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2008年6月18日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (90)

というわけで、サクサク頭から進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(0:00:07)から(0:03:16)までのシークエンスをば、ひとつ。

といいながら、このシークエンスが実は、前回とりあげたオープニング・シークエンスの一部であることは映像から明らかだ。念のため、前回取り上げたオープニング・シークエンスを含めた形で具体的な映像をみてみる。

オープニング (0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

薄暗い廊下 内部 (白黒) (0:01:33)-(0:2:05)
(5)両側に扉が並んだ薄暗い廊下。画面手前から廊下の奥へと向かう「顔が消された」男性と女性。
※天井の灯りの形状から、(2:47:13)でロコモーション・ガールの二人が、そして(2:48:41)で部屋を出たロスト・ガールが走ったのと同じ廊下である。
[ポーランド語で]
女性: I don't recognize this hallway. Where are we?
男性: At our room now.
二人はある扉の前で立ち止まる。
(6)ミドル・ショット。男性と女性のツー・ショット。右手に持ったバッグの中を探る女性。
女性: I don't have the key.
男性: No. You gave it to me. I have it.
(7)カット(5)と同じ廊下のショット。逆光でシルエットになっている「顔が消された」男性と女性。
女性: What's wrong with me?
画面左手の扉の鍵をあける男性。そのまま扉を開く。部屋の中に入る男性と女性。誰もいない廊下だけが残される。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:2:05)-(0:02:45)
(8)若干上から見下ろした部屋の内部のショット。右手には白い壁と白い扉。正面にはレースのカーテンがかかった窓。窓の前には長椅子と椅子がそれぞれ一脚。そして、ライト・スタンドがある。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。
[ポーランド語で]
女性: This is the room? I don't recognize it.
画面右手から表れる女性。画面の真ん中、絨毯の上で立ち止まる。続いて男性が表れ、右手の壁に背をもたせかける。
男性: Take off your clothes.
女性: Sure...
長椅子に向かい、座る女性。男性は壁にもたれたまま、膝を曲げ、右足の裏を壁につける。
男性: You know what whores do?
女性: Yes. They fuck. 
(9)男性の左側からのミドル・ショット。画面右端に見切れる形で男性、女性は画面左の長椅子に座っている。男性と女性の間にあるライト・スタンド。女性の背後のレースのカーテンがかかった窓からは光が入っている。女性はスカートをたくし上げ、脱ぎ始める。
女性: Do you want to fuck me?
男性: Just take off your clothes. I'll tell you what I want.
女性: Fine. 
女性は黒いショーツを脱ぐ。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。 
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid...... 

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側らの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

カット(3)カット(5)以降のシークエンスとの関連性をもっともストレートに受け取るなら、このモノクロ映像のシークエンスはカット(2)(3)(4)の「再生されるレコード」によって伝えられるもの……つまり、その「録音内容」であることになる。より詳しく述べれば、カット(5)以降のシークエンスによって表されるのは、カット(2)で「録音された男性の声」が伝える「Axxon N.」という題名のラジオ・ドラマの「映像化/視覚イメージ化」だ。カット(2)(3)(4)とディゾルヴによるカッティングを施され提示される「再生されるレコード」のショットは、文字どおり「史上最長のラジオ・ドラマ」が延々と流される有り様を時間経過を省略しつつ伝えており、男女の顔が消されているのはラジオ・ドラマであるがゆえの「具体的描写の欠落」を表している……という見方である。

だが、「インランド・エンパイア」全体を見通しつつこの「顔のない男女」のシークエンスをみたとき、また違った捉え方の可能性が浮かびあがる。すなわち、このシークエンスが提示するものが、この後「ポーランド・サイド」および「アメリカ・サイド」の両方において提示される、多種多様な「機能しない家族」の「原型」であり「典型」なのではないかという可能性だ。言葉を変えれば、このシークエンスで提示されているのは、そうした”様々な「機能しない家族の具体例」の「総体」によって表されるもの”と「等価」の、「『機能しない家族』の抽象概念」なのである。となると、「男女」が「顔」を持たない理由は明瞭だ。彼/彼女は、「機能しない家族」の「原型」あるいは「抽象概念」の当事者である。彼/彼女自身が「抽象的かつ総体的な存在」であり、他の誰にでも置き換え可能であるがために、彼/彼女は「顔」という「具象性」を持てないのだ。

この捉えかたの延長線上にカット(2)(3)(4)で現れる「再生されるレコード」のショットを置くなら、これまた別の意味合いを帯びてくる。この映像が「記録メディア」が備える「再現性」や「反復性」を表していることは前回にも述べたとおりだが、ひとたび「機能しない家族」の「原型」として「顔のない男女」のシークエンスを捉えたとき、それは「Axxon. N」という固有の「作品」の話ではなくなるし、「ラジオ」や「レコード」といった特定の「メディア」の話でもなくなる。つまり、いろいろな「メディア」においていろいろな「作品=物語」が伝達されるが、たとえ細部は違っても、多くの「作品」が提示しているのは「機能しない家族像」の「個別例」であり、「原型」をもとにした「リフレイン」や「ヴァリエーション」……「再現」や「反復」であるということだ。非常に乱暴な言い方をしてしまえば、それは「よくある話」である。だが、同時に、それは有史以来人間が繰り返してきた営みの一部であり、かつ明確な「解決策」などなく、それがゆえに「普遍性」を備えているともいえる。そもそもリンチが「機能しない家族」や「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というテーマに惹かれ、それをリフレインし続けるのは、その「普遍性」のためであり、それこそが「現実」における最大の「不条理」だからではないのか。いや、リンチだけでなく、現在過去を問わず多くの創作者が、様々な「メディア」において多様な「機能しない家族」像を描いてきた(いる)のも間違いのない事実なのだ。

「現実」において、このシークエンスが提示するような事象は、いつだって、どこでだって発生してきた。そして、現在も発生し続けている。当然ながら、それは「作品=非現実」においても同様だ。それを端的に表すのが、カット(10)における「ここはどこ? こわいわ(Where am I? I'm afraid. I'm afraid......)」という女性の台詞である。これと同じ台詞が「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいて、「私は娼婦よ(I'm whore)」という呟きとともにスー=ニッキーによってリフレインされる(2:07:37)ことは、すでに指摘したとおりだ。しかし、このキーワードのリフレインがスー=ニッキーによって「のみ」行なわれるのは、たまたま「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「作品」を「個別例」としてとりあげているからに過ぎない。他の作品において、他の登場人物が同様のキーワードを発していたとしても、いったい何の不思議があるだろう?

さて、このキーワードは、「顔のない女性」による「場所の見当識の失当」を訴える台詞である。カット(5)では彼女は「薄暗い廊下」の場所を認識できないし、カット(8)では「部屋」を認識できない。かつ、カット(7)の台詞にあるように、彼女は自分のそうした見当識の失当が何故であるのかも理解できてない。それはカット(10)においても同様で、彼女は結局「場所に対する見当識」を獲得/回復できないままでいる。この描写もまた、この時点ではその表すものは定かではない。だが、この後、本編において展開されるスー=ニッキーおよびロスト・ガールの「意識の変遷」と「自己認識の獲得」を踏まえれば、「顔のない女性」の「混乱」は、そのままの彼女の「自己認識」の欠落とイコールであるといえるだろう。彼女が「こわいわ(I'm afraid)」と漏らすその恐怖の対象は「自己認識の欠落」であり、自分が拠って立つところの喪失に他ならない。そして、「顔のない女性」を始めとする女性たちが「自己認識」を獲得できないでいる要因は、このシークエンスで描写されるような「男女関係」……女性が「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性……つまりは「娼婦」と「客」の関係性である。このシークエンスが提示する「機能しない家族の原型」が発生要因はこの「関係性」にあり、それは登場人物=スーや演技者=ニッキー、そして一般的受容者=ロスト・ガールにとっても同じであることが、この後、描かれることになる。

カット(11)に登場する、ベッドに座るもう一人の「顔のない女性」のショット、そしてカット(12)における「顔のない女性」の消失は、続くロスト・ガール関連のシークエンスへと引き継がれるものである。それについては、次の回で述べよう。

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