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2008年5月11日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (78)

何を考えたのかよくわからんが、Linux導入中の大山崎であります。いや、いくらなんでも何を考えてるのかは自分のコトなんでわかってるんですが(笑)、要は古ーいポンコツのノートPCをば復活させられんかなーとか考えたわけでありますけども、これがまた無線LANやら何やらの設定で混迷中だったり。

んなわけでドライバと格闘しつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる日々である。今回は(2:39:54)から(2:40:58)までをば、どうにかしてみる。

「Axxon N.」の扉の内部
(1)
ドアの内側からのショット。ドアの内側の面は白である。ニッキー=スーがドアを細めに空け、内部を覗き込む。やがてドアを大きく開け、左手の方を覗き込む。
(2)ニッキー=スーの主観ショット。暗い廊下の先に、赤いソファと白い光のライト・スタンドが見える。そこは「スミシーの家」のリビング・ルームだ。ということは、暗い廊下は「スミシーの家」の廊下である。
(3)ニッキー=スーのバスト・ショット。彼女は右手の方を見る。
(4)「Axxon N.」の扉の外の通路から、「スミシーの家」の内部へ向けたショット。画面手前の左手の壁には壁時計が、中央には開け放たれた「AxxonN N.」が書かれた扉が、右手には汚れた壁が見える。床には白と黒の波模様が見える。開け放たれた「AxxoN N.」の扉越しに、「スミシーの家」の暗い廊下とリビング・ルームが見える。扉をくぐり、廊下を右手に折れて姿を消すニッキー=スー。

「Axxon N.」と書かれた扉を開いたニッキー=スーは、その中が「スミシーの家」の内部であることを知る。カット(2)が表すように、その暗い廊下の先に見えるのは、赤いソファが置かれた居間である。また、「Axxon N.」が書かれた扉は、たとえば(1:06:45)において現れていた、「スミシーの家」の居間から続く廊下の正面に見える扉であることがわかる。

「スミシーの家」のベッド・ルーム 内部
(5)ニッキー=スーの主観ショット。ベッド・ルームの入り口あたりからのショット。右から左へパン。緑の布カバーに覆われたベッド。ベッドの両側には小さなテーブルが置かれ、それぞれのテーブルの上には円錐型の傘に緑色をした陶器の本体のライト・スタンドが置かれている。ライト・スタンドは両方とも点灯している。一枚の絵がベッドの上の壁に掛けられている。引き続き左へパン。クローゼットの上に置かれた四角い傘に四角い本体のスタンド・ライト。これも点灯している。右手からフレーム内に入ってくるニッキー=スー。彼女の左の肩越しのショットになる。クローゼットに近づくニッキー=スー。一番上の引き出しを開ける。
(6)ニッキー=スーのアップ。箪笥の引き出しの中から見上げるショット。彼女の背後には、ベッド・ルームの白い天井が見える。
(7)ニッキー=スーの主観ショット。引き出しの中には、緑のコートの上に置かれた拳銃が見える。
(8)ニッキー=スーのアップ。まばたきを一度する。
(9)ニッキー=スーの主観ショット。拳銃に向かって延ばされるニッキー=スーの右手。
(10)ニッキー=スーのアップ。顔の上半分は画面から見切れている。首の右側に貼られたバンテージ。
(11)ニッキー=スーの主観ショット。右手で拳銃をとるニッキー=スー。右手の甲には「LB(赤い斜線で消されている)」という文字が見える。取り上げた下には緑色のコートが見える。
(12)ニッキー=スーのアップ。右手に拳銃を持ち、右の方に向くニッキー=スー。拳銃も画面左から右へ振られ、アウト・フォーカスになる。こちらに背中を向けるニッキー=スー。

ニッキー=スーは、「無人の映画館」の「スクリーン上の映像」によって受けた示唆(2:37:54)のとおりに(つまりはMr.Kの「介入/コントロール」によって告げられたとおりに)、「スミシーの家」のベッド・ルームにあるクローゼットの中に、「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」を見つけ出す。その「拳銃」の下にある「緑のコート」は、間違いなく(1:03:11)のシークエンスにおいて、ピオトルケが着ていたものだ。このコートは、「拳銃」とピオトルケの関連性を表すものとして、まずは理解できる。つまり、この「拳銃」はピオトルケによって「スミシーの家」に持ち込まれたものであり、「バルト海地方の家」で老人から渡されたもの(2:03:35)と同一であることの提示である。しかし、より気になるのは、コートそのものよりも、その「色」だろう。

この「緑」のモチーフによって表されるものが何であるか、いろいろな捉え方ができるかと思う。ここでは、「スミシーの家」のなかでも、特にベッド・ルームが「トラブル=機能しない家族」の「根源」が存在する場所として描かれていることを、重視しておきたい*。端的にいうと、「インランド・エンパイア」に限ったとき、「緑」のモチーフによって表されているのは「トラブル」そのものである……というのが個人的な見方だ。

実体化した「スミシーの家」に迷い込んだスー=ニッキーが、居間からまず一番最初に到達するのがこのベッド・ルームである(1:06:06)。スー=ニッキーは、このベッド・ルームに「緑色のカバー」が掛けられたベッドを目にし、それに横たわりライト・スタンドを消すピオトルケを見る。以前にも述べたように、「トラブル=機能しない家族」のかなりの部分が「夫婦間の問題」によって占められ、(その欠落を含めた)「セックスの問題」がからむことはいうまでもない。「緑のカバーを掛けられたベッド」自体がそうした「トラブル=機能しない家族」の根源的な発生を表すものとして現れていることは、たとえば(1:14:35)から(1:15:28)までのシークエンスをみても理解できるだろう。また、ニッキー=スーとデヴォン=ビリーの「情事」が行なわれ、ピオトルケがそれを「目撃」するのも「スミシーの家」のベッド・ルームにおいてであり、当然ながらその「情事」は、同じ「ベッド(の抽象概念)」の上で繰り広げられるのだ(0:56:35)。

話題は今回とりあげているシークエンスから離れるが、前述した(1:03:11)のシークエンスにおいて明示されているように、スー=ニッキーを「スミシーの家」に追い込んだものは、「緑のコート」を着た、当のピオトルケの「視線」そのものである。簡単にいえば、「スミシーの家の外部」にあったはずの「トラブル」が「スミシーの家の内部」にもそのまま存在することを、この(1:03:11)から(1:08:18)までのシークエンスは提示している。注意をひくのは、スー=ニッキーを「スミシーの家」に追い込むピオトルケが、「窓越し」に彼女を見ていることだ。つまり、ピオトルケがいるのも(抽象的なものではあるが)、実は「家」の内部であることをこの映像は表している。この「家」と「スミシーの家」の「位置関係の構造」は、後に現れるポーランド・サイドの「建物」と「スミシーの家」の関係性を表す映像(1:14:35)におけるものと同じなのだ。ただし、そこで表されているのは「普遍」と「個」の関係ではなく、「個(=ニッキー)」と「個(=スー)」の関係である。つまり、そこで表されているのは、やはり演技者=ニッキーが登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を深化させていく過程なのである。

加えて、「スミシーの家」がスー=ニッキーの「内面」をも表していると捉えるとき、そこに「外界」と人間の「内面」の関係性の問題が提示されているのも確かだ。「外界」が「内面」に影響を及ぼすという表現は、たとえば(2:06:16)の「嵐の裏庭」と「雷鳴が轟く居間」のシークエンスにおいても現れており、いうまでもなくこれもまた非常に表現主義的な発想に基づく映像である。そして、「トラブル=機能しない家族」もまた、「外界」で発生する問題であると同時に(あるいはそれ以上に)「内面」で発生する問題でもあることが、(1:03:11)から(1:08:18)までのシークエンスで起きている事象は表しているといえる。

……等々というような事項を念頭においたとき、今回とりあげている(2:39:54)からのシークエンスにおいて、ベッド・ルームのクローゼットによって表されるものが、そしてそこに「拳銃」と「緑のコート」が置かれているのが何故かがみえてくる。このベッド・ルームが「トラブル=機能しない家族」の問題が発生するところとして根源的な場所であるならば、クローゼットはその内部においても、もっとも隠匿された場所であるといえる。その中に置かれているものは「露わにしたくないもの」であり、あるいは「忘れておきたいもの」である。ニッキーにとって露わにしたくないもの……それは彼女自身の「トラブル」を表す「緑のコート」であり、「感情移入=同一化」をしていた間は忘れられていた「物語展開の終結」を表す「拳銃」だ。そして、Mr.Kの「介入/コントロール」の結果とはいえ、ニッキーが「トラブルの根源」であるベッド・ルームに入り、隠匿された場所であるクローゼットから「拳銃」を取り出す行為自体が、彼女の「感情移入=同一化」からの脱却と「(彼女の)現実」への復帰の意思を表しているといえるだろう。

さて、カット(11)に現れるニッキー=スーの右手の甲に書かれた「LB」の文字、そしてそれを取り消すかのように入れられた「赤いスラッシュ」に関しては、いろいろな考察や憶測が飛び交っているようだ。今のところ決定的と思われるような解釈はなく、明確にこれだといえるものは自分にもない。いずれにせよ、こうした表現そのものにリンチの絵画作品との共通点を見出せることだけは確かである。リンチのドローイングの多くに「文字」が散りばめられているが、そうした「文字」は基本的に「言語的な表意」を意図したものではない。それはリンチ自身による「言葉はまた、一つの質感(テクスチャー)でもある」**という言葉にも表されており、つまりリンチの絵画作品における「文字」は、「絵画そのもの」と同様に「視覚に訴えるもの」として、完全に地続きに扱われている。これは「インランド・エンパイア」という映画作品において同様で、そこに現れる「文字」や「数字」も絵画作品と同じく、具体的な「表意」を優先して意図したものではないと考えて差し支えないように思う。

それらの事項を踏まえたうえで、敢えてこの「LB(スラッシュ)」の「表意」を考えてみるなら、たとえば映像ソフトの「レターボックス収録」を指すというのはどうだろうか? であるならば、そこに「取り消し線(スラッシュ)」が必要である理由が納得できるように思われる。非スクイーズ「LB」仕様でのソフトでは、4:3比率のスタンダードサイズのTVモニターならまだしも、16:9比率のモニターでは一層映像の表示領域が小さくなってしまうからだ。少なくとも、それがリンチが唱える「映画=世界の体験」の条件からかけ離れたものであることだけは確かである。

*この後に登場する、ファントムとの遭遇に至るまでの「迷宮めいた場所」の通路の壁も「緑色」である。

**「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」P.294

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