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2008年6月21日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (91)

うおお。暑いぞ。カラ梅雨だし。と、汗をかきつつ進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話なのであった。前回とりあげたシークエンスと一部重複しつつ、今回は(0:02:45)から(0:03:25)まで。 

というわけで、さっさと具体的な映像から。 

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(14)と同一の部屋であり、カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側からの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

どこか (0:03:16)
(13)緑がかった光を反射するカメラのレンズ
(ディゾルヴ)

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。

構造的なところからこのシークエンスをみてみると、まず、カット(11)-(12)-(13)がクロス・カッティングになっていることが理解される。つまりカット(11)カット(13)のロスト・ガールの部屋のショットの間に、カット(12)の「顔のない男女」が性交を行った部屋のショットが挟まっている形だ。これらのショットの間、カット(10)の終了間際から流れる「Polish Poem」がサウンド・ブリッジとして機能し、カット同士の関係性/連続性を明示している。 

さて、ではこれらのカット間にどのような関係性が存在しているのか。

まず、カット(11)カット(12)の部屋がそれぞれ異なった部屋であることは、その内部構造と置かれている備品の位置から明瞭である*。かつ、(2:48:41)でニッキーと抱擁を交わした後のロスト・ガールが部屋から出て走る「廊下」が、カット(5)で「顔のない男女」が登場する「廊下」と同一であることから明らかなように、ロスト・ガールの部屋は「第一の顔のない女性」が性交を行った部屋と同一の建物の内部にある。「廊下」の映像を観る限り、この二つの「部屋」以外にも「部屋」が存在していることは明瞭で、後に繰り返し登場し変奏される”「普遍」とそれに含まれる「個別例」の関係”というモチーフが、すでにこの段階で認められることになる。二つの「部屋」に置かれた調度品は同一の意匠のもとにあり、部屋自体は異なっても基本的に「類似」のものであることを示唆している。もちろん、リンチの表現主義的な発想を前提とするなら、この「外見上の類似性」は「その内部で発生している事象の類似性」……つまり、どちらの部屋の内部でも「機能しない家族」の事象が発生していることを示している。 

そして、この「内部で発生している事象の類似性」、そして「普遍」と「個別例」の関係性は、カット(5)-(10)に表れる「第一の顔のない女性」と、カット(11)に表れる「第二の顔のない女性」の関係性に引き継がれる。カット(10)の部屋の内部で「第一の顔のない女性」が関与している事象と、カット(11)の部屋の内部で「第二の顔のない女性」が関与している事象は、いずれも「機能しない家族」の事象であるという点で「同一」のものである。それを踏まえたうえで、カット(12)の”「第一の顔のない女性」が消失した部屋”が表すものを考えるなら、参照項となるのはエンディング・ロールの「ファントムの妹の消失」と「長椅子に座るニッキー」のショットの関係によって表象されるものだ。この二つのショットが「ファントムの妹」と「長椅子に座るニッキー」の「同一性/等価性」を表すのであれば、カット(12)カット(14)の二つのショットによって表されているのは、「第一の顔のない女性」と「第二の顔のない女性」の「同一性/等価性」であることになる。もちろん、リンチ作品において、この「同一性/等価性」とは、あくまで「内面における同一性/等価性」=「同じ感情の共有」のことを指す。間違っても「登場人物の同一性」などという具象的なものではない。 

「普遍」と「個別例」の関係でいえば、「第一の顔のない女性」は「『機能しない家族』の原型=普遍」に関与し、「第二の顔のない女性」はその「個別例」に関与している。カット(11)から(14)までによって構成されるシークエンスが提示しているのは、「第一の顔のない女性」が関与する「原型=普遍」が、「第二の顔のない女性」が関与する「個別例」に、「等価性/同一性」を保持しながら置き換わりつつあることなのだ。カット(11)ではモノクロの画面処理と「顔がない」という共通した描写を残しつつ、カット(12)では同じアングルで「第一の顔のない女性」の部屋を提示し、なおもそのアングルを保持したままカラーに変わるカット(14)において、この「置換」の描写は最終的に「第二の顔のない女性=ロスト・ガール」であることを明示して終了する。 

この「置換」のキーとなるのは、カット(13)の「カメラのレンズ」のショットである。この「カメラのレンズ」のショットが、(2:46: 59)から三回にわたって現れる「映写機の光」のショットと対になっていることは、以前にも述べた。この二つのショットは対応する「括弧記号」として機能しており、「インランド・エンパイア」の本体部分を囲んでいる。すなわち、この「レンズのショット」は、これ以降が「映画というメディア」に関する記述であることの宣言である。この後、三時間弱にわたって提示されるものを考えたとき、その初めの"括弧記号=「"が、「カメラのレンズ」であること自体、きわめて示唆に富むものであるといえるだろう。「映画における『感情移入=同一化』」は、「インランド・エンパイア」が内包する基本テーマのひとつである。それは「映画というメディア」特有の「観るもの」と「観られるもの」の関係として……つまり「登場人物と受容者の『視線の共有』の問題」として、あるいは「登場人物と演技者の『視線の交換』の問題」として提示される。であるならば、ここで”一方的に「観るもの」”である「カメラのレンズ」が提示される理由は、非常に明白であるはずだ。逆に、閉じる側の”括弧記号=」”が対をなして「対置」されるものである以上、それが「映写機の光」という”一方的に「観られるもの」”である理由も、また当然だといえるだろう。

なぜ「置換」のキーが「カメラのレンズ」なければならないのかについては、続くシークエンスにおいて明らかになる。


*カット(9)で「顔のない女性と男性」が画面右側からフレーム内に入ってくることからわかるように、カット(9)の部屋の入り口はその方向にある。仮にこの部屋が「ロスト・ガールの部屋」であるなら、(2:47:27)でニッキーが入ってくる入り口との位置関係からして、カット(9)の椅子とライト・スタンドがある位置には、「モニター」が置かれていなければならない。おそらく撮影は同じ部屋で行われたのだろうが、椅子の位置などで微妙に異なる部屋に仕立てられているのだ。

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