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2008年6月 5日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (86)

てなわけで、Linux2号機にも無線LAN接続完了。このエントリーは2号機からのアップであります。まあ、お勉強させていただいたのは、アレコレ試行錯誤するより、そのカーネルで動作実績のある古目の無線LANカードを二束三文で入手した方が、ナンボか手っ取り早いっちゅーことでしょうか、Linuxのバヤイ。さんざ悩んだ挙げ句、カードを取り換えたら、なーんもせんでも勝手に認識してくれたのには拍子抜け。

というよーな話はどーでもいいとして、さて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」である。引き続き、(2:45:37)から(2:52:33)までのシークエンスの残りである。だが、その前に、現在述べているシークエンスの大きな流れを、ここでもう一度振り返っておこう。今までフローごとに切り分けて記述してきた映像群を、「インランド・エンパイア」が実際に提示する時系列のまま並べるとこういう具合になる。各シーン・タイトルには、とりあげた回へのリンクを付しておいた。

(A)Rabbitsの部屋 (82)
消える三匹のウサギたち。「Rabbitsの部屋」に入ってくるニッキー。彼女は「映写機のまばゆい光」を見る。
(ディゾルヴ)
(B)「暗い通路」のどこか (83)(84)
「暗い通路」のどこかで解放されるロコモーション・ガールの二人。
(C)ロスト・ガールの部屋 内部 (83)(84)
自分の部屋でモニターを見詰めているロスト・ガール。そのモニター画面に映し出されるロコモーション・ガールの二人の解放。どこかの廊下で繰り返されるロコモーション・ガールたちの解放。モニター画面に映し出されるニッキーの到達。ロスト・ガールとニッキーによる「視線の交換」と「抱擁」。そして消え去るニッキー。部屋から出るロスト・ガール。
(D)明るい廊下 (85)
ロコモーション・ガールの二人が走り抜けた廊下を走るロスト・ガール
(E)どこかの暗い階段 (85)
階段を駆け下りるロスト・ガール。
(F)暗い通路 (85)
「暗い通路」を走るロスト・ガール
(G)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
「スミシーの家」の廊下に姿を表すロスト・ガール。
(H)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
「スミシーの家」の居間に入ってくるピオトルケと「スミシーの息子」。
(I)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
居間の扉が閉まる音を聞き付けるロスト・ガール。
(J)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
ピオトルケの「Hello」。
(K)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
ロスト・ガールの「Hello」。
(L)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
ロスト・ガール、ピオトルケ、「スミシーの息子」の邂逅。ロスト・ガールとピオトルケの「視線の交換」と「抱擁」。
(ディゾルヴ)
(M)映画館 スクリーン (82)
映写機のまばゆい光と天井の小さな灯り。
(ディゾルヴ)
(N)「Rabbitsの部屋」 (82)
まばゆい光を見詰めているスー。オーヴァーラップで「赤い衣装のバレリーナ」。まばゆい映写機の光と天井の灯り。
(ディゾルヴ)
(O)「スミシーの家」の居間 (85)
ロスト・ガールとピオトルケの「抱擁」。
(ディゾルヴ)
(P)
ニッキーの屋敷 内部
訪問者1のアップ。
(Q)ニッキーの屋敷 内部
左を向くニッキーのアップ。その主観ショットによる長椅子に座るニッキー。

さて、このようにしてみると、このシークエンス全体の流れが表すものが幾分か明確になってくる。結論からいうと、このシークエンスによって提示されているのは、「『受容者の抽象概念=不特定多数の受容者=ロスト・ガール』によって、登場人物=スーが共感され受け入れられた」ということだ。それはロスト・ガール側からはパート(C)-(L)およびパート(O)によって表され、スー側からはパート(A)およびパート(M)(N)によって提示される。かつ、スーが多くの受容者から受け入れられたということは、すなわち「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品そのものが成功したこと、あるいは演技者=ニッキーが高い評価を得たということとと同義だ。そのうち、「ニッキーが受けた評価」に関しては、残されたパート(P)および(Q)において表象されている。では、このシークエンスの最後に、パート(P)および(Q)を詳細にみてみよう。

ニッキーの屋敷 内部 (2:51:40)
(ディゾルヴ)
(1)訪問者1のアップ。目だけを動かして右のほうを見ている。半ば目を閉じ、やがてまた開く。一瞬の微笑み。少しクローズ・アップ。

ニッキーの屋敷 内部 (2:51:52)
(2)ニッキーのアップ。頭をゆっくりと左に向ける。目を動かして左を見る。やがて、彼女は真っすぐに正面を見る。
(3)ニッキーの主観ショット。カウチと長椅子が見える。屋敷の奥の部屋と廊下に続く扉が見える。扉越しに、隣の部屋とシャンデリアが見える。右手の長椅子のところにシェイド付きの背の高いライト・スタンドが見える。青いドレスを着たニッキーが、長椅子の右端に座り、画面手前のほうを見ている。
(4)ニッキーのバスト・ショット。長椅子に座り、画面手前を見詰めている。
(暗転)

このシークエンスのうちカット(2)は、(0:18:06)のカットの映像と同一のものである。この映像は、ニッキーに対する訪問者1の以下のような示唆に連動して表れているものだ(0:17:46)。なお、同一映像の部分は青字で表示している。

訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there.
訪問者1は部屋の向かい側にある長椅子を指差す。
ニッキーのアップ。いぶかしがるニッキー。
ニッキーは頭を巡らし、長椅子の方を見る。

訪問者1: Do you see?

この(0:17:46)からのシークエンスでは、この後、「ニッキーが友人たちと長椅子で歓談しているところに、エージェントから役を獲得したという電話が舞い込む」という映像につながる。それに対しこのシークエンスでは、カット(2)の「左を振り向くニッキー」に続いて、長椅子に一人で座っているニッキーの映像(カット(3)(4))が提示される。この二つのシークエンスの関係性から読み取れるのは、カット(2)の共通した映像をキーにして、それ以降の映像同士が「等価」であり「併置」されるものであるということだ。つまり、訪問者1による「おわかり?」というニッキーへの問い掛けへの回答として、二つのショット(あるいはシークエンス)が提示されているということである。ひとつは、上に挙げた(0:18:14)から提示されている「友人とニッキーの映像」から始まり、その後、三時間弱にわたって繰り広げられる映像群によって表されるものだ。もうひとつは、この回でとりあげているシークエンスのカット(3)(4)によって表されるものである。前者の三時間弱の映像とカット(3)(4)の関係は、「原因」と「結果」、あるいは「過程」と「結末」の関係にあるといえる。つまりカット(3)(4)で表されているのは、登場人物=スーを演じ「不特定多数の受容者=ロスト・ガール」からの「共感」を受けた結果、「ハリウッド伝説」の一部となった演技者=ニッキーの姿だ。そして、「三時間弱の映像群」は、彼女がそこに至るまでに辿った道筋である。映画が作られ、観られる。受容者が登場人物に「感情移入=同一化」し、自らの現実さえをも変える。登場人物を演じた演技者は、その演技を評価され、伝説となる……「インランド・エンパイア」が内包している「省略されたストーリー」を敢えて言語化するなら、おそらくはこのような「物語」になるのだろう。そして、そのようなことを可能にするのは、リンチのいう「映画の魔法」なのだ。

さて、「訪問者」たちが付随されている「外部性」のイメージに関しては、何度か述べてきた。彼女たちもウサギたちと同じように「介入」のイメージを伴っているが、後者はダイレクトに「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のコントロールに関与しており、前者と比較して「内部性」が高い。逆説的にいえば、「訪問者」はその「外部性」のイメージがゆえにリンチによって「訪問者」と呼称されているのだ。その「外部性」のひとつの表れが冒頭において訪問者1が述べる、「映画」における「時間・場所に対する見当識の失当」や、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品および演技者=ニッキーに関する「言説」であり、それに伴っている「評論的」イメージだ。そして、彼女の「言説/評価」の正しさは……「明日になればニッキーはそこ(の長椅子)に座っているだろう」という言及の正しさは、前述したカット(3)(4)およびエンド・ロールによって表される「演技者=ニッキーのハリウッド伝説化」によって証明されることになる。となれば、カット(1)における訪問者1の満足気な表情が物語るものは、明瞭だろう。

このシークエンス全体を通じて、リンチ自身が作詞・作曲した「Polish Poem」が流れる。このようにして「インランド・エンパイア」が提示する映像が表すものを追いかけたなら、その歌詞が意味するところは明瞭だろう。

この詩をあなたのために歌おう
輝きうねる波が向こう側に見える
それは遠くに
それはあなたのとても遠くにある
でも、私には見える
それが見える

「スクリーン」の(あるいは「モニター」の)向こう側とこちら側で、「彼/彼女ら=映画を作る者」と「我々=受容者」は違いに「視線」をかわし、「共感」するのである。

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