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2008年5月19日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (80)

えー、Linux機で無線LAN接続成功。これで実用上のセッティングは一応終了ということで、後はテキトーにいじり倒したいと思います。

というよーなどーでもいい話をしつつ、あいも変わらず進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(2:42:21)から(2:44:26)までをば、こちらもテキトーにいじり倒すことにする。

これより先、エンド・ロールが終了するまで、「インランド・エンパイア」が提示するものは、大きくわけて三つある。一つ目はニッキー=スーが自らの「感情移入=同一化」を最終的に解体させ、演技者=ニッキーと登場人物=スーへと分離する事象である。二つ目は、ロスト・ガールがスー=ニッキーに対する「感情移入=同一化」を解体し、自らの「現実」に戻るという事象である。加えて、三つ目の事象として、分離した後の登場人物=スーと演技者=ニッキーのその後も描かれる。

そのうち、このシークエンスで提示されているのは、一つ目の"演技者=ニッキーが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を自ら終結させるまで"である。この「終結/解放」のプロセスは、(2:35:49)における「撮影ステージ4」の入り口でニッキー=スーとロスト・ガールとの「視線の交換」から始まり、「ファントムの崩壊」によって最終的に達成されることになる。

だが、まず、そこに至る前に、迷宮めいた「暗い通路」に足を踏み入れるニッキー=スーのシークエンスに対し、クロス・カッティング気味に挿入されるファントムのカットについて触れておきたい。

「スミシーの家」の廊下(2:42:37)
(1)暗い廊下。暗闇の中に扉が見える。扉が突然開く。半ば開かれた扉から、ファントムが姿を現す。その背後には、もっと奥まで続く通路がみてとれる。天井から梁が下がった開口部と、同じく梁が下がったアーチ状の開口部が茶色い薄闇のなかにみえる。ファントムが扉をくぐって出てきて、右手の方を見る。
(2)ファントムの主観ショット。「スミシーの家」の廊下が見える。その奥にはリビング・ルームと赤いソファが見える。
(3)ファントムのアップ。彼は左に向かい、小さな白い扉に向かって歩き始める。扉の前まで至ったファントムは左手をちらっとうかがい、また扉に目をやる。

カット(1)カット(2)およびカット(3)の連続性において、ファントムが姿を現したのは、「スミシーの家」の廊下にある「扉」……すなわち、「拳銃」を手に入れたニッキー=スーが再び「通路」に戻るために通った「扉」(2:41:18)であることがわかる。くわえて、その奥にあるのが現在ニッキー=スーが足を踏み入れている「暗い通路」であることは、カット(1)の映像のファントムの背後に見える「アーチ状の開口部」などの形状によって明らかだ。

この「扉」は、前回にも触れたように、(1:16:27)においてピオトルケが入って行った「扉」とも同一のものである。その時のピオトルケもまた、現在ニッキー=スーが進行中の「暗い通路」に入って行ったと考えるのは、一応の蓋然性をもつだろう。なぜピオトルケがこの「暗い通路」に入らなければならなかったのかについては、さまざまな捉え方ができるはずだが、個人的にはこの後に現れる「『4-7』の表示がついた扉」と関連があるように思われる。詳細については、「4-7の扉」について述べた後にということにしたい。

と同時に、カット(3)においてファントムが向かった「扉」が「『Axxon N.』の扉」であることは、その位置関係からしても明瞭だ。映像による明確な描写はないものの、この後、おそらくファントムがこの「『Axxon N.』の扉」を通ったであろうことは、この後に彼とニッキー=スーが「暗い通路」で邂逅することからみても間違いない。ここで注意をひかれるのは、彼が「スミシーの家」の内部から「『Axxon N.』の扉」をくぐっていることだ。つまり、直前のシークエンスにおいてニッキー=スーが辿った方向と「逆」の方向から、「『Axxon N.』の扉」を通っているわけである。ならば、これもまた、「インランド・エンパイア」にしばしば登場する「対置/対立の関係」のひとつと受け取ることが可能なはずだ。ニッキー=スーは、「感情移入=同一化」から自らを解放する「手順」として、この「スミシーの家」につながる「『Axxon N.』の扉」を通った。逆方向からこの扉をくぐる行為が何を表すのかは、明瞭だろう。「映画の魔=ファントム」は、あくまで「感情移入=同一化」の「成立/深化」に向かって機能するのである。

さて、一方でニッキー=スーは「暗い通路」の深部へと進む。このシークエンスには上述した「ファントムのカット」がインサートされており、実際にニッキー=スーがどのくらいの間「暗い通路」を進んだかは、映像からは明瞭ではない。いずれにせよ、映像からみてとれる「通路」は折れ曲がり、あるいは段差を伴っていて、この場所の「見通しの悪さ」を強調している。もちろん、リンチ作品が備える表現主義的な志向を考えるとき、こうした描写そのものがこの「通路」の性格を表しているのは間違いない。同様に、その「通路」の壁には「緑色のモチーフ」がみてとれ、この場所が「トラブル」を内包していることを提示している。

そして、ついにニッキー=スーの前に「4-7」の表示がついた「扉」が姿を現す。このあたりから具体的な映像を追いかけつつ、詳細にみていくことにしよう。

暗い通路 内部(2:43:50)
(4)ニッキー=スーの主観ショット。続いている通路。右手にはどうやら木の扉があるようだ。右手の壁に照明がある。左手はすべて壁だ。天井が途中で一段、低くなっている。右手の壁が一段、せり出している。正面奥には、木の扉がみえる。少し前進しつつ上から下へパン。
(5)少しあおり気味のニッキー=スーのアップ。彼女は半ば口を開けて、通路の奥を見詰めている。彼女の背後、左手の壁には照明が掛かっているのがみえる。
(6)ニッキー=スーの主観ショット。同じ通路の映像。
(7)ニッキー=スーの主観ショット。少しアップになった同じ通路の映像。
(8)ニッキー=スーの右肩越しの背後からのショット。右手に木の扉が見える。扉の両側に照明がある。奥へと続く通路が見える。扉を見詰めたまま、そちらのほうに向かってゆっくり進むニッキー=スー。
(9)ミドル・ショット。右手にある木の扉を見詰めつつ、通路をゆっくり前進するニッキー=スー。
(10)ニッキー=スーの主観ショット。右へ回りながらパン。木の扉が見える。扉には、「47」という金色の金属製の表示が見える。表示に向かってクローズ・アップ。
(11)ニッキー=スーのアップ。彼女は驚いた顔で木の扉とその表示を見詰めている。
(12)「47」の表示のアップ。「4」も「7」も金属製の釘で扉に止められている。表示に向かってクローズ・アップ。
(13)ニッキー=スーのアップ。口を半ば開いて扉を見詰めている。背後には緑色の壁。突然何かを右手に認め、そちらのほうを慌てて振り向くニッキー=スー。

このシークエンスには比較的細かいカット割が施されており、かつニッキー=スーの「主観ショット」も多用されていることがわかる。我々は彼女と視点を「共有」しつつ「暗い通路」を観ることになるわけだが、それはカット(12)のクローズ・アップで最高潮に達し、「4-7」という表示のついた扉の重要性が、映像的にも強調されているといえるだろう。

「4-7」という「文字」(あるいは「テクスチャー」)によって表されるものが「匿名性」であり、それがすなわち「一般性/普遍性」につながることについては以前にも何度か触れた。製作が中断された映画作品のタイトルとしてキングズレイによって言及される「4-7(VIER SIEBEN)」(0:33:26)は、まずは「完成しなかった映画作品」の抽象概念であり、「映画」が工業製品であり商品である限りにおいて、リンチにとっては「映画作品一般」とほぼ同義である。同様に、この「『4-7』の扉」によって表されるものも「一般性/普遍性」に関連しているという具合に、とりあえずは捉えておこう。

では、この「暗い通路」に「一般性/普遍性」を表す「4-7」が現れることによって、何が表されているのだろうか。

「スミシーの家」が、「トラブル=機能しない家族」が発生する場所であるという「共通項」において「『家』の抽象概念」の構成要素をなすものであり、他の「家々」とともに「一般性/普遍性」のなかに包括される「個別例」のひとつであることについては、繰り返し述べてきた。であるならば、「この「暗い通路」が、「スミシーの家」とつながると同時に「『4-7』の扉」にもつながっている*ことによって提示されているのは、「個別例」が「普遍」に変容し得る可能性である。というより、「個別例=スミシーの家」と「普遍=4-7」を結合させているのは、この「暗い通路」によって表されるものに他ならない。逆にいえば、それぞれの「個別例」が「普遍化」し「一般性」を獲得するのは、「暗い通路」によって「『4-7』の扉」につながれたときなのだ。これもまたリンチ独特の表現による、「映画」というメディアを介した「感情の共有」あるいは「概念の共有」についての言及であるといえるだろう。

かつ、「映画の魔=ファントム」が「バルト海地方」から姿を消すときにゴーディに向かって発言したとおり、「『インランド・エンパイア』に行く」こと(1:56:08)が最終的な彼の目的であったならば、この「暗い通路」こそが彼の言う「インランド・エンパイア」であるはずだ。ファントムが演技者=ニッキーや受容者=ロスト・ガールの「感情移入=同一化」の深化に対して機能していることに関しては、以前にも述べたとおりである。かつ、彼が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」という「私的/個的なもの」を「普遍化」させ、不特定多数の一般的受容者によって「共有」されるものに"変容"させるべく働きかけていることに関してもこの回で記述した。「暗い通路」が「個別例」と「普遍」をつなぐものであるならば、「映画の魔=ファントム」がそこを最終目的地とし、ついにはそこに存在していることはあるいは当たり前といえるだろう。そして、「4-7」の表示がある「扉」の前で、彼とニッキー=スーが邂逅することも、実はおおいに予測されたことなのかもしれない。

上記のようなことを踏まえて考えるなら、ピオトルケが「スミシーの家」の廊下にある「扉」から、おそらくはこの「暗い通路」に足を踏み入れていたであろうことの意味が垣間みえてくる。これもさまざまな形で記述したように、ピオトルケは「夫の抽象概念」として「インランド・エンパイア」に登場している**。演技者=ニッキーの「夫」像(に関するニッキーの「情緒の記憶」)の反映であり、登場人物=スーの「夫」としても機能しているということだ。ある種「普遍化」され「記号化」されたキャラクターとして彼は描かれており、この「扉をくぐるピオトルケ」のカットは、それを補完し説明する役割を果たしている。「普遍なるもの」が「普遍」に通じる「通路」に足を踏み入れる、もしくは「普遍なるもの」が「普遍」に通じる「扉」からやってくる……当該カットによって提示されているのは、そういう事象なのではないか。

という具合にみていく限りにおいて、前述したニッキー=スーのこの「暗い通路」に対する感情の表象……「見通しの悪さ」は、「一般性/普遍性」を獲得することの困難さを表すものとして受け取ることが可能なように思える。すべての作品が(どのような形であれ)「一般性/普遍性」を獲得できるわけではない。もちろん、さまざまな「介入/コントロール」が作品に対して行われるのは、(どのような形であれ)「一般性/普遍性」の獲得を目的としてのことだ。

が、そう考え至るとき、もうひとつの可能性も浮上してくる。もしかしたら、この「暗い通路」の描写は、ニッキー=スーの「心象風景」ではなく、リンチ自身の「映画製作」に対する「感情」の表象なのではないか? 「リンチ・ワン」に現れる「『インランド・エンパイア』製作中の呻吟するリンチ」の姿をみるにつけ、そうした見方もあながち間違いではないように思えてくる。もしそうなのであれば、これもまたリンチの「私的な部分」の投影であるといえそうだ。

*あわせてこの「暗い通路」が、「スミシーの家」はもとより、「階段」を介して「Mr.Kのオフィス」や「映画館」、「撮影ステージ4」や「ハリウッド・ブルバード」など、キーとなるほとんどすべての「場所」とつながっていることも指摘しておきたい。そればかりかこの直後のシークエンスで明らかにされるように、「Rabbitsの部屋」にも、そして「ロスト・ガールがTVモニターを観ている部屋」にさえつながっている。

**リンチがピーター・J・ルーカスをはじめとして、一人の「演技者」に「複数の登場人物」を演じさせていることの意図は、この「抽象概念化」にある。同時に、それはそのまま「演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じること」への言及にもなっている。

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