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2008年6月22日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92)

カラ梅雨だとか言ってると、いきなり大雨が降り出しました。「雨乞い」の儀式っスか、このブログは(笑)。

……生贄のニワトリ等々を片付けつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話を続けることにする。今回は(0:03:21)から(0:03:57)まで。

「カメラのレンズ」という「括弧記号」をまたいだ「インランド・エンパイア」は、続けて”「ロスト・ガール」によって表されるもの”の提示を開始する。 

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。
(15)クローゼットの上に置かれたモニター。画面に映し出されるノイズ。白いレースのカーテンが半ば開けられた窓の外には、向かいの建物が見える。窓の前に置かれている椅子の一部が見える。
(16)ロスト・ガールの背後からのショット。右肩越しに、クローゼットの上に置かれたモニターが見える。画面には、ノイズが映し出されている。モニターの右側には扉が見える。
(17)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。画面右側にはライト・スタンドが見える。
(18)モニター画面のアップ。「Rabbits」の映像が早送りで再生されている。
(19)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。
(20)モニターのアップ。画面には「訪問者1」がニッキーの屋敷の前庭を歩く映像が早送りで再生されている。
(21)モニター画面のアップ。モニターに早送りで映し出されている「訪問者1」がニッキーの屋敷の玄関の扉に手を伸ばす映像。部屋に置かれた電気スタンドが、モニターのブラウン管に写り込んでいる。
(22)ロスト・ガールの右側からのアップ。少しクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(23)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(24)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。よりクローズ・アップ。
(25)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(ディゾルヴ)

このシークエンスにおいて、「インランド・エンパイア」はまた新しい「メディア」を二つ提示する。カット(15)に登場する「モニター」によって表される「テレビ」、そしてカット(18)(20)(21)に登場する「ビデオ」である。   

構造的にこのシークエンスをみたとき、カット(16)はエスタブリッシング・ショットとして機能している。つまり、カット(15)で提示されるモニターの画面を観ているのがロスト・ガールであることを、彼女とその肩越しに映されたモニターを同一フレーム内に収めることで状況説明しているのだ。この明示に基づいて、カット(18)(20)(21)(23)(25)のモニター(およびその画面に映されているもの)のショットに対し、カット(17)(19)(22)(24)のロスト・ガールのショットが「カウンター・ショット」として機能していることが理解される。つまり、このシークエンスでは、「観るもの=ロスト・ガール」と「観られるもの=モニターの画面に映されているもの」という関係が、何度も繰り返し提示されていることになるのだ。これが「メディア」とその「受容者」の関係を表していることはいうまでもなく、こうしてロスト・ガールは”「受容者」の概念”を表しているものとして位置付けられる。

このように「受容者」としてロスト・ガールを位置づけたとき、前回述べた、「普遍=顔のない女性」から「個別例=ロスト・ガール」への「置換」のキーがなぜ「カメラのレンズ」のショット(カット(13))であるかが理解される。なによりも、「カメラのレンズ」と「受容者=ロスト・ガール」がともに「観るもの」であるからだ。そして、「括弧記号」の始まりが「観るもの」であるならば、その終わりが「観られるもの」=「映写機の光」=「登場人物=スー」であるのも、また当然であるはずだ。

同時に、以前にも述べたように、ロスト・ガールが「モニタ」を通じて映像を受容しているという描写そのものが、リンチが抱く「映画」というメディアに対する「考え」に基づいたものである。「映画」を「映画館」で観ることの重要性についてリンチは繰り返し言及しているが、それは逆にいうと、「モニタ」による「家庭内での視聴」が我々の「映画受容のスタイル」としてむしろ主流になっていることの表れでもある。そのこと自体の是非はともかくとして、我々にとって「映画館で映画を観ること」と「モニタで映画を観ること」は感覚的に限りなくイコールに近く、ともすればその二つの行為の間にあるはずの「差異」を見失いがちなのは確かだ。

さて、では受容者=ロスト・ガールは何を観ているのか。具体的映像として提示されているのは、以下の三つだ。

(A)ノイズ=カット(16)(23)(25)
(B)「Rabbits」=カット(18)
(C)訪問者1=カット(20)(21)

(A)の「ノイズ」はひとまずおくとして、まず(B)の「Rabbits」と(C)の「訪問者1」が表すものから述べてみよう。

(B)の「Rabbits」が、自身の公式サイトについて語るリンチの発言から、「テレビ」に関連するものであるのは確かである。かつ、その形式において、「シット・コム(Sitcom)」と略称される「シチュエーション・コメディ(Situation Comedy)」を踏襲しているのも明らかだ。この部分からみれば、これはやはり「テレビ」という「メディア」への言及であり、かつ「早送り」の映像で提示されている点からして「ビデオ」への言及であることは間違いない。しかし、「Rabbits」に登場するウサギたちに関連したこの後の描写をみるとき、彼/彼女たちが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対して「介入/コントロールするもの」の概念として……端的にいえば、その「製作者」を表すものとして描かれていることが理解されることになる。それは、ジャック・ラビットとMr.Kの関連性を提示する映像(1:20:40)や、老人たちがウサギたちに変貌する描写(2:04:31)などに明らかだ。上記のような事柄を踏まえたうえで、受容者=ロスト・ガールとの関係性をポイントにするなら、これは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する情報を受容者=ロスト・ガールが「テレビ/ビデオ」という「メディア」を通じて受け取っていることへの言及と捉えるのが妥当だろう。

同様のことが、(C)の「訪問者1」に関しても指摘できる。この「訪問者1」が付随させる「外部性」のイメージに関しては、これまでも何度か述べてきた。彼女が「ニッキーの屋敷」を訪問するシークエンスでの描写(0:13:03)から理解されるように、彼女は「映画」というメディアに関する「言説」を述べる存在……つまり評論する存在である。ウサギたちに表される「製作者」と同じ「映画に関係するもの」でありながら、「訪問者」たちは「外部」にいる。訪問者1がニッキーに語る「言説」がどこか予言めいているのは、まさしくそのためだ。彼女は「外部」から「内部」を覗き見ることしかできず、自分の考えるところを述べることしかできない。その「言説」が正しいかどうかは……たとえば「ニッキーが明日になれば、向こうの長椅子に座っているかどうか=伝説の一部となっているかどうか」は、結果をみるしかないのだ。そして、(B)の「Rabbits」の映像と同じく「訪問者1」の映像も早送りで提示されていることからわかるように、彼女の「言説」も「テレビ/ビデオ」といった「メディア」を介して受容者に向け流布される。我々は、こうした「メディア」によってこれから公開される「映画」の情報や言説を、日常的に受け取ってはいないだろうか? また、この「訪問者1」の「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「言説」に限っていえば、彼女がニッキーの屋敷を「訪問」することからも明らかなように、演技者=ニッキーに関するものも含まれている。マリリン・レーベンスのTVショウと同じく訪問者1の「言説」も、受容者が抱く演技者ニッキー個人への「感情移入=同一化」に対して機能しているのだ。

残る(A)の「ノイズ」だが、これは様々な読み取り方が可能であるように思われる。基本として、これもまた「テレビ/ビデオ」という「メディア」の表象であることは間違いない。かつ、それが映し出しているのが、受容者にとって何の意味もなさない「データの集積=ノイズ」であり、過多な情報は結果として単なる「空白(ブランク)」に等しいものになることを考えると、この表現自体が「テレビ/ビデオ」という「メディア」に対するリンチの皮肉として(「テレビは死んだ」)受け取ることもできるかもしれない。だが、より重要なのは、カット(23)(25)にみられる、「ロスト・ガールの部屋の内部」がモニター画面上に反射して映り込んでいるという描写だ。これを表現主義的なものとして捉えるなら、この映像が提示するものは、モニターに映される「ノイズ=空白(ブランク)」同様、そこに二重写しされた「ロスト・ガールの部屋の内部」も「空虚(ブランク)」であることに他ならない。当然ながら、それは”ロスト・ガールがその「内面」において「空虚さ」を感じていること”を表しているのと同義である。「鏡」などの反射物を使った登場人物の「内面描写」は、映像における表現主義的手法としてひとつの定番だが、カット(23)(25)は基本的にそうした表現の延長線上にあるものとして理解すべきなのだ。

ひるがえって(B)(C)に関連したカット(18)(20)(21)を子細にみたとき、実はそこでもモニタ画面に「ロスト・ガールの部屋の内部」が映り込んでいることが確認できるはずだ。正直なところ、これらのカットを観ただけではなんのことだかよくわからない。だが、カット(23)(25)が表現主義的手法に則ったロスト・ガールの「内面描写」であることに気づいたとき、同じくカット(18)(20)(21)の映像もロスト・ガールの「内面描写」ではないのかという可能性に思い当たる。つまり、「モニタ」に映し出されたものを受容者であるロスト・ガールが受容した際にその「内面」に発生した事象が、あるいはその「内面」に喚起された感情が、映像として提示されているのではないか……ということだ。この後の「インランド・エンパイア」の映像を読み取るに際して、この見方は非常に重要なポイントとなる。たとえば「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といったリンチの過去作品において、そこで提示されている映像を我々はフレッドやダイアンの「内面」にある「心象風景」として、あるいは「感情や主観に歪められた記憶」として理解した。同じように、「インランド・エンパイア」が提示する映像もまた誰かの「心象風景」であり、その人物の「感情や主観が反映された事象」を表しているものとして理解されることが、このシークエンスにおいてすでに示唆されているのだ。

話を戻して、上記のように「ノイズ」によって表されるものを捉えるとき、なぜ「受容者=ロスト・ガール」が泣いているのかが端的に理解される。彼女が感じている「空虚さ」は、「ここはどこ?(Where am I?)」というキーワードに表されている「自己確認の欠落/不能性」からきているのだ。その「欠落/不能性」が「機能しない家族=トラブル」に起因することを、”「機能しない家族」の「原型=普遍」”が「個別例=ロスト・ガール」に「置換」されるシークエンスを通じて我々は理解している。

ここで留意しなければならないのは、カット(5)-(10)で提示される「機能しない家族の原型」によって表されるもの……つまり、「顔のない男女」によって演じられる”「娼婦」と「客」の関係性”が、”「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性”を表象する「表現」であること(もしくは「表現」でしかないこと)だ。そして、「娼婦」という存在によって表されるものも、やはり「インランド・エンパイア」においては抽象的なものであり、”一方的な関係性を強要される「対象」”を表す「象徴」なのである。この後の「インランド・エンパイア」が提示する様々な「機能しない家族」の「個別例」をみればわかるように、そこには必ずセックスの要因が介在するとは限らない(もちろん、大きな要素ではあるが)。根底にあるのは「家族間に発生する一方的な関係性」なのであって、「娼婦」という「表現」を短絡的に「セックスの要因」に帰することは、「インランド・エンパイア」が提示する「トラブル=機能しない家族」の本質を見誤ることになる。冒頭において提示されるこれらの「原型」や「概念」は、この後の「インランド・エンパイア」が提示する映像表現を理解するうえでの基礎となるものだ。たとえば「機能しない家族」の「個別例」の集積がその「抽象概念」を構成するといった「表現」の根底には、「機能しない家族の原型」という「概念」が確実に横たわっている。あるいは、スー=ニッキーやドリス、ロスト・ガールが「娼婦」として「ストリート」に立つという「表現」から浮かび上がるのは、彼女たちがすべて”一方的な関係性を強要される「存在」”であることだ。開巻4分弱程度の間に、「インランド・エンパイア」はこれだけ凝縮された「イメージの連鎖」を展開するのである。

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