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2008年6月16日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (89)

んなわけで、振り出しに戻って続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。

御存じのとおり完全に行き当たりばったりで書き進めてるので、こりゃまったくの偶然なんでありますが、「インランド・エンパイア」を映像に則して論じる場合、頭から順番どおりやるより途中から始めちゃったほうが楽チンでありますな(笑)。このあたりも、リンチ作品の言語化が困難な理由のひとつなのかもしれんけど、やっぱり総体的に理解されるべきものなのでありましょう。あ、あくまで「論じやすい」んであって、「わかりやすく」書けてるかどーかはまた別物ですので、念のため(笑)。 

さて、「インランド・エンパイア」の開巻と同時に提示されるのは、以下のような映像だ。 

(0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

このシークエンスによって提示されているのは、「映画」「レコード」「ラジオ」といった「メディア」のかなり直截なイメージだ。こうしたイメージの提示により、オープニング全体をとおして行われているのは、「インランド・エンパイア」が「メディアについての映画」であることの宣言である。

日本語では「媒体」という訳語が当てはめられる「メディア(media)」(正確にいうとこれは複数形で、単数形は「メディアム(medium)」である)だが、そのもともとの語義には「中くらいのもの」という概念と同時に、「中間にあるもの」という概念も含まれている。つまり、何かと何かの(誰かと誰かの)「中間」に存在し、 仲介して伝達を行うものが「メディアム」であって、よりさかのぼればその語源は神と人間をつなぐ「霊媒師」にまでたどりつく。これらの概念が、まさしく「インランド・エンパイア」が描く「映画」の姿と、あるいはリンチが考える「映画」の機能と、根本部分で重なりあっていることは容易に理解できるだろう。たとえば、「インランド・エンパイア」において、リンチがいう「映画の魔法」は「ファントム」という「媒介者」として提示される。彼が文字どおりの「触媒」として機能すること……もしくは「ミルクをチーズに変える微生物」のように機能し、受容者=ロスト・ガールの「内面」を変えることは、本編を観てのとおりだ。一方で、演技者=ニッキーは登場人物=スーと「同一化」を果たし、その「感情」を「伝達」する「仲介者」となる。上述した「メディア」の語源を考えれば、このニッキーのスーに対する「同一化」の過程は、託宣を得るために神に憑依され融合する「巫女」のイメージと、どこかで重なるものだといえるだろう*。「誰かを他の何か(誰か)とみなす」あるいは「他の誰かに共感する」という「能力」は、おそらくは「人間」が「人間」になった太古にはじまり、そして現在に至るまで連綿と引き継がれるものだ。

そして、これらの「メディア」のなかでも、「インランド・エンパイア」の「核」となるのが「映画というメディア」であることが、カット(1)カット(2)によって明示される。闇を横方向に切り裂く円錐形の光が、「映写機の光」を表すことをは間違いない。そして、そこに「インランド・エンパイア」というタイトルが浮かび上がる。このカッティングが指し示す「映写機の光」と「タイトル」の関連性は、「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であることの明瞭な提示だ。

「ラジオ」というメディアについては、カット(2)での「録音された男性の声」による「ラジオ・ドラマ(radio play)」という言及があるのみで、具体的な映像としては提示されれない。かわりに提示されている映像が「回転し再生されるレコード」であることをストレートに受けとるなら、「男性の声」はその「レコード」に録音されたものであるということになるのだろう。だが、より重要視しなければならないのは、「インランド・エンパイア」が提示する「メディア」が、基本的に「記録メディア」であることが示唆されている点だ。それは、このカット(2)に続き、ディゾルヴによるカッティングでカット(3)(4)が重ねられていることにも表れている。なぜ、ここでこのようなカッティングが……別テイクによる「再生されるレコード」のショットの繰り返しが用いられているのか? 単に「録音された男性の声」と「再生されるレコード」の関係性を表すだけなら、同じテイクのワン・ショットで十分なはずである。可能性として考えられるのは、カット(3)(4)が、カット(2)のリフレインであると同時にヴァリエーションであること、そして「記録メディア」が備える「再現性」「反復性」を表象しているということだ。

注意をひかれるのが、カット(3)における抽象的な紋様のような「ガラス様のもの」のショットである。これが何を表すのか、この時点では定かではない。だが、後にこれと類似するショットが(1:04:33)において現れたとき、その意味するところがぼんやりと見えてくる。(1:04:33)において提示されているのは、実体化した「スミシーの家」の内部から、スー=ニッキーが窓ガラス越しに「家の外部」を見るシークエンスだ。このシークエンスにおいて提示される、「薄汚れた窓ガラス」の映像がアウト・フォーカスからイン・フォーカスに転じるショットは、このカット(3)で提示される映像と酷似している。もし、これが同一のものであるならば、カット(3)の映像は(1:04:33)の映像と同じ機能を果たしていることになる。「スミシーの家」が「人間の内面」……特にニッキーおよびスーの「内面」を表すものと捉えられることについては、何度か述べてきた。この観点に基づくなら、「スミシーの家」から窓ガラス越しに外を見ることは、すなわち「内面」から「外界」を見る行為の表象として理解されることになる**。もし、このカット(3)における「汚れたガラス」越しのショットが「内面からの外界の認識」を表しているのなら、問題になるのは、その「認識される外界」が「回転するレコード」という「記録メディア」であるというまさにその一点にある。なぜなら、後に明確になるように、「インランド・エンパイア」が描いているのは、そうした「外界にあるもの=記録メディア=映画」によって、人間の「内面」が変化するということに他ならないからだ。

そして、「男性の声」は、「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ」のことを語り、そのドラマのタイトルが「Axxon N.」であることを告げる。この後、この「Axxon N.」は、本編において「視線の交換」を伴いつつ三度にわたり発現し、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体に対して機能する。この「男性の声」によるアナウンスがまず伝えるのは、こうした「感情移入=同一化」が「映画」以外のメディアにおいても発生し得ること……たとえば、「ラジオ」においても発生し得ること、ひいてはどのようなメディアにおいても「Axxon N.」が発現する可能性が存在することだ。加えて、このアナウンスは、「インランド・エンパイア」は「メディア」について語るが、その内容が「技術的な発達史」に関するものではないということをも表している。この作品が描くのは、そうした技術を「手段」として「感情」を伝えることについてであり、「物語創造/物語伝達」についてである。そのことは、後に「90歳の姪」に関するキングズレイ監督の言及によって、より明確にされる(0:40:59)。

同時に、「男性の声」は「バルト地方(baltic region)にある、曇った冬空の下の古いホテル」についても言及する。「インランド・エンパイア」においてこの「バルト地方」が何を表すかについては、この時点では定かではない。だが、後にピオトルケが参加するサーカスが「バルト地方」を巡業しているという言及があり(1:43:37)、それを考慮すれば「バルト地方」によって表されるものには、「サーカス」によって表されるものが付随させる「公的」「社会」「組織」といったイメージが伴っていることは明らかだ。いずれにせよ、「バルト地方」が「ポーランド・サイド」と同じく、「アメリカ・サイド」と併置され対置されるものであることは明瞭だ。基本的に、「ポーランド・サイド」は一般的受容者=ロスト・ガールに関連するものを表し、「アメリカ・サイド」が演技者=ニッキーと登場人物=スーに関するものを表象している。それを考えるとき、要素として残されているのが、ウサギたち/老人たちといった「介入/コントロールを行うもの」とピオトルケであること、そして老人たちによる「介入/コントロール」が「バルト地方」のどこかにある「家」においてピオトルケに対し行われること(2:01:35)は、一考に値するだろう***

しかし、先に述べた「再現性」「反復性」の問題は、この後に続く、カット(3)における女性の「階段が暗くて」という台詞に対応するシークエンスにおいて、また違った意味を帯びる。それについては、次のシークエンスについて述べるときに触れよう。


*余談になるが、このように「メディア」の語義をキーにして、ニッキーのスーに対する「同一化」の過程を「統合失調症の症例」とするアプローチをみたとき、加藤幹郎氏のラカン派精神分析学に対する「精神分析学は人間救済をめざした宗教の権威が地に堕ちたときに登場した擬似科学的な新興宗教のようなものです」(「ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学」P.149)という指摘が奇妙に符合してしまうことに気づかされる。おそらく、依代となり「神」に憑依された古代の「巫女」は、現代の精神分析医の診断によれば「統合失調症」を発症していたことになるのだろう。精神分析学が「宗教の代替物」であるならば、これは極めて正当な見方だ。たとえば、上記の「おそらく~」以下のセンテンスの、巫女が信じる「神」を「異神=自分達が信じるのとは違う神」という語句に入れ換え、「統合失調症を発症していた」を「自分達の戒律を破った」という語句に入れ換えてみても、さて、どれくらいの違いがあるのだろうか?

**ついでにいえば、「スミシーの家」の「窓ガラスの汚れ」は、人間の「外界」に対する認識能力の「限界」や「不確実性」の表れ……文字どおり「主観に歪められた外界認識」を表すものと受け取ることも可能だ。だが、それは逆に、「人間の内面」を第三者が「覗き込む」ことの「限界」と「不確実性」、そして「主観に歪められた他者の内面に対する認識」の表れでもある。

***どの「場所」にでも現れる(あるいは、侵入する)「ファントム=映画の魔(法)」と、外部的なものである「訪問者たち」は、要素として除外される。

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