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2008年5月29日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (84)

ただいま、Linux2号機仕込み中(笑)。そもそもが七年ほど前に買った中古ノートで、HDが吹っ飛んでから長いこと放置中でありましたわけですが、1600円で買った中古HDを積んでみたらあっさり動きやがんの(笑)。しかし、64MBしか本体RAMがないし、どーしたもんか……と悩んだ挙げ句、試しに最軽量級のデストリビューションをインストールしたら、動くんだなあ、これが、それもGUIでスコスコと(笑)。というわけで、この文章はLinux2号機で書いています。日曜あたりに、2号機にも無線LANを仕込んでみよう。

……ってな話はおいといて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話の続き。前回に引き続き、今回も(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけてみる。

では、いよいよロスト・ガール関連の事象を追いかけてみよう。フェイズとしては二つに分かれているが、そのうち、まず彼女の「感情移入=同一化」の解体を表す映像を追いかけてみる。

暗い通路 (2:47:02)-(2:47:06)
(ディゾルヴ)
(1)「暗い通路」のどこか。以前とは違い、通路の中は明るくなっている。右のほうを見ている二人の女性のアップ。笑みを浮かべながら、画面右手に姿を消す。二人がいなくなった後ろには、明るくなった通路と開いている扉が見える。

ロスト・ガールの部屋 内部 (2:47:06)-(2:48:24)
(2)ロスト・ガール(アメリカ・サイド。青いセーターに黒いスカート)のアップ。彼女はTVモニターを見詰めている。強い光が右上方から彼女の顔にさしている。彼女の背後には、白い壁とそれに掛かった「木々と山」の絵がみえる。彼女の左側には、ソファの背と白と金色の柱が見える。
(3)TVモニターのアップ。白い壁と黒い扉が並んだ廊下が映し出されている。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。二人のロコモーション・ガールが手に手をつないで廊下の奥に姿を現し、モニターの画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、モニター画面手前から姿を消す。
(4)ロスト・ガールのアップ。彼女は半ば口を開け、モニター画面を見詰め続けている。突然、何かを察知し、急いで右の方に振り向く。
(5)通路のどこかで、先ほどTVモニターに映し出された情景が再び繰り返される。白い壁と黒い扉が並んだ廊下。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。床には緑のカーペットが敷かれている。二人のロコモーション・ガールが手に手をたずさえて通路の奥に姿を現し、画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、画面手前から姿を消す。
(6)ロスト・ガールのアップ。右のほうを凝視し続けている。彼女は再び何かを感じとり、モニター画面に目を映す。
(7)モニター画面のアップ。ロスト・ガールの部屋。彼女の背後からのショット。彼女自身とTVモニター、右半分と左半分が開けられたステンド・グラスの扉が見える。白い壁と白い円柱、カーペットが敷かれた床、正面右の壁には開いた扉が見える。ニッキー=スーが正面右の開いた扉から入ってくる。ゆっくりと座っていたソファから立ち上がるロスト・ガール。ニッキー=スーが部屋の中ほどまで歩いてくる。ニッキー=スーの陰がモニター画面にかかる。
(8)ミドル・ショット。ロスト・ガールの部屋の内部。左からは、日の光が差し込んでいる。ニッキー=スーとロスト・ガールは部屋の真ん中でお互いを見詰め合う。モニターには、その二人の姿が映し出されている。ニッキー=スーがゆっくりとロスト・ガールに近付き、彼女の髪に手を伸ばす。ロスト・ガールが両の手をニッキー=スーの両腕にかける。やがて二人はキスをする。徐々にディゾルヴで消えていくニッキー・スー。そのままの姿勢で立ち尽くすロスト・ガール。

このシークエンスのうち、カット(1)カット(3)、そしてカット(5)に関しては前回で詳述したが、流れを掴むために再度引用した。いずれにせよ、この(2:45:37)から(2:52:33)までのシークエンス全体を通した大きな流れについては、改めて一項を立てて触れることになるだろう。

カット(3)(5)カット(7)(8)との関連性によって、二人の女性とニッキーの同一性が表されていることは前回述べたとおりだ。

カット(7)カット(8)間に成立している「関係性」が、前回題材にしたシークエンスにおけるカット(3)カット(5)の間に存在する「関係性」と、基本的に同一のものであるのは明瞭である。ここでもまた、「モニター」上で発生した事象が、「フレーム内フレーム」を取り外した形でそのまま提示されている。加えてカット(8)では、「モニター」という「フレーム内」に「フレーム外」の事象が映し出されているのだ。この表現によって表されるものが、「フレーム内にある(映画内)非現実」と「フレーム外にある(映画内)現実」の「連続性」や「等価性」であることはいうまでもないだろう。当然ながら、それはそのまま「インランド・エンパイア」という「非現実」と我々の「現実」の関係性に重なっていくわけだが、その「関係性/構造」はこのカット(7)で提示される「ロスト・ガール自身と彼女の部屋がモニターに映し出されている映像」によって、端的な「モデル」として表象されているといえる。

「インランド・エンパイア」が「感情移入装置」としての「映画」を描いているという観点からみたとき、カット(8)における、演技者=ニッキーと受容者=ロスト・ガールの「抱擁」が何を指し示すのかは明快だろう。そのうえで、まず指摘しておきたいのは、カット(8)の前半でロスト・ガールとニッキーの間に「視線の交換」が発生していることだ。しかし、このカットにおける「視線の交換」が、これまでに現れたものと異質のものであることは、映像を観れば明らかだろう。

「インランド・エンパイア」には、これまで何度となく「視線の交換」を表すシークエンスが登場してきた。それらのシークエンスは、基本的に「観るもの」と「観られるもの」の二つのショットからなる「ショット/カウンター・ショット」によって構成されており、たとえば「Axxon N.」の発現に伴って発生した三回の「視線の交換」のシークエンスを観れば、その構造が確認できるはずだ(1:01:50)*(2:08:17)(2:36:50)。同様に、登場人物=スー(あるいは演技者=ニッキー)と受容者=ロスト・ガールの間に発生した「モニター」を挟んだ「視線の交換」も、やはり「ショット/カウンター・ショット」によって提示されている(2:36:00)。その形が崩れ始めるのは「無人の映画館」におけるニッキー(あるいはスー)の「スクリーン」を介した「視線の交換」からであり(2:37:00)、このシークエンスでは「視線の交換」を行うニッキーとロスト・ガールの姿が、ついにミドル・サイズのワン・ショットのみで提示される。

この「撮られ方」あるいは「提示のされ方」の差異は、そのまま各シークエンスが備える「感情移入=同一化に対する機能」の差異につながっているといえる。カット(8)以外の箇所で発生していた「視線の交換」は基本的に「主観ショット=登場人物と受容者の視線の共有」によって描かれており、それ自体が我々=受容者の「感情移入=同一化」の形成/深化に対して寄与している。それに対し、カット(8)の「客観ショット」は「事象の記述」としてのみ機能しているのだ。そういう観点からみたとき、三回目の「Axxon N.」の発現に伴う「視線の交換」の提示方法が、意図的なものであることがみえてくる。そこでは、「映画館のスクリーンに映し出されたスー=ニッキーの姿」と「それを客席から観ているニッキー=スー」が、二人を同一フレーム内に収めたショットで提示されている。そのシークエンスから始まるものが、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の「解体」であることを考えるなら、「映画館」での「視線の交換」が客観的な「事象の記述」を含みつつ描かれなければならない理由が理解できるはずだ。「インランド・エンパイア」という作品は、そのときに必要とする「感情移入=同一化」の深度/ステイタスに連動して「提示の仕方」を変遷させていることが、こうしたショット群の対比によって理解される。そして、そこで「描かれているもの」が演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」の問題でありながら、同時にそれを観ている我々=受容者の「感情移入=同一化」自体とも連動しているというような、「インランド・エンパイア」が備える多重構造もまた、垣間見えてくるのである。

「視線の交換」に続いて、カット(8)後半ではニッキーとロスト・ガールによる「抱擁」が提示される。しかし、これまで「インランド・エンパイア」を観つづけてきた我々にとって、この「パターン」はまったく意外なことではない。この作品において、「視線の交換」を伴うシークエンスで提示されているものが「感情移入=同一化」に関するものであることは、繰り返し述べてきた。であるならば、「視線の交換」を伴って提示されるカット(8)の「抱擁」が、演技者と受容者の間に成立した「感情の共有」……つまり「感情移入=同一化」を表しているのは明瞭だ。「インランド・エンパイア」がこれまで提示してきた基本テーマが、このワン・カットにすべて集約されているのだ。

このシークエンスにおける「ロスト・ガールの部屋」は、基本的に「光」をともなったメゾンセンによって統一されている。過去のリンチ作品……たとえば「イレイザー・ヘッド」や「劇場版ツイン・ピークス」の結末がそうだったように、「インランド・エンパイア」のこのカットも「光」に満たされたポジティヴなものとして提示されることになる。そして、その「ポジティヴなもの」が、「見詰めあった」二人の「抱擁」によって表される演技者と受容者の「感情移入=同一化」であることは、もはや言葉を重ねるまでもないだろう。

ニッキーとロスト・ガールの「感情の共有」は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の終了とともに終わる。ロスト・ガールの腕の中からディゾルヴで消えていくニッキー(あるいはニッキーとスーの「混合物」)の映像によって、「感情の共有」の終結が明示される。リンチのいう「映画の魔法」は解け、「感情移入=同一化」は解体された。だが、それは受容者=ロスト・ガールの「裡」から完全に消え去り、もはや顧みられないものなのだろうか? いや、そうではない。少なくともリンチがそう考えていないことは、これ以降のシークエンスによって明らかである。

*正確にいうと、第一回目の「Axxon N.」の発現に伴う「視線の交換」のカットにおいて、一瞬、ニッキーの後ろ姿と思しき影が存在し、画面の左に消える。

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