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2008年5月31日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (85)

うーむ、こんなに週末ごとに天気が悪いんでは、どこにもお出かけできないではないか。公園行って、ゆっくり日向ぼっこでもしたいんじゃがのう。詮ないのう。仕方ないから、昼間っからビールでも飲むかのう。ぐびぐび……。

……などと「週末引き籠り」および「週末ドランカー」の道をまっしぐらに辿りながらも進む、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。引き続き、(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけている最中だったりする。今回は、前回の続きとして(2:48:24)から始まる、「感情移入=同一化」が解体された後のロスト・ガールに関連するシークエンスをばみてみよう。

L:ロスト・ガールの部屋 内部 (2:48:24)-(2:48:41)
(1)ロスト・ガールのアップ。右上方のどこかを見詰め、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。扉が開く音がした方向を見る。
(2)ロスト・ガールの主観ショット。正面の壁右側の白い扉。扉の向こうには、白い壁と木の扉が並んだ廊下が見える。部屋の中の白い壁と白い円柱が見える。
(3)ロスト・ガールのアップ。右側にある扉のほうに向かって歩き始める。
(4)ロスト・ガールの背後からのショット。彼女は扉をくぐって部屋から廊下へと駆け出す。そして、いちばん手前、右側の扉に姿を消す。

L:通路のどこか (2:46:21)-(2:48:44)
(5)ミドル・ショット。扉を開け、廊下に駆け出してくるロスト・ガール。扉には「205」の表示が見える。ロスト・ガールは緑のカーペットが敷かれた廊下を画面奥に向かって走っていく。彼女を少し追いかけるショット。

L:どこかの暗い階段 (2:48:44)-(2:48:50)
(6)ミドル・ショット。階段を駆け下りるロスト・ガール。踊り場を右に回るロスト・ガール。
(7)暗い階段の踊り場から下を見下ろすショット。踊り場を右回りに走り、なおも階段を下り続けるロスト・ガール。

L:暗く狭い通路 (2:48:50)-(2:48:54)
(8)ミドル・ショット。暗い通路。壁の上方は白く、下方は緑である。ロスト・ガールが通路の左端から姿を現す。画面手前に向かって通路を駆けてくる。それにつれて少し後退するショット。

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:48:54)-(2:49:07)
(9)「スミシーの家」の廊下にある扉のアップ。向こう側からロスト・ガールが扉を開く。彼女はその扉をくぐって廊下に姿を現す。右後方に後退するショット。短い別の暗い通路が見える。画面奥、彼女の左手に扉。彼女は右手を正面(画面右手)の壁に向かって伸ばす。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:07)-(2:49:14)
(10)ミドル・ショット。右手に玄関の扉。左手には壁際に置かれた椅子、カーテンがひかれた窓が見える。 玄関の扉が外側から開かれる。「スミシーの息子」とピオトルケ(大柄のチェックのジャンバー)が居間に入ってくる。後ろ手に扉を閉めるピオトルケ。

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:49:14)-(2:49:18)
(11)ミドル・ショット。ロスト・ガールが何かを察知し、画面左手に体を向ける。くぐってきた扉を閉めるロスト・ガール。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:18)-(2:49:23)
(12)ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。ピオトルケは、まだ左手を扉のノブにかけたままだ。
ピオトルケ: Hello.

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:49:23)-(2:49:26)
(13)
ミドル・ショット。暗い通路にいるロスト・ガール。
ロスト・ガール: (画面手前に向かって) Hello?
ロスト・ガールは画面手前左側に向かって歩き、画面から姿を消す。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:26)-(2:50:07)
(14)ミドル・ショット。ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。
(15)ミドル・ショット。玄関の扉の前に立っているピオトルケと「スミシーの息子」の背後からのショット。部屋の内部が見える。台所に続く通路が左に見える。ベッド・ルームに続く廊下が見える。右手の壁には、黒い背景に白い花が描かれた絵が掛かっている。「スミシーの息子」の右手には、背の低いライト・スタンドがある。ベッド・ルームに続く廊下から、ロスト・ガールが駆け込んでくる。居間の中程で立ち止まる彼女。三人は互いを見詰め合う。
(16)ミドル・ショット。ロスト・ガールの背後からのショット。ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。ロスト・ガールの頭の右側が見えている。玄関の扉と閉められたカーテンが見える。「スミシーの息子」がピオトルケをちらっと見る。
(17)ロスト・ガールのバスト・ショット。満面の笑みを浮かべている。彼女はピオトルケのほうに向かって歩き始め、画面の右手から姿を消す。
(18)ミドル・ショット。ピオトルケと「スミシーの息子」に駆け寄るロスト・ガール。右へパン。ピオトルケの頭を抱くロスト・ガール。彼女の体を抱くピオトルケ。互いに強く抱きしめ合う二人。
(19)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。互いに抱きしめ合う二人。やがて身を離したとき、二人の間に「スミシーの息子」が見える。ロスト・ガールは右手の人差し指を伸ばし、ピオトルケの鼻に触れる。
(20)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。ピオトルケの左肩越しの背後からのショット。ロスト・ガールがピオトルケの頭を抱き、彼を強く抱きしめる。
(21)ロスト・ガールとピオトルケのバスト・ショット。二人は互いを強く抱きしめ合う。次に、ロスト・ガールは「スミシーの息子」を抱きしめる。ピオトルケは「スミシーの息子」の背を彼女に向けて軽く押し、二人が抱き合うのを見詰めている。左手で、ロスト・ガールの背中に触れるピオトルケ。ロスト・ガールは、ほほ笑みを浮かべながら彼を見る。ピオトルケは、ロスト・ガールと「スミシーの息子」を一緒に抱きしめる。
(22)ピオトルケのアップ。二人を抱きしめながら、笑みを浮かべる。目を閉じるピオトルケ。
(23)「スミシーの息子」のアップ。笑いを浮かべている。彼の背後、左手には長椅子と低いテーブルが見える。右手には閉められたカーテン。
(24)ピオトルケとロスト・ガールのアップ。右から左へパン。ロスト・ガールが、右手の指でピオトルケの唇に触れる。ピオトルケは右手の指で彼女の右の頬に触れる。
(オーヴァーラップ)

「スミシーの家」の居間 内部 (2:52:36)-(2:51-40)
(オーヴァーラップ)
(25)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。「スミシーの家」の居間で抱き合う二人。
(オーヴァーラップ)

少々引用が長くなったが、とりあえず、このシークエンスの大雑把な構造からおさえておこう。まず、「ロスト・ガールの部屋」から始まるロスト・ガール関連のフローがある。このフローの最初のカット群(カット(1)-(4))は前回とりあげたシークエンス内に含まれているものだが、それ以降は「廊下」→「階段」→「暗い通路」という具合に舞台を推移させていく。このフローに対し、「スミシーの家」を舞台にしたピオトルケと「スミシーの息子」に関連したフローがクロス・カッティングでインサートされ、同時進行してする。この二つのフローがカット(15)で合流し、最終的に「スミシーの家」の内部でのシークエンスに移行するという構造だ。この後の記述整理上の利便を考え、ロスト・ガール関連のシーンには「L:」の表示を付しておいた。

このロスト・ガール関連のフローから読み取れるものは、大きくわけて二つある。まず一つ目は、「インランド・エンパイア」の基本構造を成す「高低のアナロジー」がここでも確認できることだ。かつ、カット(6)およびカット(7)にあるように、この「高低のアナロジー」はやはり「階段」によって提示される。アナロジーに従って理解するなら、「ロスト・ガールの部屋」は「家」の領域の高部にあり、最終到達地点である「スミシーの家」は「家」の領域の低部にあることになるはずだ。二つ目は、ロスト・ガールが「スミシーの家」に向かって移動する通過点が、すでに以前のシークエンスに登場した「場所」であることである。たとえばカット(5)の「廊下」は、(2:47:10)あるいは(2:47:21)において、ロコモーション・ガールの二人が駆け抜けた「廊下」であるし、カット(6)の「階段」は、手摺の形状からして(2:14:27)でニッキー=スーが「Mr.Kのオフィス」に向かうために上った「階段」と同一であることが見て取れる。あるいはカット(8)に登場する「通路」は、そのアーチ状の梁からして、ニッキー=スーが「『47』の扉」に至るまでに辿った「暗い通路」だ(2:42:21)。

これらの事項に関しては、以前挙げた「インランド・エンパイア」の基本概念図を念頭においておくと、あるいはわかりやすいかもしれない。基本概念図にあるように、この「家の領域」の下には「ストリートの領域」が存在することは何度か述べてきた。「ストリート」によって表されるものは、実はニッキーやロスト・ガールによって「共有」される「感情」が存在する場所であり、それがゆえに「通底」している。基本概念図でのポーランド・サイドとアメリカ・サイドがつながった「ストリート」は、それを表しているわけだ。言い換えるなら、「インランド・エンパイア」における「高低のアナロジー」では、「高い場所」ほど「個」に属するがゆえに分化しており、「低い場所」ほど共有され通底化する傾向にある。当然ながら、「ロスト・ガールの部屋」はロスト・ガールという個に属する場所として「高部=分化」した位置にあるわけだが、それに比較して「スミシーの家」は「低部=通底」した位置にあることが、カット(6)(7)カット(15)の関係によって明らかにされているのだ。

そうした「スミシーの家」の性格を裏付けしているのが、二つ目の事項である。前述したように、このシークエンスにおいてロスト・ガールが移動する「廊下」や「階段」や「通路」は、以前のシークエンスにも登場している。「インランド・エンパイア」において、しばしば「感情の共有」が「場所の共有」という形で描かれることは、たとえば「ストリート」にスー=ニッキーやドリス、そしてロスト・ガールが立つという表現からも明らかだ。このシークエンスにおいてロスト・ガールが通過する「廊下」や「階段」が、すでに他の登場人物によっても通過されていることは、彼女たちによるそれらの「場所の共有」を表している。つまり、それは「感情の共有」と同義であるということだ。

この「場所の共有=感情の共有」という図式は、「スミシーの家」にも当てはまる。そもそも、この「スミシーの家」は、演技者=ニッキーと登場人物=スーによって「共有」されていたのではなかったか? そして、そこではニッキーはスーに対して「感情移入=同一化」を行い、結果として彼女たちの間には「感情の共有」が成立していたのではなかったか? 「インランド・エンパイア」がこれまで描きつづけてきた”演技者=登場人物=受容者という「等式」の成立”を考えるとき、カット(15)以降に表されるように、「スミシーの家」が最終的に受容者=ロスト・ガールによっても「共有」されることはまったく意外ではない。また、それが何を表しているのかも明瞭である。

問題は、カット(15)以降の映像によって提示される、「スミシーの家」の内部でロスト・ガールたちによって起こされる「事象」のほうだろう。まず指摘しておきたいのは、ここでもまた、ロスト・ガールとピオトルケによる「視線の交換」が行われていることだ。それを踏まえたうえで理解されるのは、この”ロスト・ガールとピオトルケによる「視線の交換」と「抱擁」”が、(2:47:55)において提示された”ロスト・ガールとニッキーによる「視線の交換」と「抱擁」”に対置されるものだということである。前回述べたとおり、後者がロスト・ガールとニッキーによる「感情の共有」つまり「感情移入=同一化」を表すならば、前者が表しているものはロスト・ガールとピオトルケによる「感情の共有」に他ならない。より詳細に述べるなら、ここで提示されているのは「一般的受容者の抽象概念」であり「妻の抽象概念」であるロスト・ガールと、「夫の抽象概念」であるピオトルケによる「感情の共有」である。加えて、そこには「子供の抽象概念」である「スミシーの息子」も存在しており、最終的にカット(15)以降のシークエンスによって提示されているのは、「家族の抽象概念」による「感情の共有」であることになる。それは、「インランド・エンパイア」が延々とその「個別例」を提示しつづけてきた、「トラブル=機能しない家族」の対極にあるものだといえるだろう。

ここで思い出されるのが、「インランド・エンパイア」に関するリンチの言及のいくつかである。「チーズがなければ『インランド・エンパイア』はなかった(Without Cheese there wouldn't be an INLAND EMPIRE)」、あるいは「チーズはミルクから作られる(Cheese is made from Milk)」……これらは、「ハリウッド・ブルバード」の路上でリンチが仕掛けた「ローラ・ダーンをアカデミー賞の受賞候補に」というプロモーションの際に掲げられたバナーのスローガンであったり、あるいはそのスローガンの意味に関する質問に答えて発言されたりしたものだ。「ミルクはチーズから作られる」……正確にいえば、ミルクが細菌の働きによって発酵し、変化して出来上がるのがチーズである。さて、この「変化」をロスト・ガールに当てはめてみたらどうだろう。彼女は、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を通じて「自己確認」を行い、演技者=ニッキーと「感情の共有」を行った。しかし、それはロスト・ガールただ一人の「内的変化」にとどまらず、カット(15)以降に表されるように、彼女の「現実」における”家族全員との「感情の共有」”につながっている。まさしくこれは、「ミルク=ロスト・ガールの感情」が、「細菌=映画の魔法」の働きによって「チーズ=家族による感情の共有」に「変化」したということなのではないだろうか? そうした「チーズ=感情の共有」という概念がなければ、間違いなく「インランド・エンパイア」という作品は成立しなかったはずだ。

別な見方をすれば、その共有される「感情」は、そもそも「演技者=ニッキー」の「内面」に存在していたものである。「演技者の感情=ミルク」は、「登場人物=細菌」の力を借りて発酵=化学変化を起こし、「受容者の感情=チーズ」となった……とも捉えられるだろう。と同時に、「チーズ」に変化を終えた「ミルク」も、もはや「ミルク」ではない。「登場人物=スー」の「人生」を生きることによって、「演技者=ニッキー」自身の「内面」も変化するのである。

こうした「変化」を端的に表すのが、カット(12)でピオトルケによって発せられ、カット(13)ではロスト・ガールがそれに応えて発する「Hello」である。この「Hello」が、(1:16:05)でスー=ニッキーによって発せられた「Hello」と対置されるものであることは明瞭だ。「スミシーの家」に帰宅したスー=ニッキーの「Hello」は誰にも応えられず、それどころか、ピオトルケはスー=ニッキーから隠れるように「廊下の扉」に姿を消す。それに対し、このシークエンスでの「Hello」は、まずピオトルケから発せられ、かつロスト・ガールによって応えられている。この「対称形」あるいは「対置性」こそが、「映画」による「感情の共有」によってニッキーが、あるいはロスト・ガールが、あるいはピオトルケがその「内面」において変化したことを……つまり、「ミルクがチーズに変化した」ことを表している。確かに「映画の魔法」を介した「感情移入=同一化」は、「映画」の終了とともに消え去るかもしれない。が、その結果として「共有」された「感情」は一過性のものではない。それは創造者/受容者に「内面的な質変化」を与え、彼/彼女の「現実」を変え得る可能性を備えている……このシークエンスを通じて、あるいは「インランド・エンパイア」全編を通じて、リンチはそう訴えているのである。

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