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2008年7月22日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (101)

なんか、気がついたらこのブログのために書いた文章の容量が、テキスト・データで700KB越えてました。大体、普通の書籍一冊分が400~500KBなんで、「インランド・エンパイア」に関して書いた駄文だけ抜き出しても本一冊分ぐらいになっちゃってるわけですね。よくいえば「継続は力なり」なんですけど、ま、どっちかとゆーとヒマで物好きなだけですね、大山崎のバヤイ(笑)。

そんなこんなで続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回も前回と同じく(0:23:59)から(0:33:51)までのシークエンスがお題。

さて、「姿なき侵入者」に憮然とするデヴォンとニッキーに向かって、キングズレイとフレディは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわく」を説明し始める。

キングズレイ: (何事かを口の中でつぶやいたあと) ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS is, in fact, a remake.
デヴォン: It's a remake.
キングズレイ: (画面外から) Yeah.
デヴォン: I wouldn't do a remake.
キングズレイ: (画面外から) No, no, no, no, no. I know. Of course.
キングズレイ: But you didn't know. The original was a different name. It was started, but it was never finished.
キングズレイ: (画面外から) Now...Freddie's found out that our producers knew the history of this film and they have taken it on themselves not to pass on that information to us. Purposefully. Well, at least, not me, and I assume not the two of you.
キングズレイ: (画面外から) True?
ニッキー: No. Uh, absolutely. Nobody told me anything.
デヴォン:
No. Me, neither. Uh, I thought this was an original script.
キングズレイ: Yeah. Well.
キングズレイ: (画面外から) Anyway, the film was never finished.
キングズレイ: Something happened before the film was finished.
ニッキー: I-- I don't understand. Why wasn't it finished?
キングズレイ: (画面外から) Well, after the characters
キングズレイ: had been filming for some time... they discovered something...
キングズレイ: (画面外から) in-- in-- [sighs]
キングズレイ: something insi-- inside the story.
デヴォン: Please. Kingsley.
キングズレイ: The-- The two leads...were murdered. (笑う)
キングズレイ: (画面外から) It was based on a Polish gypsy folktale.
キングズレイ: The title in German was VIER SIEBEN-- Four Seven. And it was said to be cursed.

キングズレイが語るこれらの「いわく」とは、いったい何なのか……それについて述べる前に、まず指摘しておきたいのは、このキングズレイによる「言及」は、「訪問者1」による「言説」と対をなすものであると考えられることである。

もちろん、”1回目の「Axxon N.」の発現”において発生した二つの「視点」と同様、「訪問者1」による「言説」とキンズレイの「言及」の間に、「具体的な対応」があるわけではない。だが、両者が語ることは、どちらも「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する(そして、「映画」というメディアに関する)「言及/言説」であるという点で「共通」している。異なっているのは、「訪問者1」が作品製作の「外部」から「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」について言及しているのに対し、キングズレイが作品製作の「内部」からそれについて述べていることだ。両者の「言説/言及」が「対置関係」にあるのは、まさにこの点においてである。かつ、これまた「訪問者1」の「言説」と同様、キングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「半具象性」を備えた抽象的なものであり、そこで語られている「事象」を具象的に捉えることはできない。要するに、「訪問者1」が語る「残虐な殺人が関係している」などの言及と同じく、キングズレイによる「呪われている」とか「主役の男女が殺された」などという「言及」も語義どおりに受け取ることはできないわけだ。

たとえば、キングズレイが「4-7」を「ポーランドのジプシー民話に基づいていた(It was based on a Polish gypsy folktale)」と発言し、「ドイツ語」の作品タイトルに言及するとき、それが指すのは「インランド・エンパイア」に何度となく現れる「異言語性」による「表現」……つまり、”「訪問者1」の「東欧訛り」”や”「90歳の姪」が喋る「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice)」”が表象する「映像の言語」のことであり、また「ファントム=映画の魔」がドリスを「魅了」する際に唱える”「呪文」によって表象されるもの”と同義である。加えて、「ジプシー」に関する言及が、スー=ニッキーによってMr.Kに向かってなされていることにも留意したい。彼女は、ピオトルケが参加した「サーカス」について語る際、そこで働く者たちが「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」であると語る(1:46:08)。スー=ニッキーのこの言及は、他者の「感情」を操るものである”「ファントム=映画の魔」が付随させる「いかがわしい」イメージ”を評したものであるわけだ。であるなら、同じく「ジプシー」というキーワードが課せられる「4-7」にも同じ”「いかがわしい」イメージ”が付随させられ、それは「他者の感情を操作するもの」であることになる。「インランド・エンパイア」において、リンチが「映画」などのメディアの「原型」として「サーカス」を提示していることを考え合わせるなら、つまり、キングズレイがこの言及によって明らかにしているのは、「4-7」によって表わされるものが”「映画」というメディア「そのもの」”のことであり、「ジプシー民話」によって表象されるのは”「メディア」を介して伝えられる「物語」”のことに他ならない。また、「民話(folktale)」を「原型」と同義である捉えるなら、これは「古くからの話(Old Tale)」のことでもある……そう、「訪問者1」が自分の語る「言説」を「古くからの話(Old Tale)」と呼んだのと同じく、実はキングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「古くからの話」であるのだ。

我々は、「インランド・エンパイア」の冒頭で、「映画」「ラジオ」「レコード」といったさまざまな「メディア」が提示されるのを観た。そして、「顔のない男女」によって”「機能しない家族」の「原型」”が提示されるのも目撃した。「Axxon N.」のことを「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ(Axxon N, the longest running radio play in history)」と「レコード」に録音されたナレーションは紹介するが、それは「映画」を含めた「メディア全般」によって延々と語られ続けるものである。そして、その「語られるもの=物語」の中には「機能しない家族」というテーマも含まれ、いろいろな「メディア」において、さまざまな作品の形で遥か昔から連綿と「提示されて続けてきた/提示され続けている」ことは間違いない。このように、”「メディア」を介して伝えられる「物語」”という「概念」自体が「古くからの話」なのである。

だが……もしそうならば、だ。多くの作品は、それ以前の作品の「ヴァリエーション」であり「リメイク」に他ならないのではないか? もちろん、これが非常に乱暴で大雑把な言い方であるのは承知している。しかし、「古典」が「古典」として現在においても存続している理由は、間違いなくそこにあるはずだ。我々=人間は「物語」を作り始め、あるいは受容し始めてから、そんなに変わっていない。人間が理解できる「論理」の「幅」は案外狭く、それはつまり、「ナラティヴなもの」の構成要素である「因果関係」が「有限」であることを意味している。かつ、我々が抱えている根源的な問題……たとえば「機能しない家族」といった問題が思い出せないくらい「古くからの話」であるなら、”何がそれを描いた「オリジナル」であるのか”という議論すら、おそらく成立しないだろう。そうした視点に基づくなら、デヴォンによる「リメイクには出ない(I wouldn't do a remake)」という「発言」は、非常に皮肉なものである。彼が露わにする「オリジナル信奉」は、明らかに「幻想」でしかないからだ。

さて、しかし、説明の順番が逆になったようだ。まず、「4-7」について言及するに先だって、キングズレイは「情報(information)」について、自らの思うところを述べる。

キングズレイ: (画面外から) Now, Freddie is purposefully out and about gathering what in this business is most valuable commodity-- information.
キングズレイ: Information is indispensable. You probably know this from your own lives. we all have people who gather-- agents, friends, producers. And sometimes they share. Sometimes not. Politics I don't know. Huh! Ego.(首筋を掻きながら) Fear.

彼の弁にしたがうなら、「情報」は「この商売ではもっとも貴重なもの」であり「なくてはならないもの」である。そして、彼は、「4-7」に関する「情報」をプロデューサーが故意に隠匿していると述べる。もちろん、実際にプロデューサーが監督であるギングズレイ以下のスタッフに「4-7」についての「情報」を意図的に隠したかどうか、「インランド・エンパイア」にはそれを明示的するような映像はまったく存在しないのだが、それはどうでもいい。ここで重要なのは、「情報」というものが、「政治的意図」のもとであれ、あるいは「エゴ」や「恐れ」からであれ、「意図的に隠匿され得る」ものであるということだ。なぜ、そんなことが起きるのか? もちろん個々の理由はさまざまだろう。だが、最大の理由は「情報」が「取り引き可能」な一種の「資本」であり、その集中は「権力の集中」と同義である。

……という観点に立ったとき、この「情報」に関するキングズレイの言及は二つのものを示唆することになる。ひとつは、キングズレイとフレディが「コントロールを受けるもの」であるという事実だ。当然ながら、これは「インランド・エンパイア」が後に言及する「動物」の「概念」、つまり「自律しながらも、より上位のものからのコントロールを受ける存在」につながるものであり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作において、キングズレイとフレディも”「動物」という概念が表すもの”に含まれるということを明示しているといえるだろう。興味深いのは、この「4-7」に関する「情報」をどこからか手に入れてきたのがフレディであることである。これは彼が後にニッキーとデヴォンに向かって「私は動物が好きだ(I've always loved animals)」と言及すること(0:39:27)と無関係ではないはずで、なおかつ彼が「Gable」という名の亡くなったスタッフの代役としてこの情報収集を行ったことが示唆されている。いずれにせよ、この後の描写をみても、フレディがいろいろな意味で「動物の扱いがうまい」ことは間違いなく、あるいはそれは自身が「動物」であることの自覚からくるものであることをうかがわせる。

もうひとつの示唆は、「映画」というメディアが抜き難く「工業製品」としての特性や、「集団作業」によって作られる「商品」であるという性格を備えていることである。そこでは経済的な「資本」と一緒に、「情報」という「資本」も同時に運用されることになることは自明だろう。もちろん、これらの事項は「映画」以外のメディアでも発生しうることではあるが、他のメディアに比べて格段に大きな資本投下が必要な「映像製作」において、こうした問題が占める比重が大きくなることもまた確かなのだ。こうした「映画製作」にまつわる「資本の問題」……正確にいうとそれを事由として受ける「作品内容のコントロール」がリンチにとって不本意なものであることは、「砂の惑星」のファイナル・カット権をめぐる経緯や、その後の「ブルー・ベルベット」製作に至るまでのリンチの動きを顧みれば明らかである。あるいはDVを使った「インランド・エンパイア」の製作や、その後の公開に向けて「ABSURDA」を設立した経緯にも、リンチの「映画」というメディアに対して感じている「不自由さ」は明瞭に表れている。以上のような事項を考慮したとき、「4-7」に掛けられた「呪い」とは、こうした”「映画製作」に関する「諸問題」”のリンチ流の「言い替え」なのではないかという可能性に行き当たる。

キングズレイは「4-7」の製作が中断され、完成しなかった理由を「完成前に何かが起こった(Something happened before the film was finished)」と語る。これもまた非常に漠然とした物言いだが、問題はその直後の彼の発言……「something insi-- inside the story」のほうだろう。キングズレイの話の文脈を優先して考えるなら、これは「『47』という映画の製作に関する内部事情(inside story)」のことを述べているように受け取れる。だが、このキングズレイの台詞を字義どおりに理解するなら、彼が言及しているのは「物語の内部(inside the story)」のことだ。続いて、キングズレイは「主人公の二人が殺された(The-- The two leads...were murdered)」と語るが、さて、この「殺人」は「4-7」の製作時に発生した「内部事情(inside story)」のことであるのか、それとも「物語の中(inside of the story)」でのことなのか? もし、この一連のキングズレイの発言も複合的なものであるのなら、これもまた「混乱」を引き起こすための周到な「仕掛け」であるといえるだろう。我々=受容者は、この時点で「現実」と「(作品内)現実」と「(作品内(作品内))現実」の見分けを失い、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」の中に取り込まれてしまう。この後、「インランド・エンパイア」はさまざまな「感情移入=同一化」を描き、その果てに存在する「見当識の失当」を提示するが、それはもうこの段階で始まっており、我々=受容者をもそのなかに巻き込んでいくのである。

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