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2008年6月10日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (87)

なんだかんだしているうちに、試写で初めて「インランド・エンパイア」を観てからほぼ一年が経過したんでであります。いやー、一粒で二度オイシイというか、一粒三百米というか、風速四十米というか、もはやなんのことだかよくわかりませんが、まあ、そのくらい長い間楽しませていただいてるワケで、安上がりといえば安上がりな道楽でありますナ(笑)。

というような感慨はともかくとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業は、「エンド・ロール」に差し掛かるのであったりするのであった。

この(2:52:50)から(2:59:31)までのエンド・ロールによって表されるものの「核」は、その冒頭においてすぐさま提示される。それは、リンチが抱える「ハリウッド伝説」のイメージであり、それに対するリンチ自身の「感情」だ。

(2:52:50)-(2:53:48)
(フェイド・イン)
(1)左から右へパン。白い大理石の柱。枠がはまったガラスの扉と、その両側に置かれた赤い二脚の椅子。右側の椅子の横には背の高い傘付きのライト・スタンドがある。スタンドの横には、大きな木のテーブルがある。左足に木の棒の義足をつけた女性が、松葉杖をついてやってくる。歩きながら、部屋のなかを見回し、あるいは見上げている。大理石の柱まで歩き、それに背をもたせかけ、上方を見上げる。
海兵隊員の妹: Sweet.
左から右へパン。ブロンドのかつらをかぶったNikoが右側の赤い椅子に座っている。椅子の背には彼女の猿が座っている。彼女にクローズ・アップ。
左へパン。ローラ・ハリング(黒いドレス姿)が、左側の赤い椅子に座っている。彼女はほほ笑み、右手で投げキッスをおくる。
(2)ニッキーのアップ。彼女は長椅子の右端に座り、ほほ笑みながらハリングの方を見ている。彼女の背後には、ナスターシャ・キンスキー(黄色いドレス)が、長椅子の左端に座っている。画面外のハーディングに向かって投げキスをするニッキー。

本編の中で、台詞によってのみ言及された二つの「もの」が、このエンド・ロールにおいて「実体」となって現れる。

一つ目は、ブロンドのウィッグを被り、猿を連れて登場するNikoだ。その映像イメージは、「ヴァイン・ストリート」の路上で浮浪者2が言及したそのままである(2:26:30)。当該シークエンスについて述べる際に触れたように、これらの「ブロンドのウィッグ」や「猿」といった「付属物(アトリビュート)」が、彼女が「ブロンド嗜好」や「サンセット大通り」からの引用などの混淆物であり、「ハリウッド伝説」の抽象概念として表れていることを示唆している。そのNikoが登場することによって表されているのは、このエンド・ロールそのものが、リンチによる「ハリウッド伝説」のイメージであるということだ。

映像に登場する順番とは逆になったが、二つ目は「義足の女性」である。彼女は、本編では「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの台詞のなかで言及されている(1:47:35)。この「義足の女性」も言及どおりの映像イメージであることは、改めて指摘するまでもないだろう。キャスト表における「海兵隊員の妹(Marine's sister)」という役名が指し示すとおり、彼女は「ノース・カロライナの海兵隊員だったファントム」の妹である。そして、この「ファントムの妹」が、何よりも強くリンチ自身を指し、ひいては「映画関係者全体の抽象概念」を表象していると捉えられることについては、「ノース・カロライナ」関連の回で述べたとおりだ。彼女がエンド・ロールにおいて「ステキ(Sweet)」と評するものが何であるのかは、前述したNikoの存在によって明瞭だろう。すなわち、この「ステキ」という台詞は、リンチ自身が抱える「ハリウッド伝説」への肯定的な感情の表れとして受け止めるべきものなのだ。

そうしたリンチの「感情」を考えたとき、(2:54:16)を含め何度か登場する「丸太を切る木樵」によって表されるものもまた、リンチが抱く「ハリウッド伝説」への感情の表れとして捉えることができるといえる。この木樵を、「”Hollywood”を切る」との連想において、リンチによる「ハリウッド批判」と捉える意見も目にするが、前述の「ステキ」に付随する肯定的イメージを考えれば、一概にそうも言い切れないようだ。過去作品をみればわかるように、あるいはリンチ自身の発言にあるように、リンチにとって「木」に関連するイメージやモチーフは非常に根元的なものであり、個人的にはもはやある「価値観」であるとすら感じる。実際、最初期の「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」のころから「木」のモチーフは表れており、それ以降も「ブルー・ベルベット」の舞台であるランバータウンの設定や、「丸太おばさん(Log Lady)」などに表れる「ツイン・ピークス」の基本トーンなどに、作品を越えて連綿とつながっている。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」に至っては、マイケル・アンダーソンが木挽台に乗った丸太を鋸で切ってみせるという、「丸太を切る木樵」とまったく同一のモチーフすら存在するぐらいだ。

「青」のモチーフと同様、ことほどさように、リンチ作品における「木」のモチーフは高度に抽象化されており、ストレートな象徴化を許さない。敢えて指摘すれば、リンチ作品における「木」のモチーフが、ポジティヴなイメージを伴って表れることも稀ではないのだ。たとえば「グランドマザー」に登場する「木」から生まれ出る祖母は、主人公の少年にとって、厳格で口喧しい両親の対極にあるものである。あるいは、「イレーザーヘッド」において表れる「鉢のない鉢植えの木」は、ヘンリーの(そして、ヘンリーと重なる当時のリンチ自身の)、覚束ないかもしれないが将来につながる「才能」を表すものとして読み取ることができるものだ。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」におけるマイケル・アンダーソンのパフォーマンスも、空中を浮遊し失墜するジュリー・クルーズと対置される、「確固とした地上のもの」のイメージを内包しているとも受け取れる。

……というようなコンテキストの上に「丸太を切る木樵」を置くなら、それが必ずしもネガティヴなイメージを伴っていないことが理解できるだろう。そもそも自らを投影した「ファントムの妹」が呟く「ステキ」という台詞に表されているように、リンチにとって、「ハリウッド」は基本的にポジティヴな感情の対象である。たとえその中での自分の現状が不本意なものであっても、少なくとも50年代(あるいはそれ以前)の「ハリウッド映画」は、「木」や「森」と同様、リンチの「原体験」のひとつであり、自身の「価値観」を形成する要素となっていることは明らかだ。繰り返される「サンセット大通り」(1950)や「オズの魔法使い」(1939)へのオマージュなどにみられるように、過去の「ハリウッド映画」を含めた50年代に対するリンチの嗜好は何度となく指摘されており、かつ自らもそれについて認める発言を繰り返している。それらの点を踏まえるなら、この「丸太を切る木樵」というモチーフもまた、「ハリウッド批判」というより、むしろそれに対するリンチの肯定的なイメージを伝えるものと受け止めた方が、妥当ではないだろうか。

こうした「ハリウッド伝説」あるいは「過去のハリウッド」に対するリンチのポジティヴなイメージは、ロコモーション・ガールも混じった女性ダンサーたちの乱舞による「祝祭的イメージ」に引き継がれる。リンチのフェイヴァリット作品のひとつである「8 1/2」(1963)の結末でフェリーニは、「ロケット発射台」の(映画内)映画のセットの前で登場人物たちが手をつなぎ、輪になって踊るという「祝祭的イメージ」を描いた。その直前に主人公のグイドが行う「人生は祭りだ。共に生きよう」という呼び掛けは、「インランド・エンパイア」が内包する「映画を介した感情の共有」というテーマとも、どこか重なっているように思える。そもそも参加者の「感情の共有」がないところに、真の「祭」などあり得るだろうか?

上記のような事項をひとまず押さえたうえで、では、このカット(1)カット(2)の具体的な映像をみてみよう。

まず指摘できるのは、カット(1)において、「ファントムの妹」とNiko、そしてローラ・ハリングの映像が長回しのワン・ショットで提示されていることだ。映像から推し量る限り、このショットは周到な計算に基づき、演技者と打ち合わせたうえで撮影を行っていることがわかる。「ファントムの妹」が最初に登場する映像では、Nikoあるいはハリングが座っているはずの椅子には誰もいない。その後Nikoが映され、次にハリングが映される映像では、すでに「ファントムの妹」は姿を消している。カメラの移動とキューに連動して、演技者たちが移動し、あらかじめ決められた所定の位置についているのは明らかだ。この「ファントムの妹」の消失が意味するとことは別項で述べるとして、結論として、この表現によって意図されているものが「ファントムの妹」とNikoとハリングの三者間の「連続性」であり、その「関係性の強調」であるのはいうまでもない。つまり、「ファントムの妹=映画関係者」と「Niko=ハリウッド伝説」、そして「ハーリング=伝説となった演技者」という基本構造が、ワン・ショットの「塊」として、まずこのカット(1)において提示されているのだ。

続いて、それに対するカウンター・ショットとして、カット(2)の「青いドレスを着たニッキーが長椅子に座っている映像」が提示される。それぞれのカットでハーリングとニッキーが交わす「投げキッス」が、この両者の関係を端的に説明している。一言でいえば、両者が「対置」されるものであり、かつ「等価」であることを指し示すのがこの「投げキッス」の交換だ。言いかえるなら、それはニッキー自身が「ハリウッド伝説」の一部になったという「宣言」である。そしてそれは、カット(2)においてニッキーの横に座るもう一人の「伝説となった演技者」=ナスターシャ・キンスキーによって補強される。このカット(2)のニッキーは、着用している青いドレスなどから、直前の本編のシークエンスにおいて提示された映像(2:52:09)と同一であることがわかる。この(2:52:09)の映像は、演技者=ニッキーが不特定多数の受容者=ロスト・ガールからの評価を獲得したことを表象するものであることは、前回に述べたとおりだ。エンド・ロールにおけるこのニッキーの映像の再提示は、その意味するところも含め、文字どおりのリフレインでありヴァリエーションだ。

だが、ここで、我々はある疑問に行き当たる。カット(2)を初めとして、このエンド・ロールで何度か提示されている「ニッキーの映像」は、果たしてニッキーなのか? 「映画の魔法」がもたらす「感情移入=同一化」にもとづき、自らの「情緒の記憶」をもとにして、「演技者」と「登場人物」はその境界すら危うくなるほどの深い「感情の共有」を行う……演技者=ニッキーを軸にして考えたとき、「インランド・エンパイア」はそうした事象を描いてはこなかっただろうか? であるならば、もしかしたら、そこに写されている「ニッキーの映像」が、実は「ニッキーを演じたローラ・ダーン本人」ではないと誰が言い切れるだろう。「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいて、我々が「感情移入の断絶」をつうじて「感情移入の存在」を認識したのと同じように……あるいはモニター越しに行われるニッキー=スーとロスト・ガールの「視線の交換」によって、自らが「受容者」であることを確認したように……我々はニッキーとローラ・ダーンの区別がつかないことを認めることで、「ニッキーとスーの区別がつかない理由」を知る。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のなかで起きたのと同じ事象が、「インランド・エンパイア」のなかでも起きていたとしても、何の不思議もない。

もし、ローラ・ハーディングやナスターシャ・キンスキーを「彼女たち自身」としてエンド・ロールに登場させたリンチの意図が、このような「インランド・エンパイア」の作品構造そのものに関する示唆にあるのだとしたら……これまた、周到な計算による仕掛けということになるのだが、どうだろうか。

(この項、続く)

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