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2008年5月 2日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (76)

なんか「日光江戸村」が外国人観光客獲得に力を入れた結果、業績を伸ばしているという話を聞きました。どーせなら、日本全体を江戸時代風俗にしちゃったら、もっと外国人観光客が増えるかもしれんなあ。国家全体テーマ・パーク化(笑)

閑話休題、では卒爾ながら、「いんらんど・えんぱいあ」における「いめえじの連鎖」を追いかける作業にて候。今回は(2:36:39)より(2:38:51)までをばお伝えする仕儀。

「赤いカーテン」と「白い柱」の通路を通ったニッキー=スーは、大理石の柱の陰から現れる。ここがすでに「映画館」の内部であることは、彼女が左手に姿を消した後に映し出される大理石の壁と白い天井によって明らかだ。次のカットでは、すでに彼女は「無人の映画館」の内部にいる。

その「無人の映画館」で、ニッキー=スーは「スクリーン」に映し出される「映像」を観る。当然ながら、この「スクリーン」は、直前のシークエンスにおいて現れた「TVモニター」と「対置」されるものとして登場している。その「対置性」の前提としてあるのは、「映像を受容する手段」という機能的な意味における両者の「共通性」であり、このシークエンスにおけるニッキーが基本的に「観る者」であることを……つまり、「演技者」というよりはむしろ「受容者」としての存在であることをも伝えている。

その「スクリーン」にまず映し出されているのは、「映画館」に入ってきたニッキー=スー自身である(彼女の「主観ショット」として提示される)。演技者=ニッキーは「自分自身を観る者」になることによって……自らと「視線の交換」を行なうことによって、自分が「観られる者」であることの最終的な認識に至る。この認識に至る「過程/手順」が、直前のシークエンスで受容者=ロスト・ガールが「観る者」として自分を認識するに至る「過程/手順」のまさしく「裏返し」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。

この「映画館」のスクリーンに映し出されている「事象」は、大きく三つのパートに分かれている。まず、それぞれのパートで映し出されているものを具体的に引用したうえで、このシークエンスが表すものについて追いかけてみよう。

パート1
(1)
ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。空っぽの座席の列。スクリーンにはMr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーのアップが映されている。

スー=ニッキー: (スクリーン上で) I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle...
(2)バスト・ショット。スクリーンを見詰めているニッキー=スー。

スー=ニッキー: (画面外のスクリーン上で) watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up.
(画面外のスクリーン上で) [電話のベル]
(3)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。Mr.Kのオフィスの内部がスクリーンに映されている。木の壁の裏に歩いていくMr.K。
(スクリーン上で)[電話のベル]

Mr.K: (画面外のスクリーン上で) Hello?
スクリーン上のシーンが変わる。スー=ニッキーの手に握られたスクリュー・ドライバーのアップ。

Mr.k: (画面外のスクリーン上で) She's still here.
(4)ニッキー=スーのクローズ・アップ。
(5)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。スクリーンにはMr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーが映されている。

Mr.K: (画面外のスクリーン上で) Krimp? Yeah, he's around here someplace. that's for sure.
(6)ニッキー=スーのアップ。

パート2
(7)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。スクリーンには「スミシーの家」のベッド・ルームにいるニッキー=スーの姿が映されている。箪笥の上に置かれた四角い傘に四角い本体のライト・スタンド。箪笥の向かって立っている彼女の姿は逆光になっている。引き出しを開けて、なにやら取り出している様子のニッキー=スー。

パート3
(8)ニッキー=スーのクローズ・アップ。彼女は何やらスクリーンに映し出されたものに反応する。
(9)ニッキー=スーの主観ショット。スクリーンには、この映画館の内部が映されている。いちばん後列の座席の後ろを何者かが歩いている。
(10)ニッキー=スーのクローズ・アップ。スクリーンを見詰め続けている。やがて、彼女は自分の右の方に頭を巡らせる。
(11)ロング・ショット。映画館の内部。何者かの影がいちばん後列の座席の後ろを歩いている。影は柱の後ろを通り、階上への階段の下のところで、階段のほうから射す青い光を浴びつつ立ち止まる。ニッキー=スーの方に向き直る影。どうやら男性らしい。
(12)右を向いたままのニッキー=スーのクローズ・アップ。再びスクリーンを振り返る。
(13)ニッキー=スーの主観ショット。スクリーンでは、扉のところに立ち止まったMr.Kが彼女を見詰めている。
(14)ニッキー=スーのクローズ・アップ。しばらくスクリーンを見詰めた後、右を向きMr.Kの方を見る。
(15)ミドル・ショット。Mr.Kは階段のところからニッキー=スーをしばらく見詰めた後、踵を返して階段を上り始め、姿を消す。
(16)右を向いたままのニッキー=スーのバスト・ショット。彼女は青い上着を脱ぐ。
(17)ニッキー=スーの主観ショット。階段へと続く誰もいない扉、座席の列、映画館の壁
(18)スクリーンには、誰もいない扉と階段が映されている。
(19)映画館の赤い座席の列。ある座席の上に、ニッキー=スーが着ていた青い上着が置かれている。
(20)階上への階段を上っていくニッキー=スーを映しているスクリーン。

文章にしたほうがかえってややこしい感じがしないでもないが(笑)、簡単にいえばパート1では(2:17:48)から(2:19:49)までの「Mr.Kのオフィス」のシークエンスが、パート2では(2:40:28)から(2:40:39)までの「スミシーの家の寝室」のシークエンスが、そしてパート3ではこの「映画館」内で発生している現在の事象が、「映画館」のスクリーンに映写されていることになる。

まず指摘できるのは、この「スクリーン」上に映し出されている「映像」自体がニッキーに対する明確な「介入/コントロール」であり、彼女がこれからとるべき行動を「ロジカル」に伝えるべく「構成」されているということだ。すなわち、三つのパートの「スクリーン上の映像」は、それぞれ「彼女がおかれている状況」「状況を終結させるための手段」「手段を手に入れるための方法」を表しており、「因果律」をもって提示されているのである。「映画の魔(法)=ファントム」がどこか近くにいる状況があり、その魔法から逃れるためには彼を消滅させなければならず、その手段である「拳銃」は「スミシーの家」のベッド・ルームに置かれていて、(後に明示されるように)「スミシーの家」はMr.Kが導く「階段」の先にある。より具体的な言葉に置き換えるなら、受容者あるいは演技者によって獲得された「感情移入=同一化」は、「物語」が「終結」を迎えることによって強制的に破られる……ということを「スクリーン上の映像」は伝えているのだ。

だが、ここで思い至るののは、その「終結」自体も(どのような形であれ)「作品」にあらかじめ内包されているはずだということである。加えて、よほどの例外を除いて*、その内包された「終結」もまた「物語」そのものによって、我々=受容者に伝えられる……そう、ちょうど「拳銃=最終的な物語展開」が、「スミシーの家=受容者の内面」のクローゼットに持ち込まれていたように(2:40:41)。当然ながら、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」がMr.K/ウサギたち/老人たちによって行なわれる限り、途中の「物語展開」や「心理展開」に対するのと同じく、「終結」もまた彼/彼女たちのコントロール下にあるのは当然である。そもそも「拳銃」が老人たちによってピオトルケに手渡されるのは(2:03:34)、そうした意味合いにおいてに他ならない。同様に、この「映画館」のシークエンスにおいても、Mr.Kが付随させる「介入/コントロール」のイメージは明瞭である。あるいは、この「映画館」によって表されるもの自体が、彼のコントロール下にあるといえるだろう。

そして、ニッキーが「青い上着」を脱ぎ、それを「赤い座席」に置いたいま……「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」と「心理展開」が最後の「合致」を達成し「終結」したことが彼女に了解されたいま、Mr.K/ウサギたち/老人たちによる「ON HIGH」に対する「介入/コントロール」もまた、「終結」することになる。

まったく別な見方をするなら、(「インランド・エンパイア」内における)「過去」「未来」「現在」という順に、「時系列」の入れ替えをともなって提示される「スクリーン上の映像」は、そのまま「映画製作」における「どのような順番に従って撮影されるか」の問題であり得るし、「フラッシュ・バック」等の「作品内の時間経過に対するコントロール」の問題であり得るし、あるいは受容者の「感情移入=同一化」の結果もたらされる「時間に対する見当識の失当」の問題でもあり得る。そのいずれであるにせよ、これもまた「映画」による「映画の記述」であり得ることは間違いない。

また、パート1およびパート2においては、スクリーン(とそれに映し出されている「映像」)は必ずニッキー=スーの肩越しに、映されている(カット(1)(3)(5)(7))。つまり、あくまで「客観視点」によって描かれているということだ(リンチ作品における「客観視点」がどのような意味を持つかは別として、だ)。ところが、パート3においては、スクリーン(および、それに映し出されている「映像」)は、ニッキー=スーの「主観ショット」として表れている(カット(9)(13)(18))。この表現は、ニッキー=スーが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「終結」を明瞭にその内面で了解したことの強調としてまずは機能しているといえる。が、同時に、我々=受容者がニッキー=スーと「視線」をいまだ「共有」していることの証明として、この「主観ショット」は存在しているともいえるだろう。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語はその終結を迎えたが、「インランド・エンパイア」という作品が終わるのは、まだまだ先の話だ。

問題なのは、カット(20)である。すでにニッキー=スーはMr.Kの後を追って階段に向かい、スクリーンへ「視線」を向けるのをやめている。となると、このカット(20)において、「スクリーンの映像」を観ている者は、はたして誰なのか? そう、今まさに「インランド・エンパイア」を受容している「我々」しかいないのだ。いちばん最初の「スクリーンの映像」が「映画館に入ってきたニッキー=スー」だったこと、そしてそれが彼女の「主観ショット」として提示されたことを思い出してみよう。このカット(20)はその「ニッキー=スーの主観ショット」と対応するものであり、この瞬間、我々は「『インランド・エンパイア』の登場人物」としてのニッキーから「視線」を引き継いだのである。これもまた、非常に巧妙な「表現」だ。この直前のシークエンスをも含め、ここで主に描かれているのが「視線の問題」であると捉える限りにおいて、このカット(20)の「表現」自体が、「映画というメディア」が備える「登場人物と受容者による『視線の共有』」についての言及に他ならない。そして、この「視線の共有」こそが、「映画」が他のメディアに対して「感情移入装置」としての優位性を確保している「特性」のひとつであることは、いまさら繰り返すまでもないだろう。

*数少ない「例外」として思い当たるのが、たとえばコルタサルの小説作品「石蹴り遊び」だ。小説分野でいえば、以前にも触れたウイリアム・S・バロウズの諸作品やJ・G・バラードのコンデスド・ノベル、それに筒井康隆の短編「マグロマル」などの非ナラティヴな作品群も、基本的にその「終結」を規定するのは「原稿枚数」という物理的な要素しかないはずだという点で、もちろん「例外」だといえる。

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