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2008年5月16日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (79)

てなわけで、Linux機からの書き込み第一号(笑)。一応、無線LANカードの認識までは成功したんで、あともう一歩な感じ。乞うご期待(ナニをだ)。

それはそれとして、急行通過待ちの鈍行のごとく、進んだり止まったりチンタラ進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(2:40:58)から(2:42:21)まで。

ついにニッキー=スーは「拳銃=最終的な物語展開」を手に入れ、「インランド・エンパイア」自体も最終的な結末に向かって大きく動き始める。しかし、この後のニッキー=スーの移動経路をみる限りにおいて、「スミシーの家」と「暗い通路」の構造は簡単には理解しがたいものだ。まずはそのあたりを中心に、具体的な映像をみてみよう。

暗い通路 内部
(1)「暗い通路」から「『Axxon N.』の扉」越しのショット。左手に壁時計、真ん中に開かれっぱなしの「『Axxon N.』の扉」、右手に薄汚れた壁。扉越しに「スミシーの家」の内部が見えている。「スミシーの家」の短いほうの廊下の右手から、ニッキー=スーが現れる。扉のところで立ち止まり、リビング・ルームの方向を見る。
(2)「『Axxon N.』の扉」のあたりからのショット。ニッキー=スーはリビング・ルームの方に向かって、ゆっくりと廊下を歩き始める。廊下の途中、右手にある扉の内部に入るニッキー=スー。右にパン。映画館の階段から続く「暗い通路」の壁が見える。次に、そこから左に折れた青い光に照らされている通路が見える。ニッキー=スーのシルエットが青い光の通路を歩いてくる。なおも右へパン。
(3)ニッキー=スーの主観ショット。正面右手に壁時計。右手には通路の壁と閉ざされた「『Axxon N.』の扉」が見える。時計は「12:20」過ぎを指している。
(4)床を見下ろすショット。白と黒の波模様の床が見える。最初はゆっくりと、最後は模様が見えなくなるまで早く、後ろへと流れていく波模様。動きは、柱時計がかかった壁の左手にある開口部まで到達して、止まる。
(5)ニッキー=スーの背後からのミドル・ショット。右手には閉ざされた「『Axxon N.』の扉」、正面には右手に壁時計が掛かった壁。壁の左手には闇に沈んだ通路への開口部がある。その開口部に入っていくニッキー=スー。

位置関係からして、カット(2)でニッキー=スーが入っていくのは、(1:16:27)でピオトルケが入っていった扉だ。居間からの廊下の左手、ベッド・ルームにつながる廊下の手前左側にある扉である。ここまでのシークエンスにおいてニッキー=スーがこの扉の内部に入る映像はなく、その内部に(あるいはその先に)何があるのかを明示する映像も存在していなかった。カット(2)の後半のその扉に入ったニッキー=スーの動きをたどる限り、この扉は再び「映画館」の階段からつながる「通路」に戻っているようにみえる。通路を照らしていた「青い光」は幾分弱まっているようにも思えるが、基本的に以前表れた映像(2:39:03)と酷似している。一見すると、まったく同じ映像がリピートしているだけのようだが、もちろんこれはリピートではないし、ましてや物語記述のための「時系列操作」でもない。後者に関しては、カット(2)が長回しのワン・ショットであり、何の編集も施されていないことからも明瞭である。いずれにせよ、カット(5)をみればわかるように、ニッキー=スーが向かっている先は、柱時計の左にある開口部である。であるならば、最短距離となるのは、先ほど入った「『Axxon N.』の扉」から「スミシーの家」を出ることのはずだ。彼女がそうせず、この「奇妙な経路」を辿る理由は、はたして何なのか?

可能性としてまず考えられるのは、「Axxon N.」の出現ポイントによって表されてきたもの、あるいはその「機能」の問題である。これまでも繰り返し述べてきたように、「Axxon N.」は、演技者=ニッキーの登場人物=スーへの「感情移入=同一化」に対して機能し、必ず「視線の交換」をともなって出現してきた。そのうち、第一および第二の「Axxon N.」が「感情移入=同一化」の成立あるいは深化に関与し、それに対し三度目の「Axxon N.」がその解体に向けて機能していたことは以前にも述べたとおりである。そして、三回目の「Axxon N.」が「視線の交換」を表すシークエンスとの順序において以前二回表れたものと「逆順」になっており、それがゆえに「解体」を表すものとして理解できることについても前々回に触れたとおりだ。この「視線の交換」と「Axxon. N」の「順番」が問題なのであるならば、改めてこの「Axxon N.」の扉をくぐることは、再び「感情移入=同一化」の成立と深化の経路を辿ることになってしまう。である以上、少なくともここでは、ニッキーは「『Axxon N.』の扉」をもう一度くぐることはできないはずだ。

しかし、それよりも検討しなければならないのは、二回目に現れる「通路」が、一回目の「通路」と本当に同一のものであるのか……という素朴な疑問である。

これまた何度触れたように、「スミシーの家」とポーランド・サイドの「建物」は「個別例」と「普遍」の関係にあり、「スミシーの家」は「家の抽象概念=建物」のなかに呑み込まれるものである。それはすなわち、「建物の中に存在する家」の一軒一軒は、「個別例」と「個別例」の関係にあり、それらの一軒一軒と「スミシーの家」は「個別例」として「等価」であるということだ。同じように、カット(2)以降に現れる「通路」も、それ以前に現れた「通路」とは「抽象概念」の構成要素として本質的に「等価」であっても、「個別例」と「個別例」の関係にあるという意味においては、実は異なるものなのではないだろうか? またはカット(5)で見える「『Axxon N.』の扉」もまた別の「『Axxon N.』の扉」であって、その別の「扉」はニッキー=スーの「スミシーの家」ではない別の「家」につながっているのではないだろうか? リンチ作品において、表現主義的な「場所」の扱いが現れること……つまり、登場人物の「感情=内面にあるもの」によって、本来つながらない「場所」同士がつながる例が登場することに関しては、以前にも触れた。これらの事項を前提として捉えるなら、ニッキー=スーが辿る「奇妙な経路」の意味合いが、なんとなくみえてくる。これらの「扉」や「通路」の間にあるのは、やはり「普遍」と「個別例」の関係性、あるいは「個別例」と「個別例」の関係性である。「奇妙な経路」によって表されるものもまた、「家」や「扉」や「通路」がいくつも存在し「抽象概念」を形成しているという多重性であり、リンチ特有の表現主義にもとづくものであるといえる。

この「抽象概念」をキーにして考えるとき、カット(4)の「縞模様の床」、そしてそれを映すカメラ・ワークが、明瞭な意味を持ち始める。「イレイザーヘッド」や「ツイン・ピークス」に現れたのと同様この縞模様によって示唆されるものが、現在我々が観ている「スミシーの家」や「通路」がニッキーの「内面にあるもの」であることならば、それは「拳銃」を手に入れた彼女の「内的変化」にしたがって変容しているはずだと考えられる。そういう意味においても、このカット(2)以降の「通路」は、以前の「通路」と外見上は酷似していても同一のものではない。そして、このシークエンスにおけるニッキー=スーが辿る「奇妙な経路」と、それによって提示される”二つ”の「スミシーの家」と「通路」の関係構造自体が、彼女の「内的変化」を表していることになる。

しかし、だ。「スミシーの家」や「通路」がニッキーの「内面」にあるものであるならば、(1:16:07)のシークエンスにおける、「スミシーの家」の廊下にある扉にスー=ニッキーから隠れるようにしてピオトルケが入って行く映像は、また新たな意味を帯びてくる。

以前から述べているように、「インランド・エンパイア」は徹底的に「女性の視点」で描かれた映画であるのは確かだ。だが、ほんの少し見方を変えるなら、スー=ニッキーにとってピオトルケが「トラブル=機能しない家族」の要因であったように、ピオトルケにとってはスー=ニッキーこそが「トラブル=機能しない家族」の根源であったのではないだろうか? 「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの「告白」を、今一度、思い起こしてみよう。「酒をおごってもらうために男達といちゃついていた。別にたいしたことじゃない(I was screwing a couple guys for drinks. No big deal)」(1:35:12)という彼女の発言を最大限具象的に捉えるなら、これはピオトルケにとっての「トラブル=機能しない家族」以外の何物でもない。

……と考えると浮上してくるのが、あるいは「スミシーの家」はピオトルケの「内面」でもあり得るのではないかという可能性だ。それを表す映像は「インランド・エンパイア」からは大幅に「省略」されているものの、残された数少ないそれを表す映像が、この「スミシーの家」の廊下にある「扉」をピオトルケがくぐる映像なのではないか……ということである。「扉」をくぐったピオトルケの「行き先」がどこであったか……それは、この後のシークエンスにおいて明らかにされることになるわけだが、その「場所」によって表されるものを考えるとき、こうした捉え方はあるいは重要なポイントとなるはずだ。

同様に、カット(4)のカメラ・ワークが表すものに関しても、この後のシークエンスとの関係性において明らかになる。後のシークエンスで発生する事象が物語るように、「通路」がニッキー=スーの内的変化にしたがって「変容」しているとすれば、それは新たな「目的」へ至る経路としてだ。それを指し示すのが、このカメラ・ワークそのものであり、この後どこに進めばよいのかを彼女に(そして我々に)「示唆」するものであるといえる*。自らが手にした「拳銃」で自分が何をするのか、この時点でニッキー=スーが明確に理解しているのかどうか、映像からは判然としない。が、Mr.Kが自分のオフィスで(2:19:44)、あるいは「無人の映画館」のスクリーン上で(2:37:48)行った「彼はどこか近くにいる(He's around here someplace)」という言及に含まれた示唆によって、ニッキー=スーの「目的」は……つまり、これからとるべき行動は、すでに半ば明示されているのである。

*そういう意味では、この「カメラ・ワーク」自体が「介入/コントロール」の一端である。だが、それは、もはや「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」であるにとどまらず、「インランド・エンパイア」に対する「介入/コントロール」でもあり得る。

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