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2008年6月

2008年6月28日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (94)

なんか知らんが、連日酒をかっくらっているような気がする大山崎です。おっかしーなー。なんでそーなるかなー。などと首を捻りつつ、酔っ払いの戯言の続き……じゃなくて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(0:05:57)から(0:08:37)まで。

さて、「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の製作に関する事象の本格的な提示を開始する。それは「Rabbitsの部屋」のシークエンスの終わり間際、ウサギたちが「誰かの足音」を聞きつけるところから始まる。

「Rabbits」の部屋 内部 (0:05:57)
(32)[足音]
ジャック・ラビット: (右を向き、ジェイン・ラビットに向かって)I hear someone.
スージー・ラビット:
(笑う)
(33)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(34)扉の方を見ているジャック・ラビットとスージー・ラビット。ジェイン・ラビットも扉の方を向く。
ジェイン・ラビット: I do not think it will be much longer now.
ジャック・ラビットが立ち上がり、扉に近づく。彼は扉を開け、部屋を出ていく。閉められる扉。閉ざされた扉を見守る残された二匹。

豪華な部屋 (内部) (0:6:41)
(35)薄暗い豪華な部屋の内部。
[扉がきしみつつ開く]
ジャック・ラビットが両開きの扉の左側を開け、部屋に入ってくる。扉のところの照明が明るくなる。次に、部屋全体が明るくなる。それにつれて、画面右を向いたままのジャック・ラビットの姿が、徐々に消えていく。明るくなった豪華な部屋。右手にはピンクのカーテンが開けられた窓が二つ。それぞれの窓の白いレースのカーテンは閉じられている。正面奥にはジャック・ラビットが入ってきた両開きの扉。扉の両側には大きな鏡がはめ込まれている。左手にはピンクを基調した壁。壁には絵がかかっている。壁際と鏡の前には何脚かの椅子が置かれている。絨毯が敷かれた部屋の真ん中には、中央に長椅子が一脚、その両側に椅子が一脚ずつ置かれている。
(36)禿頭の老人の右からのバスト・ショット。彼自身には正面となる画面左手を見ている。徐々にアウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。
(37)画面左手を見ているファントムのバスト・ショット。背後にはピンクのカーテンが開けられた窓と、台座に載せられた金色の彫刻がみえる。ファントムは、ちらちらと老人の方をうかがいながらときどき目を伏せるようにし、落ち着かない様子である。
(38)
老人のバスト・ショット。
[ポーランド語で]
老人:
You are looking for something?
(39)部屋のロング・ショット。真ん中の長椅子に老人が座り、その右に置かれた椅子にファントムが座っている。
ファントム: (老人のほうをみながら)Yes...
老人:
Are you looking to go in?
ファントム: (苛立って) Yes.(手をもんでいる)
老人: An opening?
ファントム: (立ち上がって老人に近寄りながら)I look for an opening. Do you understand?
老人: Yes. I understand.
ファントム: (立ったまま、苛立って) Do you understand I look for an opening?
老人: Yes. I understand completely.
ファントム: (老人の方に身を傾けるようにして)Good. Good that you understand.
(40)正面を見たままの老人の右からのバスト・ショット。イン・フォーカスからアウト・フォーカスへ。
(41)立ったままのファントムのバスト・ショット。
ファントム: (老人を見下ろし、苛立って)That's good! You understand!
画面右端に見きれていくファントム。
(ディゾルヴ)
(42)薄暗い豪華な部屋の内部。扉の近くだけが明るくなる。長椅子の向こうで、扉を向いて立っているジャック・ラビットが、右側から画面手前を振り返る。徐々に暗くなっていく照明。
(暗転)

「Rabbitsの部屋」と「豪華な部屋」の位置関係は、映像からは明確にはされない。後に現れる「47の扉」と「Rabbitsの部屋」の関係(2:46:15)などから、おそらく「暗い通路」を介してつながっているのだろうという推測は可能だが、それを裏付ける映像も存在しない。いずれにせよ、確実に指摘できるのは、この「豪華な部屋」の内部のシークエンスで発生している事象が、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対する「介入/コントロール」に関連したものであるということだ。それは、ジャック・ラビットが現れる二つのショット……カット(35)のショットとカット(42)のショット……によって表されている。この二つのショットはシークエンスの始まりと終わりの両端に配置され、いわば「括弧」のように機能している。後述するように「Rabbitsの部屋」のウサギたちは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」を行う存在として位置づけられており、その一員であるジャック・ラビットによる「括弧」でもって囲まれている「もの」は、やはり「介入/コントロール」に関連していると理解されることになる。

そのことを裏付けるのが、その「括弧」の内側に現れる、禿頭の老人ともう一人の男との「関係性」……後に「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの発言によって「ファントム」あるいは「クリンプ」と判明する男との「関係性」だ(1:46:41)(1:59:18)。その「関係性」がどのようなものかは、以降のシークエンスにおいて徐々に明らかにされていくわけだが、この「豪華な部屋」のシークエンスにおいてもその基本部分はすでに現れている。

カット(36)で「豪華な部屋」に現れる老人が、後に「バルト地方」でピオトルケとともに「ファントム」を捜索すること(1:53:57)、また同じく「バルト地方」のどこかにある家の内部で行われる、三人の老人たちによる「介入/コントロール」の場にピオトルケを連れていく役目を担うこと(2:01:35)を、すでに我々は知っている。この禿頭の老人が、他の老人たち(あるいは、ウサギたちやMr,K)のように直接「介入/コントロール」を行っている映像は「インランド・エンパイア」には存在しない。が、彼がその手助けをしていることは確実であり、やはり広い意味で「介入/コントロール」を行う立場にいる存在であることは間違いないだろう。

そして、「ファントム」がここで初めて登場する。「ファントム」によって表されるものは、まだこのシークエンスではまったく明らかではない。また、「Rabbitsの部屋」のシークエンスでウサギたちが耳にした「足音」が「ファントム」のものだったかどうかも、定かではない。このシークエンスから読み取れることは、たとえばカット(37)の様子から、彼が「禿頭の老人=介入/コントロールを行う存在」よりも弱い立場にある、あるいは彼が老人を恐れていることである。同時に、カット(39)において老人に向かって訴えかける様子から、ファントムが彼に対して何かを希求していることも明瞭だ。言葉をかえれば、老人が「ファントム」に対して何らかの”「許可/許諾」を与える存在”であること、つまり「ファントム」が老人の「コントロール下」にあることが、この二人の会話の様子にも表れているといえるだろう。たとえば、映像からみてとれるように、彼らは「視線の交換」を行わない。この後何度となく「インランド・エンパイア」に登場する「視線の交換」が意味するところを敷衍するなら、この二人に「感情の共有」など存在し得ず、それが成立しないほど「異質な立場」であることがこの「視線を合わせない」という「表現」から読み取れることになる。

さて、では「ファントム」は「禿頭の老人=介入/コントロールを行う存在」に、何を訴えかけ、何を希求しているのか。

「ファントム」は、しきりに「入りたがっている(look to go in)」。そして、そのための「開口部を求めている(look for an opening)」ことを二度にわたり訴えるとともに、老人が自分の希求を理解していることを繰り返し確認する。もちろん、この時点では、彼が「どこに」入りたがっているのか、「何の」開口部を探し求めているのかは明瞭ではない。だが、後に我々は「ポーランド・サイド」に彼が現れロスト・ガールに暴力をふるう様子を観ている。あるいは、「ポーランド・サイド」の「ストリート」でロスト・ガールと遭遇するところを目撃している。加えて、「アメリカ・サイド」の「スミシーの家」の隣家の裏庭でスー=ニッキーの前に姿を現すのを我々は知っている。そして、最終的に彼が「スミシーの家」から通じる「暗い通路」に現れ、「47の扉」の前の「暗い通路」でニッキー=スーが放つ銃弾によって「崩壊」するの場面に我々は立ち会った。逆説的に、彼が現在入りたがっているのは、”それらすべての「場所」によって表されるもの”であることになる。

結論からいうと、それらの「場所」は基本的に人間の「内面」を表している。「スミシーの家」を代表とする「家」が表すもの、その「家」の集合体である「ポーランド・サイド」の建物、「ストリート」によって表象されるもの、そして「47」の扉へと続く「暗い通路」……これらの場所は「家」と「ストリート」という対置概念を構成しつつ、「高低のアナロジー」によってむすばれている。そして、それぞれの場所で発生する事象は、「機能しない家族」を起因とする登場人物=スーや演技者=ニッキー、そして受容者=ロスト・ガールの「感情」の反映だ。「ファントム」が今ここで「入りたがっている」のは、かつ結果的に「入りこむ」ことに成功したのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品を”観ている者/演じている者/演じられている者”すべての「内面」なのだ。

そう考えるとき、「Opening」という語句自体が複合的な意味を帯びていることが理解できるだろう。まずそれは、「ファントム」が入りたがっている「人間の内面」への「開口部」である。加えて、禿頭の老人が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する「介入/コントロール」を行っていることを考慮するなら、それは「(映画作品の)始まり」をも意味するはずだ。だが、「インランド・エンパイア」を観すすめるうちに、我々はこの「Opening」が、その両方の意味であったことを理解することになる。なぜなら、「ファントム」が「人間の内面」に入り込むその「開口部」こそが、実は「インランド・エンパイア」においては「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品=感情移入装置」に他ならないからだ。

この「ファントム」が行う”「開口部=映画作品」を介した「人間の内面」への「侵入」”というイメージは、リンチが繰り返し唱える「映画の魔法」という概念と密接に関係している。なぜなら、リンチがいう”「世界」としての「映画」”が成立するためには、「映画」が受容者の「感情」に対して働きかけ「感情移入=同一化」が構成されること……非常にあからさまな言い方をしてしまえば、受容者に対して「感情操作」が行われることが必須であるからだ。この「感情操作」のイメージが、「ファントム」が「魅了(=催眠術=hypnotize)」を行うという表現(1:53:23)に直結していくことは容易に理解されるだろう。一言でいうなら、たとえば”「ハリウッド伝説」の概念”を表すNikoなどと同様に、「ファントム」は”「映画の魔法」という概念”を表す存在である。

ひとつ指摘しておきたいのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に「侵入」を許されたファントムが、基本的にその後もずっと、老人たちやウサギたちによる「介入/コントロール」の管理下にあることである。「サーカス」によって表されるものが「公的」なイメージや「組織」のイメージを付随させていることは何度か指摘してきたとおりだが、ならば「ファントム」が「サーカス」に所属しているという「表現」そのものが、彼が「介入/コントロール」を受けていることの提示として理解できるはずだ。逆に、「ファントム」が「バルト地方」の「サーカス」から姿を消した(1:46:47)という表現が表象するものは、彼が一時的にせよ「介入/コントロール」するものの管理から逃れたことに他ならない。であるからこそ、禿頭の老人は「ファントム」の行方を探さねばならない。「ファントム」に「侵入」を許諾したのは、彼であるからだ。だが、最終的に、Mr.Kが電話の相手に向かって告げるように、「(ファントムが)間違いなく、どこか近くにいる(He's around here someplace. That's for sure)」こと(2:19:44)は把握されており、ウサギたち/老人たち/Mr.Kの管理から「ファントム」が完全に逃れることは不可能であったのは明らかだ。なによりも、「バルト地方」の老人たちがもたらす「拳銃=物語展開の最終要請」から放たれる銃弾によって「ファントム」が崩壊すること(2:44:32)からもわかるように、彼の決定的な生殺与奪の権限が「介入/コントロール」するものの手に握られていたことは、「インランド・エンパイア」全編を通じて変わらない。

……という具合に、「インランド・エンパイア」は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に「介入/コントロール」を行うものと、それを「開口部」として侵入する「映画の魔(法)」という二つの概念を紹介し終えた。続いて現れるのは、「訪問者」と「演技者」であるニッキーだ。

2008年6月26日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (93)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてである。今回は(0:04:04)から(0:06:41)までをば。

さて、受容者としてのロスト・ガールの位置づけを明確にした後、続いて「インランド・エンパイア」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する事象を提示し始める。それは、ロスト・ガールが観ているモニタ画面が映し出す波打つ「ノイズ」のなかから、「Rabbtis」の映像が浮かび上がるショットからスタートする。

「Rabbis」の部屋 内部 (0:04:04)-(0:06:41)
(ディゾルヴ)
(26)「Rabbitsの部屋」の内部。左手に木の扉。扉の左には、木の台に載せられた黒い電話機。扉の上の通風窓は開けられている。部屋の左奥では、ピンクの服を着たスージー・ラビットがアイロン台に向かって白い布にアイロンをかけている。正面奥の壁には角ばったアーチ状の開口部があり、開口部の両側には黒い柱がある。開口部の奥には、木の枠がはまった窓が見える。窓の向こうは闇である。開口部の手前には長椅子が置かれ、その右端にはジェイン・ラビットが座っている。長椅子の右側には、小さなテーブルがあり、その上には緑色の本体にクリーム色の傘の背の低いライト・スタンドが置かれている。ライト・スタンドは点灯している。扉が開かれ、スーツ姿のジャック・ラビットが部屋に入ってくる。
[歓声と拍手]
ジャック・ラビットは扉を閉め、そのまま喚声が終わるのを待っている。
[歓声と拍手が終わる]
長椅子に歩み寄り、ジェイン・ラビットの左に座るジャック・ラビット。
ジェイン・ラビット:(ジャック・ラビットの方を向いて)I am going to find out one day.
スージー・ラビット:(左肩越しに二匹の方を振り返り)When will you tell it?
ジャック・ラビット:(ジェイン・ラビットを見て)Who could've known?
ジェイン・ラビット:(正面を見て)What time is it?
[笑い声]
ジャック・ラビット:(立ち上がってジェイン・ラビットを見下ろし)I have a secret.
(27)ロスト・ガールのアップ。目と鼻に向かって、よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(28)スージー・ラビット:(アイロンをかけながら)There have been no calls today.
[笑い声]
再び長椅子に座り、正面を向き直るジャック・ラビット。
(29)ロスト・ガールのアップ。よりクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(30)スージー・ラビットがアイロン掛けをやめ、他の二匹が座っている長椅子に歩み寄り、その背後に立つ。
(31)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
[汽笛]
[足音がする]
(32)ジャック・ラビット:(右を向き、ジェイン・ラビットに向かって)I hear someone.
スージー・ラビット: (笑う)
(33)ロスト・ガールのアップ。目に向かってクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(34)扉の方を見ているジャック・ラビットとスージー・ラビット。ジェイン・ラビットも扉の方を向く。
ジェイン・ラビット: I do not think it will be much longer now.
ジャック・ラビットが立ち上がり、扉に近づく。彼は扉を開け、部屋を出ていく。閉められる扉。閉ざされた扉を見守る残された二匹。

前回述べた”「心象風景」としての「モニタ画面」”という考えに基づくなら、このディゾルヴによる画面転換によって表されるものも明瞭である。一言でいえば、受容者=ロスト・ガールの「内面」に、「Rabbitsの部屋」によって表されるものが受容されたことの提示だ。そのことは、このシークエンスにおける「Rabbitsの部屋」のショットに対し、「涙を流すロスト・ガール」のショットがカット(27)(29)(31)(33)と四回にわたり、「カウンター・ショット」としてインサートされることからも明らかである。ロスト・ガールは「Rabbitsの部屋」の映像を観ている。だが、表現主義的な手法の連続であるリンチ作品においては、そこで提示されている「Rabbitsの部屋」が「モニタ」上に映し出されているものの「客観描写」であるとは限らない。前回触れた”画面上の「ノイズ」とそれに映り込む「ロスト・ガールの部屋」”という映像表現から連続するものとしてこのシークエンスを捉えるとき、そこで提示されているものもやはり彼女の「感情」や「主観」のフィルターを通したものであるはずだ。

しかし、同時に、そこにはリンチ自身が抱える「感情」や「主観」が投影されているであろうことも、また確かである。たとえばウサギたちがウサギたちとして提示される理由自体が、リンチが「インランド・エンパイア」の中で繰り返し提示する「動物=自律しながらも他者のコントロールを受ける存在」という概念を構成している一要素であるのは間違いない。「動物」のイメージは「サーカス」によって表される「組織=公的なもの」のイメージと連鎖し、一方で助監督フレッドや浮浪者2による「言及」を引き出しながら、リンチが考える「映画製作」に関するイメージを構成していくことになる。

さて、何度か触れたように、「Rabbitsの部屋」の内部で交わされる「文脈(コンテキスト)を欠落させた会話」あるいは「断片化(フラグメンティション)された会話」によって表される「異言語性」は、リンチが繰り返し作品に登場させる「成立しない会話」のモチーフに基づくものである。ウサギたちが発する「台詞」は、それぞれ単体では構文的に成立し断片的な意味を伝えてはいるものの、三匹の会話全体をとおして具体的な「意味/概念」を形成することは決してない。

以前にも述べたように、こうした「断片化」の手法は、たとえばウィリアム・S・バロウズやJ・G・バラードによる小説作品を思わせるものだ。これらの小説作品群は「人間の意識の流れ」を再現すること……つまり、我々の「意識の流れ」や「思考」自体が「整理され、順序立てられたものではないこと」を描くためにこうした手法を採用している。我々の思考はノン・リニアでランダムであり、何かのイメージが他のイメージとつながる理由は非常に私的なものであって、他人の理解をにわかには許さないケースも多々ある。こうした人間の「思考」の仕組みを「リアル」に再現すれば、「断片の集積」になってしまうというわけである。だが、では、「Rabbitsの部屋」における「断片化された会話」もこうした「意識の流れの再現」であるのか……となると、どうもそうとは言い切れないようだ。

この「断片化」の手法については、リンチ自身による以下のような発言がある。

----自分が以前に書いたもの、あるいは他人が書いたものでもいいんだけど、それを細かく切ってアトランダムに配置し、それから、まるで他人の仕業みたいにまきちらす。そうして読んでみると、素晴らしかったりするんだ。
(「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.36)

これを読むかぎり、少なくとも「断片化された会話」という「手法」そのものに、バロウズやバラードのような具体的な「意図」をリンチが仮託しているとは思えない。上に引用した言及は、シュルレアリスムの「自動書記」の話題に関連して発言されたものだが、むしろこの発言から連想されるのは、リンチが「絵画」に多用し「インランド・エンパイア」の各所にも現れる「文字のテクスチャー」だ。もしかしたら、この「断片化された会話」は、「絵画」に貼り込まれた「文字」や「映像」の各所に現れる「文字」と同様の発想による、いうなれば「音声のテクスチャー」なのではないのか? そう考えるとき、実は「インランド・エンパイア」に現れる他の台詞も……いや、ひょっとしたらすべての台詞が、リンチにとっては基本的に「テクスチャー」なのではないかという可能性に思い当たる。そもそもリンチにとって映画の製作とは、「映像」というキャンバスに「文字」や「音声」や「音楽」を貼り付ける作業なのではないのだろうか? そして実際、映像におけるポスト・プロダクション作業全般には、そうした感覚に近しいものがある。

話を「Rabbitsの部屋」の事例に限れば、他の可能性として思い付くのは、直前のシークエンスで現れた「ノイズ」との関連である。つまり、「受容者にとって意味をなさない単なるデータの集積」を表すものとして、「成立しない会話/断片化された会話」という手法が使われているのではないかという可能性だ。もちろん、「Rabbits」が短篇シリーズとしてリンチの公式サイトで公開された時点では、まだ「インランド・エンパイア」の企画は存在しておらず、流用を前提にして製作されたわけはない。当然ながら、そこに現れる「成立しない会話/断片化された会話」によって表されるものが、そのまま「インランド・エンパイア」に組み込まれた形で表されるものと同一とは限らないだろう。だが、リンチ自身の発言にもあるように、この短篇シリーズがテレビ番組、「ラフ・トラック(laugh track)」の使用などから特にシットコムを意識して作られたことは事実であり、その意味では「テレビ」を表象するものとして「Rabbits」を捉えることは、決して乱暴な見方ではないはずだ。逆にいえば、リンチが「テレビ」というメディアに関してどのような「感情」を抱いているかを確認することが、「Rabbits」によって表されるものをぼんやりとでも理解するキーになるのは間違いない。

その観点からすれば、やはりリンチがTV版「ツイン・ピークス」製作中のドタバタや、「オン・ジ・エアー」のシーズン途中でのキャンセル(打ち切り)*、パイロット版製作までは到達した「マルホランド・ドライブ」の企画が却下された顛末をつうじて、リンチ自身が受けた「介入/コントロール」の数々は見逃せない。「ツイン・ピークス」に関しては、局側の要請によって作られたヨーロッパ版パイロットの別エンディングについて、「その必要性が理解できなかった」という自身の発言が残されている。また、局側からの圧力によってローラー・パーマーの殺人犯をあの時点で明らかにしなくてはならなかったのは、当然ながらリンチとマーク・フロストが考えていた当初の「大枠」からは外れていたことは間違いなく、その後の展開をみてもわかるように、結果として「ツイン・ピークス」という作品自体にクリティカルな影響を与えたのは事実だ。また「マルホランド・ドライブ」のパイロット製作に関しても、リンチは「尺の調整」を局側から要請されている。時間調整が必要となった理由はCM枠の確保であり、リンチによる「あれは悪夢だった」由の発言が存在する。

いずれにせよ、リンチが「テレビ」というメディアについて、少なくともそこで作品を製作することに関して、「映画」以上の制約を……「介入/コントロール」を感じたことは間違いない。であるならば、「インランド・エンパイア」の中に組み込まれた「Rabbits」が「テレビ」を表象するとともに、それに付随する「介入/コントロール」のイメージを内包しているのも、また当然だろう。


*
最大の皮肉は、視聴率不振を理由にキャンセルされた「オン・ジ・エアー」が、そうしたTV番組製作に関するドタバタそのものを題材にしていることである。おまけに、そのなかに登場するTV局の名前が「ABC」ならぬ「ZBC」だというのもなんともだ。

2008年6月22日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (92)

カラ梅雨だとか言ってると、いきなり大雨が降り出しました。「雨乞い」の儀式っスか、このブログは(笑)。

……生贄のニワトリ等々を片付けつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話を続けることにする。今回は(0:03:21)から(0:03:57)まで。

「カメラのレンズ」という「括弧記号」をまたいだ「インランド・エンパイア」は、続けて”「ロスト・ガール」によって表されるもの”の提示を開始する。 

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。
(15)クローゼットの上に置かれたモニター。画面に映し出されるノイズ。白いレースのカーテンが半ば開けられた窓の外には、向かいの建物が見える。窓の前に置かれている椅子の一部が見える。
(16)ロスト・ガールの背後からのショット。右肩越しに、クローゼットの上に置かれたモニターが見える。画面には、ノイズが映し出されている。モニターの右側には扉が見える。
(17)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。画面右側にはライト・スタンドが見える。
(18)モニター画面のアップ。「Rabbits」の映像が早送りで再生されている。
(19)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。
(20)モニターのアップ。画面には「訪問者1」がニッキーの屋敷の前庭を歩く映像が早送りで再生されている。
(21)モニター画面のアップ。モニターに早送りで映し出されている「訪問者1」がニッキーの屋敷の玄関の扉に手を伸ばす映像。部屋に置かれた電気スタンドが、モニターのブラウン管に写り込んでいる。
(22)ロスト・ガールの右側からのアップ。少しクローズ・アップ。彼女は涙を流している。
(23)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(24)ロスト・ガールの右側からのアップ。彼女は涙を流している。よりクローズ・アップ。
(25)モニター画面のアップ。ノイズだらけの画面に、部屋に置かれた電気スタンドの光が映り込んでいる。
(ディゾルヴ)

このシークエンスにおいて、「インランド・エンパイア」はまた新しい「メディア」を二つ提示する。カット(15)に登場する「モニター」によって表される「テレビ」、そしてカット(18)(20)(21)に登場する「ビデオ」である。   

構造的にこのシークエンスをみたとき、カット(16)はエスタブリッシング・ショットとして機能している。つまり、カット(15)で提示されるモニターの画面を観ているのがロスト・ガールであることを、彼女とその肩越しに映されたモニターを同一フレーム内に収めることで状況説明しているのだ。この明示に基づいて、カット(18)(20)(21)(23)(25)のモニター(およびその画面に映されているもの)のショットに対し、カット(17)(19)(22)(24)のロスト・ガールのショットが「カウンター・ショット」として機能していることが理解される。つまり、このシークエンスでは、「観るもの=ロスト・ガール」と「観られるもの=モニターの画面に映されているもの」という関係が、何度も繰り返し提示されていることになるのだ。これが「メディア」とその「受容者」の関係を表していることはいうまでもなく、こうしてロスト・ガールは”「受容者」の概念”を表しているものとして位置付けられる。

このように「受容者」としてロスト・ガールを位置づけたとき、前回述べた、「普遍=顔のない女性」から「個別例=ロスト・ガール」への「置換」のキーがなぜ「カメラのレンズ」のショット(カット(13))であるかが理解される。なによりも、「カメラのレンズ」と「受容者=ロスト・ガール」がともに「観るもの」であるからだ。そして、「括弧記号」の始まりが「観るもの」であるならば、その終わりが「観られるもの」=「映写機の光」=「登場人物=スー」であるのも、また当然であるはずだ。

同時に、以前にも述べたように、ロスト・ガールが「モニタ」を通じて映像を受容しているという描写そのものが、リンチが抱く「映画」というメディアに対する「考え」に基づいたものである。「映画」を「映画館」で観ることの重要性についてリンチは繰り返し言及しているが、それは逆にいうと、「モニタ」による「家庭内での視聴」が我々の「映画受容のスタイル」としてむしろ主流になっていることの表れでもある。そのこと自体の是非はともかくとして、我々にとって「映画館で映画を観ること」と「モニタで映画を観ること」は感覚的に限りなくイコールに近く、ともすればその二つの行為の間にあるはずの「差異」を見失いがちなのは確かだ。

さて、では受容者=ロスト・ガールは何を観ているのか。具体的映像として提示されているのは、以下の三つだ。

(A)ノイズ=カット(16)(23)(25)
(B)「Rabbits」=カット(18)
(C)訪問者1=カット(20)(21)

(A)の「ノイズ」はひとまずおくとして、まず(B)の「Rabbits」と(C)の「訪問者1」が表すものから述べてみよう。

(B)の「Rabbits」が、自身の公式サイトについて語るリンチの発言から、「テレビ」に関連するものであるのは確かである。かつ、その形式において、「シット・コム(Sitcom)」と略称される「シチュエーション・コメディ(Situation Comedy)」を踏襲しているのも明らかだ。この部分からみれば、これはやはり「テレビ」という「メディア」への言及であり、かつ「早送り」の映像で提示されている点からして「ビデオ」への言及であることは間違いない。しかし、「Rabbits」に登場するウサギたちに関連したこの後の描写をみるとき、彼/彼女たちが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対して「介入/コントロールするもの」の概念として……端的にいえば、その「製作者」を表すものとして描かれていることが理解されることになる。それは、ジャック・ラビットとMr.Kの関連性を提示する映像(1:20:40)や、老人たちがウサギたちに変貌する描写(2:04:31)などに明らかだ。上記のような事柄を踏まえたうえで、受容者=ロスト・ガールとの関係性をポイントにするなら、これは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する情報を受容者=ロスト・ガールが「テレビ/ビデオ」という「メディア」を通じて受け取っていることへの言及と捉えるのが妥当だろう。

同様のことが、(C)の「訪問者1」に関しても指摘できる。この「訪問者1」が付随させる「外部性」のイメージに関しては、これまでも何度か述べてきた。彼女が「ニッキーの屋敷」を訪問するシークエンスでの描写(0:13:03)から理解されるように、彼女は「映画」というメディアに関する「言説」を述べる存在……つまり評論する存在である。ウサギたちに表される「製作者」と同じ「映画に関係するもの」でありながら、「訪問者」たちは「外部」にいる。訪問者1がニッキーに語る「言説」がどこか予言めいているのは、まさしくそのためだ。彼女は「外部」から「内部」を覗き見ることしかできず、自分の考えるところを述べることしかできない。その「言説」が正しいかどうかは……たとえば「ニッキーが明日になれば、向こうの長椅子に座っているかどうか=伝説の一部となっているかどうか」は、結果をみるしかないのだ。そして、(B)の「Rabbits」の映像と同じく「訪問者1」の映像も早送りで提示されていることからわかるように、彼女の「言説」も「テレビ/ビデオ」といった「メディア」を介して受容者に向け流布される。我々は、こうした「メディア」によってこれから公開される「映画」の情報や言説を、日常的に受け取ってはいないだろうか? また、この「訪問者1」の「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に関する「言説」に限っていえば、彼女がニッキーの屋敷を「訪問」することからも明らかなように、演技者=ニッキーに関するものも含まれている。マリリン・レーベンスのTVショウと同じく訪問者1の「言説」も、受容者が抱く演技者ニッキー個人への「感情移入=同一化」に対して機能しているのだ。

残る(A)の「ノイズ」だが、これは様々な読み取り方が可能であるように思われる。基本として、これもまた「テレビ/ビデオ」という「メディア」の表象であることは間違いない。かつ、それが映し出しているのが、受容者にとって何の意味もなさない「データの集積=ノイズ」であり、過多な情報は結果として単なる「空白(ブランク)」に等しいものになることを考えると、この表現自体が「テレビ/ビデオ」という「メディア」に対するリンチの皮肉として(「テレビは死んだ」)受け取ることもできるかもしれない。だが、より重要なのは、カット(23)(25)にみられる、「ロスト・ガールの部屋の内部」がモニター画面上に反射して映り込んでいるという描写だ。これを表現主義的なものとして捉えるなら、この映像が提示するものは、モニターに映される「ノイズ=空白(ブランク)」同様、そこに二重写しされた「ロスト・ガールの部屋の内部」も「空虚(ブランク)」であることに他ならない。当然ながら、それは”ロスト・ガールがその「内面」において「空虚さ」を感じていること”を表しているのと同義である。「鏡」などの反射物を使った登場人物の「内面描写」は、映像における表現主義的手法としてひとつの定番だが、カット(23)(25)は基本的にそうした表現の延長線上にあるものとして理解すべきなのだ。

ひるがえって(B)(C)に関連したカット(18)(20)(21)を子細にみたとき、実はそこでもモニタ画面に「ロスト・ガールの部屋の内部」が映り込んでいることが確認できるはずだ。正直なところ、これらのカットを観ただけではなんのことだかよくわからない。だが、カット(23)(25)が表現主義的手法に則ったロスト・ガールの「内面描写」であることに気づいたとき、同じくカット(18)(20)(21)の映像もロスト・ガールの「内面描写」ではないのかという可能性に思い当たる。つまり、「モニタ」に映し出されたものを受容者であるロスト・ガールが受容した際にその「内面」に発生した事象が、あるいはその「内面」に喚起された感情が、映像として提示されているのではないか……ということだ。この後の「インランド・エンパイア」の映像を読み取るに際して、この見方は非常に重要なポイントとなる。たとえば「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といったリンチの過去作品において、そこで提示されている映像を我々はフレッドやダイアンの「内面」にある「心象風景」として、あるいは「感情や主観に歪められた記憶」として理解した。同じように、「インランド・エンパイア」が提示する映像もまた誰かの「心象風景」であり、その人物の「感情や主観が反映された事象」を表しているものとして理解されることが、このシークエンスにおいてすでに示唆されているのだ。

話を戻して、上記のように「ノイズ」によって表されるものを捉えるとき、なぜ「受容者=ロスト・ガール」が泣いているのかが端的に理解される。彼女が感じている「空虚さ」は、「ここはどこ?(Where am I?)」というキーワードに表されている「自己確認の欠落/不能性」からきているのだ。その「欠落/不能性」が「機能しない家族=トラブル」に起因することを、”「機能しない家族」の「原型=普遍」”が「個別例=ロスト・ガール」に「置換」されるシークエンスを通じて我々は理解している。

ここで留意しなければならないのは、カット(5)-(10)で提示される「機能しない家族の原型」によって表されるもの……つまり、「顔のない男女」によって演じられる”「娼婦」と「客」の関係性”が、”「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性”を表象する「表現」であること(もしくは「表現」でしかないこと)だ。そして、「娼婦」という存在によって表されるものも、やはり「インランド・エンパイア」においては抽象的なものであり、”一方的な関係性を強要される「対象」”を表す「象徴」なのである。この後の「インランド・エンパイア」が提示する様々な「機能しない家族」の「個別例」をみればわかるように、そこには必ずセックスの要因が介在するとは限らない(もちろん、大きな要素ではあるが)。根底にあるのは「家族間に発生する一方的な関係性」なのであって、「娼婦」という「表現」を短絡的に「セックスの要因」に帰することは、「インランド・エンパイア」が提示する「トラブル=機能しない家族」の本質を見誤ることになる。冒頭において提示されるこれらの「原型」や「概念」は、この後の「インランド・エンパイア」が提示する映像表現を理解するうえでの基礎となるものだ。たとえば「機能しない家族」の「個別例」の集積がその「抽象概念」を構成するといった「表現」の根底には、「機能しない家族の原型」という「概念」が確実に横たわっている。あるいは、スー=ニッキーやドリス、ロスト・ガールが「娼婦」として「ストリート」に立つという「表現」から浮かび上がるのは、彼女たちがすべて”一方的な関係性を強要される「存在」”であることだ。開巻4分弱程度の間に、「インランド・エンパイア」はこれだけ凝縮された「イメージの連鎖」を展開するのである。

2008年6月21日 (土)

またもやリンチ本新刊のおハナシ

本日のDugpa.comネタ。

Bedark 「Beautiful Dark」というタイトルのリンチ本が9月に出るらしい。確認したところ、すでに日米のアマゾンで予約受付が始まっている様子。ハード・カバーで720ページという人を殴り殺せそうな本で、とても電車の中で立って読む気にならんな、こりゃ(笑)。

著者のGreg Olson氏は、シアトル美術館で映画関係のキュレーターで、どうやらFilm Noir Foundationの評議員でもあらせられるらしい。リンチへの直接取材はもちろん、両親をはじめとする家族・関係者・知人への取材を踏まえ、リンチの実体験とその作品の関連を探る……ってな、いや、非常に真っ当で直球勝負の研究本な感じである。実際に中身を読んでみないとナントモではあるけれど、こーゆーリンチ研究に関する基礎資料的な本が出るのは喜ばしい限り。でも、日本で翻訳されたりはしないんだろうなあ、きっと。正直なところ、翻訳が出ている基礎資料がクリス・ロドリーのインタビュー本のみという日本の状況は、ちょっとサミシイ感じではある……と書いた本人が言っちゃなんだが、まあ、こういう地味な映画本って、そうそう売れないんですわね。

出版社はThe Scarecrow Press, Inc.で、公式サイトはこちら

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (91)

うおお。暑いぞ。カラ梅雨だし。と、汗をかきつつ進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話なのであった。前回とりあげたシークエンスと一部重複しつつ、今回は(0:02:45)から(0:03:25)まで。 

というわけで、さっさと具体的な映像から。 

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(14)と同一の部屋であり、カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側からの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

どこか (0:03:16)
(13)緑がかった光を反射するカメラのレンズ
(ディゾルヴ)

ロスト・ガールの部屋の内部 (0:03:21)
(14)左側から部屋の内部のショット。ベッドに座っているロスト・ガール。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。

構造的なところからこのシークエンスをみてみると、まず、カット(11)-(12)-(13)がクロス・カッティングになっていることが理解される。つまりカット(11)カット(13)のロスト・ガールの部屋のショットの間に、カット(12)の「顔のない男女」が性交を行った部屋のショットが挟まっている形だ。これらのショットの間、カット(10)の終了間際から流れる「Polish Poem」がサウンド・ブリッジとして機能し、カット同士の関係性/連続性を明示している。 

さて、ではこれらのカット間にどのような関係性が存在しているのか。

まず、カット(11)カット(12)の部屋がそれぞれ異なった部屋であることは、その内部構造と置かれている備品の位置から明瞭である*。かつ、(2:48:41)でニッキーと抱擁を交わした後のロスト・ガールが部屋から出て走る「廊下」が、カット(5)で「顔のない男女」が登場する「廊下」と同一であることから明らかなように、ロスト・ガールの部屋は「第一の顔のない女性」が性交を行った部屋と同一の建物の内部にある。「廊下」の映像を観る限り、この二つの「部屋」以外にも「部屋」が存在していることは明瞭で、後に繰り返し登場し変奏される”「普遍」とそれに含まれる「個別例」の関係”というモチーフが、すでにこの段階で認められることになる。二つの「部屋」に置かれた調度品は同一の意匠のもとにあり、部屋自体は異なっても基本的に「類似」のものであることを示唆している。もちろん、リンチの表現主義的な発想を前提とするなら、この「外見上の類似性」は「その内部で発生している事象の類似性」……つまり、どちらの部屋の内部でも「機能しない家族」の事象が発生していることを示している。 

そして、この「内部で発生している事象の類似性」、そして「普遍」と「個別例」の関係性は、カット(5)-(10)に表れる「第一の顔のない女性」と、カット(11)に表れる「第二の顔のない女性」の関係性に引き継がれる。カット(10)の部屋の内部で「第一の顔のない女性」が関与している事象と、カット(11)の部屋の内部で「第二の顔のない女性」が関与している事象は、いずれも「機能しない家族」の事象であるという点で「同一」のものである。それを踏まえたうえで、カット(12)の”「第一の顔のない女性」が消失した部屋”が表すものを考えるなら、参照項となるのはエンディング・ロールの「ファントムの妹の消失」と「長椅子に座るニッキー」のショットの関係によって表象されるものだ。この二つのショットが「ファントムの妹」と「長椅子に座るニッキー」の「同一性/等価性」を表すのであれば、カット(12)カット(14)の二つのショットによって表されているのは、「第一の顔のない女性」と「第二の顔のない女性」の「同一性/等価性」であることになる。もちろん、リンチ作品において、この「同一性/等価性」とは、あくまで「内面における同一性/等価性」=「同じ感情の共有」のことを指す。間違っても「登場人物の同一性」などという具象的なものではない。 

「普遍」と「個別例」の関係でいえば、「第一の顔のない女性」は「『機能しない家族』の原型=普遍」に関与し、「第二の顔のない女性」はその「個別例」に関与している。カット(11)から(14)までによって構成されるシークエンスが提示しているのは、「第一の顔のない女性」が関与する「原型=普遍」が、「第二の顔のない女性」が関与する「個別例」に、「等価性/同一性」を保持しながら置き換わりつつあることなのだ。カット(11)ではモノクロの画面処理と「顔がない」という共通した描写を残しつつ、カット(12)では同じアングルで「第一の顔のない女性」の部屋を提示し、なおもそのアングルを保持したままカラーに変わるカット(14)において、この「置換」の描写は最終的に「第二の顔のない女性=ロスト・ガール」であることを明示して終了する。 

この「置換」のキーとなるのは、カット(13)の「カメラのレンズ」のショットである。この「カメラのレンズ」のショットが、(2:46: 59)から三回にわたって現れる「映写機の光」のショットと対になっていることは、以前にも述べた。この二つのショットは対応する「括弧記号」として機能しており、「インランド・エンパイア」の本体部分を囲んでいる。すなわち、この「レンズのショット」は、これ以降が「映画というメディア」に関する記述であることの宣言である。この後、三時間弱にわたって提示されるものを考えたとき、その初めの"括弧記号=「"が、「カメラのレンズ」であること自体、きわめて示唆に富むものであるといえるだろう。「映画における『感情移入=同一化』」は、「インランド・エンパイア」が内包する基本テーマのひとつである。それは「映画というメディア」特有の「観るもの」と「観られるもの」の関係として……つまり「登場人物と受容者の『視線の共有』の問題」として、あるいは「登場人物と演技者の『視線の交換』の問題」として提示される。であるならば、ここで”一方的に「観るもの」”である「カメラのレンズ」が提示される理由は、非常に明白であるはずだ。逆に、閉じる側の”括弧記号=」”が対をなして「対置」されるものである以上、それが「映写機の光」という”一方的に「観られるもの」”である理由も、また当然だといえるだろう。

なぜ「置換」のキーが「カメラのレンズ」なければならないのかについては、続くシークエンスにおいて明らかになる。


*カット(9)で「顔のない女性と男性」が画面右側からフレーム内に入ってくることからわかるように、カット(9)の部屋の入り口はその方向にある。仮にこの部屋が「ロスト・ガールの部屋」であるなら、(2:47:27)でニッキーが入ってくる入り口との位置関係からして、カット(9)の椅子とライト・スタンドがある位置には、「モニター」が置かれていなければならない。おそらく撮影は同じ部屋で行われたのだろうが、椅子の位置などで微妙に異なる部屋に仕立てられているのだ。

2008年6月18日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (90)

というわけで、サクサク頭から進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(0:00:07)から(0:03:16)までのシークエンスをば、ひとつ。

といいながら、このシークエンスが実は、前回とりあげたオープニング・シークエンスの一部であることは映像から明らかだ。念のため、前回取り上げたオープニング・シークエンスを含めた形で具体的な映像をみてみる。

オープニング (0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

薄暗い廊下 内部 (白黒) (0:01:33)-(0:2:05)
(5)両側に扉が並んだ薄暗い廊下。画面手前から廊下の奥へと向かう「顔が消された」男性と女性。
※天井の灯りの形状から、(2:47:13)でロコモーション・ガールの二人が、そして(2:48:41)で部屋を出たロスト・ガールが走ったのと同じ廊下である。
[ポーランド語で]
女性: I don't recognize this hallway. Where are we?
男性: At our room now.
二人はある扉の前で立ち止まる。
(6)ミドル・ショット。男性と女性のツー・ショット。右手に持ったバッグの中を探る女性。
女性: I don't have the key.
男性: No. You gave it to me. I have it.
(7)カット(5)と同じ廊下のショット。逆光でシルエットになっている「顔が消された」男性と女性。
女性: What's wrong with me?
画面左手の扉の鍵をあける男性。そのまま扉を開く。部屋の中に入る男性と女性。誰もいない廊下だけが残される。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:2:05)-(0:02:45)
(8)若干上から見下ろした部屋の内部のショット。右手には白い壁と白い扉。正面にはレースのカーテンがかかった窓。窓の前には長椅子と椅子がそれぞれ一脚。そして、ライト・スタンドがある。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。
[ポーランド語で]
女性: This is the room? I don't recognize it.
画面右手から表れる女性。画面の真ん中、絨毯の上で立ち止まる。続いて男性が表れ、右手の壁に背をもたせかける。
男性: Take off your clothes.
女性: Sure...
長椅子に向かい、座る女性。男性は壁にもたれたまま、膝を曲げ、右足の裏を壁につける。
男性: You know what whores do?
女性: Yes. They fuck. 
(9)男性の左側からのミドル・ショット。画面右端に見切れる形で男性、女性は画面左の長椅子に座っている。男性と女性の間にあるライト・スタンド。女性の背後のレースのカーテンがかかった窓からは光が入っている。女性はスカートをたくし上げ、脱ぎ始める。
女性: Do you want to fuck me?
男性: Just take off your clothes. I'll tell you what I want.
女性: Fine. 
女性は黒いショーツを脱ぐ。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:02:45)-(0:03:06)
(10)ベッドと思しき布の上に横たわる女性の、消された顔のアップ。頭上に伸ばされた左腕と、それを押さえつける男性の右手。覆いかぶさり、性交を行う男性。 
女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid...... 

部屋の内部 (白黒) (昼)  (0:03:06)-(0:03:12)
(11)左側からの薄暗い部屋の内部のショット。ベッドに座っている顔の消された女性。膝に肘をつき、顔を覆っている様子。ベッドの背後の壁には絵が掛かっている。背の高い台座に置かれた鉢植。ベッドの右側には足載せとセットになった椅子が一脚。その右側にはカーテンが開けられた窓の一部が見える。床には絨毯が敷かれている。カット(9)およびカット(12)とは異なる部屋である。

部屋の内部 (白黒)(昼) (0:03:12)-(0:03:16)
(12)カット(11)と同じく左側らの誰もいない部屋の内部のショット。右手に白い扉。椅子が一脚。点灯したライト・スタンド。長椅子が一脚。長椅子の背後には、レースのカーテンが掛かった窓。寄木細工の床には絨毯が敷かれている。画面の左端、長椅子の前には履き捨てられたミュールが一足。左側のミュールは転がっている。

カット(3)カット(5)以降のシークエンスとの関連性をもっともストレートに受け取るなら、このモノクロ映像のシークエンスはカット(2)(3)(4)の「再生されるレコード」によって伝えられるもの……つまり、その「録音内容」であることになる。より詳しく述べれば、カット(5)以降のシークエンスによって表されるのは、カット(2)で「録音された男性の声」が伝える「Axxon N.」という題名のラジオ・ドラマの「映像化/視覚イメージ化」だ。カット(2)(3)(4)とディゾルヴによるカッティングを施され提示される「再生されるレコード」のショットは、文字どおり「史上最長のラジオ・ドラマ」が延々と流される有り様を時間経過を省略しつつ伝えており、男女の顔が消されているのはラジオ・ドラマであるがゆえの「具体的描写の欠落」を表している……という見方である。

だが、「インランド・エンパイア」全体を見通しつつこの「顔のない男女」のシークエンスをみたとき、また違った捉え方の可能性が浮かびあがる。すなわち、このシークエンスが提示するものが、この後「ポーランド・サイド」および「アメリカ・サイド」の両方において提示される、多種多様な「機能しない家族」の「原型」であり「典型」なのではないかという可能性だ。言葉を変えれば、このシークエンスで提示されているのは、そうした”様々な「機能しない家族の具体例」の「総体」によって表されるもの”と「等価」の、「『機能しない家族』の抽象概念」なのである。となると、「男女」が「顔」を持たない理由は明瞭だ。彼/彼女は、「機能しない家族」の「原型」あるいは「抽象概念」の当事者である。彼/彼女自身が「抽象的かつ総体的な存在」であり、他の誰にでも置き換え可能であるがために、彼/彼女は「顔」という「具象性」を持てないのだ。

この捉えかたの延長線上にカット(2)(3)(4)で現れる「再生されるレコード」のショットを置くなら、これまた別の意味合いを帯びてくる。この映像が「記録メディア」が備える「再現性」や「反復性」を表していることは前回にも述べたとおりだが、ひとたび「機能しない家族」の「原型」として「顔のない男女」のシークエンスを捉えたとき、それは「Axxon. N」という固有の「作品」の話ではなくなるし、「ラジオ」や「レコード」といった特定の「メディア」の話でもなくなる。つまり、いろいろな「メディア」においていろいろな「作品=物語」が伝達されるが、たとえ細部は違っても、多くの「作品」が提示しているのは「機能しない家族像」の「個別例」であり、「原型」をもとにした「リフレイン」や「ヴァリエーション」……「再現」や「反復」であるということだ。非常に乱暴な言い方をしてしまえば、それは「よくある話」である。だが、同時に、それは有史以来人間が繰り返してきた営みの一部であり、かつ明確な「解決策」などなく、それがゆえに「普遍性」を備えているともいえる。そもそもリンチが「機能しない家族」や「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というテーマに惹かれ、それをリフレインし続けるのは、その「普遍性」のためであり、それこそが「現実」における最大の「不条理」だからではないのか。いや、リンチだけでなく、現在過去を問わず多くの創作者が、様々な「メディア」において多様な「機能しない家族」像を描いてきた(いる)のも間違いのない事実なのだ。

「現実」において、このシークエンスが提示するような事象は、いつだって、どこでだって発生してきた。そして、現在も発生し続けている。当然ながら、それは「作品=非現実」においても同様だ。それを端的に表すのが、カット(10)における「ここはどこ? こわいわ(Where am I? I'm afraid. I'm afraid......)」という女性の台詞である。これと同じ台詞が「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいて、「私は娼婦よ(I'm whore)」という呟きとともにスー=ニッキーによってリフレインされる(2:07:37)ことは、すでに指摘したとおりだ。しかし、このキーワードのリフレインがスー=ニッキーによって「のみ」行なわれるのは、たまたま「インランド・エンパイア」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「作品」を「個別例」としてとりあげているからに過ぎない。他の作品において、他の登場人物が同様のキーワードを発していたとしても、いったい何の不思議があるだろう?

さて、このキーワードは、「顔のない女性」による「場所の見当識の失当」を訴える台詞である。カット(5)では彼女は「薄暗い廊下」の場所を認識できないし、カット(8)では「部屋」を認識できない。かつ、カット(7)の台詞にあるように、彼女は自分のそうした見当識の失当が何故であるのかも理解できてない。それはカット(10)においても同様で、彼女は結局「場所に対する見当識」を獲得/回復できないままでいる。この描写もまた、この時点ではその表すものは定かではない。だが、この後、本編において展開されるスー=ニッキーおよびロスト・ガールの「意識の変遷」と「自己認識の獲得」を踏まえれば、「顔のない女性」の「混乱」は、そのままの彼女の「自己認識」の欠落とイコールであるといえるだろう。彼女が「こわいわ(I'm afraid)」と漏らすその恐怖の対象は「自己認識の欠落」であり、自分が拠って立つところの喪失に他ならない。そして、「顔のない女性」を始めとする女性たちが「自己認識」を獲得できないでいる要因は、このシークエンスで描写されるような「男女関係」……女性が「自分の意志」を反映させることが不可能な、一方的な関係性……つまりは「娼婦」と「客」の関係性である。このシークエンスが提示する「機能しない家族の原型」が発生要因はこの「関係性」にあり、それは登場人物=スーや演技者=ニッキー、そして一般的受容者=ロスト・ガールにとっても同じであることが、この後、描かれることになる。

カット(11)に登場する、ベッドに座るもう一人の「顔のない女性」のショット、そしてカット(12)における「顔のない女性」の消失は、続くロスト・ガール関連のシークエンスへと引き継がれるものである。それについては、次の回で述べよう。

2008年6月16日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (89)

んなわけで、振り出しに戻って続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。

御存じのとおり完全に行き当たりばったりで書き進めてるので、こりゃまったくの偶然なんでありますが、「インランド・エンパイア」を映像に則して論じる場合、頭から順番どおりやるより途中から始めちゃったほうが楽チンでありますな(笑)。このあたりも、リンチ作品の言語化が困難な理由のひとつなのかもしれんけど、やっぱり総体的に理解されるべきものなのでありましょう。あ、あくまで「論じやすい」んであって、「わかりやすく」書けてるかどーかはまた別物ですので、念のため(笑)。 

さて、「インランド・エンパイア」の開巻と同時に提示されるのは、以下のような映像だ。 

(0:00:07)-(0:01:33)
(1)暗闇。映写機の光がそれを切り裂く。アウト・フォーカスから直ちにイン・フォーカスへ。左にパン。
(オーヴァーラップで) "INLAND EMPIRE"のタイトルが左側から現れる。
画面の右へと見切れる映写機の光。アウト・フォーカスへ。
(2)[レコードのスクラッチ・ノイズ]
回転するレコードとレコード針のクローズ・アップ。
[歓声]
録音された男性の声: Axxon N, the longest running radio play in history -- tonight continuing in the baltic region, a gray winter day in an old hotel.
(ディゾルヴ)
(3)アウト・フォーカスからイン・フォーカスへ。回転するレコードのガラス越しのショット(別カット)。
[ポーランド語で]
女性: The stairway is dark.
(ディゾルヴ)
(4)回転するレコード(別カット)
(ディゾルヴ)

このシークエンスによって提示されているのは、「映画」「レコード」「ラジオ」といった「メディア」のかなり直截なイメージだ。こうしたイメージの提示により、オープニング全体をとおして行われているのは、「インランド・エンパイア」が「メディアについての映画」であることの宣言である。

日本語では「媒体」という訳語が当てはめられる「メディア(media)」(正確にいうとこれは複数形で、単数形は「メディアム(medium)」である)だが、そのもともとの語義には「中くらいのもの」という概念と同時に、「中間にあるもの」という概念も含まれている。つまり、何かと何かの(誰かと誰かの)「中間」に存在し、 仲介して伝達を行うものが「メディアム」であって、よりさかのぼればその語源は神と人間をつなぐ「霊媒師」にまでたどりつく。これらの概念が、まさしく「インランド・エンパイア」が描く「映画」の姿と、あるいはリンチが考える「映画」の機能と、根本部分で重なりあっていることは容易に理解できるだろう。たとえば、「インランド・エンパイア」において、リンチがいう「映画の魔法」は「ファントム」という「媒介者」として提示される。彼が文字どおりの「触媒」として機能すること……もしくは「ミルクをチーズに変える微生物」のように機能し、受容者=ロスト・ガールの「内面」を変えることは、本編を観てのとおりだ。一方で、演技者=ニッキーは登場人物=スーと「同一化」を果たし、その「感情」を「伝達」する「仲介者」となる。上述した「メディア」の語源を考えれば、このニッキーのスーに対する「同一化」の過程は、託宣を得るために神に憑依され融合する「巫女」のイメージと、どこかで重なるものだといえるだろう*。「誰かを他の何か(誰か)とみなす」あるいは「他の誰かに共感する」という「能力」は、おそらくは「人間」が「人間」になった太古にはじまり、そして現在に至るまで連綿と引き継がれるものだ。

そして、これらの「メディア」のなかでも、「インランド・エンパイア」の「核」となるのが「映画というメディア」であることが、カット(1)カット(2)によって明示される。闇を横方向に切り裂く円錐形の光が、「映写機の光」を表すことをは間違いない。そして、そこに「インランド・エンパイア」というタイトルが浮かび上がる。このカッティングが指し示す「映写機の光」と「タイトル」の関連性は、「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であることの明瞭な提示だ。

「ラジオ」というメディアについては、カット(2)での「録音された男性の声」による「ラジオ・ドラマ(radio play)」という言及があるのみで、具体的な映像としては提示されれない。かわりに提示されている映像が「回転し再生されるレコード」であることをストレートに受けとるなら、「男性の声」はその「レコード」に録音されたものであるということになるのだろう。だが、より重要視しなければならないのは、「インランド・エンパイア」が提示する「メディア」が、基本的に「記録メディア」であることが示唆されている点だ。それは、このカット(2)に続き、ディゾルヴによるカッティングでカット(3)(4)が重ねられていることにも表れている。なぜ、ここでこのようなカッティングが……別テイクによる「再生されるレコード」のショットの繰り返しが用いられているのか? 単に「録音された男性の声」と「再生されるレコード」の関係性を表すだけなら、同じテイクのワン・ショットで十分なはずである。可能性として考えられるのは、カット(3)(4)が、カット(2)のリフレインであると同時にヴァリエーションであること、そして「記録メディア」が備える「再現性」「反復性」を表象しているということだ。

注意をひかれるのが、カット(3)における抽象的な紋様のような「ガラス様のもの」のショットである。これが何を表すのか、この時点では定かではない。だが、後にこれと類似するショットが(1:04:33)において現れたとき、その意味するところがぼんやりと見えてくる。(1:04:33)において提示されているのは、実体化した「スミシーの家」の内部から、スー=ニッキーが窓ガラス越しに「家の外部」を見るシークエンスだ。このシークエンスにおいて提示される、「薄汚れた窓ガラス」の映像がアウト・フォーカスからイン・フォーカスに転じるショットは、このカット(3)で提示される映像と酷似している。もし、これが同一のものであるならば、カット(3)の映像は(1:04:33)の映像と同じ機能を果たしていることになる。「スミシーの家」が「人間の内面」……特にニッキーおよびスーの「内面」を表すものと捉えられることについては、何度か述べてきた。この観点に基づくなら、「スミシーの家」から窓ガラス越しに外を見ることは、すなわち「内面」から「外界」を見る行為の表象として理解されることになる**。もし、このカット(3)における「汚れたガラス」越しのショットが「内面からの外界の認識」を表しているのなら、問題になるのは、その「認識される外界」が「回転するレコード」という「記録メディア」であるというまさにその一点にある。なぜなら、後に明確になるように、「インランド・エンパイア」が描いているのは、そうした「外界にあるもの=記録メディア=映画」によって、人間の「内面」が変化するということに他ならないからだ。

そして、「男性の声」は、「史上もっとも長く続いているラジオ・ドラマ」のことを語り、そのドラマのタイトルが「Axxon N.」であることを告げる。この後、この「Axxon N.」は、本編において「視線の交換」を伴いつつ三度にわたり発現し、演技者=ニッキーと登場人物=スーの「感情移入=同一化」の成立/深化/解体に対して機能する。この「男性の声」によるアナウンスがまず伝えるのは、こうした「感情移入=同一化」が「映画」以外のメディアにおいても発生し得ること……たとえば、「ラジオ」においても発生し得ること、ひいてはどのようなメディアにおいても「Axxon N.」が発現する可能性が存在することだ。加えて、このアナウンスは、「インランド・エンパイア」は「メディア」について語るが、その内容が「技術的な発達史」に関するものではないということをも表している。この作品が描くのは、そうした技術を「手段」として「感情」を伝えることについてであり、「物語創造/物語伝達」についてである。そのことは、後に「90歳の姪」に関するキングズレイ監督の言及によって、より明確にされる(0:40:59)。

同時に、「男性の声」は「バルト地方(baltic region)にある、曇った冬空の下の古いホテル」についても言及する。「インランド・エンパイア」においてこの「バルト地方」が何を表すかについては、この時点では定かではない。だが、後にピオトルケが参加するサーカスが「バルト地方」を巡業しているという言及があり(1:43:37)、それを考慮すれば「バルト地方」によって表されるものには、「サーカス」によって表されるものが付随させる「公的」「社会」「組織」といったイメージが伴っていることは明らかだ。いずれにせよ、「バルト地方」が「ポーランド・サイド」と同じく、「アメリカ・サイド」と併置され対置されるものであることは明瞭だ。基本的に、「ポーランド・サイド」は一般的受容者=ロスト・ガールに関連するものを表し、「アメリカ・サイド」が演技者=ニッキーと登場人物=スーに関するものを表象している。それを考えるとき、要素として残されているのが、ウサギたち/老人たちといった「介入/コントロールを行うもの」とピオトルケであること、そして老人たちによる「介入/コントロール」が「バルト地方」のどこかにある「家」においてピオトルケに対し行われること(2:01:35)は、一考に値するだろう***

しかし、先に述べた「再現性」「反復性」の問題は、この後に続く、カット(3)における女性の「階段が暗くて」という台詞に対応するシークエンスにおいて、また違った意味を帯びる。それについては、次のシークエンスについて述べるときに触れよう。


*余談になるが、このように「メディア」の語義をキーにして、ニッキーのスーに対する「同一化」の過程を「統合失調症の症例」とするアプローチをみたとき、加藤幹郎氏のラカン派精神分析学に対する「精神分析学は人間救済をめざした宗教の権威が地に堕ちたときに登場した擬似科学的な新興宗教のようなものです」(「ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学」P.149)という指摘が奇妙に符合してしまうことに気づかされる。おそらく、依代となり「神」に憑依された古代の「巫女」は、現代の精神分析医の診断によれば「統合失調症」を発症していたことになるのだろう。精神分析学が「宗教の代替物」であるならば、これは極めて正当な見方だ。たとえば、上記の「おそらく~」以下のセンテンスの、巫女が信じる「神」を「異神=自分達が信じるのとは違う神」という語句に入れ換え、「統合失調症を発症していた」を「自分達の戒律を破った」という語句に入れ換えてみても、さて、どれくらいの違いがあるのだろうか?

**ついでにいえば、「スミシーの家」の「窓ガラスの汚れ」は、人間の「外界」に対する認識能力の「限界」や「不確実性」の表れ……文字どおり「主観に歪められた外界認識」を表すものと受け取ることも可能だ。だが、それは逆に、「人間の内面」を第三者が「覗き込む」ことの「限界」と「不確実性」、そして「主観に歪められた他者の内面に対する認識」の表れでもある。

***どの「場所」にでも現れる(あるいは、侵入する)「ファントム=映画の魔(法)」と、外部的なものである「訪問者たち」は、要素として除外される。

2008年6月14日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (88)

なーんか、一挙に夏っぽくなってきておりますが、一年を過ぎてまだヘロヘロと続く「インランド・エンパイア」話であります。「長いでっせ? 三時間ありまっせ?」と関係の方に念を押されつつ試写を観たのは、去年のこのような季節の頃でありましたのですなあ。

それはそれとして、エンド・ロールの続きをば。

さて、前回で述べたような事項を押さえたうえで、改めてエンド・ロール全体を見回したとき、新たに気づくことがいくつかある。

たとえば(0:09:37)の映像などと比較しつつ、このエンド・ロールが繰り広げられる「舞台」を改めて観れば、実はそこが「ニッキーの屋敷」の内部であることが確認される。絵画を含めたリンチ作品全般において、「家」はしばしば「人間の内面」を表すものとして描かれてきた。それはリンチが抱く「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての家」というモチーフに基づいており、「インランド・エンパイア」もその例にもれないことは、たとえば「スミシーの家」によって表されるものをみても明らかだ。演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であるロコモーション・ガールたちが初めて現れるのが「スミシーの家」の内部であるのは(1:09:11)、そこが登場人物=スーの(そして演技者=ニッキーの)「内面」であるからに他ならない。そして、その延長線上に「ニッキーの屋敷」を捉えるなら、そこにロコモーション・ガールが現れるという表現自体が、逆説的にその「場所」がニッキーの「内面」であることを指し示していることになる。言い替えれば、エンド・ロールで提示されている映像はすべてニッキーの「内面」で発生している事象であり、そこで繰り広げられる「祝祭」も、ニッキーの「内面」に存在する「感情」を表象するものとして読み取られるべきだということだ。

「内面としてのニッキーの屋敷」という観点を考えるうえでキーになりそうなのが、「ファントムの妹」による「ステキ(Sweet)」という台詞である。この「ステキ」という台詞が、(1:28:24)においてすでに登場していることにお気づきの方も多いかと思う。その「ステキ」という台詞は「スミシーの家」の内部において、ロコモーション・ガールの一人から、他のロコモーション・ガールの胸を評する言葉として発せられていた。この(1:28:24)の「ステキ」に限定していえば、ロコモーション・ガールたちがニッキーの「情緒の記憶」である限りにおいて、いわばニッキーの「内省」であるといって差し支えないだろう。だが、「記憶」という概念をキー・ポイントにしたとき、ある思いに行き当たる……「ハリウッド伝説」に限らず、「伝説」というもの全般がある種の「記憶」であり、必ずなんらかの「感情」を伴って成立するものではないだろうか? いや、それをいうなら、何かが誰かの「心」に残るとすれば、それは例外なく感情や主観のバイアスがかかった「心象風景」としてであることを、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」などのリンチ作品は提示してはいなかったか? いずれにせよ、ロコモーション・ガールによる「ステキ」が「自らの記憶」に対する「感情」の発露とするなら、「ファントムの妹」による「ステキ」をそうでないとする理由は見当たらない。もし、この二つの「ステキ」がなんらかの「共通項」をもち、「対置」され「対応」するものであるとすれば、それはおそらく、ともに「記憶」に対する「感情」である点においてだ。

興味深いのは、前回にも少し触れた「ファントムの妹」の消失である。この表現を理解するキーとなるのは、(2:54:08)および(2:58:38)におけるニッキーのアップのショットだ。このショットにおける彼女は、長椅子に座ったまま、どこか”上方を見上げている”。この”上方を見上げる”ニッキーは、「ステキ」と呟きつつ”上方を見上げる”「ファントムの妹」(2:53:12)の明らかなリフレインである。この二人によって引き継がれる「上方への視線」という共通した動作は、同一の「感情」を共有していることの表象以外のなにものでもない。そして、もちろん、彼女たちがともに憧憬をもって見上げているのは「ハリウッド伝説」だ。だが、同じ「感情」を抱く同じ「映画関係者」でありながら、ニッキー自身はハリングやキンスキーとともに「伝説」の一部となってそこに残り、「ファントムの妹」は姿を消し、いなくなる。「残るもの」と「消え去るもの」、「伝説となって記憶に残るもの」と「いつしか忘れ去られるもの」……こうした「対置関係」の提示として、ニッキーと対比する形で「ファントムの妹」の消失は描かれているのだ。

ただし、エンド・ロールを「ニッキーの内面」と捉えた場合、ポイントになるのは「ファントムの妹」とニッキーの対比ではない。むしろ重要なのは、二人の間で引き継がれた「感情」そのもの強調であり、それに加えて「同一の動作=同一の感情」の「共有」が示唆するこの二者の「同一性」……つまり「同一の存在」であることの可能性だ。もし二人が同一の存在であるのなら、ニッキーが登場する一方で「ファントムの妹」が消失することには、何の不思議もないだろう。

もうひとつ、「ファントムの妹」と同じく、ニッキーとの対比として表れていると思われる要素がある。それは、(2:54:13)を皮切りに、3回インサートされる「椅子の背でとび跳ねる猿」のショットだ。この猿のショットを、浮浪者2によって言及された「糞をまき散らしつつ、ホラー映画みたいに叫び声をあげる猿(This monkey shit everywhere, but she doesn't care... This monkey can scream... it scream like it in a horror movie)」(2:28:44)の具体的な映像提示と理解するのは、Nikoや「ファントムの妹」の例がある限り、さほど不当なことではあるまい。この「猿」が「サンセット大通り」へのオマージュとして提示され、「動物=自律しながらも、他者のコントロールを受けるもの」を表すものであることについては以前に述べた。「インランド・エンパイア」において「動物」という概念によって表されるものは様々だが、「糞をまき散らしつつ、叫び声を上げる猿」が「介入/コントロールに失敗した映画作品」として理解可能であることについても、以前に述べたとおりだ。我々が「ハリウッド伝説」として記憶に残すのは「華々しい成功例」ばかりではない。「壮絶な失敗例」もまた「伝説」となり得ることは、「インランド・エンパイア」にも引用されている「クィーン・ケリー」の例が指し示している。ニッキーと猿のショットの対比から立ち表れてくるのは、こうした「成功例」と「失敗例」の対置関係であるといえる。

もう一点、注意をひくのは、上述したニッキーと猿のショットとともに、「丸太を切る木樵」のショットもインサートされることだ。つまり、「成功例」と「失敗例」という対置構造に加えて、「丸太を切る木樵」という「木のモチーフ」がもうひとつの要素として持ち込まれている。前回述べた、「木のモチーフ」がリンチにとっての「ある価値観」なのではないかという個人的な印象の根拠のひとつは、このようなところにある。端的にいうなら、「成功」や「失敗」の二つと対置されるまた異なった「価値観」として、「木のモチーフ」=「丸太を切る木樵」が表れているのではないか……という可能性だ。こうした「価値観」の問題は、「インダストリアル・シンフォニーNo.1」における「浮遊するジュリー・クルーズ」と「丸太を切るマイケル・アンダーソン」の対置とも、どこかで重なっているように思える。はたしてこの「価値観」は、森林研究者であったリンチの父親と、そして自身が幼少時代を過ごした50年代のアメリカの「価値観」と密接な関係があるのかどうか。

このエンド・ロールを「構成」という観点からみた場合、大きく三つのパートに分かれていることがわかる。一つ目のパートは、前回触れたカット(1)(2)の部分であり、ここではエンド・ロールの「核」=「ハリウッド伝説」がまず提示されていることについては、すでに述べたとおりだ。同時に、そこでは「ハリウッド伝説」自体を受容する「ファントムの妹」という存在が描かれ、ローラ・ハリングとニッキー(あるいはローラ・ダーン)との関係性を描くことで、ニッキーが「ハリウッド伝説」の一部となったことが示唆される。二つ目のパートでは、ロコモーション・ガール+女性ダンサーたちによる「祝祭」、およびハリングやキンスキーをはじめとする「伝説となった人々」のショットにインサートされる形で(あるいは、平行する形で)、上で述べた「ニッキー」「跳びはねる猿」「木樵」という対置される三要素が提示される。

そして、三番目の最終パートにおける具体的な映像は、以下のようなものだ。

(2:59:06)
(3)ニッキーのアップ。点滅するフラッシュ・ライト。視点はゆっくりと後退していき、ニッキーとキンスキーが赤い長椅子に座っているミドル・ショットになる。
Title: INLAND EMPIRE (白い文字で)
視点はなおも後退し、ロング・ショットに。女性ダンサーたちが、ロコモーション・ガールたちの前で踊っている。
(暗転)

 

このカット(3)が、カット(1)(2)の関係性において提示された「ニッキーの伝説化」の再提示であることは、改めて説明するまでもないだろう。あわせて、中心となっているニッキーからカメラの視点は後退し続け、キンスキーによって表される「他の伝説」の提示を経て、「祝祭」的イメージを含めた全体像を俯瞰する形までワン・ショットで収められてている。

……と、このようにみていくと、エンド・ロール自体が「三幕構成」によって成立していることが確認されるだろう。まず「テーマ」が提示され、次にそれに対する対立概念がぶつけられて、最終的に対立概念を含めた形の全体像が敷衍される……という「三幕構成」である。実際にリンチの意図であるかどうかは定かではないが、このような「シナリオ作法の基本形」がエンド・ロールに認められることは、リンチ作品における「ハリウッド古典的編集の遵守」と並んで、ぜひ指摘しておきたい事項のひとつだ。

繰り返し述べたように、エンド・ロールが提示する「テーマ」とは、「ハリウッド伝説」と「ニッキーの伝説化」である。エンド・ロールが、本編のラストに現れるニッキーのショット(2:52:09)によって表されるもののリフレインあるいはヴァリエーションであり、再提示であることについては前回も触れた。と同時に、そこにみられる「三幕構成」が表すように、エンド・ロールがそうした「テーマ」の詳細な「展開図」として機能していることは明らかだ。こうした「展開図化」あるいは「図式化」は、リンチ作品にしばしばみられる特徴であることも、改めて述べておきたい。

というわけで、これでとりあえず、「インランド・エンパイア」の後半2時間分に関する「イメージの連鎖」について、実際の映像に則しながらひととおり述べたことになる。次回からは、立ち戻って、残る前半1時間分の「イメージの連鎖」をたどってみることにしよう。

2008年6月10日 (火)

「リンチの新作」といっても娘のほう(その2)

本日のじゃないものあるけど、Dugpa.comネタ。

以前にも紹介したジェニファー・リンチの新作映画「Surveillance」について、試写を観たDugpa.comの管理人さんによる評が掲載されている。管理人さんの結論からいうと、「観るべし!(GO F*CHING SEE IT!)」であるとのことだ。

他の評をみても、今回の作品に関してはおおむね好意的な批評が中心。派手な失敗作からかなり長いブランクを経て、文字どおりカム・バックを果たした監督にしては、最大限の賛辞が捧げられているといっていいんじゃないでしょーか。管理人さんも映像・音響・音楽の全面に関してベタ誉めに近い感じで、いやが応でも期待を掻き立てられる感じなんだが、さて、日本で公開されるんでしょーかね?

Lynch_jennifer

……とか言ってるうちに、ジェニファーの第三作目の話が進行しているという情報も入ってきた。今度はなんと「Split Image Pictures」というインド・ベースの製作会社との仕事で、「Variety」の記事によれば、すでに契約も終えたとのこと。いわゆるボリウッド(Bollywood)」での仕事ということになるわけっスね。タイトルは「Nagin」。どうやら人間の姿にもなれる蛇女の話で「インド神話」を元にしているらしい。なんかIMDbでみてみると、1976年に同タイトル同題材の「Nagin」という作品がインドで作られている様子。そのシノプシスから流用すると(笑)、「蛇が年齢を重ねると人間の姿をとれるようになる」という神話があるんだそうだ。うーむ、猫又の蛇版?(なんだ、そりゃ)

しかし、インドの映画資本がハリウッドとコラボし始めたというのは、興味深い。ハリウッドで映画を撮影した日本人監督は何人もいるけど、フィルムの使用量の差とか取扱いの違いとか、いろいろ驚くことがあったように聞いてたりする。おそらくハリウッドのスタッフを邦画の製作現場に連れてくると、逆にいろいろ驚くことがあるんだろうなと思うのだが、果たしてハリウッドとボリウッドにはどのよーな違いがあるのか、ないのか、どーなのか。

あ、それと、「Surveillance」のフランスでの公開が7月15日からに決まったそうであります。で、オトーサンのほーはどーなった?(笑)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (87)

なんだかんだしているうちに、試写で初めて「インランド・エンパイア」を観てからほぼ一年が経過したんでであります。いやー、一粒で二度オイシイというか、一粒三百米というか、風速四十米というか、もはやなんのことだかよくわかりませんが、まあ、そのくらい長い間楽しませていただいてるワケで、安上がりといえば安上がりな道楽でありますナ(笑)。

というような感慨はともかくとして、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業は、「エンド・ロール」に差し掛かるのであったりするのであった。

この(2:52:50)から(2:59:31)までのエンド・ロールによって表されるものの「核」は、その冒頭においてすぐさま提示される。それは、リンチが抱える「ハリウッド伝説」のイメージであり、それに対するリンチ自身の「感情」だ。

(2:52:50)-(2:53:48)
(フェイド・イン)
(1)左から右へパン。白い大理石の柱。枠がはまったガラスの扉と、その両側に置かれた赤い二脚の椅子。右側の椅子の横には背の高い傘付きのライト・スタンドがある。スタンドの横には、大きな木のテーブルがある。左足に木の棒の義足をつけた女性が、松葉杖をついてやってくる。歩きながら、部屋のなかを見回し、あるいは見上げている。大理石の柱まで歩き、それに背をもたせかけ、上方を見上げる。
海兵隊員の妹: Sweet.
左から右へパン。ブロンドのかつらをかぶったNikoが右側の赤い椅子に座っている。椅子の背には彼女の猿が座っている。彼女にクローズ・アップ。
左へパン。ローラ・ハリング(黒いドレス姿)が、左側の赤い椅子に座っている。彼女はほほ笑み、右手で投げキッスをおくる。
(2)ニッキーのアップ。彼女は長椅子の右端に座り、ほほ笑みながらハリングの方を見ている。彼女の背後には、ナスターシャ・キンスキー(黄色いドレス)が、長椅子の左端に座っている。画面外のハーディングに向かって投げキスをするニッキー。

本編の中で、台詞によってのみ言及された二つの「もの」が、このエンド・ロールにおいて「実体」となって現れる。

一つ目は、ブロンドのウィッグを被り、猿を連れて登場するNikoだ。その映像イメージは、「ヴァイン・ストリート」の路上で浮浪者2が言及したそのままである(2:26:30)。当該シークエンスについて述べる際に触れたように、これらの「ブロンドのウィッグ」や「猿」といった「付属物(アトリビュート)」が、彼女が「ブロンド嗜好」や「サンセット大通り」からの引用などの混淆物であり、「ハリウッド伝説」の抽象概念として表れていることを示唆している。そのNikoが登場することによって表されているのは、このエンド・ロールそのものが、リンチによる「ハリウッド伝説」のイメージであるということだ。

映像に登場する順番とは逆になったが、二つ目は「義足の女性」である。彼女は、本編では「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの台詞のなかで言及されている(1:47:35)。この「義足の女性」も言及どおりの映像イメージであることは、改めて指摘するまでもないだろう。キャスト表における「海兵隊員の妹(Marine's sister)」という役名が指し示すとおり、彼女は「ノース・カロライナの海兵隊員だったファントム」の妹である。そして、この「ファントムの妹」が、何よりも強くリンチ自身を指し、ひいては「映画関係者全体の抽象概念」を表象していると捉えられることについては、「ノース・カロライナ」関連の回で述べたとおりだ。彼女がエンド・ロールにおいて「ステキ(Sweet)」と評するものが何であるのかは、前述したNikoの存在によって明瞭だろう。すなわち、この「ステキ」という台詞は、リンチ自身が抱える「ハリウッド伝説」への肯定的な感情の表れとして受け止めるべきものなのだ。

そうしたリンチの「感情」を考えたとき、(2:54:16)を含め何度か登場する「丸太を切る木樵」によって表されるものもまた、リンチが抱く「ハリウッド伝説」への感情の表れとして捉えることができるといえる。この木樵を、「”Hollywood”を切る」との連想において、リンチによる「ハリウッド批判」と捉える意見も目にするが、前述の「ステキ」に付随する肯定的イメージを考えれば、一概にそうも言い切れないようだ。過去作品をみればわかるように、あるいはリンチ自身の発言にあるように、リンチにとって「木」に関連するイメージやモチーフは非常に根元的なものであり、個人的にはもはやある「価値観」であるとすら感じる。実際、最初期の「グランドマザー」や「イレイザーヘッド」のころから「木」のモチーフは表れており、それ以降も「ブルー・ベルベット」の舞台であるランバータウンの設定や、「丸太おばさん(Log Lady)」などに表れる「ツイン・ピークス」の基本トーンなどに、作品を越えて連綿とつながっている。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」に至っては、マイケル・アンダーソンが木挽台に乗った丸太を鋸で切ってみせるという、「丸太を切る木樵」とまったく同一のモチーフすら存在するぐらいだ。

「青」のモチーフと同様、ことほどさように、リンチ作品における「木」のモチーフは高度に抽象化されており、ストレートな象徴化を許さない。敢えて指摘すれば、リンチ作品における「木」のモチーフが、ポジティヴなイメージを伴って表れることも稀ではないのだ。たとえば「グランドマザー」に登場する「木」から生まれ出る祖母は、主人公の少年にとって、厳格で口喧しい両親の対極にあるものである。あるいは、「イレーザーヘッド」において表れる「鉢のない鉢植えの木」は、ヘンリーの(そして、ヘンリーと重なる当時のリンチ自身の)、覚束ないかもしれないが将来につながる「才能」を表すものとして読み取ることができるものだ。「インダストリアル・シンフォニーNo.1」におけるマイケル・アンダーソンのパフォーマンスも、空中を浮遊し失墜するジュリー・クルーズと対置される、「確固とした地上のもの」のイメージを内包しているとも受け取れる。

……というようなコンテキストの上に「丸太を切る木樵」を置くなら、それが必ずしもネガティヴなイメージを伴っていないことが理解できるだろう。そもそも自らを投影した「ファントムの妹」が呟く「ステキ」という台詞に表されているように、リンチにとって、「ハリウッド」は基本的にポジティヴな感情の対象である。たとえその中での自分の現状が不本意なものであっても、少なくとも50年代(あるいはそれ以前)の「ハリウッド映画」は、「木」や「森」と同様、リンチの「原体験」のひとつであり、自身の「価値観」を形成する要素となっていることは明らかだ。繰り返される「サンセット大通り」(1950)や「オズの魔法使い」(1939)へのオマージュなどにみられるように、過去の「ハリウッド映画」を含めた50年代に対するリンチの嗜好は何度となく指摘されており、かつ自らもそれについて認める発言を繰り返している。それらの点を踏まえるなら、この「丸太を切る木樵」というモチーフもまた、「ハリウッド批判」というより、むしろそれに対するリンチの肯定的なイメージを伝えるものと受け止めた方が、妥当ではないだろうか。

こうした「ハリウッド伝説」あるいは「過去のハリウッド」に対するリンチのポジティヴなイメージは、ロコモーション・ガールも混じった女性ダンサーたちの乱舞による「祝祭的イメージ」に引き継がれる。リンチのフェイヴァリット作品のひとつである「8 1/2」(1963)の結末でフェリーニは、「ロケット発射台」の(映画内)映画のセットの前で登場人物たちが手をつなぎ、輪になって踊るという「祝祭的イメージ」を描いた。その直前に主人公のグイドが行う「人生は祭りだ。共に生きよう」という呼び掛けは、「インランド・エンパイア」が内包する「映画を介した感情の共有」というテーマとも、どこか重なっているように思える。そもそも参加者の「感情の共有」がないところに、真の「祭」などあり得るだろうか?

上記のような事項をひとまず押さえたうえで、では、このカット(1)カット(2)の具体的な映像をみてみよう。

まず指摘できるのは、カット(1)において、「ファントムの妹」とNiko、そしてローラ・ハリングの映像が長回しのワン・ショットで提示されていることだ。映像から推し量る限り、このショットは周到な計算に基づき、演技者と打ち合わせたうえで撮影を行っていることがわかる。「ファントムの妹」が最初に登場する映像では、Nikoあるいはハリングが座っているはずの椅子には誰もいない。その後Nikoが映され、次にハリングが映される映像では、すでに「ファントムの妹」は姿を消している。カメラの移動とキューに連動して、演技者たちが移動し、あらかじめ決められた所定の位置についているのは明らかだ。この「ファントムの妹」の消失が意味するとことは別項で述べるとして、結論として、この表現によって意図されているものが「ファントムの妹」とNikoとハリングの三者間の「連続性」であり、その「関係性の強調」であるのはいうまでもない。つまり、「ファントムの妹=映画関係者」と「Niko=ハリウッド伝説」、そして「ハーリング=伝説となった演技者」という基本構造が、ワン・ショットの「塊」として、まずこのカット(1)において提示されているのだ。

続いて、それに対するカウンター・ショットとして、カット(2)の「青いドレスを着たニッキーが長椅子に座っている映像」が提示される。それぞれのカットでハーリングとニッキーが交わす「投げキッス」が、この両者の関係を端的に説明している。一言でいえば、両者が「対置」されるものであり、かつ「等価」であることを指し示すのがこの「投げキッス」の交換だ。言いかえるなら、それはニッキー自身が「ハリウッド伝説」の一部になったという「宣言」である。そしてそれは、カット(2)においてニッキーの横に座るもう一人の「伝説となった演技者」=ナスターシャ・キンスキーによって補強される。このカット(2)のニッキーは、着用している青いドレスなどから、直前の本編のシークエンスにおいて提示された映像(2:52:09)と同一であることがわかる。この(2:52:09)の映像は、演技者=ニッキーが不特定多数の受容者=ロスト・ガールからの評価を獲得したことを表象するものであることは、前回に述べたとおりだ。エンド・ロールにおけるこのニッキーの映像の再提示は、その意味するところも含め、文字どおりのリフレインでありヴァリエーションだ。

だが、ここで、我々はある疑問に行き当たる。カット(2)を初めとして、このエンド・ロールで何度か提示されている「ニッキーの映像」は、果たしてニッキーなのか? 「映画の魔法」がもたらす「感情移入=同一化」にもとづき、自らの「情緒の記憶」をもとにして、「演技者」と「登場人物」はその境界すら危うくなるほどの深い「感情の共有」を行う……演技者=ニッキーを軸にして考えたとき、「インランド・エンパイア」はそうした事象を描いてはこなかっただろうか? であるならば、もしかしたら、そこに写されている「ニッキーの映像」が、実は「ニッキーを演じたローラ・ダーン本人」ではないと誰が言い切れるだろう。「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいて、我々が「感情移入の断絶」をつうじて「感情移入の存在」を認識したのと同じように……あるいはモニター越しに行われるニッキー=スーとロスト・ガールの「視線の交換」によって、自らが「受容者」であることを確認したように……我々はニッキーとローラ・ダーンの区別がつかないことを認めることで、「ニッキーとスーの区別がつかない理由」を知る。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のなかで起きたのと同じ事象が、「インランド・エンパイア」のなかでも起きていたとしても、何の不思議もない。

もし、ローラ・ハーディングやナスターシャ・キンスキーを「彼女たち自身」としてエンド・ロールに登場させたリンチの意図が、このような「インランド・エンパイア」の作品構造そのものに関する示唆にあるのだとしたら……これまた、周到な計算による仕掛けということになるのだが、どうだろうか。

(この項、続く)

2008年6月 5日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (86)

てなわけで、Linux2号機にも無線LAN接続完了。このエントリーは2号機からのアップであります。まあ、お勉強させていただいたのは、アレコレ試行錯誤するより、そのカーネルで動作実績のある古目の無線LANカードを二束三文で入手した方が、ナンボか手っ取り早いっちゅーことでしょうか、Linuxのバヤイ。さんざ悩んだ挙げ句、カードを取り換えたら、なーんもせんでも勝手に認識してくれたのには拍子抜け。

というよーな話はどーでもいいとして、さて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」である。引き続き、(2:45:37)から(2:52:33)までのシークエンスの残りである。だが、その前に、現在述べているシークエンスの大きな流れを、ここでもう一度振り返っておこう。今までフローごとに切り分けて記述してきた映像群を、「インランド・エンパイア」が実際に提示する時系列のまま並べるとこういう具合になる。各シーン・タイトルには、とりあげた回へのリンクを付しておいた。

(A)Rabbitsの部屋 (82)
消える三匹のウサギたち。「Rabbitsの部屋」に入ってくるニッキー。彼女は「映写機のまばゆい光」を見る。
(ディゾルヴ)
(B)「暗い通路」のどこか (83)(84)
「暗い通路」のどこかで解放されるロコモーション・ガールの二人。
(C)ロスト・ガールの部屋 内部 (83)(84)
自分の部屋でモニターを見詰めているロスト・ガール。そのモニター画面に映し出されるロコモーション・ガールの二人の解放。どこかの廊下で繰り返されるロコモーション・ガールたちの解放。モニター画面に映し出されるニッキーの到達。ロスト・ガールとニッキーによる「視線の交換」と「抱擁」。そして消え去るニッキー。部屋から出るロスト・ガール。
(D)明るい廊下 (85)
ロコモーション・ガールの二人が走り抜けた廊下を走るロスト・ガール
(E)どこかの暗い階段 (85)
階段を駆け下りるロスト・ガール。
(F)暗い通路 (85)
「暗い通路」を走るロスト・ガール
(G)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
「スミシーの家」の廊下に姿を表すロスト・ガール。
(H)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
「スミシーの家」の居間に入ってくるピオトルケと「スミシーの息子」。
(I)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
居間の扉が閉まる音を聞き付けるロスト・ガール。
(J)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
ピオトルケの「Hello」。
(K)「スミシーの家」の廊下 内部 (85)
ロスト・ガールの「Hello」。
(L)「スミシーの家」の居間 内部 (85)
ロスト・ガール、ピオトルケ、「スミシーの息子」の邂逅。ロスト・ガールとピオトルケの「視線の交換」と「抱擁」。
(ディゾルヴ)
(M)映画館 スクリーン (82)
映写機のまばゆい光と天井の小さな灯り。
(ディゾルヴ)
(N)「Rabbitsの部屋」 (82)
まばゆい光を見詰めているスー。オーヴァーラップで「赤い衣装のバレリーナ」。まばゆい映写機の光と天井の灯り。
(ディゾルヴ)
(O)「スミシーの家」の居間 (85)
ロスト・ガールとピオトルケの「抱擁」。
(ディゾルヴ)
(P)
ニッキーの屋敷 内部
訪問者1のアップ。
(Q)ニッキーの屋敷 内部
左を向くニッキーのアップ。その主観ショットによる長椅子に座るニッキー。

さて、このようにしてみると、このシークエンス全体の流れが表すものが幾分か明確になってくる。結論からいうと、このシークエンスによって提示されているのは、「『受容者の抽象概念=不特定多数の受容者=ロスト・ガール』によって、登場人物=スーが共感され受け入れられた」ということだ。それはロスト・ガール側からはパート(C)-(L)およびパート(O)によって表され、スー側からはパート(A)およびパート(M)(N)によって提示される。かつ、スーが多くの受容者から受け入れられたということは、すなわち「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品そのものが成功したこと、あるいは演技者=ニッキーが高い評価を得たということとと同義だ。そのうち、「ニッキーが受けた評価」に関しては、残されたパート(P)および(Q)において表象されている。では、このシークエンスの最後に、パート(P)および(Q)を詳細にみてみよう。

ニッキーの屋敷 内部 (2:51:40)
(ディゾルヴ)
(1)訪問者1のアップ。目だけを動かして右のほうを見ている。半ば目を閉じ、やがてまた開く。一瞬の微笑み。少しクローズ・アップ。

ニッキーの屋敷 内部 (2:51:52)
(2)ニッキーのアップ。頭をゆっくりと左に向ける。目を動かして左を見る。やがて、彼女は真っすぐに正面を見る。
(3)ニッキーの主観ショット。カウチと長椅子が見える。屋敷の奥の部屋と廊下に続く扉が見える。扉越しに、隣の部屋とシャンデリアが見える。右手の長椅子のところにシェイド付きの背の高いライト・スタンドが見える。青いドレスを着たニッキーが、長椅子の右端に座り、画面手前のほうを見ている。
(4)ニッキーのバスト・ショット。長椅子に座り、画面手前を見詰めている。
(暗転)

このシークエンスのうちカット(2)は、(0:18:06)のカットの映像と同一のものである。この映像は、ニッキーに対する訪問者1の以下のような示唆に連動して表れているものだ(0:17:46)。なお、同一映像の部分は青字で表示している。

訪問者1: If it was tomorrow you would be sitting over there.
訪問者1は部屋の向かい側にある長椅子を指差す。
ニッキーのアップ。いぶかしがるニッキー。
ニッキーは頭を巡らし、長椅子の方を見る。

訪問者1: Do you see?

この(0:17:46)からのシークエンスでは、この後、「ニッキーが友人たちと長椅子で歓談しているところに、エージェントから役を獲得したという電話が舞い込む」という映像につながる。それに対しこのシークエンスでは、カット(2)の「左を振り向くニッキー」に続いて、長椅子に一人で座っているニッキーの映像(カット(3)(4))が提示される。この二つのシークエンスの関係性から読み取れるのは、カット(2)の共通した映像をキーにして、それ以降の映像同士が「等価」であり「併置」されるものであるということだ。つまり、訪問者1による「おわかり?」というニッキーへの問い掛けへの回答として、二つのショット(あるいはシークエンス)が提示されているということである。ひとつは、上に挙げた(0:18:14)から提示されている「友人とニッキーの映像」から始まり、その後、三時間弱にわたって繰り広げられる映像群によって表されるものだ。もうひとつは、この回でとりあげているシークエンスのカット(3)(4)によって表されるものである。前者の三時間弱の映像とカット(3)(4)の関係は、「原因」と「結果」、あるいは「過程」と「結末」の関係にあるといえる。つまりカット(3)(4)で表されているのは、登場人物=スーを演じ「不特定多数の受容者=ロスト・ガール」からの「共感」を受けた結果、「ハリウッド伝説」の一部となった演技者=ニッキーの姿だ。そして、「三時間弱の映像群」は、彼女がそこに至るまでに辿った道筋である。映画が作られ、観られる。受容者が登場人物に「感情移入=同一化」し、自らの現実さえをも変える。登場人物を演じた演技者は、その演技を評価され、伝説となる……「インランド・エンパイア」が内包している「省略されたストーリー」を敢えて言語化するなら、おそらくはこのような「物語」になるのだろう。そして、そのようなことを可能にするのは、リンチのいう「映画の魔法」なのだ。

さて、「訪問者」たちが付随されている「外部性」のイメージに関しては、何度か述べてきた。彼女たちもウサギたちと同じように「介入」のイメージを伴っているが、後者はダイレクトに「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のコントロールに関与しており、前者と比較して「内部性」が高い。逆説的にいえば、「訪問者」はその「外部性」のイメージがゆえにリンチによって「訪問者」と呼称されているのだ。その「外部性」のひとつの表れが冒頭において訪問者1が述べる、「映画」における「時間・場所に対する見当識の失当」や、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品および演技者=ニッキーに関する「言説」であり、それに伴っている「評論的」イメージだ。そして、彼女の「言説/評価」の正しさは……「明日になればニッキーはそこ(の長椅子)に座っているだろう」という言及の正しさは、前述したカット(3)(4)およびエンド・ロールによって表される「演技者=ニッキーのハリウッド伝説化」によって証明されることになる。となれば、カット(1)における訪問者1の満足気な表情が物語るものは、明瞭だろう。

このシークエンス全体を通じて、リンチ自身が作詞・作曲した「Polish Poem」が流れる。このようにして「インランド・エンパイア」が提示する映像が表すものを追いかけたなら、その歌詞が意味するところは明瞭だろう。

この詩をあなたのために歌おう
輝きうねる波が向こう側に見える
それは遠くに
それはあなたのとても遠くにある
でも、私には見える
それが見える

「スクリーン」の(あるいは「モニター」の)向こう側とこちら側で、「彼/彼女ら=映画を作る者」と「我々=受容者」は違いに「視線」をかわし、「共感」するのである。

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