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2008年7月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102)

このクソ暑いなか、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話は一層暑苦しく続くのであった。今回は、(0:33:51)から(0:36:25)までについてのアレコレやソレコレ。

さて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわれ」が明らかになり、撮影がまさに始まろうとしているこの瞬間、「インランド・エンパイア」は非常に表現主義的な映像に満ちたシークエンスを二連発する。ひとつは「ニッキーの屋敷」を舞台にしたシークエンスであり、もうひとつはどこにあるとも知れない「警察署」とおぼしき場所でのシークエンスだ。このように「ルック」としての場所は異なっているものの、基本的にこの二つのシークエンスは「インランド・エンパイア」が扱うモチーフやテーマの「ヴァリエーション」として現れており、いずれも演技者=ニッキーの「内的」なものとして理解が可能である。

まず、(0:33:51)から(0:34:19)までの「ニッキーの屋敷」におけるシークエンスをみてみよう。

ニッキーの屋敷 内部
ニッキー: (微笑みながら) What?
Zydowicz氏: [ポーランド語で] You didn't understand what I said?
ニッキー: (首を振って) Um, I don't understand.
Zydowicz氏: Mmm. You don't speak Polish.
ニッキー: No.
Zydowicz氏: [ポーランド語で] A half...
ピオトルケ: I-- I think she understands more than she lets in.
ニッキー: But I don't speak it too, so...

既に何度か触れたが、ここに表れているのは「成立しない会話」という、リンチが繰り返し提示する基本モチーフのヴァリエーションである。「インランド・エンパイア」に登場する同一モチーフによって表されるものをあわせて考えたとき、このシークエンスが表象していると捉えられるものには二つある。

ひとつは、「ニッキーの屋敷」の内部で発生している「機能しない家族」の事象である。これは演技者=ニッキーの個人的なものであり、夫(の抽象概念)であるピオトルケとの間に起きているものだ。このシークエンスにおけるニッキーとピオトルケは、明らかに「意思の疎通」を欠いている。それはまるでニッキーがZydowicz夫妻のポーランド語を理解できないのと同じように、だ。それにもかかわらず、ピオトルケは「彼女は自分が考えているよりも理解している」などという根拠のない発言をし、この意識の「擦れ違い」が「ニッキーの屋敷」で起きている「機能しない家族」の要因であることを提示している。ピオトルケとZydowicz氏はどちらもニッキーと「意思疎通」を欠いており、彼らと彼女との間に「一方的な関係」しか成立させられない点において「等価」なのだ。

もうひとつは、これまた演技者=ニッキーの内部で発生している「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への……というより登場人物=スーへの「感情移入=同一化」への予兆である。すでに「スタジオ4」での「読み合わせ」において、”1回目の「Axxon N.」”は発現しており、彼女はこの後、急激にスーへの「感情移入=同一化」を深化させていくことになるわけだ。その一方で、「インランド・エンパイア」において、「異国語」が「映像の言語」として表象されていることは「訪問者1」の「東欧訛り」などの緒例に表れているとおりで、ここでZydowicz氏が話す「ポーランド語」もその文脈上に捉えることが可能だろう。ニッキーとZydowicz氏の会話を字義的にみたとき、実は二人の間にコミュニケーションは「成立」している。ひとつめの事項とは矛盾しているようだが、「ニッキーがポーランド語を解さない」あるいは「しゃべれない」という一点において、二人の「意思」は「疎通」されているのだ……そう、ちょうど我々が、「映像の言語」を、通常の意味での「言語」に完全に置き換えられないのと同じように、ニッキーは「部分的(A half...)」にしか「ポーランド語」を理解できないのである。こうした表現から受け取ることができるものがあるとすれば、それは、演技者=ニッキーが自らの「感情=情緒の記憶」をもって登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を深化しはじめ、自分の「演技」をつうじて「シナリオの言語」を「映像の言語」へ置換し始めたことの示唆だ。

この「成立しない会話」のシークエンスは、上記の二点のイメージを内包しつつ、「夜空に浮かぶ月」のショットをブリッジにして、次の「警察署内部」のシークエンスへとイメージを連鎖させる。

この(0:34:24)から(0:36:25)のシークエンスには、非常に重要なものがいくつも内包されている。

まず、”「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開上の要請」”あるいは”女性たちが互いに抱く「悪意」”を表象する「スクリュー・ドライヴァー」の提示である。(後にドリスとわかる)女性の腹部に突き刺さったそれは、この後、ロスト・ガールやスー=ニッキーの腹部にも刺さることになるが、この時点ではまだそれはわからない。まず、ドリスがハッチンソン警部に向かって説明するのは、「誰かをスクリュー・ドライヴァーで殺せ」と命じられたということである。その命令を下したのが「ファントム」であることは、「ビリーの屋敷での修羅場」のシークエンス(1:54:03)において、このシークエンスにおける「背後を振り返るドリス」の映像のリフレインをキーにしつつ明示されるのだが、このシークエンスの段階ではまだそれもわからない。映像として確実に明示されているのは、ドリスが誰かを刺すために使われるはずの「スクリュー・ドライヴァー」が、今現在、彼女自身の腹部に突き刺さっているという一見矛盾した状況だけだ。だが、後に提示されるロスト・ガールやスー=ニッキーを含めた”「スクリュー・ドライヴァー」による死”をみれば、この現在の「ドリスの状況」がそれらの事象の端的な「略図」になっていることが明瞭に理解できるはずだ。彼女たちは「互いに傷つけあう存在」であり、相手が感じている「痛み」はそのまま自分が抱えている「痛み」と同じものであることが、このシークエンスにおける「ドリスの状況」によってあらかじめ宣言されているのである。

あわせて、ドリスに”「スクリュー・ドライヴァー」による「殺人」を命じた者”の存在も示唆される。これが「ファントム=映画の魔」であることは、同じく「ビリーの屋敷」における「修羅場」のシークエンスで映像として明示されるわけだが、このシークエンスにおいて明確にされているのは、彼が「コントロールを行なう存在」であることだ。そして、その「コントロール」が「hypnotize=催眠術=魅了」をつうじて行なわれることも同時に明らかにされる。また、冒頭「Openingからの侵入許可」を禿頭の老人に対して訴えていた「ファントム」がそれを許され、すでに「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込んでいることも同時に明示されているといえるだろう。

さて、しかし、ドリスの「誰を殺すかはそのうちわかると彼が言った(he said that I would know who it was)」という発言をみる限り、少なくともこのシークエンスの時点では、彼女はまだ「自分が誰を殺すのか」を理解していないようだ。これをニッキーの「内面」の反映として考えるなら、彼女の登場人物=スーへの「感情移入=同一化」が現在も形成中であることの表われであると理解できる。リンチ作品では、往々にして、このような「すり替え」を伴った「表現」が登場する。たとえば、「ロスト・ハイウェイ」における”闇の中に消えたフレッドを「レネエが探す」”シークエンス(0:36:43)や、「マルホランド・ドライブ」における”ブルー・ボックスを開封するのがベティ=ダイアンではなく、リタ=カミーラである”という表現(1:52:43)などにみられるように、「主体」となるべき登場人物からでなく、それと「対置」される人物の「視点」から「事象」が描かれるのだ。同様のことがこのシークエンスにおいても指摘でき、ニッキー(あるいはスー)のかわりに、ドリスを主体として「スクリュー・ドライヴァーによる女性間の相互関係」が描かれていることがみてとれる。このことは、仮にこのシークエンスが提示する「事象」に現われる人物をドリスではなくスー(あるいはニッキーあるいはロスト・ガール)に置き換えても、まったくその表象するところが変わらないことからも理解されるだろう。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」の例では、こうした「表現」は”「主体」となるべき「対象」(フレッドやベティ=ダイアン)の「消失」の強調”として機能している。それに対し、このシークエンスがニッキーではなくドリスを主体として描かれている理由は、この”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”が「抽象的なもの」であり「普遍的なもの」であることを強調するためだ。ドリス→ロスト・ガール→スー=ニッキーと”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”に現われる登場人物が変遷することにより、この”「スクリュー・ドライヴァー」による死”というモチーフが、「機能しない家族」という普遍的なテーマの一部であることが明瞭になるのである。

同様に、”ニッキーの「内面」の反映”としてこのシークエンスを捉えた場合、舞台が「警察署」の内部であること、かつドリスが「警官」に向かって「告白」する形で事象が進行していることは、”「介入=コントロール」のイメージ”の表われとして非常にわかりやすいものであるといえる。すなわち、演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」はまだ「コントロール下」にあり、”時間や場所に対する「見当識」の失当”にまでは至っていないことの提示なわけだ。「介入/コントロール」が行われる場所として、この「警察署」は「Mr.Kのオフィス」と「等価」であり「対置」されるものと理解できるし、「ハッチンソン警部」は「介入/コントロール」を行う存在として「Mr.K」と「等価」であり「対置」されることになるだろう。

となると思い浮かぶのが、スー=ニッキーがMr.Kに話した「バルト地方の巡回サーカス」の行く末である。サーカス団員たちは酒場で乱闘を起こした結果、「ファントム」以外の全員が逮捕されて「警察署」に連行される(He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested...they take'em all down too the station)とスー=ニッキーは語る(1:46:54)。当然ながら、これは「ウサギ/老人」たちによる「介入/コントロール」が行われたことの表象であるわけだが、やはりここでも「警察署」が”「介入/コントロール」のイメージの表象”として登場しているのは明らかだ。と同時に、「サーカス団員」たちによる「乱闘」が「酒場(bar)」で行われていることも興味深い。ドリスもまたハッチンソン警部に向かって、「『ファントム』とは酒場で出会った( I saw him looking at me once when I-- when I looked around the bar)」と語る。また、スー=ニッキーはMr.Kに向かって、「酒を奢ってもらうために男たちといちゃいちゃしていた(I was screwing a couple guys for drinks)」と話す(1:13:11)。加えて、北米版DVDに映像特典として収録されている「More things that happened」には、ナスターシャ・キンスキーがニッキーに向かって「酒場で出会った男にビールを奢ってもらった」ことを話す未公開シーン(0:34:24)が収録されている。その未公開シーンにおいて、同時にキンスキーはその男と出会った結果として「時間および空間に対する見当識の失当に陥った」とも言及することから、彼女が出会ったのが「ファントム=映画の魔」であると考えておそらくは間違いない。これらの女性たちがすべて「ファントム=映画の魔」と「酒場」で出会っているとするなら、これは、はたして何を表わしているのか?

ここでまず思い起こさなければならないのは、エンド・ロールに現われるナスターシャ・キンスキーが、”「ハリウッド伝説」の一部”を表象していたことである。それを念頭においたとき、特典映像の未公開シーンが提示するのは、自身が「伝説化」する過程において、キンスキーは「ファントム=映画の魔」と出会っているということだ。”キンスキーと「並列」して長椅子に座るニッキー(あるいはローラ・ダーン)の映像”は、彼女もまた演技者として「ハリウッド伝説」化したという「表現」につながっていたわけだが、スー=ニッキー(あるいはローラ・ダーン)もまた、「ファントム=映画の魔」と”「スミシーの家」の隣家”において明瞭に遭遇していること(1:59:39)はいうまでもなく、それもキンスキーと同様にニッキーが「伝説化」するためには必然的な出来事であったわけである*。あらためて指摘するまでもないが、彼女たちと「ファントム=映画の魔」との「遭遇」によって表象されているのは、「作品」あるいは「自分が演じる登場人物」に対する彼女たちの「感情移入=同一化」が形成され、深化しているということだ。

興味深いのは、”「酒場(bar)」という「場所」によって表わされるもの”である。「インランド・エンパイア」が提示する「酒場」に関連した一連の「表現」をみる限りにおいて、そこは”「スミシーの家」の「裏庭」”と同じく、「公的なもの」と「私的なもの」が交錯するところであるように受け取れる。「サーカス」という「組織」に属する団員たちが出入りし、彼らが「幼児的な乱闘」を引き起こす一方で、スー=ニッキーは女性としての「セクシャリティ」を「酒」という「実利」に置換し、ついでに「機能しない家族」の「要因」をも手に入れる。また、ドリスとキンスキーはそこで出会った「ファントム=映画の魔」に「魅了」される。このように、「酒場」の内部で発生している「事象」もまた複合的であり、そこでは「インランド・エンパイア」が内包するいろいろなテーマが「交錯」しているのは明らかだ。しかし、たとえばスー=ニッキーが切り売りする「セクシャリティ」をキーにして考えたとき**、「酒場」が基本的に「ファントム」や「(ピオトルケを含む)サーカス団員」などの「男性」による「視点/価値」が主体になっている場所であると理解して差し支えないはずだ。だとすれば、同じく「公的なもの」と「私的なもの」が交錯する「場所」である「裏庭」との対比は明らかである。”「スミシーの家」の「裏庭」”における「事象」が「私的なもの=ホーム・パーティ」への「公的なもの=サーカス団員」の乱入という形で発生していることからも明らかなように、本来そこはスー=ニッキーの「私的なテリトリー」なのである。それに対し、基本的に「酒場」が「公的な場所」であることは間違いなく、ということは、”「女性のセクシャリティ」が切り売りされている場所”が”「公的」なイメージ”を付随させつつ描かれていることになる。

こうした「酒場」のイメージを端的に「縮図」として表わし、そうした「公的な場所」の「状況」に対するリンチの「視点」が明確に表われているのが、(2:12:05)からの「クラブ」の映像であるといえる。そこで踊る女性ダンサーが「女性としてのセクシャリティ」を切り売りし、利益に還元していることは明らかだ。そして、そこでスー=ニッキーの「友人」であるカロリーナが働いていることは……「セクシャリティを切り売りする仲間」が働いていることは、まったくもって当然である。以前、この”「クラブ」によって表象されるもの”のひとつとして、「メディア」そのものを挙げた。「メディア」としての「クラブ」が「セクシャリティの切り売り」によって成立しているという描写自体、”「ドロシー・ラムーアの星」の「引用」など”とあわせて、リンチの皮肉な「視点」を感じずにはいられない。だが、リンチの「視点」はそうした「フェミニズム的視野」の範疇に留まっていないのも、また確かなのである。たとえば、カロリーナによる「誘導」を得て「伝説化」へと向かうスー=ニッキーといった描写や、クラブの「女性ダンサー」と対置されるものである「バレリーナ」(2:50:07)といった表現をつうじて、「映画」というメディアにおけるセクシャリティの問題は、まったく正反対のポジティヴな方向からも同時に描かれている。その根底にあるのは、「ハリウッド」という「場所」とそこで作られてきた「伝説」に対する、あるいは「サーカス」という「メディアの原型」に対する、あるいは「いかがわしさ」をも内包した「映画の魔法」に対するリンチの「総合的な視野」であることは間違いないだろうと思う。

*このスー=ニッキーによる「ファントム」への「訪問」自体が、「訪問者2」による「クリンプという名の隣人を知っているか?(Do you know the man who lives next door? "Krimp" is the name.) 」という示唆(1:57:02)によって喚起されたものである。やはり「訪問者2」の言及は、(外部からの)「言説」として非常に正しいものであったことになる。

**キンスキーと「ファントム」の邂逅においても、「セクシャリティ」の介在は匂わせられている。

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