フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (94) »

2008年6月26日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (93)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:04:04)から(0:06:41)までをば。

さて、受容者としてのロスト・ガールの位置づけを明確にした後、続いて「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する事象を提示し始める。それは、ロスト・ガールが観ているモニタ画面が映し出す波打つ「ノイズ」のなかから、「Rabbtis」の映像が浮かび上がるショットからスタートする。

「Rabbis」の部屋 内部 (0:04:04)-(0:06:41)
(ディゾルヴ)
(26)「Rabbitsの部屋」の内部。左手に木の扉。扉の左には、木の台に載せられた黒い電話機。扉の上の通風窓は開けられている。部屋の左奥では、ピンクの服を着たスージー・ラビットがアイロン台に向かって白い布にアイロンをかけている。正面奥の壁には角ばったアーチ状の開口部があり、開口部の両側には黒い柱がある。開口部の奥には、木の枠がはまった窓が見える。窓の向こうは闇である。開口部の手前には長椅子が置かれ、その右端にはジェイン・ラビットが座っている。長椅子の右側には、小さなテーブルがあり、その上には緑色の本体にクリーム色の傘の背の低いライト・スタンドが置かれている。ライト・スタンドは点灯している。扉が開かれ、スーツ姿のジャック・ラビットが部屋に入ってくる。
[歓声と拍手]
ジャック・ラビットは扉を閉め、そのまま喚声が終わるのを待っている。
[歓声と拍手が終わる]
長椅子に歩み寄り、ジェイン・ラビットの左に座るジャック・ラビット。
ジェイン・ラビット:(ジャック・ラビットの方を向いて)I am going to find out one day.
スージー・ラビット:(左肩越しに二匹の方を振り返り)When will you tell it?
ジャック・ラビット:(ジェイン・ラビットを見て)Who could've known?
ジェイン・ラビット:(正面を見て)What time is it?
[笑い声]
ジャック・ラビット:(立ち上がってジェイン・ラビットを見下ろし)I have a secret.
(27)ロスト・ガールのアップ。目と鼻に向かって、よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(28)スージー・ラビット:(アイロンをかけながら)There have been no calls today.
[笑い声]
再び長椅子に座り、正面を向き直るジャック・ラビット。
(29)ロスト・ガールのアップ。よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(30)スージー・ラビットがアイロン掛けをやめ、他の二匹が座っている長椅子に歩み寄り、その背後に立つ。
(31)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
[汽笛]
[足音がする]
(32)ジャック・ラビット:(右を向き、ジェイン・ラビットに向かって)I hear someone.
スージー・ラビット: (笑う)
(33)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(34)扉の方を見ているジャック・ラビットとスージー・ラビット。ジェイン・ラビットも扉の方を向く。
ジェイン・ラビット: I do not think it will be much longer now.
ジャック・ラビットが立ち上がり、扉に近づく。彼は扉を開け、部屋を出ていく。閉められる扉。閉ざされた扉を見守る残された二匹。

前回述べた”「心象風景」としての「モニタ画面」”という考えに基づくなら、このディゾルヴによる画面転換によって表されるものも明瞭である。一言でいえば、受容者=ロスト・ガールの「内面」に、「Rabbitsの部屋」によって表されるものが受容されたことの提示だ。そのことは、このシークエンスにおける「Rabbitsの部屋」のショットに対し、「涙を流すロスト・ガール」のショットがカット(27)(29)(31)(33)と四回にわたり、「カウンター・ショット」としてインサートされることからも明らかである。ロスト・ガールは「Rabbitsの部屋」の映像を観ている。だが、表現主義的な手法の連続であるリンチ作品においては、そこで提示されている「Rabbitsの部屋」が「モニタ」上に映し出されているものの「客観描写」であるとは限らない。前回触れた”画面上の「ノイズ」とそれに映り込む「ロスト・ガールの部屋」”という映像表現から連続するものとしてこのシークエンスを捉えるとき、そこで提示されているものもやはり彼女の「感情」や「主観」のフィルターを通したものであるはずだ。

しかし、同時に、そこにはリンチ自身が抱える「感情」や「主観」が投影されているであろうことも、また確かである。たとえばウサギたちがウサギたちとして提示される理由自体が、リンチが「インランド・エンパイア」の中で繰り返し提示する「動物=自律しながらも他者のコントロールを受ける存在」という概念を構成している一要素であるのは間違いない。「動物」のイメージは「サーカス」によって表される「組織=公的なもの」のイメージと連鎖し、一方で助監督フレッドや浮浪者2による「言及」を引き出しながら、リンチが考える「映画製作」に関するイメージを構成していくことになる。

さて、何度か触れたように、「Rabbitsの部屋」の内部で交わされる「文脈(コンテキスト)を欠落させた会話」あるいは「断片化(フラグメンティション)された会話」によって表される「異言語性」は、リンチが繰り返し作品に登場させる「成立しない会話」のモチーフに基づくものである。ウサギたちが発する「台詞」は、それぞれ単体では構文的に成立し断片的な意味を伝えてはいるものの、三匹の会話全体をとおして具体的な「意味/概念」を形成することは決してない。

以前にも述べたように、こうした「断片化」の手法は、たとえばウィリアム・S・バロウズやJ・G・バラードによる小説作品を思わせるものだ。これらの小説作品群は「人間の意識の流れ」を再現すること……つまり、我々の「意識の流れ」や「思考」自体が「整理され、順序立てられたものではないこと」を描くためにこうした手法を採用している。我々の思考はノン・リニアでランダムであり、何かのイメージが他のイメージとつながる理由は非常に私的なものであって、他人の理解をにわかには許さないケースも多々ある。こうした人間の「思考」の仕組みを「リアル」に再現すれば、「断片の集積」になってしまうというわけである。だが、では、「Rabbitsの部屋」における「断片化された会話」もこうした「意識の流れの再現」であるのか……となると、どうもそうとは言い切れないようだ。

この「断片化」の手法については、リンチ自身による以下のような発言がある。

----自分が以前に書いたもの、あるいは他人が書いたものでもいいんだけど、それを細かく切ってアトランダムに配置し、それから、まるで他人の仕業みたいにまきちらす。そうして読んでみると、素晴らしかったりするんだ。
(「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.36)

これを読むかぎり、少なくとも「断片化された会話」という「手法」そのものに、バロウズやバラードのような具体的な「意図」をリンチが仮託しているとは思えない。上に引用した言及は、シュルレアリスムの「自動書記」の話題に関連して発言されたものだが、むしろこの発言から連想されるのは、リンチが「絵画」に多用し「インランド・エンパイア」の各所にも現れる「文字のテクスチャー」だ。もしかしたら、この「断片化された会話」は、「絵画」に貼り込まれた「文字」や「映像」の各所に現れる「文字」と同様の発想による、いうなれば「音声のテクスチャー」なのではないのか? そう考えるとき、実は「インランド・エンパイア」に現れる他の台詞も……いや、ひょっとしたらすべての台詞が、リンチにとっては基本的に「テクスチャー」なのではないかという可能性に思い当たる。そもそもリンチにとって映画の製作とは、「映像」というキャンバスに「文字」や「音声」や「音楽」を貼り付ける作業なのではないのだろうか? そして実際、映像におけるポスト・プロダクション作業全般には、そうした感覚に近しいものがある。

話を「Rabbitsの部屋」の事例に限れば、他の可能性として思い付くのは、直前のシークエンスで現れた「ノイズ」との関連である。つまり、「受容者にとって意味をなさない単なるデータの集積」を表すものとして、「成立しない会話/断片化された会話」という手法が使われているのではないかという可能性だ。もちろん、「Rabbits」が短篇シリーズとしてリンチの公式サイトで公開された時点では、まだ「インランド・エンパイア」の企画は存在しておらず、流用を前提にして製作されたわけはない。当然ながら、そこに現れる「成立しない会話/断片化された会話」によって表されるものが、そのまま「インランド・エンパイア」に組み込まれた形で表されるものと同一とは限らないだろう。だが、リンチ自身の発言にもあるように、この短篇シリーズがテレビ番組、「ラフ・トラック(laugh track)」の使用などから特にシットコムを意識して作られたことは事実であり、その意味では「テレビ」を表象するものとして「Rabbits」を捉えることは、決して乱暴な見方ではないはずだ。逆にいえば、リンチが「テレビ」というメディアに関してどのような「感情」を抱いているかを確認することが、「Rabbits」によって表されるものをぼんやりとでも理解するキーになるのは間違いない。

その観点からすれば、やはりリンチがTV版「ツイン・ピークス」製作中のドタバタや、「オン・ジ・エアー」のシーズン途中でのキャンセル(打ち切り)*、パイロット版製作までは到達した「マルホランド・ドライブ」の企画が却下された顛末をつうじて、リンチ自身が受けた「介入/コントロール」の数々は見逃せない。「ツイン・ピークス」に関しては、局側の要請によって作られたヨーロッパ版パイロットの別エンディングについて、「その必要性が理解できなかった」という自身の発言が残されている。また、局側からの圧力によってローラー・パーマーの殺人犯をあの時点で明らかにしなくてはならなかったのは、当然ながらリンチとマーク・フロストが考えていた当初の「大枠」からは外れていたことは間違いなく、その後の展開をみてもわかるように、結果として「ツイン・ピークス」という作品自体にクリティカルな影響を与えたのは事実だ。また「マルホランド・ドライブ」のパイロット製作に関しても、リンチは「尺の調整」を局側から要請されている。時間調整が必要となった理由はCM枠の確保であり、リンチによる「あれは悪夢だった」由の発言が存在する。

いずれにせよ、リンチが「テレビ」というメディアについて、少なくともそこで作品を製作することに関して、「映画」以上の制約を……「介入/コントロール」を感じたことは間違いない。であるならば、「インランド・エンパイア」の中に組み込まれた「Rabbits」が「テレビ」を表象するとともに、それに付随する「介入/コントロール」のイメージを内包しているのも、また当然だろう。


*
最大の皮肉は、視聴率不振を理由にキャンセルされた「オン・ジ・エアー」が、そうしたTV番組製作に関するドタバタそのものを題材にしていることである。おまけに、そのなかに登場するTV局の名前が「ABC」ならぬ「ZBC」だというのもなんともだ。

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (94) »

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

「インランド・エンパイア」を観た(X回目)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (93):

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (94) »

最近のトラックバック