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2008年7月 6日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (96)

ども、アルコール・レスの大山崎です。嘘です。今日も飲みました(笑)。でも、酔っ払ってても素面でも、言ってることはあんまし変わりません(笑)。

そのようなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。前回からの続きとして、(0:08:37)から(0:18:14)までの「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

さて、「訪問者1」による様々な「言及」のうち、三つ目に表れるのは「映画」というメディア全般に関することである。

パートD (0:14:03)-(0:16:07)
訪問者1: A little boy went out to play. When he opened his door he saw the world. As he passed through the doorway he caused a reflection. Evil was born. Evil was born and followed the boy.
ニッキー: I'm sorry. What is that?
訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I? Yes.

パートE (0:16:45)-(0:17:06)
訪問者1: Yes. Me, I... I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45,  I'd think it was after midnight.

パートF (0:17:06)-(0:17:44)
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.
訪問者1: Actions do have consequences.
訪問者1: And yet. there is the magic.

この一連の発言の各所に、(リンチが考える)「映画」というメディアに関するキーワードが出現していることは、何度か指摘してきた。「映画」とは「世界(world)」であり、「映画を観ること」は「世界を体験すること」である……というのが、自著やインタビューで繰り返しリンチが表明している考えである。この「世界の体験」という考えに対するリンチのこだわりは「映画の受容環境/手段」のこだわりにつながっており、「iPhone」等の小型端末での視聴に対するリンチの批判の根底にはそうしたこだわりがある。このリンチの「こだわり」は「インランド・エンパイア」の各所にも反映されており、たとえば(2:35:49)からのシークエンスにおいて提示される、「映画館での受容」と「モニタを介した受容」の間に横たわる「等価関係/対置関係」の表現などに明瞭である。

まず、パートDをみてみよう。「映画」は「映写スクリーン(あるいは「モニタ画面」)」という「枠(フレーム)」に区切られている……そう、まさしく少年が「扉(door)」という「フレーム」を通して「世界」を見るように、我々は「映写スクリーン/モニタ画面」という「フレーム」を通して「映画」を観る。そして、「映画」という「感情移入装置」によって少年=受容者の「感情移入=同一化」が形成されるとき、彼=受容者はその「扉=フレーム=スクリーン」を通り抜けることになる。そうした事象が起きることがリンチのいう「(映画の)魔法(magic)」であるわけだが、その”「映画の魔法」の「概念」”が「ファントム」という怪しい”登場人物”によって表されているように……もしくは、ニッキー=スーによるサーカス団員たちに対する寸評(「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」(1:46:08))にも表れているように、それは時として非常に「いかがわしいもの」であり得る。映画史が明らかにするように、それは「映画」における「感情移入=同一化」が、実は受容者に対する「感情操作」と同義であり得ることと無縁ではないはずであり、それを表すのが”少年が扉をくぐったとき発生する「邪悪なもの(Evil)」”という表現であるわけだ。

この「邪悪なもの」=「映画の魔(法)」は、少年が「扉」をくぐり抜けるに際し、「reflection」が引き起こされた結果生まれる……と「訪問者1」は語る。我々が「映画」を観るときに実際に目にしているのは、「映写機の光」が「映写スクリーン」に「反射(reflection)」したものだが、それによって引き起こされた「感情移入=同一化」の結果として生まれるのは、「受容者の内面」における「内省(reflection)」である。そして、演技者=ニッキーが登場人物=スーに自らの「情緒の記憶」を投影したように、その「内省」には、我々=受容者自身がそもそも保有している(感情を伴った)記憶/回想(reflection)」「反映(reflection)」されているのは間違いない。「映画=世界」を体験することで(あるいは「感情操作」を受けたことで)受容者の内面で生まれた「感情」は、それが「内的なもの」であるがために「映画」が終わった後もずっと「つきまとう(followed the boy)」ことになるのだ。

「訪問者1」が言うとおり、確かにこれは「古くからの話(Old tale)」である。我々はもう辿れないぐらい昔から、いくつもの「感情を喚起するもの」を創り出してきた。「プリミティヴ(原初的)」な「絵画」「舞踏」「音楽」「演劇」に始まり、「口承」から「文字」による「物語記述」の変移などを経て、我々はそれらの「喚起するもの」を洗練させると同時に、技術の発達による新しい「伝達手段」も獲得した。そうした「伝達手段」が出現した結果、たとえば同時に受容可能な者が増えたり、遠隔地での受容が可能になったり、あるいは繰り返しやタイム・シフトによる受容が可能になったりといったように、「受容スタイル」の変化は発生したものの、それらが伝えるのが「なんらかの感情を喚起するもの」であるという本質は変わらない。「インランド・エンパイア」において、そのあたりを端的に表しているのが冒頭に提示される「様々なメディア」であり、あるいは「メディア」のひとつの原型として現れる「サーカス」であるといえる。リンチにとって「サーカス」がメディアであるのは、それが昔から存在する「感情を喚起するもの」の「集合物」であること……「舞踏」や「演劇」などの「原初的」なものを含めた「感情を喚起するもの」を集大成的に伝える「媒体」であるからだ。そして、「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)のも、「映画」というメディアにもこうした「古くから」の「感情を喚起するもの」が内包されているからに他ならない。

続いて、「訪問者1」は”ヴァリエーション”を語り始める。「少年」の話が「映画というメディアに関する言及」であるなら、当然ながらこの「少女」の話もまた「映画というメディアに関する言及」の”ヴァリエーション”であるはずだ。ここでキーになるのは、「市場(marketplace)」という言葉である。さて、これは「いちば」であるのか「しじょう」であるのか……という疑問を以前に呈したが、これを「しじょう」と捉えたとき、やはり浮かび上がるのが「映画」がその創成期から備えている「工業製品」あるいは「商品」としての性格である。「映画」というメディアが「発明」され、しばらくして「物語」を語り始めたとき、さまざまな「映画論」が従来のメディアとの比較において「映画」というメディアを規定しようとした。そのなかで共通して指摘されたのが、「集団作業を前提とした製作」といった部分や、「資本力を必要とする投資対象」といった産業的な部分である。ごく一部の例外を除いて、基本的に「映画」というメディアの「産業的な性格」は現在に至るまで変わっていないし、我々もそれを前提として「映画」を受容していることは間違いない。たとえば、我々が「ハリウッド映画」という言葉を耳にしたとき想起するものには、「資本投下&回収システムとしてのハリウッド」という概念だけでなく、そこで作られる映画の「ルック」や「テーマ」や「内容」までが含まれる。正直なところ、「枠組が内容を規定してしまう」というのはありふれた話なわけだが、となると、「『市場』の中を通るのでなく、その裏道をたどることが宮殿に至る道である」という表現が含意するところは、露骨なぐらい明瞭だろう。リンチは、資本原理を理由とした「介入/コントロール」から離れることを……他のものと引き換えにしてでも「ファイナル・カット権」を自分で確保することを「ブルーベルベット」の段階から自らに課した。それは「砂の惑星」製作時における「ファイナル・カット権」を巡るトラブルを経てのことであり、それが「市場の中で迷った」リンチにとって「宮殿に至る道」であったわけだ*

加えて、「宮殿への道」を「忘れている者」を表すものとして、演技者=ニッキーが言及される(But it isn't something you remember)。だが、この「you」が間違いなく「単数」であるという保証はない。我々は、「インランド・エンパイア」が描く作品内の事象が……たとえば、「ハリウッド・ブルバード」における「スー=ニッキーの(フェイクの)死」が喚起する「感情移入=同一化」の切断(2:32:23)のように……しばしば、それを観ている「我々=受容者の事象」とそのまま重なりあっていることを知っている。であるならば、”「宮殿への道」を「忘れている者」”である「you」のなかに、「我々=受容者」が含まれていないと誰が断言できるだろうか。なにしろ、「忘却(Forgetfulness)」「私たち全員に起こるのだ(It happens to us all)」

それを裏付けるように、パートDの終わりからパートEにかけて、「訪問者1」は自身の「忘却」についての言及を始める。だが、彼女が語っているのは、「映画」というメディアが引き起こす「場所と時間に関する見当識の失当」についてだ。注意がひかれるのは、「9時45分」や「真夜中過ぎ」というキーワードと並んで、「あれはどこだったのか?(Where was I?)」というキーワードも発せられていることである。このシークエンスで「訪問者1」が発言する”「感情移入=同一化」による「見当識の失当」”を表す「あれはどこだったのか?」と、(0:02:45)からのショットにおいて「顔のない女性」が発言する「自己認識の欠落」を表す「ここはどこ?(Where am I?)」とは「対置関係」にある。前者は「機能しない家族」というテーマを表すものであり、後者は「感情移入装置としての映画」というテーマを指し示すものだ。「インランド・エンパイア」が内包するこの二つのテーマは……この二つの「ここはどこ?」は、「ハリウッド・ブルバード」においてスー=ニッキーが発する「ここはどこ?」(2:07:39)に向かって収斂していき、最終的に融合して”「映画による見当識の失当」を経て「自己確認」に至る”という複合的なテーマを形成するわけである。

パートFにおいて、まず「訪問者1」は「ナラティヴなもの」に関する言及を行う。この時点では明瞭ではないが、「行動には結果が伴う(Actions do have consequences)」という概念が、そのまま「物語(narrative)」を成立させるうえでの「因果律」を指しており、「支払われていない請求書(an unpaid bill)」が「伏線の回収」を表していることは、その後の「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関して行う記述/表象によって明らかにされていくことになる。言い替えれば、この「訪問者1」によるこの二つの事項に関する言及は、彼女が今現在、ニッキーに向かって話していることの内容……つまり、「映画」が(通常)「ナラティヴなもの」を内包しており、それは新しく創られる「映画」=「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関しても当てはまることの宣言である。その一方で、「行動には結果が伴う」に関しては、ピオトルケによって、デヴォンに向かって発言され(0:43:36)、「支払われていない請求書」については「訪問者2」によって、スー=ニッキーに対して二回に渡り(1:57:55)(1:58:50)言及されることになる。この二つの「言及」もまた「リフレイン」であり、キーワードであるわけだ。前者は当該シークエンスにおいて再度触れるとして、後者に関しては「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「伏線の回収」の必要性を示唆するものとして受け取ることができることに関しては、すでに述べたとおりだ。

こうして、「インランド・エンパイア」はその「序説」を終える。そこで紹介された「要素」は、「映画」をはじめとする各種メディア、「機能しない家族」の「原型」、ロスト・ガールという「受容者」、ニッキーという「演技者」など多岐にわたる。同時に、「機能しない家族」と「(映画における)感情移入=同一化」という、二つの基本テーマも提示された。この後、三時間弱にわたって「インランド・エンパイア」は、この二つの基本テーマを「核」にして展開され、「訪問者1」による様々な「言説」が達成される様子を描いていくことになる。


*公式サイトでの作品公開を経て、「インランド・エンパイア」の公開を機に自らの会社「ABSURDA」を立ち上げて作品配給を始めた時点で、ひとつの「完結したシステム」を作り上げるまでに至ったといえるだろう。既報のとおり、その「システム」をホロドフスキーやヘルツォークといった他監督の新作公開に使用することになったのは興味深い。この試みが今後どうなるかはわからないが、リンチは「宮殿への道」を他の監督とも共有し始めたということになるのだろうか。

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