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2008年7月

2008年7月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (102)

このクソ暑いなか、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話は一層暑苦しく続くのであった。今回は、(0:33:51)から(0:36:25)までについてのアレコレやソレコレ。

さて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわれ」が明らかになり、撮影がまさに始まろうとしているこの瞬間、「インランド・エンパイア」は非常に表現主義的な映像に満ちたシークエンスを二連発する。ひとつは「ニッキーの屋敷」を舞台にしたシークエンスであり、もうひとつはどこにあるとも知れない「警察署」とおぼしき場所でのシークエンスだ。このように「ルック」としての場所は異なっているものの、基本的にこの二つのシークエンスは「インランド・エンパイア」が扱うモチーフやテーマの「ヴァリエーション」として現れており、いずれも演技者=ニッキーの「内的」なものとして理解が可能である。

まず、(0:33:51)から(0:34:19)までの「ニッキーの屋敷」におけるシークエンスをみてみよう。

ニッキーの屋敷 内部
ニッキー: (微笑みながら) What?
Zydowicz氏: [ポーランド語で] You didn't understand what I said?
ニッキー: (首を振って) Um, I don't understand.
Zydowicz氏: Mmm. You don't speak Polish.
ニッキー: No.
Zydowicz氏: [ポーランド語で] A half...
ピオトルケ: I-- I think she understands more than she lets in.
ニッキー: But I don't speak it too, so...

既に何度か触れたが、ここに表れているのは「成立しない会話」という、リンチが繰り返し提示する基本モチーフのヴァリエーションである。「インランド・エンパイア」に登場する同一モチーフによって表されるものをあわせて考えたとき、このシークエンスが表象していると捉えられるものには二つある。

ひとつは、「ニッキーの屋敷」の内部で発生している「機能しない家族」の事象である。これは演技者=ニッキーの個人的なものであり、夫(の抽象概念)であるピオトルケとの間に起きているものだ。このシークエンスにおけるニッキーとピオトルケは、明らかに「意思の疎通」を欠いている。それはまるでニッキーがZydowicz夫妻のポーランド語を理解できないのと同じように、だ。それにもかかわらず、ピオトルケは「彼女は自分が考えているよりも理解している」などという根拠のない発言をし、この意識の「擦れ違い」が「ニッキーの屋敷」で起きている「機能しない家族」の要因であることを提示している。ピオトルケとZydowicz氏はどちらもニッキーと「意思疎通」を欠いており、彼らと彼女との間に「一方的な関係」しか成立させられない点において「等価」なのだ。

もうひとつは、これまた演技者=ニッキーの内部で発生している「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への……というより登場人物=スーへの「感情移入=同一化」への予兆である。すでに「スタジオ4」での「読み合わせ」において、”1回目の「Axxon N.」”は発現しており、彼女はこの後、急激にスーへの「感情移入=同一化」を深化させていくことになるわけだ。その一方で、「インランド・エンパイア」において、「異国語」が「映像の言語」として表象されていることは「訪問者1」の「東欧訛り」などの緒例に表れているとおりで、ここでZydowicz氏が話す「ポーランド語」もその文脈上に捉えることが可能だろう。ニッキーとZydowicz氏の会話を字義的にみたとき、実は二人の間にコミュニケーションは「成立」している。ひとつめの事項とは矛盾しているようだが、「ニッキーがポーランド語を解さない」あるいは「しゃべれない」という一点において、二人の「意思」は「疎通」されているのだ……そう、ちょうど我々が、「映像の言語」を、通常の意味での「言語」に完全に置き換えられないのと同じように、ニッキーは「部分的(A half...)」にしか「ポーランド語」を理解できないのである。こうした表現から受け取ることができるものがあるとすれば、それは、演技者=ニッキーが自らの「感情=情緒の記憶」をもって登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を深化しはじめ、自分の「演技」をつうじて「シナリオの言語」を「映像の言語」へ置換し始めたことの示唆だ。

この「成立しない会話」のシークエンスは、上記の二点のイメージを内包しつつ、「夜空に浮かぶ月」のショットをブリッジにして、次の「警察署内部」のシークエンスへとイメージを連鎖させる。

この(0:34:24)から(0:36:25)のシークエンスには、非常に重要なものがいくつも内包されている。

まず、”「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開上の要請」”あるいは”女性たちが互いに抱く「悪意」”を表象する「スクリュー・ドライヴァー」の提示である。(後にドリスとわかる)女性の腹部に突き刺さったそれは、この後、ロスト・ガールやスー=ニッキーの腹部にも刺さることになるが、この時点ではまだそれはわからない。まず、ドリスがハッチンソン警部に向かって説明するのは、「誰かをスクリュー・ドライヴァーで殺せ」と命じられたということである。その命令を下したのが「ファントム」であることは、「ビリーの屋敷での修羅場」のシークエンス(1:54:03)において、このシークエンスにおける「背後を振り返るドリス」の映像のリフレインをキーにしつつ明示されるのだが、このシークエンスの段階ではまだそれもわからない。映像として確実に明示されているのは、ドリスが誰かを刺すために使われるはずの「スクリュー・ドライヴァー」が、今現在、彼女自身の腹部に突き刺さっているという一見矛盾した状況だけだ。だが、後に提示されるロスト・ガールやスー=ニッキーを含めた”「スクリュー・ドライヴァー」による死”をみれば、この現在の「ドリスの状況」がそれらの事象の端的な「略図」になっていることが明瞭に理解できるはずだ。彼女たちは「互いに傷つけあう存在」であり、相手が感じている「痛み」はそのまま自分が抱えている「痛み」と同じものであることが、このシークエンスにおける「ドリスの状況」によってあらかじめ宣言されているのである。

あわせて、ドリスに”「スクリュー・ドライヴァー」による「殺人」を命じた者”の存在も示唆される。これが「ファントム=映画の魔」であることは、同じく「ビリーの屋敷」における「修羅場」のシークエンスで映像として明示されるわけだが、このシークエンスにおいて明確にされているのは、彼が「コントロールを行なう存在」であることだ。そして、その「コントロール」が「hypnotize=催眠術=魅了」をつうじて行なわれることも同時に明らかにされる。また、冒頭「Openingからの侵入許可」を禿頭の老人に対して訴えていた「ファントム」がそれを許され、すでに「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込んでいることも同時に明示されているといえるだろう。

さて、しかし、ドリスの「誰を殺すかはそのうちわかると彼が言った(he said that I would know who it was)」という発言をみる限り、少なくともこのシークエンスの時点では、彼女はまだ「自分が誰を殺すのか」を理解していないようだ。これをニッキーの「内面」の反映として考えるなら、彼女の登場人物=スーへの「感情移入=同一化」が現在も形成中であることの表われであると理解できる。リンチ作品では、往々にして、このような「すり替え」を伴った「表現」が登場する。たとえば、「ロスト・ハイウェイ」における”闇の中に消えたフレッドを「レネエが探す」”シークエンス(0:36:43)や、「マルホランド・ドライブ」における”ブルー・ボックスを開封するのがベティ=ダイアンではなく、リタ=カミーラである”という表現(1:52:43)などにみられるように、「主体」となるべき登場人物からでなく、それと「対置」される人物の「視点」から「事象」が描かれるのだ。同様のことがこのシークエンスにおいても指摘でき、ニッキー(あるいはスー)のかわりに、ドリスを主体として「スクリュー・ドライヴァーによる女性間の相互関係」が描かれていることがみてとれる。このことは、仮にこのシークエンスが提示する「事象」に現われる人物をドリスではなくスー(あるいはニッキーあるいはロスト・ガール)に置き換えても、まったくその表象するところが変わらないことからも理解されるだろう。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」の例では、こうした「表現」は”「主体」となるべき「対象」(フレッドやベティ=ダイアン)の「消失」の強調”として機能している。それに対し、このシークエンスがニッキーではなくドリスを主体として描かれている理由は、この”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”が「抽象的なもの」であり「普遍的なもの」であることを強調するためだ。ドリス→ロスト・ガール→スー=ニッキーと”「スクリュー・ドライヴァー」に関する「事象」”に現われる登場人物が変遷することにより、この”「スクリュー・ドライヴァー」による死”というモチーフが、「機能しない家族」という普遍的なテーマの一部であることが明瞭になるのである。

同様に、”ニッキーの「内面」の反映”としてこのシークエンスを捉えた場合、舞台が「警察署」の内部であること、かつドリスが「警官」に向かって「告白」する形で事象が進行していることは、”「介入=コントロール」のイメージ”の表われとして非常にわかりやすいものであるといえる。すなわち、演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」はまだ「コントロール下」にあり、”時間や場所に対する「見当識」の失当”にまでは至っていないことの提示なわけだ。「介入/コントロール」が行われる場所として、この「警察署」は「Mr.Kのオフィス」と「等価」であり「対置」されるものと理解できるし、「ハッチンソン警部」は「介入/コントロール」を行う存在として「Mr.K」と「等価」であり「対置」されることになるだろう。

となると思い浮かぶのが、スー=ニッキーがMr.Kに話した「バルト地方の巡回サーカス」の行く末である。サーカス団員たちは酒場で乱闘を起こした結果、「ファントム」以外の全員が逮捕されて「警察署」に連行される(He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested...they take'em all down too the station)とスー=ニッキーは語る(1:46:54)。当然ながら、これは「ウサギ/老人」たちによる「介入/コントロール」が行われたことの表象であるわけだが、やはりここでも「警察署」が”「介入/コントロール」のイメージの表象”として登場しているのは明らかだ。と同時に、「サーカス団員」たちによる「乱闘」が「酒場(bar)」で行われていることも興味深い。ドリスもまたハッチンソン警部に向かって、「『ファントム』とは酒場で出会った( I saw him looking at me once when I-- when I looked around the bar)」と語る。また、スー=ニッキーはMr.Kに向かって、「酒を奢ってもらうために男たちといちゃいちゃしていた(I was screwing a couple guys for drinks)」と話す(1:13:11)。加えて、北米版DVDに映像特典として収録されている「More things that happened」には、ナスターシャ・キンスキーがニッキーに向かって「酒場で出会った男にビールを奢ってもらった」ことを話す未公開シーン(0:34:24)が収録されている。その未公開シーンにおいて、同時にキンスキーはその男と出会った結果として「時間および空間に対する見当識の失当に陥った」とも言及することから、彼女が出会ったのが「ファントム=映画の魔」であると考えておそらくは間違いない。これらの女性たちがすべて「ファントム=映画の魔」と「酒場」で出会っているとするなら、これは、はたして何を表わしているのか?

ここでまず思い起こさなければならないのは、エンド・ロールに現われるナスターシャ・キンスキーが、”「ハリウッド伝説」の一部”を表象していたことである。それを念頭においたとき、特典映像の未公開シーンが提示するのは、自身が「伝説化」する過程において、キンスキーは「ファントム=映画の魔」と出会っているということだ。”キンスキーと「並列」して長椅子に座るニッキー(あるいはローラ・ダーン)の映像”は、彼女もまた演技者として「ハリウッド伝説」化したという「表現」につながっていたわけだが、スー=ニッキー(あるいはローラ・ダーン)もまた、「ファントム=映画の魔」と”「スミシーの家」の隣家”において明瞭に遭遇していること(1:59:39)はいうまでもなく、それもキンスキーと同様にニッキーが「伝説化」するためには必然的な出来事であったわけである*。あらためて指摘するまでもないが、彼女たちと「ファントム=映画の魔」との「遭遇」によって表象されているのは、「作品」あるいは「自分が演じる登場人物」に対する彼女たちの「感情移入=同一化」が形成され、深化しているということだ。

興味深いのは、”「酒場(bar)」という「場所」によって表わされるもの”である。「インランド・エンパイア」が提示する「酒場」に関連した一連の「表現」をみる限りにおいて、そこは”「スミシーの家」の「裏庭」”と同じく、「公的なもの」と「私的なもの」が交錯するところであるように受け取れる。「サーカス」という「組織」に属する団員たちが出入りし、彼らが「幼児的な乱闘」を引き起こす一方で、スー=ニッキーは女性としての「セクシャリティ」を「酒」という「実利」に置換し、ついでに「機能しない家族」の「要因」をも手に入れる。また、ドリスとキンスキーはそこで出会った「ファントム=映画の魔」に「魅了」される。このように、「酒場」の内部で発生している「事象」もまた複合的であり、そこでは「インランド・エンパイア」が内包するいろいろなテーマが「交錯」しているのは明らかだ。しかし、たとえばスー=ニッキーが切り売りする「セクシャリティ」をキーにして考えたとき**、「酒場」が基本的に「ファントム」や「(ピオトルケを含む)サーカス団員」などの「男性」による「視点/価値」が主体になっている場所であると理解して差し支えないはずだ。だとすれば、同じく「公的なもの」と「私的なもの」が交錯する「場所」である「裏庭」との対比は明らかである。”「スミシーの家」の「裏庭」”における「事象」が「私的なもの=ホーム・パーティ」への「公的なもの=サーカス団員」の乱入という形で発生していることからも明らかなように、本来そこはスー=ニッキーの「私的なテリトリー」なのである。それに対し、基本的に「酒場」が「公的な場所」であることは間違いなく、ということは、”「女性のセクシャリティ」が切り売りされている場所”が”「公的」なイメージ”を付随させつつ描かれていることになる。

こうした「酒場」のイメージを端的に「縮図」として表わし、そうした「公的な場所」の「状況」に対するリンチの「視点」が明確に表われているのが、(2:12:05)からの「クラブ」の映像であるといえる。そこで踊る女性ダンサーが「女性としてのセクシャリティ」を切り売りし、利益に還元していることは明らかだ。そして、そこでスー=ニッキーの「友人」であるカロリーナが働いていることは……「セクシャリティを切り売りする仲間」が働いていることは、まったくもって当然である。以前、この”「クラブ」によって表象されるもの”のひとつとして、「メディア」そのものを挙げた。「メディア」としての「クラブ」が「セクシャリティの切り売り」によって成立しているという描写自体、”「ドロシー・ラムーアの星」の「引用」など”とあわせて、リンチの皮肉な「視点」を感じずにはいられない。だが、リンチの「視点」はそうした「フェミニズム的視野」の範疇に留まっていないのも、また確かなのである。たとえば、カロリーナによる「誘導」を得て「伝説化」へと向かうスー=ニッキーといった描写や、クラブの「女性ダンサー」と対置されるものである「バレリーナ」(2:50:07)といった表現をつうじて、「映画」というメディアにおけるセクシャリティの問題は、まったく正反対のポジティヴな方向からも同時に描かれている。その根底にあるのは、「ハリウッド」という「場所」とそこで作られてきた「伝説」に対する、あるいは「サーカス」という「メディアの原型」に対する、あるいは「いかがわしさ」をも内包した「映画の魔法」に対するリンチの「総合的な視野」であることは間違いないだろうと思う。

*このスー=ニッキーによる「ファントム」への「訪問」自体が、「訪問者2」による「クリンプという名の隣人を知っているか?(Do you know the man who lives next door? "Krimp" is the name.) 」という示唆(1:57:02)によって喚起されたものである。やはり「訪問者2」の言及は、(外部からの)「言説」として非常に正しいものであったことになる。

**キンスキーと「ファントム」の邂逅においても、「セクシャリティ」の介在は匂わせられている。

2008年7月22日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (101)

なんか、気がついたらこのブログのために書いた文章の容量が、テキスト・データで700KB越えてました。大体、普通の書籍一冊分が400~500KBなんで、「インランド・エンパイア」に関して書いた駄文だけ抜き出しても本一冊分ぐらいになっちゃってるわけですね。よくいえば「継続は力なり」なんですけど、ま、どっちかとゆーとヒマで物好きなだけですね、大山崎のバヤイ(笑)。

そんなこんなで続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。今回も前回と同じく(0:23:59)から(0:33:51)までのシークエンスがお題。

さて、「姿なき侵入者」に憮然とするデヴォンとニッキーに向かって、キングズレイとフレディは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「いわく」を説明し始める。

キングズレイ: (何事かを口の中でつぶやいたあと) ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS is, in fact, a remake.
デヴォン: It's a remake.
キングズレイ: (画面外から) Yeah.
デヴォン: I wouldn't do a remake.
キングズレイ: (画面外から) No, no, no, no, no. I know. Of course.
キングズレイ: But you didn't know. The original was a different name. It was started, but it was never finished.
キングズレイ: (画面外から) Now...Freddie's found out that our producers knew the history of this film and they have taken it on themselves not to pass on that information to us. Purposefully. Well, at least, not me, and I assume not the two of you.
キングズレイ: (画面外から) True?
ニッキー: No. Uh, absolutely. Nobody told me anything.
デヴォン:
No. Me, neither. Uh, I thought this was an original script.
キングズレイ: Yeah. Well.
キングズレイ: (画面外から) Anyway, the film was never finished.
キングズレイ: Something happened before the film was finished.
ニッキー: I-- I don't understand. Why wasn't it finished?
キングズレイ: (画面外から) Well, after the characters
キングズレイ: had been filming for some time... they discovered something...
キングズレイ: (画面外から) in-- in-- [sighs]
キングズレイ: something insi-- inside the story.
デヴォン: Please. Kingsley.
キングズレイ: The-- The two leads...were murdered. (笑う)
キングズレイ: (画面外から) It was based on a Polish gypsy folktale.
キングズレイ: The title in German was VIER SIEBEN-- Four Seven. And it was said to be cursed.

キングズレイが語るこれらの「いわく」とは、いったい何なのか……それについて述べる前に、まず指摘しておきたいのは、このキングズレイによる「言及」は、「訪問者1」による「言説」と対をなすものであると考えられることである。

もちろん、”1回目の「Axxon N.」の発現”において発生した二つの「視点」と同様、「訪問者1」による「言説」とキンズレイの「言及」の間に、「具体的な対応」があるわけではない。だが、両者が語ることは、どちらも「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する(そして、「映画」というメディアに関する)「言及/言説」であるという点で「共通」している。異なっているのは、「訪問者1」が作品製作の「外部」から「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」について言及しているのに対し、キングズレイが作品製作の「内部」からそれについて述べていることだ。両者の「言説/言及」が「対置関係」にあるのは、まさにこの点においてである。かつ、これまた「訪問者1」の「言説」と同様、キングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「半具象性」を備えた抽象的なものであり、そこで語られている「事象」を具象的に捉えることはできない。要するに、「訪問者1」が語る「残虐な殺人が関係している」などの言及と同じく、キングズレイによる「呪われている」とか「主役の男女が殺された」などという「言及」も語義どおりに受け取ることはできないわけだ。

たとえば、キングズレイが「4-7」を「ポーランドのジプシー民話に基づいていた(It was based on a Polish gypsy folktale)」と発言し、「ドイツ語」の作品タイトルに言及するとき、それが指すのは「インランド・エンパイア」に何度となく現れる「異言語性」による「表現」……つまり、”「訪問者1」の「東欧訛り」”や”「90歳の姪」が喋る「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice)」”が表象する「映像の言語」のことであり、また「ファントム=映画の魔」がドリスを「魅了」する際に唱える”「呪文」によって表象されるもの”と同義である。加えて、「ジプシー」に関する言及が、スー=ニッキーによってMr.Kに向かってなされていることにも留意したい。彼女は、ピオトルケが参加した「サーカス」について語る際、そこで働く者たちが「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」であると語る(1:46:08)。スー=ニッキーのこの言及は、他者の「感情」を操るものである”「ファントム=映画の魔」が付随させる「いかがわしい」イメージ”を評したものであるわけだ。であるなら、同じく「ジプシー」というキーワードが課せられる「4-7」にも同じ”「いかがわしい」イメージ”が付随させられ、それは「他者の感情を操作するもの」であることになる。「インランド・エンパイア」において、リンチが「映画」などのメディアの「原型」として「サーカス」を提示していることを考え合わせるなら、つまり、キングズレイがこの言及によって明らかにしているのは、「4-7」によって表わされるものが”「映画」というメディア「そのもの」”のことであり、「ジプシー民話」によって表象されるのは”「メディア」を介して伝えられる「物語」”のことに他ならない。また、「民話(folktale)」を「原型」と同義である捉えるなら、これは「古くからの話(Old Tale)」のことでもある……そう、「訪問者1」が自分の語る「言説」を「古くからの話(Old Tale)」と呼んだのと同じく、実はキングズレイの「ON HIGH」に関する「言及」も「古くからの話」であるのだ。

我々は、「インランド・エンパイア」の冒頭で、「映画」「ラジオ」「レコード」といったさまざまな「メディア」が提示されるのを観た。そして、「顔のない男女」によって”「機能しない家族」の「原型」”が提示されるのも目撃した。「Axxon N.」のことを「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ(Axxon N, the longest running radio play in history)」と「レコード」に録音されたナレーションは紹介するが、それは「映画」を含めた「メディア全般」によって延々と語られ続けるものである。そして、その「語られるもの=物語」の中には「機能しない家族」というテーマも含まれ、いろいろな「メディア」において、さまざまな作品の形で遥か昔から連綿と「提示されて続けてきた/提示され続けている」ことは間違いない。このように、”「メディア」を介して伝えられる「物語」”という「概念」自体が「古くからの話」なのである。

だが……もしそうならば、だ。多くの作品は、それ以前の作品の「ヴァリエーション」であり「リメイク」に他ならないのではないか? もちろん、これが非常に乱暴で大雑把な言い方であるのは承知している。しかし、「古典」が「古典」として現在においても存続している理由は、間違いなくそこにあるはずだ。我々=人間は「物語」を作り始め、あるいは受容し始めてから、そんなに変わっていない。人間が理解できる「論理」の「幅」は案外狭く、それはつまり、「ナラティヴなもの」の構成要素である「因果関係」が「有限」であることを意味している。かつ、我々が抱えている根源的な問題……たとえば「機能しない家族」といった問題が思い出せないくらい「古くからの話」であるなら、”何がそれを描いた「オリジナル」であるのか”という議論すら、おそらく成立しないだろう。そうした視点に基づくなら、デヴォンによる「リメイクには出ない(I wouldn't do a remake)」という「発言」は、非常に皮肉なものである。彼が露わにする「オリジナル信奉」は、明らかに「幻想」でしかないからだ。

さて、しかし、説明の順番が逆になったようだ。まず、「4-7」について言及するに先だって、キングズレイは「情報(information)」について、自らの思うところを述べる。

キングズレイ: (画面外から) Now, Freddie is purposefully out and about gathering what in this business is most valuable commodity-- information.
キングズレイ: Information is indispensable. You probably know this from your own lives. we all have people who gather-- agents, friends, producers. And sometimes they share. Sometimes not. Politics I don't know. Huh! Ego.(首筋を掻きながら) Fear.

彼の弁にしたがうなら、「情報」は「この商売ではもっとも貴重なもの」であり「なくてはならないもの」である。そして、彼は、「4-7」に関する「情報」をプロデューサーが故意に隠匿していると述べる。もちろん、実際にプロデューサーが監督であるギングズレイ以下のスタッフに「4-7」についての「情報」を意図的に隠したかどうか、「インランド・エンパイア」にはそれを明示的するような映像はまったく存在しないのだが、それはどうでもいい。ここで重要なのは、「情報」というものが、「政治的意図」のもとであれ、あるいは「エゴ」や「恐れ」からであれ、「意図的に隠匿され得る」ものであるということだ。なぜ、そんなことが起きるのか? もちろん個々の理由はさまざまだろう。だが、最大の理由は「情報」が「取り引き可能」な一種の「資本」であり、その集中は「権力の集中」と同義である。

……という観点に立ったとき、この「情報」に関するキングズレイの言及は二つのものを示唆することになる。ひとつは、キングズレイとフレディが「コントロールを受けるもの」であるという事実だ。当然ながら、これは「インランド・エンパイア」が後に言及する「動物」の「概念」、つまり「自律しながらも、より上位のものからのコントロールを受ける存在」につながるものであり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作において、キングズレイとフレディも”「動物」という概念が表すもの”に含まれるということを明示しているといえるだろう。興味深いのは、この「4-7」に関する「情報」をどこからか手に入れてきたのがフレディであることである。これは彼が後にニッキーとデヴォンに向かって「私は動物が好きだ(I've always loved animals)」と言及すること(0:39:27)と無関係ではないはずで、なおかつ彼が「Gable」という名の亡くなったスタッフの代役としてこの情報収集を行ったことが示唆されている。いずれにせよ、この後の描写をみても、フレディがいろいろな意味で「動物の扱いがうまい」ことは間違いなく、あるいはそれは自身が「動物」であることの自覚からくるものであることをうかがわせる。

もうひとつの示唆は、「映画」というメディアが抜き難く「工業製品」としての特性や、「集団作業」によって作られる「商品」であるという性格を備えていることである。そこでは経済的な「資本」と一緒に、「情報」という「資本」も同時に運用されることになることは自明だろう。もちろん、これらの事項は「映画」以外のメディアでも発生しうることではあるが、他のメディアに比べて格段に大きな資本投下が必要な「映像製作」において、こうした問題が占める比重が大きくなることもまた確かなのだ。こうした「映画製作」にまつわる「資本の問題」……正確にいうとそれを事由として受ける「作品内容のコントロール」がリンチにとって不本意なものであることは、「砂の惑星」のファイナル・カット権をめぐる経緯や、その後の「ブルー・ベルベット」製作に至るまでのリンチの動きを顧みれば明らかである。あるいはDVを使った「インランド・エンパイア」の製作や、その後の公開に向けて「ABSURDA」を設立した経緯にも、リンチの「映画」というメディアに対して感じている「不自由さ」は明瞭に表れている。以上のような事項を考慮したとき、「4-7」に掛けられた「呪い」とは、こうした”「映画製作」に関する「諸問題」”のリンチ流の「言い替え」なのではないかという可能性に行き当たる。

キングズレイは「4-7」の製作が中断され、完成しなかった理由を「完成前に何かが起こった(Something happened before the film was finished)」と語る。これもまた非常に漠然とした物言いだが、問題はその直後の彼の発言……「something insi-- inside the story」のほうだろう。キングズレイの話の文脈を優先して考えるなら、これは「『47』という映画の製作に関する内部事情(inside story)」のことを述べているように受け取れる。だが、このキングズレイの台詞を字義どおりに理解するなら、彼が言及しているのは「物語の内部(inside the story)」のことだ。続いて、キングズレイは「主人公の二人が殺された(The-- The two leads...were murdered)」と語るが、さて、この「殺人」は「4-7」の製作時に発生した「内部事情(inside story)」のことであるのか、それとも「物語の中(inside of the story)」でのことなのか? もし、この一連のキングズレイの発言も複合的なものであるのなら、これもまた「混乱」を引き起こすための周到な「仕掛け」であるといえるだろう。我々=受容者は、この時点で「現実」と「(作品内)現実」と「(作品内(作品内))現実」の見分けを失い、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」の中に取り込まれてしまう。この後、「インランド・エンパイア」はさまざまな「感情移入=同一化」を描き、その果てに存在する「見当識の失当」を提示するが、それはもうこの段階で始まっており、我々=受容者をもそのなかに巻き込んでいくのである。

2008年7月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (100)

えー、Linux用3号機を手に入れ、現在仕込み中の大山崎でございます。今度の機械も7年落ちだから、さては、まったく懲りてねえな(笑)。とりあえず動作確認をしようと、CDからブート……したら、いきなり「IRQ#15 Dsiabled」とか出てきて途中でハングしやがるのよ。ななな、なんだンねン……と、思わず「芦屋雁之助」化する大山崎(笑)。いきなり壊れたわけ? と青くなりつついろいろ調べたところ、どうやら故障とかじゃなくてこの機種特有の問題らしいことが判明。ブート・オプションをつけて再度トライ。今度は無事に立ち上がっていただけまして、メデタシメデタシ。まだ完全にセッティングは終わってませんが、んなこんなを経て、現在、3号機でこの文章を書いております。

閑話休題、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」であったりする。今回は(0:23:59)から(0:33:51)までを追いかけてみることにする。

「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のプリ・プロダクション期に関する事項は終わり、このあたりから撮影を含めた「製作(プロダクション)期間」に発生する事象についてのシークエンスが提示され始める。言葉をかえれば、これからしばらくの間、「インランド・エンパイア」は「映画を作ることの映画」であるということだ。

と同時に、このシークエンスあたりから、リンチ作品特有の「表現主義的な描写」や「半具象性」が、その存在を明瞭に主張し始める。

たとえば、このシークエンスにおいて、初めて「スミシーの家」が姿を現す。とはいえ、デヴォンがニッキーに説明するとおり「スミシーの家」のセットはまだ作られている最中である。木の板に遮られ帆布に覆われて、ステージ内の薄闇に沈む「スミシーの家」の「全貌」は、まったく明瞭ではない。ここで映像として提示される「スミシーの家」のセットは、まるで「人間の内面」のように外から中を伺えない状態であり、そのままリンチの言う「何かよくないことが起きる場所」としての「家」の体現化であるといえるだろう。「インランド・エンパイア」において、「スミシーの家」は第一義的には登場人物=スーの「内面」である。と同時に、演技者=ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」が深化することによってニッキーにも「共有」され、"1回目の「Axxon N.」の発現"以降は両者の「混淆物」である”スー=ニッキー”の「内面」となるとともに、「実際の家」として「実体化/具現化」する(1:03:40)。

だが、現在のシークエンスの段階において、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」はまだほとんど形成されておらず、「内面の共有」など存在すら覚束ない状態である。建造途中の「スミシーの家」のセットが表象しているのは、今現在のニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状態……つまりは彼女の「内面」にあるものだ。ニッキーの「スーという登場人物」に対する理解が「漠然」としたものに留まり、まだ「感情移入=同一化」の形成にまで至っていない限り、「スミシーの家」は「雑然」とした「構築途中」のものでしかない。「インランド・エンパイア」が提示する「スミシーの家」に関する「映像表現」は、リンチ特有の究めて表現主義的な発想に基づくものであるわけだが、それはこのシークエンスにおける”建造途中の「スミシーの家」”の描写からすでに始まっているのだ。

しかし、”ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の状況は、(0:27:00)からのニッキーとデヴォンによる「シナリオの読み合わせ」が始まった途端、それこそあっという間に激変する。キングズレイが言うように、それこそ軽いラン・スルーであったはずのこの「読み合わせ」において(this is just a rough run-through, so don't... be hard on yourself)、いきなりニッキーは「演技者としての高い能力」を発揮するのだ。そして、彼女のほほを伝う「涙」が示唆するように、ニッキーの「演技能力」を成立させているのは、彼女の「感情移入能力」に他ならないのである。

さて、ここで、いくつかの「疑問」……というより、「思い付き」が浮上する。「読み合わせ」から続く「姿なき侵入者」のシークエンスが、(1:00:00)からの"1回目の「Axxon N.」の発現"のシークエンスと「対応」するものであるのは、間違いないところだろう。たとえば(1:01:57)のショットは明確に「読み合わせ」中のニッキーたちの映像であるし、その後、デヴォンが「姿なき侵入者」を確認に行き、「スミシーの家」の内部を窓越しにうかがうシークエンスは(当然、「内部=内面」は見えない)、明らかに(1:04:06)あたりのシークエンスに対応している。それを前提にするなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"を喚起したものは、実はこの「読み合わせ」において発揮された演技者=ニッキーの高い「感情移入=同一化の能力」に他ならないのではないか……というのが、まず第一の疑問である。なによりも、「インランド・エンパイア」の作中、三回にわたって発現する「Axxon N.」が"演技者=ニッキーの登場人物=スーへの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体"と関連していることは、繰り返し述べてきたとおりだ。その限りにおいて、このシークエンスで提示されるニッキーの「演技者としての能力=感情移入能力」は、「Axxon N.」およびそれに関連する事象に、ダイレクトに関係するものであるはずだ。

次に気になるのは、この「対応」する「姿なき侵入者」と"1回目の「Axxon N.」の発現"の二つのシークエンスが、「同時性」を備えているのかどうかという点である。ひらたくいえば、現在論じている「姿なき侵入者」のシークエンスと、"1回目の「Axxon N.」の発現"を描いた(1:00:00)からのシークエンスは、「同一」の「事象」を異なった「視点」で描いたものであるか否か……ということだ。その妥当性はともかくとして、この可能性は「インランド・エンパイア」の作品構造について、また異なった方向からの光を投げかける。この考えに沿うなら、"1回目の「Axxon N.」の発現"の際に発生した「視線の交換」をキー・ポイントにして、「インランド・エンパイア」は二種類の「視点」を発生させていることになる。「視点」のひとつは、もちろん現在論じているシークエンスの(0:27:00)から(1:00:00)までがそれであり、「演技者=ニッキー」に関連する「事象」を……「スミシーの家」の「外」の事象を描いている。もう片方の「視点」は(1:03:40)の「スミシーの家の「実体化/具現化」」以降のシークエンスがそれにあたり、「登場人物=スー」および彼女とニッキーの「混淆物」である「スー=ニッキー」に関連する事象を……つまり、「スミシーの家」の「内部」で起きる「事象」を描いていることになる。

もちろん、この二つの「視点」による両シークエンスで描かれている”具体的な「事象」”の間に「連動性」が存在しているわけではない。たとえば、「ニッキーを描く視点」のシークエンスで提示されている「照明係バッキー・ジェイ」のエピソードに対応したエピソードが、「Axxon N.」が発現した以降のシークエンスに存在していたりするわけではないのは明白だ。基本的に、この二つのシークエンスは「ニッキー」あるいは「スー(=ニッキー)」を描くものとして独立しているし、どちらがどちらに対して「優位」にあるわけでもない。敢えていえば、前者がどちらかといえば「外的な事象」であり、後者が「内的な事象」という言い方ができるかもしれないが、前者のパートにおいてもニッキーの「感情移入=同一化」が進むに連れて表現主義的な映像が頻出しているので、実際にはそうした単純な切り分けは無意味だし不可能である。最大の差異はといえば、前者が演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」を描く「映画を作ることの映画」のパートであるのに対して、後者はロスト・ガールの「感情移入=同一化」に関するシークエンスを内包する「映画を観ることの映画」としてのパートであることだろう。

なによりも、"「Axxon N.」の発現"は、「観るもの」と「観られるもの」の発生である。このシークエンスにおける「観られるもの」はニッキーであるわけだが、その一方で「観るもの」の具体的な「姿」がまったく現れないことは非常に示唆的だ。ここで発生した「観るもの」は「ニッキー=スー」という、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の結果として生まれたものであり、そして「感情移入=同一化」が形成されるのが「人間の内面」である。その限りにおいて、ニッキー=スーが「目に見えるもの」=「観られるもの」になることはあり得ない。ニッキー=スーが「観られるもの」に転じるのは、「スミシーの家」の実体化という「内面」が「外面」に転じるイベント以降であり、受容者=ロスト・ガールという究極の「観るもの」を得てのことである。このように、「インランド・エンパイア」は、「演技者の登場人物への『感情移入=同一化』」を経て、次に「受容者の『登場人物=演技者』への『感情移入=同一化』」へと、「観るもの」と「観られるもの」の関係をシフトさせていく。そして、この「関係のシフト」をつうじて構築されているものこそが、「受容者=登場人物=演技者」の「ネスティング」という「インランド・エンパイア」の基本構造なのである。

(この項、続く)

2008年7月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (99)

今回の「インランド・エンパイア」話は、ちょいと趣向を変えて、「マリリン・レーヴェンス」の原型となったのかもしれない二人の女性芸能ゴシップ・コラムニストについて、ぶっ書いてみる。一人はルエラ・パーソンズ(Louella Parsons)、そしてもう一人はヘッダ・ホッパー (Hedda Hopper)である。

Parsons ルエラ・パーソンズは1881年8月、イリノイ州生まれ。1910年ごろからの「シカゴ・トリビューン」紙の記者や映画会社とのシナリオの仕事を皮切りに、1914年には「シカゴ・レコード-ヘラルド(Chicago Record-Herald)」紙に映画関係の芸能記者として自分を売り込み、雇われる。当時はまだ、いわゆる「ザ・トラスト」の流れをくむ映画会社による東海岸での映画製作が続いており、シカゴでも「ザ・トラスト」の特許の縛りから逃れた独立系の映画製作会社が存在していた。それと並行してハリウッドでの映画製作が1907年から始まっており、そのためニュー・ヨークとロスアンジェルス間で映画スターの行き来が発生していた。その際、汽車は経由地であるシカゴで2時間停車する。そこを狙って移動中の映画スターからインタビューを取る……というのがパーソンズのアイデアであり、それが認められての採用であったらしい。こうして、世界最初の「映画コラムニスト」が誕生する。

ところが、1918年、突然「シカゴ・レコード-ヘラルド」紙は買収され、彼女はそこでの仕事を失ってしまう。このときの買収したのが新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)であり、彼女は東海岸に移り、「ニュー・ヨーク・モーニング・テレグラフ(New York Morning Telegraph)」紙でシカゴ時代と同様の映画コラムを書くことになった。ニュー・ヨークでの仕事を続けていたパーソンズは、1923年、大きなチャンスを得る。彼女の書いたコラムがハーストの目に止まり、抜擢を受けた彼女は好条件で雇われ、ハースト傘下の「ニュー・ヨーク・アメリカン(New York American)」紙で映画コラムを書くことになったのである。

1925年、結核を患ったパーソンズは、療養のためにアリゾナ州を経てカリフォルニア州パーム・スプリングスへ転地したが、これが新しい転機となった。翌年、回復した彼女はニュー・ヨークでの仕事への復帰をハーストに申し出るが、それに対して彼はこう答える……「いまや映画産業の中心はハリウッドだ。そこが君の留まるべき場所だと思う」。映画産業の興隆は西海岸を中心にして続いていくだろうこと、そこで作られる映画作品が今後大きな文化的影響力を持つであろうこと……つまりは「ハリウッドがネタとして美味しいこと」*に彼らは気づいていたのである。西海岸に活動拠点を移したパーソンズに、ハーストは大きなプレゼントを用意した。彼女の書いた芸能記事が、全米400紙以上の新聞に配信されることになったのだ。このコラムを武器に、パーソンズはハリウッドでの影響力を高めていく。

1928年、パーソンズはコラム執筆のかたわら、ラジオで芸能インタビュー番組を担当し始める。だが、番組は短命で終わり、その後も何度か番組を担当したものの、初めて大きな人気になったのは、1934年から始まった「ハリウッド・ホテル(Hollywood Hotel)」という番組だった。番組の中では出演した映画スターがこれから公開される映画の宣伝として、台本の一部を読み上げるというコーナーがあり、いわゆる映画の「スニーク・プレヴュー(sneak preview)」というコンセプトを初めて採用したのは、この番組が最初である。

パーソンズは芸能コラムニストとして不動の座を維持し続け、1964年に引退するまで、ハリウッドに対して大きな影響力を発揮した。ときとして彼女が「記事にしないこと」は「記事に書くこと」と同じくらい重要であり、さまざま思惑のもとにさまざまな情報が彼女の元に集まった。その調査力は多くのアシスタントによるものだったが、ハリウッドのあらゆる所に多くの「情報提供者」を直接抱えてもいたらしい。嘘か本当かわからないが、ある女優が妊娠していることを当の本人よりも先に知っていたなどという話もあるぐらいだから恐るべしである。だが、彼女の書く記事はしばしば「事実」と「虚構」の混淆物であり、純然たる「報道」であるとは限らなかったらしい。

しかし、今なお語り草となっているのは、彼女と、同じく芸能コラムニストだったヘッダ・ホッパーとの間の「確執」だ。

Hedda ヘッダ・ホッパーは1885年3月、ペンシルヴァニア州生まれ。劇団のコーラス・ガールを経て、俳優だった夫とともに1915年にハリウッドに移住する。「Battle of Hearts」(1916)で映画デヴューした後、1930年代半ばまでに端役として100本を越えるサイレント映画に出演したが、基本的にずーっと鳴かず飛ばず。何か他の収入源を探していた彼女に芸能コラムニストの話が舞い込み、執筆を開始したのが1937年、50歳を越えてからの転身だったということになる。

皮肉なことに、ホッパーが芸能コラムニストとしてデヴューするにあたっては、ルエラ・パーソンズの助けがあった。彼女をウィリアム・ランドルフ・ハーストに紹介したのは他ならぬパーソンズであり、彼の伝手でホッパーは「ワシントン・タイムズ-ヘラルド(Washington Times-Herald)」紙の芸能コラムニストの職を手に入れる。これで終われば単なる「いい話」なのだが、その後、「ワシントン・タイムズ-ヘラルド」紙が「ロスアンジェルス・タイムズ(Los Angeles Times)」紙に買収され、ホッパーの記事が全国配信されるようになったころから話はヤヤこしくなった。そもそも生来のゴシップ収集能力を買われて芸能コラムニストに転身したホッパーのこと、ハリウッドの映画業界を舞台に、彼女とルエラ・パーソンズとの間で文字どおり「抜きつ抜かれつ」の「スッパ抜き合戦」が始まってしまったのだ。当然ながら、パーソンズにとって、ホッパーは「縄張荒し」以外のなにものでもなかったわけである。

ホッパーのトレード・マークとなったのは、写真でも被っているような派手な「帽子」だった。芸能コラムニストとして後発だった自分を目立たせるためのパフォーマンスであったのか、あるいは女優だった頃からのナチュラルな好みだったのか、ちょっとわからない。が、自伝のタイトルが「From Under My Hat」だったりするところをみると、こうした「外見上の差異」をセールス・ポイントとして意識していたことは間違いないだろう。一応はジャーナリスト出身であり、対称的に地味な服装でとおしたルエラ・パーソンズとしては、こうしたホッパーのパフォーマンス自体が目障りだったかもしれない。

こうした出自の違いは執筆スタイルにも表れていて、正直な話、パーソンズと比べてホッパーはあまり文章が堪能だったわけでないようだ……というより、本人はスペルや文法すら怪しかったという説があるくらいで、口述筆記を行い、何人かのゴースト・ライターがリライトして仕上げた記事をチェックするというのが、ホッパーの記事作成手順だった。「シナリオ作成術」に関する著作もあるパーソンズとは、このあたりも好対称であったといえるだろう。ホッパーの筆は辛辣であり、自分が気に入らないスターに関しては、記事でケチョンケチョンにけなしたが、さて、これも「口述筆記」による「口の勢い」だったのかどうか。「鳴かず飛ばずの女優だったホッパーの、スターに対するルサンチマンの表れ」という見方もあるが、真相はなんともである。ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)などの政治家や、FBI長官のエドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)ともコネクションがあり、それを取材活動に活用するとともに、逆にマッカーシーの「赤狩り」が映画業界に対し行われた際には、その対象となる映画関係者のリスト・アップを行って彼に協力したという話もある。

1939年11月からCBSで始まった「The Hedda Hopper Show」を皮切りに、ホッパーもパーソンズと同じくラジオでの芸能ゴシップ番組を担当するようになる。さまざまなラジオ局でいろいろな番組を担当した後、テレビにも進出し、1960年1月には「Hedda Hopper's Hollywood」というスペシャル番組がNBCでオン・エアされた。この番組にはホッパーの親友だったルシル・ボール(Lucille Ball)をはじめ、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)などの過去のスターを含む多彩なゲストが出演した。

1966年に肺炎で死去する直前まで、ヘッダは「シカゴ・トリビューン」系列の各紙や映画情報誌にコラムを書きつづけた。

……とまあ、この二人がハリウッド黄金期における「芸能ゴシップ・コラムニスト」の二大巨頭であったわけだが、彼女たちが「ポジティヴなもの/ネガティヴなもの」を全部ひっくるめた「ハリウッド伝説」の成立に直接的間接的に寄与したこと、ひいてはリンチのスタンディング・ポイントである50年代アメリカの文化的/社会的状況のある面を形成する一端として機能したことは間違いないだろう。面白いのは、ハーストがオーソン・ウェルズの「市民ケーン」(1941)の公開を阻止しようとした際には、当然ながらパーソンズもホッパーもそれに加担する記事を書いたことだ。彼女たちの間に横たわる確執や差異はともかくとして、その行動原理が基本的に同じものであったことは、このことからも明らかである。

もし本当に「マリリン・レーヴェンスのモデル」としてリンチが彼女たちを意識したのだとしたら、ウェイト的に高いのは、どちらかというとヘッダ・ホッパーのほうではないだろうか……と個人的には思う。テレビ番組のホストをつとめたのもさることながら、実はホッパーはリンチのフェイヴァリット作品である「サンセット大通り」(1950)に、セシル・B・デミルとならんで本人役で出演しているのだ。ホッパーの出演シーンは終盤近く、ギリスの死体が運び出された直後のデズモンド邸で一人の警官が電話を掛けようとすると、誰かが先に別の電話機で回線を使っていてつながらない。警官は「誰が電話を使っているんだ?」と受話器に向かって怒鳴るが、そのとき先に電話を使っていたのがホッパーだ。彼女は「こっちの話の方が重要だから、そっちが切れ」と強引に主張して逆に警官に電話を切らせ、「タイムズ」へ電話送稿を続けるのである……どういう手を使って入り込んだのかはわからないが、警官で一杯のノーマ・デズモンドの寝室から。いや、ホントに取材中にそーゆーことをやってたんだろうな、と思わせるエピソードではある。いずれにせよ、こういう芸能記者に目を付けられたのではニッキーもたまったもんじゃなく、デヴォンがマリリンを挑発するに至っては「ナニすんだよ、ヲイ」な感じだったであろうことは想像に難くない。

当然ながら、二人ともHollywood Walk of Fameに「星」を残している。ヘッダ・ホッパーの「星」は「6313 1/2 Hollywood Blvd.」にあり、一方のルエラ・パーソンズには二つの「星」がある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6300 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画界での業績に対して(6418 Hollywood Blvd.)である。


*
実際、1921年に起きた喜劇俳優のロスコー・アーバックルによる女優暴行殺人事件(裁判では「事故」ということで決着がついた)を始めとして、20年代のハリウッドではさまざまな「醜聞事件」が頻発した。ルエラ・パーソンズたちにとっては「美味しいネタ」であったわけだが、相継ぐ不祥事を起こす映画業界に対する世間の非難が高まり、それは以前からあった宗教界や政界からの「映画の作品内容」への批判を激化させる「引き金」となった。対抗手段として映画産業は作品の「自主検閲」を強め、最終的にこの流れはいわゆる「ヘイズ・コード」と呼ばれる「映画製作倫理規定」の制定と、その厳格な運用につながっていくことになる。

2008年7月12日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (98)

うおお、暑いぞ。というわけで、外出する気分にもなれず、クーラーが入った部屋に引き篭ってビールを飲みつつ書きなぐる「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きであったりする。いやあ、やっぱ昼から飲むビールがうまいのう。メタボ一直線だのう。

この後、「インランド・エンパイア」はしばらくの間、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品の「プリ・プロダクション期間」における事象を提示する。タイム・スタンプでいうなら、(0:19:13)から(0:23:59)までの間がそれにあたる。そこで描かれているものは、「映画スタッフの顔合せ」であったり、「テレビ」のトークショーでの紹介であったりで様々だ。だが、そのいずれのシークエンスにおいても、「インランド・エンパイア」が内包するいろいろな「もの」が表出している。

これらの事象を表す映像に先立ち、以下のような映像が提示される。

ハリウッド 屋外 (0:19:13)
ロング・ショット。「HOLLYWOOD」のサインの遠景。ズーム・アウトしながら、下方にパンして、灰色の屋根に白い壁の建物と、その壁に大きく書かれた「ステージ32」の表示を映し出す。

いうまでもなく、このショットは「エスタブリッシュメント・ショット」として機能している。これから提示される「場所」が「ハリウッド」であることはもちろん、題材とされている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がハリウッド映画であることや、演技者=ニッキーが「ハリウッド伝説化」することまでを全部合わせて我々=「インランド・エンパイア」の受容者に向けて説明しているわけだ。なおかつ、直後に提示されるシークエンスの舞台が、下方にパンした後の「建物」の……「ステージ32」の「内部」であることまでを説明して、このショットは終わる。

続いて提示される(0:19:23)-(0:20:36)のシークエンスも、基本的に我々=受容者のための「説明」のためのものであることは明白だ。そこでは演技者であるニッキーやデヴォンだけでなく、監督のキングズレイなどのスタッフについての「説明」もなされる。だが、「受容者に対する説明=エスタブリッシュメント・ショット」という視点からみたとき、このシークエンスの映像は少しおかしい。というのは、そこにはニッキーとデヴォンとキングズレイの「位置関係」を「説明」するショットが欠落しているのだ。かろうじて「説明的」に機能しているのは(0:19:30)のミドル・ショットだけだが、そこにはニッキーの姿はない。明らかに「視線」を交換しているはずのニッキーとデヴォンのツー・ショットすら存在せず、結果として、このシークエンスにおけるニッキーの正確な位置は明らかにされないまま終わってしまう。おそらくは、キングズレイの「視線」の方向にニッキーがいるのであろうという推測はできるが、それを裏付ける映像は完全に欠落している。普通に考えて、これは矛盾している。「インランド・エンパイア」全体をマクロにみれば、このシークエンスがデヴォンとキングズレイたちといった主要登場人物の紹介という重大な機能を果たしているのにもかかわらず、このシークエンス「自体」の説明というミクロな機能を果たせていないのだから。

なぜこのような「カッティング=表現」がされているかについては、いろいろな考え方ができるように思う。たとえば、「ハリウッド」におけるニッキーの演技者としての「位置」の不確かさや、まだ顔合わせをしたばかりで「分断」された状態のスタッフ/演技者の関係性など、この「曖昧さ」を伴った「表現」の解釈として思いつくものは様々にある。特に前者に関しては、これから展開されるのが「ニッキーの伝説化」である以上、あるいは必然的なものであるといえるはずだ。だが、より重要なのは、極論すればニッキーが同じ部屋の中にキングズレイやデヴォンたちと一緒にいるのかどうか、それすら映像的には保証されていないという「事実」であり、そういう「表現」が採用されているいうことである。これがどういうことであるかについては、後ほどもう一度触れよう。

「歓声と拍手」をサウンド・ブリッジとして続く「マリリン・レーヴェンス・ショー(The Marilyn Levens Starlight Celebrity Show)」のシークエンス(0:20:36)-(0:22:19)には、多くのものが内包されている。まず確実にいえるのは、これば「テレビ」というメディアの表象であるということだ。「映画」およびその周辺に関連するものの情報が、「テレビ」という類似/対抗メディアによって伝えられるという状況が、まず提示される。ロスト・ガールが「モニタ」で観ている「ノイズ」に、このショーの映像が内報されているかどうかは微妙なところだが、過去何度か触れたように、ニッキーやデヴォンという「演技者個人」に対する「関心」が、結果的に「感情移入=同一化」に連結されることは見逃してはならないだろう。

そして、そこで提示される「話題」は、ある意味でニッキーにとって新たな「トラブル=機能しない家族」の発生であるという側面を持つ。マリリンによって挑発的にデヴォンとの間を問われること自体が、演技者=ニッキーにとって本意でないのは彼女の様子をみても明らかだ。たとえば、ドロシー・ラムーアがそれまでの自分のイメージを変えるためにサロンを焼くパフォーマンスを必要だった事実の根底には、受容者を含めた周辺がそうした情報を求め(正確性は問題ではない)、メディアが乗るという構造が存在していたことは間違いない。誰かの「イメージ」は、ときとして、本人の意志とは関係なく第三者によって作られる。ショーのアナウンサーが「言及」するように、(「スターが夢を作る」のと同時に)「夢がスターを作る(dreams make stars)」のである。ドロシー・ラムーア自身の「イメージ」がその出世作での役柄の「イメージ」によって「規定」されたように、「ニッキーとデヴォン」との関係がマリリンの言動によって「規定」されようとしているのだ。おそらく、「マリリン・レーヴェンス・ショー」を観た視聴者の何割かは、「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として理解したはずである。こうした意思に反した「セクシャリティ」の「切り売り」は、ニッキーにとって「自らの意思が反映できない一方的な関係」であることは間違いない。ニッキーにとっては、これは広範な意味での”「娼婦」と「客」の関係”の強要である。

だが、では、我々は……「インランド・エンパイア」を受容している「我々」はどうなのだろう? 

この後のシークエンスを綿密にみれば明白なのだが、「スーとビリーの不倫」を表す映像は間違いなく存在するものの、「ニッキーとデヴォンの不倫」を表す具体的かつ明瞭な映像は、実は「インランド・エンパイア」のどこにも存在しない。たとえばニッキーとデヴォンはイタリア料理レストランでの食事の約束をするが(0:51:04)、食事の後に何が起きたかの映像はもちろん、食事をする場面の映像すら欠落している。本当に二人が食事に行ったのかさえ、我々には確認不能なのだ。(0:56:20)からのシークエンスに至っては、デヴォンは一貫して自分が「ビリー」を演じているという認識であることが伺え、あまつさえその「場所」は「スミシーの家」のベッド・ルームであることを考えると、この「映像」を100パーセント「作品内現実」のものとして捉えることは不可能だ。このように、ニッキーとデヴォンの間になんらかの”関係”が発生していたのか、いなかったのか、映像上はまるで定かではないのである……そう、ちょうど、「ステージ32」の中の部屋にニッキーがいるかどうかも定かでないのと同じように。

にもかかわらず、多くの映画評が「女優のニッキーがリメイク映画の撮影をしているうち、演じる役と同様に共演者と不倫関係に陥っていく」という配給会社が出した「内容紹介」を検証もせずに引用し、かつ多くの受容者が「ニッキーとデヴォンの不倫」を「既定事実」として受け止めてしまっている状況は、「マリリン・レーヴェンス・ショー」が表すものとの対比において実に興味深い。マリリン・レーヴェンスによる「仄めかし」や「虚言」を彼女の番組の視聴者たちが「既定事実」として受け取るのとまったく同じように、「インランド・エンパイア」の受容者である我々は「ニッキーとデヴォンの不倫」を「作品内の既定事実」であると思い込むのだ。我々にとっての「事実」とは、ときとして、我々が「事実」と思い込みたい「錯誤」のことである。そうした我々自身の「認識の構造」を、「インランド・エンパイア」はさまざまなレベルで我々に向かって突き付ける……すなわち、「マリリン・レーヴェンス・ショー」のシークエンスそのものと、作品が内包する「表現」自体との、「合わせ技」でもって。

そして、我々=受容者がここで「『インランド・エンパイア』についての事実」と思いたい「もの」の一部には、「マリリン・レーヴェンス・ショー」で顕在化した「セクシャリティ」の問題も絡んでいる。「マリリン・レーベンス・ショー」の視聴者と同じく、我々はニッキーにデヴォンと不倫して「欲しい」と思い、それを「当然」だと思っているのだ*。この構造は、当時の受容者がドロシー・ラムーアに「サロン」を着て「欲しい」と思っていたのと、まったく同じである。映画館の安全な暗闇のなかから、あるいは回りに誰もいない自室で、我々は「スクリーン」や「モニタ」に映し出された”ローラ・ダーンとジャスティン・セロー”による「セクシャリティ」の切り売りを「窃視」する。「感情移入=同一化」の問題をはじめとして、「インランド・エンパイア」で描かれている多くの事象がその受容者である我々に直接跳ね返ってくるものだが、この「セクシャリティ」の問題もまた例外ではないのである。

「セクシャリティ」の問題は、収録終了後の控え室(0:22:19)-(0:23:24)においても継続する。デヴォンとマネージャーとの会話は明白に「セクシャリティ」の問題についての事項であるし、運転手による「でも、確かにいいケツしてるよな(Your gotta admit, though, she's got a nice ass)」という発言が、それを明確にしている。当然ながら、これも「ニッキーの意思の反映」ではない。かつ、このシークエンスにおいてニッキーの「夫」のことについても言及され、彼が「監視/干渉」のイメージを付随させ、場合によれば「懲罰を下す存在」であることについても明らかにされる。

「デヴォンとの仲」を匂わせる(というより喧伝する)マリリンの言動は、ニッキーにとって、すでに存在する「トラブル」を……夫=ピオトルケによる「監視/干渉」をエスカレーションさせるものでしかない。これもまた「ニッキーの意思の反映」ではないのは明らかだが、帰宅する彼女を待ち受けるのはエスカレートした「トラブル=機能しない家族」であることを、ニッキーは認識している。その状況を表すのが、帰宅するニッキーのシークエンス(0:23:24)-(0:23:59)である。「友人の乗った自動車が走り出すのも待たず、ニッキーが戸口に向かうこと」や、「彼女が玄関の前でしばし躊躇い立ち止まる様子」、そして「屋敷に入る際の彼女の表情が逆光になったライティングのためによくわからないこと」などが、彼女の「内面」にあるものを映像として伝えているといえるだろう。その後、実際に「ニッキーの屋敷」の内部でどのようなことが起きたかのか。それは形を変えて、別のシークエンスにおいて提示されることになる。

*もちろん、「ニッキーとデヴォンの不倫」が「事実」であったほうが、「ナラティヴ(物語)」上もわかりやすいという理由もある。だが、いずれにせよ、これまでもみてきたように、「非ナラティヴ」な作品である「インランド・エンパイア」がそうしたアプローチによる理解を許さないのは明白である。

2008年7月10日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (97)

Linux1号機がオシャカになってから、Linux2号機を書き物用に使用しておりますんですが、この機体は発熱がすごくて冬場はカイロ代りになっておヨロシイんですけど、これからの季節はちょとツライもんがあるのだな(笑)。てなわけで、代替機を探しつつ「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。今回は(0:18:14)から(0:19:13)まで。 

……といいながら、その直前のシークエンスの最後の「映像」から、具体的に追いかけてみることにする。 

ニッキーの屋敷の内部 (0:17:46)-(0:18:14)
(1)半ば画面右を向いた「訪問者1」のアップ。目だけはニッキーの方をうかがっている。
訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there. 微笑みともつかぬ表情を浮かべつつ、台詞とともに画面右の方向を向く「訪問者1」。
(2)「訪問者1」の主観ショット。人差指で部屋の向かい側にある長椅子を指差している「訪問者1」の右手。
(3)ニッキーのアップ。口を半ば開け、いぶかしさと恐れが混じったような表情を浮かべている。目だけを「訪問者1」に向けたまま、画面左の長椅子のある方向に頭を巡らせるニッキー。
(4)ニッキーの主観ショット。長椅子の方を見ている「訪問者1」のアップ。
(5)ニッキーのアップ。長椅子の方向からのショット。ゆっくりと頭を巡らし、それとともに視線を「訪問者1」から長椅子の方に向けるニッキー。
訪問者1: (画面外から)Do you see? 

ニッキーの屋敷の内部 (0:18:14)-(00:19:13)
(6)ミドル・ショット。カット(5)でニッキーが座っていると思われる方向からのショット。ニッキーと二人の友人が長椅子に座って、話し込んでいる。ニッキーは真ん中に座り、足を半ば長椅子の上にあげて、画面左手の友人1の方を見ている。画面向かって左に座った友人1は、右手を膝の上にのせ少し身を乗り出すようにしてニッキーを見ている。右に座った友人2は、肘掛部分に背をもたせかけ、右足を完全に長椅子の上にのせて、背もたれに右手の肘をのせて頭を支えつつニッキーの方を見ている。
ニッキー: You think that's really what he meant?*
(7)長椅子の方向からのミドルショット。黒いスーツ姿の執事が左手から姿を現す。画面の中央には二脚の椅子と、その前に置かれた低いテーブルが見える。カット(1)-(5)において、左の椅子にはニッキーが座り、右の椅子には「訪問者1」が座っていた椅子だが、今はどちらの椅子にも彼女たちの姿はない。
執事: (画面中央まで歩きながら)Excuse me, ma'am.
(8)ミドル・ショット。長椅子に座って話し込んでいるニッキーと二人の友人たち。
執事: (画面外から) Excuse me, ma'am.
三人は会話をやめて、執事の方を見る。
(9)ミドル・ショット。長椅子の方向からのショット。画面のほぼ中央、二脚置かれた椅子の向こうに、長椅子の方向を向いて立っている執事。
執事: Telephone. It's for you.
台詞とともに、右へ迂回しながらコードレス電話の子機を持ってニッキーたちに歩み寄る執事。右へパン。
(10)長椅子に座っているニッキーたちのショット。全員、執事の方を向いている。ニッキーがあげていた足を降ろし、長椅子の上で姿勢を変える。
(11)長椅子の方向からのミドル・ショット。右手に子機を持ってニッキーたち歩み寄る執事。
執事: It's your agent.
バスト・ショットまでアップになる執事のショット。煽り気味に少し右へパン。画面外で、ニッキーに電話機の子機を渡す執事。
(12)少し左からのニッキーのアップ。黒と白の模様のドレスを着ている。口を半ば開け、執事の方をみて差し出された子機を画面外で受け取る。うつむき気味に、右手で受け取った子機を耳にあてるニッキー。
ニッキー: (電話に向かって) Greg?
視線を上げて画面のやや右手を見るニッキー。不安そうな表情から、息をのみ、喜びの表情になり、立ち上がる。少し引きながら、上方にパン。

ニッキー: (息をはずませ) Greg?
電話の相手の言うことを理解し、大きく喜びの表情を浮かべて跳ねるニッキー。

ニッキー: (喜んで) Greg!?  (飛び跳ねながら) Aah! I got it! I got it! I got it!
後退するショット。ニッキーの両脇にいる友人たちも画面に入ってくる。ニッキーと一緒に飛び跳ねる友人たち。
ニッキー: Oh, I got it! I got it! I got it!
(13)ミドル・ショット。長椅子の方向からのショット。画面の中央、二脚の椅子の背後で、手を握り合わせ、片足を後ろに上げて「やったね!」のポーズをする執事。
(14)ニッキーのアップ。目を見開き、口を大きく開け、歓喜の表情を浮かべながら、画面右手の友人の方を見るニッキー。少し後退するショット。次いで、ニッキーは左の友人の方を見る。
友人1: Good for you!
友人2: Oh, I knew it!
ニッキー: Oh, I...I got it!
(15)ミドル・ショット。二階に続く階段の下からのショット。黒いスーツを着たニッキーの夫(ピオトルケ)が、左手を飾り格子が施された手摺にかけ、二階の階段の上から階下の様子を伺っている。
(画面外で)[ニッキーたちの歓声]
左手を手摺に掛けたまま、階段を降りながら階下の様子を伺うピオトルケ。少し左へパン。足元を確認しつつ、階段の途中まで降り、右手を階段の折り返しにある手摺の支柱の頭にかけ、なおも階下の様子を伺う。
ニッキー: (画面外で)I got it! I got it!
飾り格子がはめられた階段の手摺が見える。調度の基調は白で、ピオトルケの背後には部屋に続く扉が見える。画面右手には、壁に掛けられた絵が見える。
(16)ピオトルケの主観ショット。階下の部屋のミドル・ショット。画面ほぼ真ん中を区切る大理石の円柱。木の床に敷かれた絨毯。絨毯の上には長椅子が一脚と、椅子が四脚置かれているのが見える。長椅子の前で歓声を上げているニッキーと友人たちの三人。ニッキーと友人1が向かい合って飛び跳ねており、友人2はニッキーの背後で手を叩いている。
ニッキー: I got it!
(17)ピオトルケのバスト・ショット。階段の途中に立ち、なにやら不穏な表情を浮かべながら、階下の様子を伺っている。
(画面外で)[なおも続く歓声]
(フェイド・アウト)

 

さて、このシーケンスを、今までも何度かキーとなった「視線の問題」を中心に追いかけてみよう。

まず、映像的なところで気がつくのが、カット(1)-(5)における「視点の変遷」である。「訪問者1」とニッキーの「インタビュー/会話」が始まって以降、ずっとイマジナリー・ラインを意識した単純な「切り返し」が連続していたが、突然、この箇所で複雑な「視点の転換」を発生させる。具体的に挙げるなら、カット(2)の「訪問者1」の主観ショット、カット(4)のニッキーの主観ショット、そしてカット(5)のショットである。「訪問者1」とニッキーの間の「横方向」にのみ発生していた「視点の方向」が、「長椅子がある方向」を含めた「縦方向」にも発生している。と同時に、それまで明瞭でなかった「主観ショット」が、この部分になって急に「主張」を開始し、「観るもの」と「観られるもの」の「関係」を発生させる。一見「客観ショット」のようにみえるカット(4)も、カット(3)でニッキーが右方向へ(「長椅子」の方向へ)視線を巡らせ始め、カット(5)でもその動きが「継続(コンティニュー)」している間にインサートされていることから「主観ショット」として捉えることができる。さて、このように「変遷」した「視点」は、どこに向けられ、何を見るのか? だが、それを確認する前に確認しなければならないことがある。それは、その「視点」の持ち主の行方だ。

カット(5)カット(4)のカウンター・ショットとして捉えたとき、続くカット(6)カット(5)のカウンター・ショットとして捉えられる。端的にいえば、カット(6)カット(5)のニッキーが「観たもの」、彼女の「視線の先にあるもの」として捉えられるということである。ところが、カット(7)をみれば明白なように、カット(1)-(5)においてそれぞれの椅子に座り、「視点の持ち主=観るもの」であったはずの「訪問者1」とニッキーの姿が、カット(6)以降いつの間にか「消失」してしまっている。彼女たちはいったい、どこに消えたのだろう?

その後の「インランド・エンパイア」を観たあとならば……ニッキーあるいはスー=ニッキーあるいはニッキー=スーあるいはロスト・ガールによる「視線の問題」が意味するものを観たあとならば、この「視線の持ち主の消失」が何を表しているか、はっきりと理解できる。これは、「訪問者1」あるいはニッキーの「視線」が「我々=受容者」の「視線」に転換したことの提示だ。そのまま、この後のシークエンスは、カット(6)からカット(14)まで、「縦方向」のショット/カウンター・ショットによる「切り返し」に移行すしてしまい、我々はカット(6)の時点で自分たちが登場人物たちとの「視線の共有」を開始していることにすぐには気づかない。だが、この後、「インランド・エンパイア」は様々な「視線の交換/共有」を描き出し、それが”映画における「感情移入=同一化」の形成”と密接な関係をもっていること……たとえば、(1:01:51)における「観られるもの」としてのニッキーの「消滅」のように……を考えるなら、この一連のシークエンスが示唆する「視線の変遷/視線の共有化」は重要である。「インランド・エンパイア」における我々=受容者の「感情移入=同一化」を巡る旅は、すでにこの時点で始まっている。

もちろん、これらのショットによって強調されているのは、「明日であれば、あなた(ニッキー)はあそこに座っているはずだ」という「訪問者1」の「言及」であることはいうまでもない。この「視線の変遷」を通じて……特に、カット(2)の「無人の長椅子」のショットとカット(5)の「ニッキーのアップ」のショットを通じて、「ニッキー」と「長椅子」の関係性が浮かびあがってくる。

このカット(5)の映像が、(2:52:09)において再提示され、そこでの「視線の対象」が「長椅子に座っている青いドレスのニッキー=伝説化したニッキー」であることについては、すでに何度か触れた。このカット(5)のニッキーの映像は「括弧記号」として、あるいは音楽でいう「ダ・カーポ(反始記号)」として機能しており、結果として、(0:18:14)から(2:52:09)までのシークエンス全体と、(2:52:09)から現れる「長椅子に座った青いドレス姿のニッキー」の映像は「等価」であって、後者は前者の「ヴァリエーション」であることが理解される。逆の視点からこの「等価構造」をみたとき、「青いドレス姿のニッキー」という映像は、”(0:18:14)から(2:52:09)までのシークエンス全体”によって表されるものすべてを……「演技者=ニッキーの役の獲得」から始まり、「受容者の抽象概念=ロスト・ガールの感情移入」を経て、「伝説化するニッキー」という時間経過を伴った「概念」を……「内包」している。

そして、「ニッキーのハリウッド伝説化」を表すこれらのシークエンスやショットを接合する「機能」を担っているのが、「長椅子」というプロップである。すなわち、カット(2)で「訪問者1」が指し示す「無人の長椅子」、カット(6)のニッキーが役を獲得したという知らせを受ける「長椅子」、(2:52:09)およびエンド・ロールを通じて青いドレス姿のニッキーが座っている「長椅子」といった具合に、この三つの「長椅子」のショットを軸にして、演技者=ニッキーの「ハリウッド伝説化」が語られているのだ。逆にいえば、”「受容者=演技者=登場人物」の「ネスティング」”とは異なる、もうひとつの「インランド・エンパイア」の基本構造を……「ニッキーのハリウッド伝説化」という「省略されたストーリー」の基本構造を、この「共通項」である「長椅子」が明確にしているわけである。

さて、「視点の問題」から離れて、カット(6)からカット(17)までのショットによって形成されるシークエンスをみたとき、これらの映像群が伝えるものは二つあることが理解される。両方とも「訪問者1」が言及した「言説」に関連するものであり、そのうちの一つは早々と実現する。つまり、ニッキーが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」での役を獲得することである。残る一つは、演技者=ニッキーの「家」の内部で発生している「トラブル=機能しない家族」の提示……つまり、「訪問者1」が言及した”「結婚」と「夫」の関与”だ。実は、少なくとも演技者=ニッキーに関する限り、彼女が「トラブル=機能しない家族」の問題(の個別例)を抱えていることは何度か示唆されるが、実はその描写は「具体性」を欠いている……あるいは「顕在化」していない。それは、「ポーランド・サイド」におけるロスト・ガールとファントムのシークエンスや、「スミシーの家」におけるスーとピオトルケのシークエンスとの対比において明らかだ。そのことの意味は別の機会に述べるとして、このシークエンスにおいて、「ニッキーの屋敷」の「内部」で「トラブル=機能しない家族」の問題が発生していることが提示されているのは、カット(15)以降のショットによってである。 

”「ニッキーの屋敷」の内部の「トラブル=機能しない家族」の問題”という観点からみたとき、もっともわかりやすくキーとなるのは、階下を見下ろしているピオトルケの表情……特にカット(17)における表情だろう。彼が、妻=ニッキーが役を得たことを喜んでいないことは、その不穏な表情から明らかだ。かつ、「二階から階下をうかがう」という彼の行為自体に、「監視」のイメージが付随していることも見逃せない。だが、彼の「内面」をより雄弁に語っているのは、カット(16)の”ピオトルケの「主観ショット」による「階下の映像」”そのものである。この「階下の映像」が大理石の柱によって大きく「分断」されていること、そしてニッキーと友人たちが「分断」を発生させている「柱」と「長椅子」の間の狭い空間に押し込められていることは、ピオトルケの「演技者=妻=ニッキー」に対する「感情」を明瞭に表すものだ。これらの描写が伝えるのは、ピオトルケが、”ニッキーの「演技者」という職業およびそれに関連するもの”を、ひいては”ニッキー自身”を矮小化し見下しているということ、そしてそれを「要因」として家庭内に「分断」が発生していることである。 

ただし、「家」を「人間の内面」とする観点に立ち、「ニッキーの屋敷」を「ニッキーの内面」と捉えたとき、この「ピオトルケの行動/感情」についてはまた違った見方が可能である。なぜなら、そこにニッキー自身の「主観/感情」というバイアスがかかっている以上、これらの映像がピオトルケの「主観/感情」そのままの反映であるかどうか、我々=受容者は明瞭に断定できないからだ。少なくともこの時点において我々が確実に断定できるのは、「自分の『夫』が自分の職業に対して、そうした『感情』を抱いているとニッキーが感じている」あるいは「自分の『家』の内部に『トラブル=機能しない家族』の問題を抱えていると彼女が感じている」もしくは「自分は『夫』監視/干渉を受けていると彼女が感じている」いうことだけである。なによりも、我々が今現在、ニッキーと「視線を共有」し、彼女の「屋敷」によって表される彼女の「内面」を観ていることを忘れてはならないだろう。この後も、「インランド・エンパイア」には、繰り返し「ニッキーの屋敷」の「内部」で発生する「トラブル=機能しない家族」の示唆が現れる。それがニッキー個人に関連する「機能しない家族」の「個別例」であり、基本的に彼女の「視点」に基づくものであることを忘れてはならないはずだ。

*このカット(6)のニッキーの台詞も、(彼女が認識している)ピオトルケとの関係を考えると意味深である。「彼は本気でそう言ってると思う?」の「彼」とは「夫=ピオトルケ」のことなのか?

2008年7月 6日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (96)

ども、アルコール・レスの大山崎です。嘘です。今日も飲みました(笑)。でも、酔っ払ってても素面でも、言ってることはあんまし変わりません(笑)。

そのようなわけで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。前回からの続きとして、(0:08:37)から(0:18:14)までの「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

さて、「訪問者1」による様々な「言及」のうち、三つ目に表れるのは「映画」というメディア全般に関することである。

パートD (0:14:03)-(0:16:07)
訪問者1: A little boy went out to play. When he opened his door he saw the world. As he passed through the doorway he caused a reflection. Evil was born. Evil was born and followed the boy.
ニッキー: I'm sorry. What is that?
訪問者1: An old tale. And the variation....a little girl went out to play.
訪問者1: Lost in the marketplace as if half-born.
訪問者1: Then ... not through the marketplace --  you see that, don't you --  but through the alley behind the marketplace.
訪問者1: This is the way to palace. But it isn't something you remember.
訪問者1: Forgetfulness. It happens to us all. And...me? Why, I'm the worst one.
訪問者1: Oh. Where was I? Yes.

パートE (0:16:45)-(0:17:06)
訪問者1: Yes. Me, I... I can't seem to remember if it's today, two days from now, or yesterday. Hmm. I suppose if it was 9:45,  I'd think it was after midnight.

パートF (0:17:06)-(0:17:44)
訪問者1: For instance, if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.
訪問者1: Actions do have consequences.
訪問者1: And yet. there is the magic.

この一連の発言の各所に、(リンチが考える)「映画」というメディアに関するキーワードが出現していることは、何度か指摘してきた。「映画」とは「世界(world)」であり、「映画を観ること」は「世界を体験すること」である……というのが、自著やインタビューで繰り返しリンチが表明している考えである。この「世界の体験」という考えに対するリンチのこだわりは「映画の受容環境/手段」のこだわりにつながっており、「iPhone」等の小型端末での視聴に対するリンチの批判の根底にはそうしたこだわりがある。このリンチの「こだわり」は「インランド・エンパイア」の各所にも反映されており、たとえば(2:35:49)からのシークエンスにおいて提示される、「映画館での受容」と「モニタを介した受容」の間に横たわる「等価関係/対置関係」の表現などに明瞭である。

まず、パートDをみてみよう。「映画」は「映写スクリーン(あるいは「モニタ画面」)」という「枠(フレーム)」に区切られている……そう、まさしく少年が「扉(door)」という「フレーム」を通して「世界」を見るように、我々は「映写スクリーン/モニタ画面」という「フレーム」を通して「映画」を観る。そして、「映画」という「感情移入装置」によって少年=受容者の「感情移入=同一化」が形成されるとき、彼=受容者はその「扉=フレーム=スクリーン」を通り抜けることになる。そうした事象が起きることがリンチのいう「(映画の)魔法(magic)」であるわけだが、その”「映画の魔法」の「概念」”が「ファントム」という怪しい”登場人物”によって表されているように……もしくは、ニッキー=スーによるサーカス団員たちに対する寸評(「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」(1:46:08))にも表れているように、それは時として非常に「いかがわしいもの」であり得る。映画史が明らかにするように、それは「映画」における「感情移入=同一化」が、実は受容者に対する「感情操作」と同義であり得ることと無縁ではないはずであり、それを表すのが”少年が扉をくぐったとき発生する「邪悪なもの(Evil)」”という表現であるわけだ。

この「邪悪なもの」=「映画の魔(法)」は、少年が「扉」をくぐり抜けるに際し、「reflection」が引き起こされた結果生まれる……と「訪問者1」は語る。我々が「映画」を観るときに実際に目にしているのは、「映写機の光」が「映写スクリーン」に「反射(reflection)」したものだが、それによって引き起こされた「感情移入=同一化」の結果として生まれるのは、「受容者の内面」における「内省(reflection)」である。そして、演技者=ニッキーが登場人物=スーに自らの「情緒の記憶」を投影したように、その「内省」には、我々=受容者自身がそもそも保有している(感情を伴った)記憶/回想(reflection)」「反映(reflection)」されているのは間違いない。「映画=世界」を体験することで(あるいは「感情操作」を受けたことで)受容者の内面で生まれた「感情」は、それが「内的なもの」であるがために「映画」が終わった後もずっと「つきまとう(followed the boy)」ことになるのだ。

「訪問者1」が言うとおり、確かにこれは「古くからの話(Old tale)」である。我々はもう辿れないぐらい昔から、いくつもの「感情を喚起するもの」を創り出してきた。「プリミティヴ(原初的)」な「絵画」「舞踏」「音楽」「演劇」に始まり、「口承」から「文字」による「物語記述」の変移などを経て、我々はそれらの「喚起するもの」を洗練させると同時に、技術の発達による新しい「伝達手段」も獲得した。そうした「伝達手段」が出現した結果、たとえば同時に受容可能な者が増えたり、遠隔地での受容が可能になったり、あるいは繰り返しやタイム・シフトによる受容が可能になったりといったように、「受容スタイル」の変化は発生したものの、それらが伝えるのが「なんらかの感情を喚起するもの」であるという本質は変わらない。「インランド・エンパイア」において、そのあたりを端的に表しているのが冒頭に提示される「様々なメディア」であり、あるいは「メディア」のひとつの原型として現れる「サーカス」であるといえる。リンチにとって「サーカス」がメディアであるのは、それが昔から存在する「感情を喚起するもの」の「集合物」であること……「舞踏」や「演劇」などの「原初的」なものを含めた「感情を喚起するもの」を集大成的に伝える「媒体」であるからだ。そして、「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)のも、「映画」というメディアにもこうした「古くから」の「感情を喚起するもの」が内包されているからに他ならない。

続いて、「訪問者1」は”ヴァリエーション”を語り始める。「少年」の話が「映画というメディアに関する言及」であるなら、当然ながらこの「少女」の話もまた「映画というメディアに関する言及」の”ヴァリエーション”であるはずだ。ここでキーになるのは、「市場(marketplace)」という言葉である。さて、これは「いちば」であるのか「しじょう」であるのか……という疑問を以前に呈したが、これを「しじょう」と捉えたとき、やはり浮かび上がるのが「映画」がその創成期から備えている「工業製品」あるいは「商品」としての性格である。「映画」というメディアが「発明」され、しばらくして「物語」を語り始めたとき、さまざまな「映画論」が従来のメディアとの比較において「映画」というメディアを規定しようとした。そのなかで共通して指摘されたのが、「集団作業を前提とした製作」といった部分や、「資本力を必要とする投資対象」といった産業的な部分である。ごく一部の例外を除いて、基本的に「映画」というメディアの「産業的な性格」は現在に至るまで変わっていないし、我々もそれを前提として「映画」を受容していることは間違いない。たとえば、我々が「ハリウッド映画」という言葉を耳にしたとき想起するものには、「資本投下&回収システムとしてのハリウッド」という概念だけでなく、そこで作られる映画の「ルック」や「テーマ」や「内容」までが含まれる。正直なところ、「枠組が内容を規定してしまう」というのはありふれた話なわけだが、となると、「『市場』の中を通るのでなく、その裏道をたどることが宮殿に至る道である」という表現が含意するところは、露骨なぐらい明瞭だろう。リンチは、資本原理を理由とした「介入/コントロール」から離れることを……他のものと引き換えにしてでも「ファイナル・カット権」を自分で確保することを「ブルーベルベット」の段階から自らに課した。それは「砂の惑星」製作時における「ファイナル・カット権」を巡るトラブルを経てのことであり、それが「市場の中で迷った」リンチにとって「宮殿に至る道」であったわけだ*

加えて、「宮殿への道」を「忘れている者」を表すものとして、演技者=ニッキーが言及される(But it isn't something you remember)。だが、この「you」が間違いなく「単数」であるという保証はない。我々は、「インランド・エンパイア」が描く作品内の事象が……たとえば、「ハリウッド・ブルバード」における「スー=ニッキーの(フェイクの)死」が喚起する「感情移入=同一化」の切断(2:32:23)のように……しばしば、それを観ている「我々=受容者の事象」とそのまま重なりあっていることを知っている。であるならば、”「宮殿への道」を「忘れている者」”である「you」のなかに、「我々=受容者」が含まれていないと誰が断言できるだろうか。なにしろ、「忘却(Forgetfulness)」「私たち全員に起こるのだ(It happens to us all)」

それを裏付けるように、パートDの終わりからパートEにかけて、「訪問者1」は自身の「忘却」についての言及を始める。だが、彼女が語っているのは、「映画」というメディアが引き起こす「場所と時間に関する見当識の失当」についてだ。注意がひかれるのは、「9時45分」や「真夜中過ぎ」というキーワードと並んで、「あれはどこだったのか?(Where was I?)」というキーワードも発せられていることである。このシークエンスで「訪問者1」が発言する”「感情移入=同一化」による「見当識の失当」”を表す「あれはどこだったのか?」と、(0:02:45)からのショットにおいて「顔のない女性」が発言する「自己認識の欠落」を表す「ここはどこ?(Where am I?)」とは「対置関係」にある。前者は「機能しない家族」というテーマを表すものであり、後者は「感情移入装置としての映画」というテーマを指し示すものだ。「インランド・エンパイア」が内包するこの二つのテーマは……この二つの「ここはどこ?」は、「ハリウッド・ブルバード」においてスー=ニッキーが発する「ここはどこ?」(2:07:39)に向かって収斂していき、最終的に融合して”「映画による見当識の失当」を経て「自己確認」に至る”という複合的なテーマを形成するわけである。

パートFにおいて、まず「訪問者1」は「ナラティヴなもの」に関する言及を行う。この時点では明瞭ではないが、「行動には結果が伴う(Actions do have consequences)」という概念が、そのまま「物語(narrative)」を成立させるうえでの「因果律」を指しており、「支払われていない請求書(an unpaid bill)」が「伏線の回収」を表していることは、その後の「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関して行う記述/表象によって明らかにされていくことになる。言い替えれば、この「訪問者1」によるこの二つの事項に関する言及は、彼女が今現在、ニッキーに向かって話していることの内容……つまり、「映画」が(通常)「ナラティヴなもの」を内包しており、それは新しく創られる「映画」=「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関しても当てはまることの宣言である。その一方で、「行動には結果が伴う」に関しては、ピオトルケによって、デヴォンに向かって発言され(0:43:36)、「支払われていない請求書」については「訪問者2」によって、スー=ニッキーに対して二回に渡り(1:57:55)(1:58:50)言及されることになる。この二つの「言及」もまた「リフレイン」であり、キーワードであるわけだ。前者は当該シークエンスにおいて再度触れるとして、後者に関しては「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「伏線の回収」の必要性を示唆するものとして受け取ることができることに関しては、すでに述べたとおりだ。

こうして、「インランド・エンパイア」はその「序説」を終える。そこで紹介された「要素」は、「映画」をはじめとする各種メディア、「機能しない家族」の「原型」、ロスト・ガールという「受容者」、ニッキーという「演技者」など多岐にわたる。同時に、「機能しない家族」と「(映画における)感情移入=同一化」という、二つの基本テーマも提示された。この後、三時間弱にわたって「インランド・エンパイア」は、この二つの基本テーマを「核」にして展開され、「訪問者1」による様々な「言説」が達成される様子を描いていくことになる。


*公式サイトでの作品公開を経て、「インランド・エンパイア」の公開を機に自らの会社「ABSURDA」を立ち上げて作品配給を始めた時点で、ひとつの「完結したシステム」を作り上げるまでに至ったといえるだろう。既報のとおり、その「システム」をホロドフスキーやヘルツォークといった他監督の新作公開に使用することになったのは興味深い。この試みが今後どうなるかはわからないが、リンチは「宮殿への道」を他の監督とも共有し始めたということになるのだろうか。

2008年7月 4日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (95)

うはは。とりあえず「酔っ払い週間」は終了しましたが、連日酔っ払ってるうちにLinux1号機のマザー・ボードがぶっ壊れました。うーむ、ほぼ10年選手の機械だったもんなあ。仕方ないので2号機をメインに昇格。でも、こちらもすでに9年目の機械なんで、さて、どーなりますやら(笑)。

さて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:08:37)から(0:18:14)まで。「訪問者1」に関連するシークエンスをとりあげることにする。

幕が開いてから8分あまり、「インランド・エンパイア」は「これがメディアについての映画であり、とりわけ映画についての映画であること」、「その受容者であるロスト・ガール」、「映画を製作し、そのコントロールを行うもの」「映画の魔法」という概念を提示してきた。ここから先、「インランド・エンパイア」は、その具体例である「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関しての記述を深めていく。

このシークエンス全体をつうじて舞台となるのは、「ニッキーの屋敷」の内部である。「インランド・エンパイア」において「家」が表すものを考えるとき、この屋敷は「ニッキーの内面」を表象していると捉えて差し支えないだろう。であるからには、その中で発生する事象は、ニッキーの感情や主観によってバイアスがかかった状態で提示されていると考えていい。

たとえば、彼女の屋敷を突然訪れる「新しい隣人」という表現自体が、ニッキーの「心象」の反映であるといえる。この後に繰り広げられる両者の会話の様子をみればわかるように、「訪問者1」による「訪問」は、演技者=ニッキーにとって必ずしも「心地よい」ものではないことは明らかだ。あるいは、「訪問者1」の「東欧訛りの英語」である。これが、リンチが繰り返し提示する「成立しない会話」のモチーフのヴァリエーションであることはいうまでもないだろう。老婆の「言葉」が備えるこの「異言語性」は、すなわちニッキーにとってその「内容」が「異質なもの」であることの表象である。ひいては、これによって表されているのは、演技者=ニッキーと「訪問者1」の「立場」の違いであり、両者の間に横たわる「溝」であるといえるだろう。

加えて、「アメリカにおける物語を語るものとしての映画」を表す「90歳の姪(90-year-old niece)」が「古くからの他国の言葉(ancient foreign voice of hers)」を喋る(0:40:59)というような「表現」にも表れているように、リンチは「インランド・エンパイア」に現れる「異言語」を、「映画が語る言語」としても提示している。それを考えれば、「訪問者1」の英語が東欧訛りであることによって表されているのは、彼女が語る言葉が「映画についての言及」であること……「映画が語る言語」を「文学的な言語」に置換して語っていることの提示でもあるはずだ。

以前にも触れたように、このシークエンスの「訪問者1による訪問」は、後に現れる「訪問者2による訪問」と対になっている。「庭を歩いてやってくる訪問者」等という「描写」そのものも意識して揃えられていると同時に、「訪問者1」が執事の「出迎え」とメイドによる「もてなし」を受けるのに対し、「訪問者2」はまともな「あいさつ」もできない状態のスー=ニッキーが応対すると言った具合に、この二つの「訪問」の「等価性」と「対置性」が明確に理解できるように構成されている。逆にいえば、「訪問者1」による「訪問」の舞台となる「ニッキーの屋敷」が、「訪問者2」による「訪問」の舞台となる「スミシーの家」と「等価」であり「対置」されるものであることが、これらの事項によっても保証されることになる。「スミシーの家」が登場人物=スーと演技者=ニッキーによって(また最終的には受容者=ロスト・ガールによって)「共有」される場所であるのに対し、「ニッキーの屋敷」は演技者=ニッキーの「個」に所属する場所だ。かつ、「スミシーの家」と同様、「ニッキーの屋敷」の中でも「トラブル=機能しない家族」の事象が発生していることは、この後にピオトルケという「夫の抽象概念」の紹介とともに提示されることになるが、それについてはそのシークエンスをとりあげる回で詳述しよう。

さて、ニッキーの屋敷に入り込んだ「訪問者1」は、様々な「言説」をニッキーに向かって「言及」する。
その内容は複合的でかつ融合してはいるが、あえて大きくわけるなら、彼女が「言及」しているのは、以下の三つの事項についてだ。

一つ目は、「演技者=ニッキーについての言及」である。その部分をまずピック・アップしてみる。

パートA (0:13:02)-(0:14:03)
訪問者1: So... you have a new role to play, I hear?
ニッキー: Up for a role. But, uh, I'm afraid far from getting it.
訪問者1: No, no. I definitely heard that you have it.
ニッキー: Oh?
訪問者1: Yes. It is an -- It is an interesting role?
ニッキー: (うれしそうに) Oh, yes. Very.
訪問者1: Is it about marriage?
ニッキー: Um...perhaps in some ways, but, um...
訪問者1: Your husband. He's involved?
ニッキー: No.
訪問者1: Hmm.

この会話自体が、実は「我々=『インランド・エンパイア』の受容者」に対する「ニッキーが演技者であること」の「紹介」として機能している。かつ、ニッキーが「新しい映画」おいて「役」を獲得したことを「訪問者1」は述べるが、それはニッキー自身にもこの時点では確定事項ではない。同時に、その「新しい映画」が「結婚」に関連していること、そして「ニッキー自身の夫」とも関連していることを「訪問者1」は告げるが、この「言及」自体がすでに複合的な意味を帯び始めている。第一義的に捉えるなら、これはこれから作られる「ある新しい映画」の内容に関しての言及である。だが、同時に、演技者=ニッキーがどのようにそれに関与するかについての言及でもあるのだ。スーはスー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えており、ニッキーはニッキー自身の「結婚」や「夫」の問題を抱えている。「訪問者1」が指摘しているのは、ニッキーとスーのそれぞれの家庭が「トラブル=機能しない家族」の問題を内包しており、この後その「共通性」をキーにして、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「重なり=ネスティング」が展開されることの宣言でもある。

そして、その結果としてニッキーに発生する事柄についても、「訪問者1」は言及する。

パートB (0:17:46)-(0:18:14)
訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there.
訪問者1は部屋の向かい側にある長椅子を指差す。
ニッキーのアップ。いぶかしがるニッキー。
ニッキーは頭を巡らし、長椅子の方を見る。
訪問者1: Do you see?

この部分のシークエンスが、(2:51:52)における「長椅子に座った青いドレス姿のニッキー」のショットにつながること……「訪問者1」が「見える?」と問いかけているその「見る対象」が「ハリウッド伝説化した演技者=ニッキー」であることは、「インランド・エンパイア」の最終ショットにおいて明らかにされることになることは、以前にも述べたとおりだ。後に詳述するが、これが「インランド・エンパイア」の「序章」の終わりであり、「本編」はこの直後から始まることになる。

二番目に言及されるのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という新しく製作される映画作品そのものについてだ。まず、それが「結婚」を題材とし、「夫」が関与していることが言及されることについては、前述したとおりである。次いで……

パートC  (0:16:08)-(0:16:41)
訪問者1: Is...Is there a murder in your film?
ニッキー: Uh, no. That's not part of the story.
訪問者1: No? I think you are wrong about that.
ニッキー: No.
訪問者1: Brutal fucking murder!
ニッキー: Uh, I don't like this kind of talk the things you've been saying. I think you should go now.

……という具合に、その映画では「殺人」が、それも「残虐な殺人」が取り扱われていることが、「訪問者1」によって言及される。ここでのやりとりも、やはりパートAと同じく「複合的」だ。まず、ニッキーには、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「残虐な殺人」を扱っていることの「自覚」がこの時点ではない。というより、両者がいう「残虐な殺人」が意味するところが、食い違っている。ニッキーは、当然ながら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品中に「具象的な事件」として「殺人」が起きないと言っている。だが、「訪問者1」がいう「残虐な殺人」とは、女性たちが「悪意=スクリュー・ドライヴァー」で互いを傷つけあうという「内面的/抽象的な事件」*のことだ。

もちろん、この時点ではそのようなことが我々にわかるはずもないが、いずれにせよ、ここで問題とされるべきなのはニッキーと「訪問者1」の「どちらが正しいか」という議論ではない。問題となるのは、両者の間に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」がどのような作品であるかについて「認識/意見」の食い違いがあるという、その「表現」自体だ。そこには様々なものが内包されているように思われる。たとえば「解釈の多様性」の問題、「具体的映像とそれが表象するものの乖離」の問題など、「作品」とそれを何らかの形で「受容」する者との様々な関係性がこの「表現」から読み取れるといっていい。

このように、この時点において、「訪問者1」の「東欧訛り=異言語性」によって表される、ニッキーと彼女の「立場の違い」や「溝」がどのようなものかが明瞭になってくる。この「立場の相異性」は、「家」の中にいる者と「家」の外部から訪れる者との違い……映画製作の内部にいる「演技者」と、外部からそれに関する様々な「言説」をもたらす「評者」との違いだ。そう考えたとき、あることに思い当たる……「訪問者1」と「演技者=ニッキー」とのこの「会話」は、限りなく「インタビュー」に近くはないか?

(続いたりなんかして)

*結局のところ、この「残虐な殺人」とは、「ポーランド・サイド」でのロスト・ガールの刺殺、あるいは「ハリウッド・ブルバード」での「スー=ニッキーの(フェイクの)死」によって表されるように、ロスト・ガールやスーあるいはニッキーをはじめとする女性たちの「内面で発生している事象」である。そして、このことが、リンチの他作品についてもある洞察を与えるものであることは間違いない。果たしてヘンリーは異形の赤ん坊を殺したのか? フレッドはディック・ロラントやアンディを殺したのか? 本当にダイアンはカミーラの殺人を依頼し、自らの命を絶ったのか? それらはすべて、彼/彼女たちの「内面」で発生している事象……彼/彼女たちの「感情」に歪められた「心象風景」ではないのか?

2008年7月 3日 (木)

「LYNCH (one)」北米版DVD予約開始のおハナシ

さて、またしてもdugpa.comネタ。

日米で発売時期が逆転してしまった「リンチ1(LYNCH (one))」の北米版DVDだが、発売日が8月26日でフィックスし、予約が開始されておりますという話題。

Lynchonedvd まー、とりあえず日本版DVDを持ってるしなあ……と思いつつも、日本版DVDはそれ自体が「インランド・エンパイア」の「特典映像」だったわけで、気になるのが北米版DVDについている「特典映像」。これについては、現在のところ、以下のようなものが収録されるという情報がオープンになっている。

- Lodz photo montage
- floor sander story
- david does more work
- blue green vignette
- "What's Myspace?" vignette
- LYNCH trailer
- LYNCH2 trailer
- LYNCHthree trailer
- 11 minute trailer 2004

「Lodz photo montage」は、おそらくリンチがポーランドのウッチ(Lodz)で撮影した写真なんではないかと。であれば、向こうの工場&女性ヌードの写真作品が収められているはずで、これはちょっとみてみたいかも。

「floor sander story」は、「インランド・エンパイア」の撮影シーンで、床に白黒の波模様を貼りつけている映像があったけれど、もしかしてそれ関連かしらん? リンチ作品に繰り返し登場する「波模様」に関するこだわりについて、何か御本人の言及があるかどーかというのが話題の焦点でありましょう、きっと。

三番目の「david does more work」は、まあ、なんか撮影中の映像なんすかねえ? きっとリンチが何かお仕事してらっさる映像なんでしょーけど、よくわかりません(投げやり)。

もっとよくわかんないのが、「blue green vignette」で、直訳するなら「青で緑な挿話」ってな感じ? 「インランド・エンパイア」に登場する「青」と「緑」のモチーフに関連したものかもしれん……とか、思いっきり当てずっぽで言ってみたりなんかする(笑)。

「"What's Myspace?" vignette」は、おそらくリンチがマイ・スペース上で開設しているページに関連した映像なんでございましょう……と憶測。

あとの四つは「予告編集」と考えて間違いないだろうけど、「LYNCH2」はともかく、「LYNCHthree」って、ナニよ、それ? 何の相談も受けてませんよ、わたしゃ(笑)。と思って、dugpa.comのディスカッション・ボードをのぞいてみたりしたけれど、やっぱまだ誰も相談を受けてないみたい(笑)。

……とまあ、あんまし根拠なく内容を予測してみました。どっちかというと「そうだったら、いいな」ぐらいのものなので、あんまり当てにしないように(笑)。でも、問題は「買うのか?」ということだなあ。米アマゾンで現在の価格が$26.99、日アマゾンでは3,398円と、なんかすげえ高けえぞ。つか、アメリカじゃ確実に「インランド・エンパイア」のDVDより高けえぞ(笑)。石油価格の高騰のせいか?(違うって)

笑ったのが、この製品紹介ページに掲載されている「『リンチ1』のDVDを買う三つの理由」ってヤツ。「普段リンチは自分の映画について多くを語らないから、これはみもの」とか「特典映像がテンコ盛り」とかゆーのはともかく、「『インランド・エンパイア』よりわかりやすい」って、なんスか、そりゃ(笑)。

というわけで、現在、大山崎としてはポチるかどーか、考え中。ううむ、どーしたもんか。是非とも、追加情報がほしいところであります。

2008年7月 2日 (水)

ブリッグス少佐、死去

本日のDugpa.comネタ。でも、悲しいお知らせ。

Davis02 「ツイン・ピークス」のブリッグス少佐役を演じたドン・S・デイビス氏が、現地時間の6月29日に心臓の発作で亡くなったとのこと。享年65歳……って、えええぇ? ってことは、ブリッグス少佐役をやってたときって、40代だったわけ? すみません、貫禄がおありだもんで、てっきりもちっとお年を召してらっしゃるとばかり思い込んでました。

ざくっとドン・S・デイビス氏の略歴をIMDbから引用しておくと、本名はドン・シンクレア・デイビス(Don Sinclair Davis)。俳優としてのデビューは1982年。ミズーリ州出身。出生が1942年8月なので、40歳のときの遅咲きデビューだったということになる。主に活躍の舞台はTVドラマだったが、「フック」(1991)、「コン・エア」(1997)などの映画作品の出演もあり。2003年からは体調を崩して仕事をセーヴしていたとのことだが、最終的には2008年公開予定の「Far Cry」まで、通算135タイトルのテレビ・映画作品に出演した。面白ネタとしては、「人間をチェスの駒に使って、相手にとられたらその人間が殺される」というネタのテレビ・ドラマに一年の間に二回出演した……というのがある。ひとつはもちろん「ツイン・ピークス」、もう一本は「Monkey Planet」という番組の「All the King's Horses」の回。一度の離婚を経て、2003年に現在の奥さんであるRubyさんと再婚。以下がRubyさんからのファンに向けてのメッセージ。

Dear Fans and Friends of Don S. Davis,

So many of you have been touched by not only the work and art of Don S. Davis, but by the man himself, who always took the time to be with you at the appearances he loved, that it is with a tremendous sense of loss I must share with you that Don passed away from a massive heart attack on Sunday morning, June 29th.

On behalf of his family and wife, Ruby, we thank you for your prayers and condolences. A family memorial where Don's ashes will be scattered in the ocean will take place in a few weeks, and should you wish to, please make a donation to the American Heart Association in Don's memory.

どうやら、お葬式のあとは、海に散骨される予定らしい。最後に、「American Heart Association(AHA)」への寄付を呼びかけて、Rubyさんのメッセージは終わっている。

改めて、デイビス氏の御冥福をお祈りします。

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