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2008年7月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (100)

えー、Linux用3号機を手に入れ、現在仕込み中の大山崎でございます。今度の機械も7年落ちだから、さては、まったく懲りてねえな(笑)。とりあえず動作確認をしようと、CDからブート……したら、いきなり「IRQ#15 Dsiabled」とか出てきて途中でハングしやがるのよ。ななな、なんだンねン……と、思わず「芦屋雁之助」化する大山崎(笑)。いきなり壊れたわけ? と青くなりつついろいろ調べたところ、どうやら故障とかじゃなくてこの機種特有の問題らしいことが判明。ブート・オプションをつけて再度トライ。今度は無事に立ち上がっていただけまして、メデタシメデタシ。まだ完全にセッティングは終わってませんが、んなこんなを経て、現在、3号機でこの文章を書いております。

閑話休題、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」であったりする。今回は(0:23:59)から(0:33:51)までを追いかけてみることにする。

「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のプリ・プロダクション期に関する事項は終わり、このあたりから撮影を含めた「製作(プロダクション)期間」に発生する事象についてのシークエンスが提示され始める。言葉をかえれば、これからしばらくの間、「インランド・エンパイア」は「映画を作ることの映画」であるということだ。

と同時に、このシークエンスあたりから、リンチ作品特有の「表現主義的な描写」や「半具象性」が、その存在を明瞭に主張し始める。

たとえば、このシークエンスにおいて、初めて「スミシーの家」が姿を現す。とはいえ、デヴォンがニッキーに説明するとおり「スミシーの家」のセットはまだ作られている最中である。木の板に遮られ帆布に覆われて、ステージ内の薄闇に沈む「スミシーの家」の「全貌」は、まったく明瞭ではない。ここで映像として提示される「スミシーの家」のセットは、まるで「人間の内面」のように外から中を伺えない状態であり、そのままリンチの言う「何かよくないことが起きる場所」としての「家」の体現化であるといえるだろう。「インランド・エンパイア」において、「スミシーの家」は第一義的には登場人物=スーの「内面」である。と同時に、演技者=ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」が深化することによってニッキーにも「共有」され、"1回目の「Axxon N.」の発現"以降は両者の「混淆物」である”スー=ニッキー”の「内面」となるとともに、「実際の家」として「実体化/具現化」する(1:03:40)。

だが、現在のシークエンスの段階において、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」はまだほとんど形成されておらず、「内面の共有」など存在すら覚束ない状態である。建造途中の「スミシーの家」のセットが表象しているのは、今現在のニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状態……つまりは彼女の「内面」にあるものだ。ニッキーの「スーという登場人物」に対する理解が「漠然」としたものに留まり、まだ「感情移入=同一化」の形成にまで至っていない限り、「スミシーの家」は「雑然」とした「構築途中」のものでしかない。「インランド・エンパイア」が提示する「スミシーの家」に関する「映像表現」は、リンチ特有の究めて表現主義的な発想に基づくものであるわけだが、それはこのシークエンスにおける”建造途中の「スミシーの家」”の描写からすでに始まっているのだ。

しかし、”ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状況は、(0:27:00)からのニッキーとデヴォンによる「シナリオの読み合わせ」が始まった途端、それこそあっという間に激変する。キングズレイが言うように、それこそ軽いラン・スルーであったはずのこの「読み合わせ」において(this is just a rough run-through, so don't... be hard on yourself)、いきなりニッキーは「演技者としての高い能力」を発揮するのだ。そして、彼女のほほを伝う「涙」が示唆するように、ニッキーの「演技能力」を成立させているのは、彼女の「感情移入能力」に他ならないのである。

さて、ここで、いくつかの「疑問」……というより、「思い付き」が浮上する。「読み合わせ」から続く「姿なき侵入者」のシークエンスが、(1:00:00)からの"1回目の「Axxon N.」の発現"のシークエンスと「対応」するものであるのは、間違いないところだろう。たとえば(1:01:57)のショットは明確に「読み合わせ」中のニッキーたちの映像であるし、その後、デヴォンが「姿なき侵入者」を確認に行き、「スミシーの家」の内部を窓越しにうかがうシークエンスは(当然、「内部=内面」は見えない)、明らかに(1:04:06)あたりのシークエンスに対応している。それを前提にするなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"を喚起したものは、実はこの「読み合わせ」において発揮された演技者=ニッキーの高い「感情移入=同一化の能力」に他ならないのではないか……というのが、まず第一の疑問である。なによりも、「インランド・エンパイア」の作中、三回にわたって発現する「Axxon N.」が"演技者=ニッキーの登場人物=スーへの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体"と関連していることは、繰り返し述べてきたとおりだ。その限りにおいて、このシークエンスで提示されるニッキーの「演技者としての能力=感情移入能力」は、「Axxon N.」およびそれに関連する事象に、ダイレクトに関係するものであるはずだ。

次に気になるのは、この「対応」する「姿なき侵入者」と"1回目の「Axxon N.」の発現"の二つのシークエンスが、「同時性」を備えているのかどうかという点である。ひらたくいえば、現在論じている「姿なき侵入者」のシークエンスと、"1回目の「Axxon N.」の発現"を描いた(1:00:00)からのシークエンスは、「同一」の「事象」を異なった「視点」で描いたものであるか否か……ということだ。その妥当性はともかくとして、この可能性は「インランド・エンパイア」の作品構造について、また異なった方向からの光を投げかける。この考えに沿うなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"の際に発生した「視線の交換」をキー・ポイントにして、「インランド・エンパイア」は二種類の「視点」を発生させていることになる。「視点」のひとつは、もちろん現在論じているシークエンスの(0:27:00)から(1:00:00)までがそれであり、「演技者=ニッキー」に関連する「事象」を……「スミシーの家」の「外」の事象を描いている。もう片方の「視点」は(1:03:40)の「スミシーの家の「実体化/具現化」」以降のシークエンスがそれにあたり、「登場人物=スー」および彼女とニッキーの「混淆物」である「スー=ニッキー」に関連する事象を……つまり、「スミシーの家」の「内部」で起きる「事象」を描いていることになる。

もちろん、この二つの「視点」による両シークエンスで描かれている”具体的な「事象」”の間に「連動性」が存在しているわけではない。たとえば、「ニッキーを描く視点」のシークエンスで提示されている「照明係バッキー・ジェイ」のエピソードに対応したエピソードが、「Axxon N.」が発現した以降のシークエンスに存在していたりするわけではないのは明白だ。基本的に、この二つのシークエンスは「ニッキー」あるいは「スー(=ニッキー)」を描くものとして独立しているし、どちらがどちらに対して「優位」にあるわけでもない。敢えていえば、前者がどちらかといえば「外的な事象」であり、後者が「内的な事象」という言い方ができるかもしれないが、前者のパートにおいてもニッキーの「感情移入=同一化」が進むに連れて表現主義的な映像が頻出しているので、実際にはそうした単純な切り分けは無意味だし不可能である。最大の差異はといえば、前者が演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」を描く「映画を作ることの映画」のパートであるのに対して、後者はロスト・ガールの「感情移入=同一化」に関するシークエンスを内包する「映画を観ることの映画」としてのパートであることだろう。

なによりも、"「Axxon N.」の発現"は、「観るもの」と「観られるもの」の発生である。このシークエンスにおける「観られるもの」はニッキーであるわけだが、その一方で「観るもの」の具体的な「姿」がまったく現れないことは非常に示唆的だ。ここで発生した「観るもの」は「ニッキー=スー」という、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の結果として生まれたものであり、そして「感情移入=同一化」が形成されるのが「人間の内面」である。その限りにおいて、ニッキー=スーが「目に見えるもの」=「観られるもの」になることはあり得ない。ニッキー=スーが「観られるもの」に転じるのは、「スミシーの家」の実体化という「内面」が「外面」に転じるイベント以降であり、受容者=ロスト・ガールという究極の「観るもの」を得てのことである。このように、「インランド・エンパイア」は、「演技者の登場人物への『感情移入=同一化』」を経て、次に「受容者の『登場人物=演技者』への『感情移入=同一化』」へと、「観るもの」と「観られるもの」の関係をシフトさせていく。そして、この「関係のシフト」をつうじて構築されているものこそが、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」という「インランド・エンパイア」の基本構造なのである。

(この項、続く)

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