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2008年7月 4日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (95)

うはは。とりあえず「酔っ払い週間」は終了しましたが、連日酔っ払ってるうちにLinux1号機のマザー・ボードがぶっ壊れました。うーむ、ほぼ10年選手の機械だったもんなあ。仕方ないので2号機をメインに昇格。でも、こちらもすでに9年目の機械なんで、さて、どーなりますやら(笑)。

さて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:08:37)から(0:18:14)まで。「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

幕が開いてから8分あまり、「インランド・エンパイア」は「これがメディアについての映画であり、とりわけ映画についての映画であること」、「その受容者であるロスト・ガール」、「映画を製作し、そのコントロールを行うもの」「映画の魔法」という概念を提示してきた。ここから先、「インランド・エンパイア」は、その具体例である「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関しての記述を深めていく。

このシークエンス全体をつうじて舞台となるのは、「ニッキーの屋敷」の内部である。「インランド・エンパイア」において「家」が表すものを考えるとき、この屋敷は「ニッキーの内面」を表象していると捉えて差し支えないだろう。であるからには、その中で発生する事象は、ニッキーの感情や主観によってバイアスがかかった状態で提示されていると考えていい。

たとえば、彼女の屋敷を突然訪れる「新しい隣人」という表現自体が、ニッキーの「心象」の反映であるといえる。この後に繰り広げられる両者の会話の様子をみればわかるように、「訪問者1」による「訪問」は、演技者=ニッキーにとって必ずしも「心地よい」ものではないことは明らかだ。あるいは、「訪問者1」の「東欧訛りの英語」である。これが、リンチが繰り返し提示する「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションであることはいうまでもないだろう。老婆の「言葉」が備えるこの「異言語性」は、すなわちニッキーにとってその「内容」が「異質なもの」であることの表象である。ひいては、これによって表されているのは、演技者=ニッキーと「訪問者1」の「立場」の違いであり、両者の間に横たわる「溝」であるといえるだろう。

加えて、「アメリカにおける物語を語るものとしての映画」を表す「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)というような「表現」にも表れているように、リンチは「インランド・エンパイア」に現れる「異言語」を、「映画が語る言語」としても提示している。それを考えれば、「訪問者1」の英語が東欧訛りであることによって表されているのは、彼女が語る言葉が「映画についての言及」であること……「映画が語る言語」を「文学的な言語」に置換して語っていることの提示でもあるはずだ。

以前にも触れたように、このシークエンスの「訪問者1による訪問」は、後に現れる「訪問者2による訪問」と対になっている。「庭を歩いてやってくる訪問者」等という「描写」そのものも意識して揃えられていると同時に、「訪問者1」が執事の「出迎え」とメイドによる「もてなし」を受けるのに対し、「訪問者2」はまともな「あいさつ」もできない状態のスー=ニッキーが応対すると言った具合に、この二つの「訪問」の「等価性」と「対置性」が明確に理解できるように構成されている。逆にいえば、「訪問者1」による「訪問」の舞台となる「ニッキーの屋敷」が、「訪問者2」による「訪問」の舞台となる「スミシーの家」と「等価」であり「対置」されるものであることが、これらの事項によっても保証されることになる。「スミシーの家」が登場人物=スーと演技者=ニッキーによって(また最終的には受容者=ロスト・ガールによって)「共有」される場所であるのに対し、「ニッキーの屋敷」は演技者=ニッキーの「個」に所属する場所だ。かつ、「スミシーの家」と同様、「ニッキーの屋敷」の中でも「トラブル=機能しない家族」の事象が発生していることは、この後にピオトルケという「夫の抽象概念」の紹介とともに提示されることになるが、それについてはそのシークエンスをとりあげる回で詳述しよう。

さて、ニッキーの屋敷に入り込んだ「訪問者1」は、様々な「言説」をニッキーに向かって「言及」する。
その内容は複合的でかつ融合してはいるが、あえて大きくわけるなら、彼女が「言及」しているのは、以下の三つの事項についてだ。

一つ目は、「演技者=ニッキーについての言及」である。その部分をまずピック・アップしてみる。

パートA (0:13:02)-(0:14:03)
訪問者1: So... you have a new role to play, I hear?
ニッキー: Up for a role. But, uh, I'm afraid far from getting it.
訪問者1: No, no. I definitely heard that you have it.
ニッキー: Oh?
訪問者1: Yes. It is an -- It is an interesting role?
ニッキー: (うれしそうに) Oh, yes. Very.
訪問者1: Is it about marriage?
ニッキー: Um...perhaps in some ways, but, um...
訪問者1: Your husband. He's involved?
ニッキー: No.
訪問者1: Hmm.

この会話自体が、実は「我々=『インランド・エンパイア』の受容者」に対する「ニッキーが演技者であること」の「紹介」として機能している。かつ、ニッキーが「新しい映画」おいて「役」を獲得したことを「訪問者1」は述べるが、それはニッキー自身にもこの時点では確定事項ではない。同時に、その「新しい映画」が「結婚」に関連していること、そして「ニッキー自身の夫」とも関連していることを「訪問者1」は告げるが、この「言及」自体がすでに複合的な意味を帯び始めている。第一義的に捉えるなら、これはこれから作られる「ある新しい映画」の内容に関しての言及である。だが、同時に、演技者=ニッキーがどのようにそれに関与するかについての言及でもあるのだ。スーはスー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えており、ニッキーはニッキー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えている。「訪問者1」が指摘しているのは、ニッキーとスーのそれぞれの家庭が「トラブル=機能しない家族」の問題を内包しており、この後その「共通性」をキーにして、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「重なり=ネスティング」が展開されることの宣言でもある。

そして、その結果としてニッキーに発生する事柄についても、「訪問者1」は言及する。

パートB (0:17:46)-(0:18:14)
訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there.
訪問者1は部屋の向かい側にある長椅子を指差す。
ニッキーのアップ。いぶかしがるニッキー。
ニッキーは頭を巡らし、長椅子の方を見る。
訪問者1: Do you see?

この部分のシークエンスが、(2:51:52)における「長椅子に座った青いドレス姿のニッキー」のショットにつながること……「訪問者1」が「見える?」と問いかけているその「見る対象」が「ハリウッド伝説化した演技者=ニッキー」であることは、「インランド・エンパイア」の最終ショットにおいて明らかにされることになることは、以前にも述べたとおりだ。後に詳述するが、これが「インランド・エンパイア」の「序章」の終わりであり、「本編」はこの直後から始まることになる。

二番目に言及されるのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という新しく製作される映画作品そのものについてだ。まず、それが「結婚」を題材とし、「夫」が関与していることが言及されることについては、前述したとおりである。次いで……

パートC  (0:16:08)-(0:16:41)
訪問者1: Is...Is there a murder in your film?
ニッキー: Uh, no. That's not part of the story.
訪問者1: No? I think you are wrong about that.
ニッキー: No.
訪問者1: Brutal fucking murder!
ニッキー: Uh, I don't like this kind of talk the things you've been saying. I think you should go now.

……という具合に、その映画では「殺人」が、それも「残虐な殺人」が取り扱われていることが、「訪問者1」によって言及される。ここでのやりとりも、やはりパートAと同じく「複合的」だ。まず、ニッキーには、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「残虐な殺人」を扱っていることの「自覚」がこの時点ではない。というより、両者がいう「残虐な殺人」が意味するところが、食い違っている。ニッキーは、当然ながら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品中に「具象的な事件」として「殺人」が起きないと言っている。だが、「訪問者1」がいう「残虐な殺人」とは、女性たちが「悪意=スクリュー・ドライヴァー」で互いを傷つけあうという「内面的/抽象的な事件」*のことだ。

もちろん、この時点ではそのようなことが我々にわかるはずもないが、いずれにせよ、ここで問題とされるべきなのはニッキーと「訪問者1」の「どちらが正しいか」という議論ではない。問題となるのは、両者の間に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がどのような作品であるかについて「認識/意見」の食い違いがあるという、その「表現」自体だ。そこには様々なものが内包されているように思われる。たとえば「解釈の多様性」の問題、「具体的映像とそれが表象するものの乖離」の問題など、「作品」とそれを何らかの形で「受容」する者との様々な関係性がこの「表現」から読み取れるといっていい。

このように、この時点において、「訪問者1」の「東欧訛り=異言語性」によって表される、ニッキーと彼女の「立場の違い」や「溝」がどのようなものかが明瞭になってくる。この「立場の相異性」は、「家」の中にいる者と「家」の外部から訪れる者との違い……映画製作の内部にいる「演技者」と、外部からそれに関する様々な「言説」をもたらす「評者」との違いだ。そう考えたとき、あることに思い当たる……「訪問者1」と「演技者=ニッキー」とのこの「会話」は、限りなく「インタビュー」に近くはないか?

(続いたりなんかして)

*結局のところ、この「残虐な殺人」とは、「ポーランド・サイド」でのロスト・ガールの刺殺、あるいは「ハリウッド・ブルバード」での「スー=ニッキーの(フェイクの)死」によって表されるように、ロスト・ガールやスーあるいはニッキーをはじめとする女性たちの「内面で発生している事象」である。そして、このことが、リンチの他作品についてもある洞察を与えるものであることは間違いない。果たしてヘンリーは異形の赤ん坊を殺したのか? フレッドはディック・ロラントやアンディを殺したのか? 本当にダイアンはカミーラの殺人を依頼し、自らの命を絶ったのか? それらはすべて、彼/彼女たちの「内面」で発生している事象……彼/彼女たちの「感情」に歪められた「心象風景」ではないのか?

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