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2008年5月25日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (83)

週末なのに、雨でお出かけできなくて詰まんない……とお嘆きのアナタに、満を持してお贈りする(ホントか?)「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてのおハナシである。前回に引き続き、今回も(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけてみる。

今回は「受容者=ロスト・ガール」に関する事象のうち、彼女のスー=ニッキーに対する「感情移入=同一化」が解体されるまでの部分をみてみよう。だが、まずその端緒として提示されるのは、「演技者=ニッキー」の「情緒の記憶」とも関連している映像だ。

暗い通路 (2:47:02)-(2:47:06)
(ディゾルヴ)
(1)「暗い通路」のどこか。以前とは違い、通路の中は明るくなっている。右のほうを見ている二人の女性のアップ。笑みを浮かべながら、画面右手に姿を消す。二人がいなくなった後ろには、明るくなった通路と開いている扉が見える。
(ディゾルヴ)

ロスト・ガールの部屋 内部 (2:47:10)-(2:47:20)
(2)TVモニターのアップ。白い壁と黒い扉が並んだ廊下が映し出されている。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。二人のロコモーション・ガールが手に手をつないで廊下の奥に姿を現し、モニターの画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、モニター画面手前から姿を消す。

明るい廊下 内部 (2:47:21)-(2:47:23)
(3)通路のどこかで、先ほどTVモニターに映し出された情景が再び繰り返される。白い壁と黒い扉が並んだ廊下。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。床には緑のカーペットが敷かれている。二人のロコモーション・ガールが手に手をたずさえて通路の奥に姿を現し、画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、画面手前から姿を消す。

この二人の女性が、スー=ニッキーをポーランド・サイドの「ストリート」に誘ったロコモーション・ガールズのメンバーであること(1:11:40)は、映像から観てとれることと思う。同時に、彼女たちはポーランド・サイドの「ストリート」で、ロスト・ガールに「催眠術」をかけ「魅了」している(2:11:34)。この二人が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であり、ニッキーとロスト・ガール両者のスーに対する「感情移入=同一化」を成立/深化させ、「感情の共有」に機能していることは、何度か述べた。演技者/受容者の「心理的なもの」に向かって働きかけている点で、この二人の女性は「ファントム=映画の魔」と共通項をもつことになる。

だが、この二人の女性が「暗い通路」に存在することには、以前にも述べた「ファントムの影響によるニッキーの内面の質的変化」の結果であるように思える。それは当然ながら「普遍化/一般化」に通じる「質的変化」であるわけだが、その結果として、本来「個的/私的なもの」であるはずの「情緒の記憶」である彼女たちが、「4-7」の扉に通じる「通路」に存在しているのだ。しかし、ファントムが「崩壊」し、その「魔法」が効力を失った今、「情緒の記憶」は「普遍に通じる通路」から解放され、再びニッキーの「個的/私的なもの」となる。その具体的映像が、このカット(1)-(3)によって提示されるものだ。

カット(2)およびカット(3)は、基本的に同じ映像である。両者の差異は、カット(2)がロスト・ガールが観ている「モニター画面」のうえで提示され、カット(3)がそうした「フレーム内フレーム」が取り外された状態であることだ。言葉を変えれば、前者が「ロスト・ガールの主観ショット」として提示されているのに対し、後者は「客観ショット」であることだ。だが、それは、実は後者が我々自身の「主観ショット」として機能していることと同義である。我々は、まずロスト・ガールと「視線」を「共有」する形で通路を走り抜ける二人の女性を目にし、次いで我々自身の「視線」で同じものを観る。つまり、我々はまず「ロスト・ガールの体験」を「体験」し、続いて我々自身が「ロスト・ガールが体験したもの」を「自らの体験」として「体験」する。この二つの「体験」を通じて、我々はロスト・ガールと自分たちが、ともに「受容者」である点で「等価」であることを認識するのである。

かつ、この女性たちは、「画面のこちら側」……つまり、「我々=受容者の側」に向かって走ってくる。この表現を大きな意味で捉えるなら、これは(「インランド・エンパイア」を含めた)「映画作品」が受容者によって受容され、「共有」されるものであるというリンチの考えの提示だ。そういう意味では、カット(2)およびカット(3)で二人の女性が駆け抜ける「廊下」を、後にロスト・ガールも通る(2:48:41)ことは見逃せない。「インランド・エンパイア」において、「共有」という概念はこういう形でも表現されており、それは最終的には、(この後提示される)ロスト・ガールによる「スミシーの家」の「共有」という概念にもつながっていくものだ。

しかし、後に明かになるように、この二人の女性が「こちら側」に向かって姿を消したあと、その「廊下」を通ってロスト・ガールの部屋に姿を現すのはニッキーである(2:47:27)。こうした表現によって表されるものが、ニッキーとこの二人の女性が「等価」であること……ひいては彼女が「ロコモーション・ガール」たち全員と「等価」であることは、あらためて指摘するまでもないだろう。これもまた「ロコモーション・ガール」たちが演技者=ニッキーの「裡なるもの」であることの傍証であり、リンチ作品においてはその「裡なるもの」とはイコール「感情」のことである。

上記のような事項を踏まえたとき、「インランド・エンパイア」において何度かリフレインされた「私を見て。私を前から知ってるか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before)」という「キー・ワード」が表すものが明確になる。この「キー・ワード」は、まず「ロコモーション・ガール」の一人からニッキー=スーに向かって発せられ、ついでスー=ニッキーから「ロコモーション・ガール」の二人に問いかけられ、最後にはロスト・ガールによって「ロコモーション・ガール」の二人に尋ねられる。「ロコモーション・ガールたち」を「ニッキーの裡に存在する、過去に経験した『感情』」として……「情緒の記憶」として捉えたとき、この女性たちによる「問いかけのリレー」によって表されるものが、そうした「感情」の「確認と共有」であることが理解できるはずだ。

たとえば、(1:09:21)でこの「キー・ワード」が発せられるのは、「スミシーの家」のベッド・ルームで就寝するピオトルケをスー=ニッキーが目撃し(1:07:52)、家の内部に「トラブル=機能しない家族」の根源が存在することを認識したのちである。ここでの「私を前から知っているか」という問いは、つまり「登場人物=スーがピオトルケを目撃した結果として抱えた『感情』を、演技者=ニッキーは味わったことがなかったか?」という問いかけと同義である。かつ、その問いかけが「ロコモーション・ガール」によって行われることは、これが演技者=ニッキーの「内面」における「自問自答」であることを指し示している。

ついで、(1:37:12)における「私を前から知っているか」という問いかけは、「スミシーの家」の「裏庭」で行われ、そこで発生する(であろう)事象を踏まえたものだ。この問いかけによって表わされるもの自体は、(1:09:21)と同様に「登場人物=スーが現在抱えているような『感情』を、演技者=ニッキーは味わったことがなかったか?」と同義である。だが、異なっているのは、ここでの問いかけがロコモーション・ガール=ニッキーではなく、スー=ニッキーによってなされていることだ。これによって提示されているものが、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」が形成されたこと、あるいは深化したことであるのは言うまでもない。ニッキーとスーが「等価」になったとき、「ニッキーの自問自答」は「スーの自問自答」になるのだ。

最後に、(2:11:16)における「私を前から知っているか」という問いかけは、ポーランド・サイドの「ストリート」上で、ロスト・ガールからロコモーション・ガールの二人に向かって行われる。この問いかけが、「ロスト・ガールが現在抱いている『感情』を、演技者=ニッキーは以前味わったことがあったか?」あるいは「スー=ニッキーが現在抱いている『感情』を、ロスト・ガールは以前に味わったことがあったか?」という問いかけと同義であることはいうまでもない。当然ながら、問いかけがロスト・ガールによってなされることは、受容者=ロスト・ガールが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を確立/深化させ、彼女がスー=ニッキーと「等価」になっていることを物語っている。「ニッキーの自問自答」は「スーの自問自答」を経て、「ロスト・ガールの自問自答」として「共有」されるのである。

そして、これらの「問いかけ」に対する答えは、すべて「イエス」だ。逆説的になるが、であるからこそ、演技者=ニッキーと受容者=ロスト・ガールの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」が成立するのである。

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