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2008年5月22日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (81)

今日も今日とて、お気楽極楽に「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる日々である。今回は(2:44:26)から(2:45:37)までに関して何やらつぶやいてみる。

「4-7」の扉の前に辿り着いたニッキー=スーだが、それをくぐる前に、自らの「感情移入=同一化」を解体/終結させるという重要な作業が残っている。Mr.Kが示唆したように、その「作業」は、彼女が手にした「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」*で「映画の魔=ファントム」を撃つことによって達成される。「映画の魔=ファントム」は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」の成立/深化に対して機能しており、それを解体するためには彼を排除する必要があるからだ。

なにはともあれ、このシークエンスにおいて提示される具体的な映像を追いかけてみよう。

(1)ニッキー=スーの背後からのショット。慌てて左を振り向くニッキー=スー。右手に木の扉とその脇の照明が見える。
(2)
ニッキー=スーの主観ショット。暗い通路の奥から、ファントムが登場する。彼が前進し、照明の光の中に姿を現すにつれて、彼に向かってクローズ・アップ。彼は前の半ばまでにボタンのついた茶色のセーターを着ている。その下の黒いTシャツが覗いている。少し右に首を傾げ、ニッキー=スーをにらみつけつつ、彼女のほうに早足で近づいてくる。
(3)歯をむき出し、ファントムに向けて銃を構えるニッキー=スー。
(4)ニッキー=スーの主観ショット。ニッキー=スーをにらみつつ、早足で近づいてくるファントム。バスト・ショットまで。
(5)発砲するニッキー=スー。
(6)少しあおり気味のファントムのアップ。明るい光が彼の顔にあてられる。彼は目をつぶり、半ば口を開け、体を揺らす。下方に後退する視点。目を開き、右手を見ているファントム。右手には着の扉の脇の照明が、奥には木の扉が見える。なおも後退する視点。ニッキー=スーに向けて笑って見せるファントム。
(7)もう一度発砲するニッキー=スー。目をつぶっている。
(8)ファントムのアップ。彼の顔に当てられている光が、より光度を増す。顔の一部分がホワイト・アウトする。彼は目を閉じ、また開き、なおも口元に笑みを浮かべる。
(9)ニッキー=スーのバスト・ショット。口を開け、驚きの表情でファントムを見詰めるニッキー=スー。
(10)ミドル・ショット。体を揺らしつつ「4-7」の扉の前の通路に立っているファントム。彼の顔は光でホワイト・アウトしている。彼の左手はズボンのポケットに突っ込まれている。
(11)拳銃を構え、もう一度発砲するニッキー・スー。排莢され、左上方に飛ぶ薬莢。
(12)ファントムのアップ。明るい光が彼の顔に当てられている。口を開き、半ば目を閉じて、少し頭を揺らしている。
(13)ファントムを見詰めるニッキー=スー。口を開けたまま、少し後退する。
(14)ファントムのアップ。口を開け、閉じていた目をゆっくり開く。体と頭を揺らしつつ、右上方を見詰めるファントム。彼の顔に当てられている光が、少し強くなる。
(15)口を開いたまま、なおも後退するニッキー=スー。
(16)ファントムのアップ。彼の顔は恐ろしい変貌を遂げている。大きな青い目は見開かれ、大きな鼻と、歯をむき出した大きな口が笑っている。唇は赤い。
(オーヴァーラップで)炎
(17)緑色の壁をバックに、ニッキー=スーの右手に握られた拳銃のアップ。再び発砲される。銃口から伸びる炎。排莢口から火花とともに飛ぶ薬莢。発砲後、下に下がって画面から外れていく拳銃。
(18)ニッキー=スーの超クローズ・アップ。彼女の目から口の半ばまで。鼻から右耳の半ばまで。
(19)ファントムのアップ。彼の顔は溶解していく。両目と口は黒く開いた穴と化し、大きさのバランスも失している。その部分だけが、ざらざらした抵解像度の映像である。揺れる光が時々その顔を照らし、オーバーラップされた目と鼻と口が、顔の輪郭から時折外れる。口からだらだらと流れ続ける赤い血。
(20)ニッキー=スーの超クローズ・アップ。彼女の目から口の半ばまで。鼻から右耳の半ばまで。
(21)ファントムのアップ。少し引き気味のショット。溶解した彼の顔は、道化師を思わせる。なおも口から流れ続ける血。その目と鼻と口に向かって当てられている光が、揺れている。水中の泡のようなものが口から上方へと浮かび上がっていく。

このシークエンスの映像的特徴として挙げられるのは、ファントム関連のカットとニッキー=スー関連のカットの対比である。基本的にファントム関連の映像がニッキー=スーの「主観ショット」として、ほぼ固定された視点で提示されているのに対し、ニッキー=スー関連の映像には、部分的なクローズ・アップを含めてさまざまなサイズやアングルのショットが取り混ぜられている。言葉を変えれば、ファントムが静的に撮られているのに対し、ニッキー=スーは動的に撮られているのだ。こうした映像提示の差異自体が、このシークエンスにおける両者の関係性を表しているといえるだろう。能動的なアクションの「主体」はあくまでニッキー=スーであるが、このシークエンスの視線の対象としての「主体」はやはり「ファントム」だ。その意味で見逃せないのは、カット(8)で彼が浮かべる「微笑み」に似た表情である。演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を「普遍化」することが、彼女の「感情移入=同一化」に対して彼が機能することの要件であったならば、その目的はニッキー=スーが「4-7」の扉に到達したことで達成されたといえはしないだろうか。彼は十分に機能したのである。

だが、なんといっても印象に残るのは(あるいは全編を通じてもっともインパクトがあるのは)、撃たれた後のファントムがその容貌を変化させていく映像である。この「崩壊」によって表されているものが、まずは演技者=ニッキーや受容者=ロスト・ガールを「魅了」していた「映画の魔(法)」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語の終焉」とともに終結し、消え去るさまであるのは間違いない。

このファントムの「容貌の変化=崩壊」の過程は、非常に興味深いものだ。たとえばカット(16)における合成された目や鼻、そして口の「パーツ」は、おそらくニッキー(もしくはローラ・ダーン)の映像が「引用」されていると思われる。であるならば、まずこの第一段階の「変貌」によって表されているのは、「誰にでもなれる」演技者の特性への言及である。かつ、「ファントム=映画の魔」が機能する「感情移入=同一化」の根底には、こうした「他者にな(りき)る所為」があり、そしてその根底にあるのは人間が備える「何かを他のものになぞらえる能力」であるはずだ。演技者=ニッキーが自らの「感情移入=同一化」を最終的に解体させ、登場人物=スーとの分化を果たすに先立って、まず彼女は「ファントムの崩壊」を目撃することを通じて「演技者」としての「自己確認」を行うのである。

ついで、カット(19)およびカット(21)では、ファントムの容貌は「空白(ブランク)」に等しい無性格なものに変貌していく。とりあえず、これは演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」がほぼ解体されたことを表すと受け取るのが妥当だろう。が、同時にその崩壊した「容貌」が、どこか「道化師」を連想させるのも事実である。何度か触れてきたように、リンチはこの作品で「サーカス」をメディアのひとつとして捉えている。加えて、(1:56:32)にみられるような「道化師」のイメージの直截な引用も「インランド・エンパイア」には存在する。その根底にあるのは、「サーカス」というメディアの裡に存在し、「肉体を使った感情の伝達」を行う者としての「道化師」であるのは間違いない。そして、それはそのまま「映画」というメディアにおける「演技者」のイメージに重なっている。ならば、カット(16)と同様に、これもまたニッキーの「演技者としての自己確認」に通じるものであると捉えるのが妥当であるはずだ。いずれにせよ、リンチのこうした発想には、やはりフェデリコ・フェリーニが抱く「サーカス」と「道化師」に対するオブセッションからの影響を感じずにはいられない。

ファントムの「溶解」のイメージから直截に連想されるのは、たとえばリンチによる写真集「Snowmen」に収められた様々な「雪だるま」である。あるいは、こうした「溶解」のイメージそのものの根底には、たとえばリンチが「絵画」から「映画」へと領域を変える契機となった、「時間経過とともに変化する絵」という発想があるという見方も可能なのではないか。それはリンチが好んで自作に登場させる「炎」や「煙」といった「曖昧でミニマルな」モチーフにも反映されているといえるが、それを裏付けるように、カット(16)のファントムの映像に対して、「炎」のイメージがオーヴァーラップで提示されている。リンチの過去作品には……たとえば「ワイルド・アット・ハート」「ロスト・ハイウェイ」などに……しばしばこの「炎」のイメージは現れてきた。あるいは「ツイン・ピークス」では映像とともに、「炎よ、我とともに歩め(Fire, walk with me)」といった「言語フレーズ」の形で「炎」のモチーフは登場していることは、改めて指摘するまでもないだろう。これらの作品における「炎」のモチーフは、しばしば登場人物が抱く「激しい感情」の表れとして理解できる。そうした観点からカット(16)で提示される「炎」のイメージをみるなら、それによって表されているのは、やはり「感情移入=同一化」によって形成されたニッキー=スーの「感情」そのものであり、それが「映画の魔=ファントム」の崩壊とともに消滅するさまである。

蛇足ではあるが、このシークエンスにおいてニッキー=スーは「拳銃」を「4回」発砲している。これもまた、このシークエンスで提示される「普遍化/一般化」に通じるものとして捉えることが可能だろう。あるいは一歩踏み込んで、自らの「情緒の記憶」を「普遍化/一般化」することに対する、ニッキー=スーの「積極的な意思表示」として捉えることもできるのかもしれない。


*今更ながらだが、なぜ「拳銃」なのか? それは、単純に「撃つ=撮る=shoot」からの連想なのか? 「拳銃」に対置されるものであり「心理展開」に関するものである「スクリュー・ドライヴァー」と対比させたとき、なぜ「物語展開に関するもの」が「拳銃」として表されているのか、いくぶんかは理解できるような気がする。つまり、比較的複雑な機構をもつ「拳銃」が、精緻な構成を必要とする「物語」に関するものとして現れ、よりプリミティヴである「心理的なもの」が「スクリュー・ドライヴァー」として表されている……と、とりあえずは捉えておこう。

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