド・エンパイア」はさまざまなレベルで我々に向かって突き付ける……すなわち、「マリリン・レーヴェンス・ショー」のシークエンスそのものと、作品が内包する「表現」自体との、「合わせ技」でもって。

そして、我々=受容者がここで「『インランド・エンパイア』についての事実」と思いたい「もの」の一部には、「マリリン・レーヴェンス・ショー」で顕在化した「セクシャリティ」の問題も絡んでいる。「マリリン・レーベンス・ショー」の視聴者と同じく、我々はニッキーにデヴォンと不倫して「欲しい」と思い、それを「当然」だと思っているのだ*。この構造は、当時の受容者がドロシー・ラムーアに「サロン」を着て「欲しい」と思っていたのと、まったく同じである。映画館の安全な暗闇のなかから、あるいは回りに誰もいない自室で、我々は「スクリーン」や「モニタ」に映し出された”ローラ・ダーンとジャスティン・セロー”による「セクシャリティ」の切り売りを「窃視」する。「感情移入=同一化」の問題をはじめとして、「インランド・エンパイア」で描かれている多くの事象がその受容者である我々に直接跳ね返ってくるものだが、この「セクシャリティ」の問題もまた例外ではないのである。

「セクシャリティ」の問題は、収録終了後の控え室(0:22:19)-(0:23:24)においても継続する。デヴォンとマネージャーとの会話は明白に「セクシャリティ」の問題についての事項であるし、運転手による「でも、確かにいいケツしてるよな(Your gotta admit, though, she's got a nice ass)」という発言が、それを明確にしている。当然ながら、これも「ニッキーの意思の反映」ではない。かつ、このシークエンスにおいてニッキーの「夫」のことについても言及され、彼が「監視/干渉」のイメージを付随させ、場合によれば「懲罰を下す存在」であることについても明らかにされる。

「デヴォンとの仲」を匂わせる(というより喧伝する)マリリンの言動は、ニッキーにとって、すでに存在する「トラブル」を……夫=ピオトルケによる「監視/干渉」をエスカレーションさせるものでしかない。これもまた「ニッキーの意思の反映」ではないのは明らかだが、帰宅する彼女を待ち受けるのはエスカレートした「トラブル=機能しない家族」であることを、ニッキーは認識している。その状況を表すのが、帰宅するニッキーのシークエンス(0:23:24)-(0:23:59)である。「友人の乗った自動車が走り出すのも待たず、ニッキーが戸口に向かうこと」や、「彼女が玄関の前でしばし躊躇い立ち止まる様子」、そして「屋敷に入る際の彼女の表情が逆光になったライティングのためによくわからないこと」などが、彼女の「内面」にあるものを映像として伝えているといえるだろう。その後、実際に「ニッキーの屋敷」の内部でどのようなことが起きたかのか。それは形を変えて、別のシークエンスにおいて提示されることになる。

*もちろん、「ニッキーとデヴォンの不倫」が「事実」であったほうが、「ナラティヴ(物語)」上もわかりやすいという理由もある。だが、いずれにせよ、これまでもみてきたように、「非ナラティヴ」な作品である「インランド・エンパイア」がそうしたアプローチによる理解を許さないのは明白である。

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