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2008年5月24日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (82)

すわて、いよいよ押し詰まってまいりました「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業でありまする。今回は……ちゅーか、今回から何回かにわたって(2:45:37)から(2:52:33)まで。

前回でとりあげた「ファントムの崩壊」のシークエンスをもって、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」は完全に終結した。これで「インランド・エンパイア」の終結部分を構成する三つの事象のうち第一の事象がほぼ完了し、今回とりあげるシークエンスからは、その結果としての「ニッキーとスーの分化」が始まる。が、それと同時に、第二の事象である「受容者=ロスト・ガールのスー=ニッキーに対する『感情移入=同一化』の解体」に関する映像と、第三の事象である「分化したニッキー、スーのその後」に関する映像も、クロス・カッティングによって同時進行で提示される。そのため、作品の流れに沿って論じることは混乱を引き起こすことになるだろう。ここではシークエンスを整理して、まず「登場人物=スーに関連した事象」のみを切り出す形で映像を追いかけてみよう。

Rabbitsの部屋 (2:45:37)-(2:47:02)
(1)ロング・ショット。長椅子に座っているジャック・ラビットとジェイン・ラビット。左にジャック、右にジェイン。長椅子の後方にはスージー・ラビットが立っている。左手にある木の扉がゆっくりと開き始める。そのほうにゆっくりと頭を巡らせる三匹。
(2)より低くなり、若干右に寄った位置からのショット。開きつつある木の扉のほうにゆっくりと頭を巡らせる三匹。
[汽笛]
(3)上方からのショット。三匹のウサギたちは開かれた扉を見詰めている。突然、部屋の照明がすべて消える。開かれた扉の向こうから、まばゆい光が差し込み、激しく揺れ動く。
(4)「Rabbitsの部屋」の右手の壁のアップ。右から左へとパン。扉から差し込む光が、激しく揺れ動いて壁を照らしている。正面の壁を映しつつ、木の扉の一部がみえるまで、なおも左へパン。
(5)木の扉のアップ。扉は開かれ、上方にある通風窓も開けられている。扉の枠の上方にライトが見える。下方にパン。扉の枠越しに通路の壁が見える。開かれた扉に「4-7」の表示がある。通路から部屋の中に、後退しつつ入ってくるスーの後ろ姿。完全に部屋の中に入り、体を右に回転させつつ木の扉を閉めるスー。木の扉に背を預け、顔をゆがめている。部屋の内部の様子を認めた途端に、その表情は驚きに変わる。
(6)スーの主観ショット。左から右へとパン。「Rabbitsの部屋」の内部が見える。部屋は薄闇に沈んでいる。背の高いライト・スタンド(消えている)。アイロンとアイロン台。上方の角が丸まった壁の開口部と、その奥の木枠の窓。なおも右にパン。右上方に照明。向かい側の壁。そのまま下方にパン。一瞬、アウト・フォーカス。赤もしくは茶色の長椅子と床の一部がみえる。
(7)スーのアップ。木の扉に背中をあずけている。下の方向を見たあと、右のほうを見て何かを認める。左へ回り込みながら、右にパン。右のほうに向かってゆっくりと歩き始めるスー。それにつれて後退するショット。なおも歩き続けるスー。彼女の顔に下方からあたる光。左手背後のライト・スタンドがいつの間にか点灯している。右手の木枠の窓越しに、赤い傘のランプも点灯している。
(8)スーの主観ショット。青みかがったまばゆい光が真正面からさしている。それを中心に横一列に並んでいる小さな光。
(ディゾルヴ)

Rabbitの部屋 (2:50:07)-(2:51:37)
(ディゾルヴ)
(9)青味がかったまばゆい光が真正面からさしている。天井の小さな灯りの列が見える。光にクローズ・アップするとともにアウト・フォーカスへ。
(ディゾルヴ)
(10)スーのアップ。自分の顔と部屋の内部を照らしているまばゆい光を見詰めている。徐々に暗くなっていく光。目をせわしなく左右に動かしながら、光を見詰め続けるスー。少しクローズ・アップ。
[歓声と拍手]
ほのかな微笑みともつかぬ表情を浮かべるスー。
(オーヴァーラップで)赤い衣装のバレリーナが回っている。
(11)青味がかった映写機のまばゆい光が真正面からさしている。天井の小さな灯りの列が見える。少しイン・フォーカスに。ゆっくりと下から上へパン。

指摘するまでもないだろうが、この「登場人物=スーに関連する事象」はすべて「Rabbitsの部屋」の内部で展開されている。また、カット(1)-(3)をみればわかるように、ここでも(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」と同様、アングルやサイズを変えたカット割りが施されている。特に(1)と(3)のカットの間には、ウサギたちの動作に対してカッティング・イン・アクションによるコンティニュティー・エディティングが用いられており、「Rabbitsの部屋」のシークエンスに対する「編集の遷移」に、また新しい要素が付け加えられている。

カット(1)-(3)カット(5)の関連性によって、「Rabbitsの部屋」が、「暗い通路」にある「4-7の扉」の内部に存在することが明示されている。この「4-7」という「文字(あるいはテクスチャー)」が「普遍/一般」を表す限りにおいて、「Rabbitsの部屋」が「普遍/一般」と関連しているのは間違いない。この「関連性」を一言でいうなら、ウサギたちが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対して行ってきた「介入/コントロール」の最終的な目的が、その「普遍化/一般化」であることに尽きる。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「普遍化/一般化」するということは、それが作品として一定の評価を得たことと同義であり、かつ多数の受容者から「共有」されたこととも同義である。「工業製品」としてであれ「商品」としてであれ、あるいは「表現」としてであれ、「普遍化/一般化」の度合いがイコール「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品の成功の度合いであることは、論をまたないだろう。

当然ながら、スーが「4-7の扉」をくぐることは、彼女が(そして「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が)「普遍化」されたことを指し示すことになる。ウサギたちによる「介入/コントロール」の目的は達成された。カット(6)で確認できるように、役目を果たし「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入/コントロール」を終えたウサギたちは、「Rabbitsの部屋」から姿を消す。

この「普遍化の達成」は、スーによっても認識されている。それを明示しているのが、カット(10)の「歓声と拍手」の音声が被せられたスーの「表情」だ。特筆すべきは、そのスーの「表情」にオーヴァーラップして提示される「バレリーナ」の映像である。この「バレリーナ」が、(2:20:17)における「クラブ」の「ダンサー」の映像と「対置」されるものであることは明瞭だろう。「ストリート」に位置する「クラブ」での「ダンサー」がその煽情性において「娼婦たち」と等価であったのに対し、この「バレリーナ」は「普遍性の獲得」というポジティブな文脈の上に登場している。だが、「インランド・エンパイア」をここまで観てきた我々=受容者は、登場人物=スーの「感情」が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」をもとに形成されており、その「情緒の記憶」は必ずしもポジティヴなものではないことを知っている。であるならば、この「ダンサー」から「バレリーナ」へのイメージの変遷は、「ネガティヴな個例」が、「映画」というメディアを通して受容者に「共有」されることにより、「ポジティヴな普遍」へと昇華し得るというリンチの「思い」の提示に他ならない。

「Rabbitsの部屋」に入ったスーが、カット(7)において、自分の右方に認めたものについても触れておかなければならないだろう。それは、カット(9)で彼女が見詰めているものであり、すなわちカット(8)およびカット(9)カット(11)の映像によって提示されるものだ。カット(8)およびカット(9)ではあまり明瞭ではないが、カット(11)で、その映像がこちらに向けて投射されている「映写機の光」と「映画館」の天井にある「灯り」であることが明らかになる。カット(7)およびカット(10)でスーの顔を照らすのはこの「映写機の光」であり、「Rabbitsの部屋」とそこにいるスー自身が、実は「映画館のスクリーン」の中に存在していることが理解される。「Rabbitsの部屋」が「シットコムへのオマージュ」であるならば、これは「映画」だけでなく、受容装置として共通項をもつ「TVモニター」をも包括して表していると考えていいはずだ。ロスト・ガールが観ていた「モニター」がそうであったように、これもまたリンチによる「受容スタイルの変遷」に関する言及のひとつなのである。

同時に、このカット(8)およびカット(9)、そしてカット(11)によって提示される映像が、(0:03:16)の映像と対になっていることも見逃せないだろう。そこで提示されているのは「撮影カメラのレンズ」であり、明らかにカット(11)の「映写機の光」と対置されている。と同時に、この「撮影カメラのレンズ」と「映写機の光」の映像が、いわば「括弧」として機能していることも指摘しておきたい。この括弧のなかに囲まれたものが「映画について」の事項であり、加えてそれが「映画を作ることについて」の事項および「映画を観ることについて」の事項を内包しているのならば、この「括弧の付け方」にも明確な意図が働いているといわざるを得ない。これまた、リンチが「インランド・エンパイア」に対して「介入/コントロール」を行っていることの確実な証左である。

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