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2008年6月14日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (88)

なーんか、一挙に夏っぽくなってきておりますが、一年を過ぎてまだヘロヘロと続く「インランド・エンパイア」話であります。「長いでっせ? 三時間ありまっせ?」と関係の方に念を押されつつ試写を観たのは、去年のこのような季節の頃でありましたのですなあ。

それはそれとして、エンド・ロールの続きをば。

さて、前回で述べたような事項を押さえたうえで、改めてエンド・ロール全体を見回したとき、新たに気づくことがいくつかある。

たとえば(0:09:37)の映像などと比較しつつ、このエンド・ロールが繰り広げられる「舞台」を改めて観れば、実はそこが「ニッキーの屋敷」の内部であることが確認される。絵画を含めたリンチ作品全般において、「家」はしばしば「人間の内面」を表すものとして描かれてきた。それはリンチが抱く「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というモチーフに基づいており、「インランド・エンパイア」もその例にもれないことは、たとえば「スミシーの家」によって表されるものをみても明らかだ。演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であるロコモーション・ガールたちが初めて現れるのが「スミシーの家」の内部であるのは(1:09:11)、そこが登場人物=スーの(そして演技者=ニッキーの)「内面」であるからに他ならない。そして、その延長線上に「ニッキーの屋敷」を捉えるなら、そこにロコモーション・ガールが現れるという表現自体が、逆説的にその「場所」がニッキーの「内面」であることを指し示していることになる。言い替えれば、エンド・ロールで提示されている映像はすべてニッキーの「内面」で発生している事象であり、そこで繰り広げられる「祝祭」も、ニッキーの「内面」に存在する「感情」を表象するものとして読み取られるべきだということだ。

「内面としてのニッキーの屋敷」という観点を考えるうえでキーになりそうなのが、「ファントムの妹」による「ステキ(Sweet)」という台詞である。この「ステキ」という台詞が、(1:28:24)においてすでに登場していることにお気づきの方も多いかと思う。その「ステキ」という台詞は「スミシーの家」の内部において、ロコモーション・ガールの一人から、他のロコモーション・ガールの胸を評する言葉として発せられていた。この(1:28:24)の「ステキ」に限定していえば、ロコモーション・ガールたちがニッキーの「情緒の記憶」である限りにおいて、いわばニッキーの「内省」であるといって差し支えないだろう。だが、「記憶」という概念をキー・ポイントにしたとき、ある思いに行き当たる……「ハリウッド伝説」に限らず、「伝説」というもの全般がある種の「記憶」であり、必ずなんらかの「感情」を伴って成立するものではないだろうか? いや、それをいうなら、何かが誰かの「心」に残るとすれば、それは例外なく感情や主観のバイアスがかかった「心象風景」としてであることを、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」などのリンチ作品は提示してはいなかったか? いずれにせよ、ロコモーション・ガールによる「ステキ」が「自らの記憶」に対する「感情」の発露とするなら、「ファントムの妹」による「ステキ」をそうでないとする理由は見当たらない。もし、この二つの「ステキ」がなんらかの「共通項」をもち、「対置」され「対応」するものであるとすれば、それはおそらく、ともに「記憶」に対する「感情」である点においてだ。

興味深いのは、前回にも少し触れた「ファントムの妹」の消失である。この表現を理解するキーとなるのは、(2:54:08)および(2:58:38)におけるニッキーのアップのショットだ。このショットにおける彼女は、長椅子に座ったまま、どこか”上方を見上げている”。この”上方を見上げる”ニッキーは、「ステキ」と呟きつつ”上方を見上げる”「ファントムの妹」(2:53:12)の明らかなリフレインである。この二人によって引き継がれる「上方への視線」という共通した動作は、同一の「感情」を共有していることの表象以外のなにものでもない。そして、もちろん、彼女たちがともに憧憬をもって見上げているのは「ハリウッド伝説」だ。だが、同じ「感情」を抱く同じ「映画関係者」でありながら、ニッキー自身はハリングやキンスキーとともに「伝説」の一部となってそこに残り、「ファントムの妹」は姿を消し、いなくなる。「残るもの」と「消え去るもの」、「伝説となって記憶に残るもの」と「いつしか忘れ去られるもの」……こうした「対置関係」の提示として、ニッキーと対比する形で「ファントムの妹」の消失は描かれているのだ。

ただし、エンド・ロールを「ニッキーの内面」と捉えた場合、ポイントになるのは「ファントムの妹」とニッキーの対比ではない。むしろ重要なのは、二人の間で引き継がれた「感情」そのもの強調であり、それに加えて「同一の動作=同一の感情」の「共有」が示唆するこの二者の「同一性」……つまり「同一の存在」であることの可能性だ。もし二人が同一の存在であるのなら、ニッキーが登場する一方で「ファントムの妹」が消失することには、何の不思議もないだろう。

もうひとつ、「ファントムの妹」と同じく、ニッキーとの対比として表れていると思われる要素がある。それは、(2:54:13)を皮切りに、3回インサートされる「椅子の背でとび跳ねる猿」のショットだ。この猿のショットを、浮浪者2によって言及された「糞をまき散らしつつ、ホラー映画みたいに叫び声をあげる猿(This monkey shit everywhere, but she doesn't care... This monkey can scream... it scream like it in a horror movie)」(2:28:44)の具体的な映像提示と理解するのは、Nikoや「ファントムの妹」の例がある限り、さほど不当なことではあるまい。この「猿」が「サンセット大通り」へのオマージュとして提示され、「動物=自律しながらも、他者のコントロールを受けるもの」を表すものであることについては以前に述べた。「インランド・エンパイア」において「動物」という概念によって表されるものは様々だが、「糞をまき散らしつつ、叫び声を上げる猿」が「介入/コントロールに失敗した映画作品」として理解可能であることについても、以前に述べたとおりだ。我々が「ハリウッド伝説」として記憶に残すのは「華々しい成功例」ばかりではない。「壮絶な失敗例」もまた「伝説」となり得ることは、「インランド・エンパイア」にも引用されている「クィーン・ケリー」の例が指し示している。ニッキーと猿のショットの対比から立ち表れてくるのは、こうした「成功例」と「失敗例」の対置関係であるといえる。

もう一点、注意をひくのは、上述したニッキーと猿のショットとともに、「丸太を切る木樵」のショットもインサートされることだ。つまり、「成功例」と「失敗例」という対置構造に加えて、「丸太を切る木樵」という「木のモチーフ」がもうひとつの要素として持ち込まれている。前回述べた、「木のモチーフ」がリンチにとっての「ある価値観」なのではないかという個人的な印象の根拠のひとつは、このようなところにある。端的にいうなら、「成功」や「失敗」の二つと対置されるまた異なった「価値観」として、「木のモチーフ」=「丸太を切る木樵」が表れているのではないか……という可能性だ。こうした「価値観」の問題は、「インダストリアル・シンフォニーNo.1」における「浮遊するジュリー・クルーズ」と「丸太を切るマイケル・アンダーソン」の対置とも、どこかで重なっているように思える。はたしてこの「価値観」は、森林研究者であったリンチの父親と、そして自身が幼少時代を過ごした50年代のアメリカの「価値観」と密接な関係があるのかどうか。

このエンド・ロールを「構成」という観点からみた場合、大きく三つのパートに分かれていることがわかる。一つ目のパートは、前回触れたカット(1)(2)の部分であり、ここではエンド・ロールの「核」=「ハリウッド伝説」がまず提示されていることについては、すでに述べたとおりだ。同時に、そこでは「ハリウッド伝説」自体を受容する「ファントムの妹」という存在が描かれ、ローラ・ハリングとニッキー(あるいはローラ・ダーン)との関係性を描くことで、ニッキーが「ハリウッド伝説」の一部となったことが示唆される。二つ目のパートでは、ロコモーション・ガール+女性ダンサーたちによる「祝祭」、およびハリングやキンスキーをはじめとする「伝説となった人々」のショットにインサートされる形で(あるいは、平行する形で)、上で述べた「ニッキー」「跳びはねる猿」「木樵」という対置される三要素が提示される。

そして、三番目の最終パートにおける具体的な映像は、以下のようなものだ。

(2:59:06)
(3)ニッキーのアップ。点滅するフラッシュ・ライト。視点はゆっくりと後退していき、ニッキーとキンスキーが赤い長椅子に座っているミドル・ショットになる。
Title: INLAND EMPIRE (白い文字で)
視点はなおも後退し、ロング・ショットに。女性ダンサーたちが、ロコモーション・ガールたちの前で踊っている。
(暗転)

 

このカット(3)が、カット(1)(2)の関係性において提示された「ニッキーの伝説化」の再提示であることは、改めて説明するまでもないだろう。あわせて、中心となっているニッキーからカメラの視点は後退し続け、キンスキーによって表される「他の伝説」の提示を経て、「祝祭」的イメージを含めた全体像を俯瞰する形までワン・ショットで収められてている。

……と、このようにみていくと、エンド・ロール自体が「三幕構成」によって成立していることが確認されるだろう。まず「テーマ」が提示され、次にそれに対する対立概念がぶつけられて、最終的に対立概念を含めた形の全体像が敷衍される……という「三幕構成」である。実際にリンチの意図であるかどうかは定かではないが、このような「シナリオ作法の基本形」がエンド・ロールに認められることは、リンチ作品における「ハリウッド古典的編集の遵守」と並んで、ぜひ指摘しておきたい事項のひとつだ。

繰り返し述べたように、エンド・ロールが提示する「テーマ」とは、「ハリウッド伝説」と「ニッキーの伝説化」である。エンド・ロールが、本編のラストに現れるニッキーのショット(2:52:09)によって表されるもののリフレインあるいはヴァリエーションであり、再提示であることについては前回も触れた。と同時に、そこにみられる「三幕構成」が表すように、エンド・ロールがそうした「テーマ」の詳細な「展開図」として機能していることは明らかだ。こうした「展開図化」あるいは「図式化」は、リンチ作品にしばしばみられる特徴であることも、改めて述べておきたい。

というわけで、これでとりあえず、「インランド・エンパイア」の後半2時間分に関する「イメージの連鎖」について、実際の映像に則しながらひととおり述べたことになる。次回からは、立ち戻って、残る前半1時間分の「イメージの連鎖」をたどってみることにしよう。

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