フォト
2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月31日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (85)

うーむ、こんなに週末ごとに天気が悪いんでは、どこにもお出かけできないではないか。公園行って、ゆっくり日向ぼっこでもしたいんじゃがのう。詮ないのう。仕方ないから、昼間っからビールでも飲むかのう。ぐびぐび……。

……などと「週末引き籠り」および「週末ドランカー」の道をまっしぐらに辿りながらも進む、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。引き続き、(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけている最中だったりする。今回は、前回の続きとして(2:48:24)から始まる、「感情移入=同一化」が解体された後のロスト・ガールに関連するシークエンスをばみてみよう。

L:ロスト・ガールの部屋 内部 (2:48:24)-(2:48:41)
(1)ロスト・ガールのアップ。右上方のどこかを見詰め、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。扉が開く音がした方向を見る。
(2)ロスト・ガールの主観ショット。正面の壁右側の白い扉。扉の向こうには、白い壁と木の扉が並んだ廊下が見える。部屋の中の白い壁と白い円柱が見える。
(3)ロスト・ガールのアップ。右側にある扉のほうに向かって歩き始める。
(4)ロスト・ガールの背後からのショット。彼女は扉をくぐって部屋から廊下へと駆け出す。そして、いちばん手前、右側の扉に姿を消す。

L:通路のどこか (2:46:21)-(2:48:44)
(5)ミドル・ショット。扉を開け、廊下に駆け出してくるロスト・ガール。扉には「205」の表示が見える。ロスト・ガールは緑のカーペットが敷かれた廊下を画面奥に向かって走っていく。彼女を少し追いかけるショット。

L:どこかの暗い階段 (2:48:44)-(2:48:50)
(6)ミドル・ショット。階段を駆け下りるロスト・ガール。踊り場を右に回るロスト・ガール。
(7)暗い階段の踊り場から下を見下ろすショット。踊り場を右回りに走り、なおも階段を下り続けるロスト・ガール。

L:暗く狭い通路 (2:48:50)-(2:48:54)
(8)ミドル・ショット。暗い通路。壁の上方は白く、下方は緑である。ロスト・ガールが通路の左端から姿を現す。画面手前に向かって通路を駆けてくる。それにつれて少し後退するショット。

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:48:54)-(2:49:07)
(9)「スミシーの家」の廊下にある扉のアップ。向こう側からロスト・ガールが扉を開く。彼女はその扉をくぐって廊下に姿を現す。右後方に後退するショット。短い別の暗い通路が見える。画面奥、彼女の左手に扉。彼女は右手を正面(画面右手)の壁に向かって伸ばす。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:07)-(2:49:14)
(10)ミドル・ショット。右手に玄関の扉。左手には壁際に置かれた椅子、カーテンがひかれた窓が見える。 玄関の扉が外側から開かれる。「スミシーの息子」とピオトルケ(大柄のチェックのジャンバー)が居間に入ってくる。後ろ手に扉を閉めるピオトルケ。

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:49:14)-(2:49:18)
(11)ミドル・ショット。ロスト・ガールが何かを察知し、画面左手に体を向ける。くぐってきた扉を閉めるロスト・ガール。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:18)-(2:49:23)
(12)ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。ピオトルケは、まだ左手を扉のノブにかけたままだ。
ピオトルケ: Hello.

L:「スミシーの家」の廊下 内部 (2:49:23)-(2:49:26)
(13)
ミドル・ショット。暗い通路にいるロスト・ガール。
ロスト・ガール: (画面手前に向かって) Hello?
ロスト・ガールは画面手前左側に向かって歩き、画面から姿を消す。

「スミシーの家」の居間 内部 (2:49:26)-(2:50:07)
(14)ミドル・ショット。ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。
(15)ミドル・ショット。玄関の扉の前に立っているピオトルケと「スミシーの息子」の背後からのショット。部屋の内部が見える。台所に続く通路が左に見える。ベッド・ルームに続く廊下が見える。右手の壁には、黒い背景に白い花が描かれた絵が掛かっている。「スミシーの息子」の右手には、背の低いライト・スタンドがある。ベッド・ルームに続く廊下から、ロスト・ガールが駆け込んでくる。居間の中程で立ち止まる彼女。三人は互いを見詰め合う。
(16)ミドル・ショット。ロスト・ガールの背後からのショット。ピオトルケと「スミシーの息子」が玄関の扉の前に立っている。ロスト・ガールの頭の右側が見えている。玄関の扉と閉められたカーテンが見える。「スミシーの息子」がピオトルケをちらっと見る。
(17)ロスト・ガールのバスト・ショット。満面の笑みを浮かべている。彼女はピオトルケのほうに向かって歩き始め、画面の右手から姿を消す。
(18)ミドル・ショット。ピオトルケと「スミシーの息子」に駆け寄るロスト・ガール。右へパン。ピオトルケの頭を抱くロスト・ガール。彼女の体を抱くピオトルケ。互いに強く抱きしめ合う二人。
(19)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。互いに抱きしめ合う二人。やがて身を離したとき、二人の間に「スミシーの息子」が見える。ロスト・ガールは右手の人差し指を伸ばし、ピオトルケの鼻に触れる。
(20)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。ピオトルケの左肩越しの背後からのショット。ロスト・ガールがピオトルケの頭を抱き、彼を強く抱きしめる。
(21)ロスト・ガールとピオトルケのバスト・ショット。二人は互いを強く抱きしめ合う。次に、ロスト・ガールは「スミシーの息子」を抱きしめる。ピオトルケは「スミシーの息子」の背を彼女に向けて軽く押し、二人が抱き合うのを見詰めている。左手で、ロスト・ガールの背中に触れるピオトルケ。ロスト・ガールは、ほほ笑みを浮かべながら彼を見る。ピオトルケは、ロスト・ガールと「スミシーの息子」を一緒に抱きしめる。
(22)ピオトルケのアップ。二人を抱きしめながら、笑みを浮かべる。目を閉じるピオトルケ。
(23)「スミシーの息子」のアップ。笑いを浮かべている。彼の背後、左手には長椅子と低いテーブルが見える。右手には閉められたカーテン。
(24)ピオトルケとロスト・ガールのアップ。右から左へパン。ロスト・ガールが、右手の指でピオトルケの唇に触れる。ピオトルケは右手の指で彼女の右の頬に触れる。
(オーヴァーラップ)

「スミシーの家」の居間 内部 (2:52:36)-(2:51-40)
(オーヴァーラップ)
(25)ロスト・ガールとピオトルケのアップ。「スミシーの家」の居間で抱き合う二人。
(オーヴァーラップ)

少々引用が長くなったが、とりあえず、このシークエンスの大雑把な構造からおさえておこう。まず、「ロスト・ガールの部屋」から始まるロスト・ガール関連のフローがある。このフローの最初のカット群(カット(1)-(4))は前回とりあげたシークエンス内に含まれているものだが、それ以降は「廊下」→「階段」→「暗い通路」という具合に舞台を推移させていく。このフローに対し、「スミシーの家」を舞台にしたピオトルケと「スミシーの息子」に関連したフローがクロス・カッティングでインサートされ、同時進行してする。この二つのフローがカット(15)で合流し、最終的に「スミシーの家」の内部でのシークエンスに移行するという構造だ。この後の記述整理上の利便を考え、ロスト・ガール関連のシーンには「L:」の表示を付しておいた。

このロスト・ガール関連のフローから読み取れるものは、大きくわけて二つある。まず一つ目は、「インランド・エンパイア」の基本構造を成す「高低のアナロジー」がここでも確認できることだ。かつ、カット(6)およびカット(7)にあるように、この「高低のアナロジー」はやはり「階段」によって提示される。アナロジーに従って理解するなら、「ロスト・ガールの部屋」は「家」の領域の高部にあり、最終到達地点である「スミシーの家」は「家」の領域の低部にあることになるはずだ。二つ目は、ロスト・ガールが「スミシーの家」に向かって移動する通過点が、すでに以前のシークエンスに登場した「場所」であることである。たとえばカット(5)の「廊下」は、(2:47:10)あるいは(2:47:21)において、ロコモーション・ガールの二人が駆け抜けた「廊下」であるし、カット(6)の「階段」は、手摺の形状からして(2:14:27)でニッキー=スーが「Mr.Kのオフィス」に向かうために上った「階段」と同一であることが見て取れる。あるいはカット(8)に登場する「通路」は、そのアーチ状の梁からして、ニッキー=スーが「『47』の扉」に至るまでに辿った「暗い通路」だ(2:42:21)。

これらの事項に関しては、以前挙げた「インランド・エンパイア」の基本概念図を念頭においておくと、あるいはわかりやすいかもしれない。基本概念図にあるように、この「家の領域」の下には「ストリートの領域」が存在することは何度か述べてきた。「ストリート」によって表されるものは、実はニッキーやロスト・ガールによって「共有」される「感情」が存在する場所であり、それがゆえに「通底」している。基本概念図でのポーランド・サイドとアメリカ・サイドがつながった「ストリート」は、それを表しているわけだ。言い換えるなら、「インランド・エンパイア」における「高低のアナロジー」では、「高い場所」ほど「個」に属するがゆえに分化しており、「低い場所」ほど共有され通底化する傾向にある。当然ながら、「ロスト・ガールの部屋」はロスト・ガールという個に属する場所として「高部=分化」した位置にあるわけだが、それに比較して「スミシーの家」は「低部=通底」した位置にあることが、カット(6)(7)カット(15)の関係によって明らかにされているのだ。

そうした「スミシーの家」の性格を裏付けしているのが、二つ目の事項である。前述したように、このシークエンスにおいてロスト・ガールが移動する「廊下」や「階段」や「通路」は、以前のシークエンスにも登場している。「インランド・エンパイア」において、しばしば「感情の共有」が「場所の共有」という形で描かれることは、たとえば「ストリート」にスー=ニッキーやドリス、そしてロスト・ガールが立つという表現からも明らかだ。このシークエンスにおいてロスト・ガールが通過する「廊下」や「階段」が、すでに他の登場人物によっても通過されていることは、彼女たちによるそれらの「場所の共有」を表している。つまり、それは「感情の共有」と同義であるということだ。

この「場所の共有=感情の共有」という図式は、「スミシーの家」にも当てはまる。そもそも、この「スミシーの家」は、演技者=ニッキーと登場人物=スーによって「共有」されていたのではなかったか? そして、そこではニッキーはスーに対して「感情移入=同一化」を行い、結果として彼女たちの間には「感情の共有」が成立していたのではなかったか? 「インランド・エンパイア」がこれまで描きつづけてきた”演技者=登場人物=受容者という「等式」の成立”を考えるとき、カット(15)以降に表されるように、「スミシーの家」が最終的に受容者=ロスト・ガールによっても「共有」されることはまったく意外ではない。また、それが何を表しているのかも明瞭である。

問題は、カット(15)以降の映像によって提示される、「スミシーの家」の内部でロスト・ガールたちによって起こされる「事象」のほうだろう。まず指摘しておきたいのは、ここでもまた、ロスト・ガールとピオトルケによる「視線の交換」が行われていることだ。それを踏まえたうえで理解されるのは、この”ロスト・ガールとピオトルケによる「視線の交換」と「抱擁」”が、(2:47:55)において提示された”ロスト・ガールとニッキーによる「視線の交換」と「抱擁」”に対置されるものだということである。前回述べたとおり、後者がロスト・ガールとニッキーによる「感情の共有」つまり「感情移入=同一化」を表すならば、前者が表しているものはロスト・ガールとピオトルケによる「感情の共有」に他ならない。より詳細に述べるなら、ここで提示されているのは「一般的受容者の抽象概念」であり「妻の抽象概念」であるロスト・ガールと、「夫の抽象概念」であるピオトルケによる「感情の共有」である。加えて、そこには「子供の抽象概念」である「スミシーの息子」も存在しており、最終的にカット(15)以降のシークエンスによって提示されているのは、「家族の抽象概念」による「感情の共有」であることになる。それは、「インランド・エンパイア」が延々とその「個別例」を提示しつづけてきた、「トラブル=機能しない家族」の対極にあるものだといえるだろう。

ここで思い出されるのが、「インランド・エンパイア」に関するリンチの言及のいくつかである。「チーズがなければ『インランド・エンパイア』はなかった(Without Cheese there wouldn't be an INLAND EMPIRE)」、あるいは「チーズはミルクから作られる(Cheese is made from Milk)」……これらは、「ハリウッド・ブルバード」の路上でリンチが仕掛けた「ローラ・ダーンをアカデミー賞の受賞候補に」というプロモーションの際に掲げられたバナーのスローガンであったり、あるいはそのスローガンの意味に関する質問に答えて発言されたりしたものだ。「ミルクはチーズから作られる」……正確にいえば、ミルクが細菌の働きによって発酵し、変化して出来上がるのがチーズである。さて、この「変化」をロスト・ガールに当てはめてみたらどうだろう。彼女は、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を通じて「自己確認」を行い、演技者=ニッキーと「感情の共有」を行った。しかし、それはロスト・ガールただ一人の「内的変化」にとどまらず、カット(15)以降に表されるように、彼女の「現実」における”家族全員との「感情の共有」”につながっている。まさしくこれは、「ミルク=ロスト・ガールの感情」が、「細菌=映画の魔法」の働きによって「チーズ=家族による感情の共有」に「変化」したということなのではないだろうか? そうした「チーズ=感情の共有」という概念がなければ、間違いなく「インランド・エンパイア」という作品は成立しなかったはずだ。

別な見方をすれば、その共有される「感情」は、そもそも「演技者=ニッキー」の「内面」に存在していたものである。「演技者の感情=ミルク」は、「登場人物=細菌」の力を借りて発酵=化学変化を起こし、「受容者の感情=チーズ」となった……とも捉えられるだろう。と同時に、「チーズ」に変化を終えた「ミルク」も、もはや「ミルク」ではない。「登場人物=スー」の「人生」を生きることによって、「演技者=ニッキー」自身の「内面」も変化するのである。

こうした「変化」を端的に表すのが、カット(12)でピオトルケによって発せられ、カット(13)ではロスト・ガールがそれに応えて発する「Hello」である。この「Hello」が、(1:16:05)でスー=ニッキーによって発せられた「Hello」と対置されるものであることは明瞭だ。「スミシーの家」に帰宅したスー=ニッキーの「Hello」は誰にも応えられず、それどころか、ピオトルケはスー=ニッキーから隠れるように「廊下の扉」に姿を消す。それに対し、このシークエンスでの「Hello」は、まずピオトルケから発せられ、かつロスト・ガールによって応えられている。この「対称形」あるいは「対置性」こそが、「映画」による「感情の共有」によってニッキーが、あるいはロスト・ガールが、あるいはピオトルケがその「内面」において変化したことを……つまり、「ミルクがチーズに変化した」ことを表している。確かに「映画の魔法」を介した「感情移入=同一化」は、「映画」の終了とともに消え去るかもしれない。が、その結果として「共有」された「感情」は一過性のものではない。それは創造者/受容者に「内面的な質変化」を与え、彼/彼女の「現実」を変え得る可能性を備えている……このシークエンスを通じて、あるいは「インランド・エンパイア」全編を通じて、リンチはそう訴えているのである。

2008年5月29日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (84)

ただいま、Linux2号機仕込み中(笑)。そもそもが七年ほど前に買った中古ノートで、HDが吹っ飛んでから長いこと放置中でありましたわけですが、1600円で買った中古HDを積んでみたらあっさり動きやがんの(笑)。しかし、64MBしか本体RAMがないし、どーしたもんか……と悩んだ挙げ句、試しに最軽量級のデストリビューションをインストールしたら、動くんだなあ、これが、それもGUIでスコスコと(笑)。というわけで、この文章はLinux2号機で書いています。日曜あたりに、2号機にも無線LANを仕込んでみよう。

……ってな話はおいといて、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話の続き。前回に引き続き、今回も(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけてみる。

では、いよいよロスト・ガール関連の事象を追いかけてみよう。フェイズとしては二つに分かれているが、そのうち、まず彼女の「感情移入=同一化」の解体を表す映像を追いかけてみる。

暗い通路 (2:47:02)-(2:47:06)
(ディゾルヴ)
(1)「暗い通路」のどこか。以前とは違い、通路の中は明るくなっている。右のほうを見ている二人の女性のアップ。笑みを浮かべながら、画面右手に姿を消す。二人がいなくなった後ろには、明るくなった通路と開いている扉が見える。

ロスト・ガールの部屋 内部 (2:47:06)-(2:48:24)
(2)ロスト・ガール(アメリカ・サイド。青いセーターに黒いスカート)のアップ。彼女はTVモニターを見詰めている。強い光が右上方から彼女の顔にさしている。彼女の背後には、白い壁とそれに掛かった「木々と山」の絵がみえる。彼女の左側には、ソファの背と白と金色の柱が見える。
(3)TVモニターのアップ。白い壁と黒い扉が並んだ廊下が映し出されている。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。二人のロコモーション・ガールが手に手をつないで廊下の奥に姿を現し、モニターの画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、モニター画面手前から姿を消す。
(4)ロスト・ガールのアップ。彼女は半ば口を開け、モニター画面を見詰め続けている。突然、何かを察知し、急いで右の方に振り向く。
(5)通路のどこかで、先ほどTVモニターに映し出された情景が再び繰り返される。白い壁と黒い扉が並んだ廊下。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。床には緑のカーペットが敷かれている。二人のロコモーション・ガールが手に手をたずさえて通路の奥に姿を現し、画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、画面手前から姿を消す。
(6)ロスト・ガールのアップ。右のほうを凝視し続けている。彼女は再び何かを感じとり、モニター画面に目を映す。
(7)モニター画面のアップ。ロスト・ガールの部屋。彼女の背後からのショット。彼女自身とTVモニター、右半分と左半分が開けられたステンド・グラスの扉が見える。白い壁と白い円柱、カーペットが敷かれた床、正面右の壁には開いた扉が見える。ニッキー=スーが正面右の開いた扉から入ってくる。ゆっくりと座っていたソファから立ち上がるロスト・ガール。ニッキー=スーが部屋の中ほどまで歩いてくる。ニッキー=スーの陰がモニター画面にかかる。
(8)ミドル・ショット。ロスト・ガールの部屋の内部。左からは、日の光が差し込んでいる。ニッキー=スーとロスト・ガールは部屋の真ん中でお互いを見詰め合う。モニターには、その二人の姿が映し出されている。ニッキー=スーがゆっくりとロスト・ガールに近付き、彼女の髪に手を伸ばす。ロスト・ガールが両の手をニッキー=スーの両腕にかける。やがて二人はキスをする。徐々にディゾルヴで消えていくニッキー・スー。そのままの姿勢で立ち尽くすロスト・ガール。

このシークエンスのうち、カット(1)カット(3)、そしてカット(5)に関しては前回で詳述したが、流れを掴むために再度引用した。いずれにせよ、この(2:45:37)から(2:52:33)までのシークエンス全体を通した大きな流れについては、改めて一項を立てて触れることになるだろう。

カット(3)(5)カット(7)(8)との関連性によって、二人の女性とニッキーの同一性が表されていることは前回述べたとおりだ。

カット(7)カット(8)間に成立している「関係性」が、前回題材にしたシークエンスにおけるカット(3)カット(5)の間に存在する「関係性」と、基本的に同一のものであるのは明瞭である。ここでもまた、「モニター」上で発生した事象が、「フレーム内フレーム」を取り外した形でそのまま提示されている。加えてカット(8)では、「モニター」という「フレーム内」に「フレーム外」の事象が映し出されているのだ。この表現によって表されるものが、「フレーム内にある(映画内)非現実」と「フレーム外にある(映画内)現実」の「連続性」や「等価性」であることはいうまでもないだろう。当然ながら、それはそのまま「インランド・エンパイア」という「非現実」と我々の「現実」の関係性に重なっていくわけだが、その「関係性/構造」はこのカット(7)で提示される「ロスト・ガール自身と彼女の部屋がモニターに映し出されている映像」によって、端的な「モデル」として表象されているといえる。

「インランド・エンパイア」が「感情移入装置」としての「映画」を描いているという観点からみたとき、カット(8)における、演技者=ニッキーと受容者=ロスト・ガールの「抱擁」が何を指し示すのかは明快だろう。そのうえで、まず指摘しておきたいのは、カット(8)の前半でロスト・ガールとニッキーの間に「視線の交換」が発生していることだ。しかし、このカットにおける「視線の交換」が、これまでに現れたものと異質のものであることは、映像を観れば明らかだろう。

「インランド・エンパイア」には、これまで何度となく「視線の交換」を表すシークエンスが登場してきた。それらのシークエンスは、基本的に「観るもの」と「観られるもの」の二つのショットからなる「ショット/カウンター・ショット」によって構成されており、たとえば「Axxon N.」の発現に伴って発生した三回の「視線の交換」のシークエンスを観れば、その構造が確認できるはずだ(1:01:50)*(2:08:17)(2:36:50)。同様に、登場人物=スー(あるいは演技者=ニッキー)と受容者=ロスト・ガールの間に発生した「モニター」を挟んだ「視線の交換」も、やはり「ショット/カウンター・ショット」によって提示されている(2:36:00)。その形が崩れ始めるのは「無人の映画館」におけるニッキー(あるいはスー)の「スクリーン」を介した「視線の交換」からであり(2:37:00)、このシークエンスでは「視線の交換」を行うニッキーとロスト・ガールの姿が、ついにミドル・サイズのワン・ショットのみで提示される。

この「撮られ方」あるいは「提示のされ方」の差異は、そのまま各シークエンスが備える「感情移入=同一化に対する機能」の差異につながっているといえる。カット(8)以外の箇所で発生していた「視線の交換」は基本的に「主観ショット=登場人物と受容者の視線の共有」によって描かれており、それ自体が我々=受容者の「感情移入=同一化」の形成/深化に対して寄与している。それに対し、カット(8)の「客観ショット」は「事象の記述」としてのみ機能しているのだ。そういう観点からみたとき、三回目の「Axxon N.」の発現に伴う「視線の交換」の提示方法が、意図的なものであることがみえてくる。そこでは、「映画館のスクリーンに映し出されたスー=ニッキーの姿」と「それを客席から観ているニッキー=スー」が、二人を同一フレーム内に収めたショットで提示されている。そのシークエンスから始まるものが、ニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の「解体」であることを考えるなら、「映画館」での「視線の交換」が客観的な「事象の記述」を含みつつ描かれなければならない理由が理解できるはずだ。「インランド・エンパイア」という作品は、そのときに必要とする「感情移入=同一化」の深度/ステイタスに連動して「提示の仕方」を変遷させていることが、こうしたショット群の対比によって理解される。そして、そこで「描かれているもの」が演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」の問題でありながら、同時にそれを観ている我々=受容者の「感情移入=同一化」自体とも連動しているというような、「インランド・エンパイア」が備える多重構造もまた、垣間見えてくるのである。

「視線の交換」に続いて、カット(8)後半ではニッキーとロスト・ガールによる「抱擁」が提示される。しかし、これまで「インランド・エンパイア」を観つづけてきた我々にとって、この「パターン」はまったく意外なことではない。この作品において、「視線の交換」を伴うシークエンスで提示されているものが「感情移入=同一化」に関するものであることは、繰り返し述べてきた。であるならば、「視線の交換」を伴って提示されるカット(8)の「抱擁」が、演技者と受容者の間に成立した「感情の共有」……つまり「感情移入=同一化」を表しているのは明瞭だ。「インランド・エンパイア」がこれまで提示してきた基本テーマが、このワン・カットにすべて集約されているのだ。

このシークエンスにおける「ロスト・ガールの部屋」は、基本的に「光」をともなったメゾンセンによって統一されている。過去のリンチ作品……たとえば「イレイザー・ヘッド」や「劇場版ツイン・ピークス」の結末がそうだったように、「インランド・エンパイア」のこのカットも「光」に満たされたポジティヴなものとして提示されることになる。そして、その「ポジティヴなもの」が、「見詰めあった」二人の「抱擁」によって表される演技者と受容者の「感情移入=同一化」であることは、もはや言葉を重ねるまでもないだろう。

ニッキーとロスト・ガールの「感情の共有」は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の終了とともに終わる。ロスト・ガールの腕の中からディゾルヴで消えていくニッキー(あるいはニッキーとスーの「混合物」)の映像によって、「感情の共有」の終結が明示される。リンチのいう「映画の魔法」は解け、「感情移入=同一化」は解体された。だが、それは受容者=ロスト・ガールの「裡」から完全に消え去り、もはや顧みられないものなのだろうか? いや、そうではない。少なくともリンチがそう考えていないことは、これ以降のシークエンスによって明らかである。

*正確にいうと、第一回目の「Axxon N.」の発現に伴う「視線の交換」のカットにおいて、一瞬、ニッキーの後ろ姿と思しき影が存在し、画面の左に消える。

2008年5月25日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (83)

週末なのに、雨でお出かけできなくて詰まんない……とお嘆きのアナタに、満を持してお贈りする(ホントか?)「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてのおハナシである。前回に引き続き、今回も(2:45:37)から(2:52:33)までを分解しつつ追いかけてみる。

今回は「受容者=ロスト・ガール」に関する事象のうち、彼女のスー=ニッキーに対する「感情移入=同一化」が解体されるまでの部分をみてみよう。だが、まずその端緒として提示されるのは、「演技者=ニッキー」の「情緒の記憶」とも関連している映像だ。

暗い通路 (2:47:02)-(2:47:06)
(ディゾルヴ)
(1)「暗い通路」のどこか。以前とは違い、通路の中は明るくなっている。右のほうを見ている二人の女性のアップ。笑みを浮かべながら、画面右手に姿を消す。二人がいなくなった後ろには、明るくなった通路と開いている扉が見える。
(ディゾルヴ)

ロスト・ガールの部屋 内部 (2:47:10)-(2:47:20)
(2)TVモニターのアップ。白い壁と黒い扉が並んだ廊下が映し出されている。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。二人のロコモーション・ガールが手に手をつないで廊下の奥に姿を現し、モニターの画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、モニター画面手前から姿を消す。

明るい廊下 内部 (2:47:21)-(2:47:23)
(3)通路のどこかで、先ほどTVモニターに映し出された情景が再び繰り返される。白い壁と黒い扉が並んだ廊下。扉は左右に三つずつ並んでいる。突き当たりの白い壁には何か肖像画らしいものが掛かっている。天井には円形の照明が白い光を放っている。床には緑のカーペットが敷かれている。二人のロコモーション・ガールが手に手をたずさえて通路の奥に姿を現し、画面手前に向かって笑みを浮かべながら走ってくる。左側の女性は白いキャミソールにジーンズ姿、右の女性は赤いチューブ・トップに赤いミニ・スカートだ。二人はそのまま左右に分かれて走り抜け、画面手前から姿を消す。

この二人の女性が、スー=ニッキーをポーランド・サイドの「ストリート」に誘ったロコモーション・ガールズのメンバーであること(1:11:40)は、映像から観てとれることと思う。同時に、彼女たちはポーランド・サイドの「ストリート」で、ロスト・ガールに「催眠術」をかけ「魅了」している(2:11:34)。この二人が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であり、ニッキーとロスト・ガール両者のスーに対する「感情移入=同一化」を成立/深化させ、「感情の共有」に機能していることは、何度か述べた。演技者/受容者の「心理的なもの」に向かって働きかけている点で、この二人の女性は「ファントム=映画の魔」と共通項をもつことになる。

だが、この二人の女性が「暗い通路」に存在することには、以前にも述べた「ファントムの影響によるニッキーの内面の質的変化」の結果であるように思える。それは当然ながら「普遍化/一般化」に通じる「質的変化」であるわけだが、その結果として、本来「個的/私的なもの」であるはずの「情緒の記憶」である彼女たちが、「4-7」の扉に通じる「通路」に存在しているのだ。しかし、ファントムが「崩壊」し、その「魔法」が効力を失った今、「情緒の記憶」は「普遍に通じる通路」から解放され、再びニッキーの「個的/私的なもの」となる。その具体的映像が、このカット(1)-(3)によって提示されるものだ。

カット(2)およびカット(3)は、基本的に同じ映像である。両者の差異は、カット(2)がロスト・ガールが観ている「モニター画面」のうえで提示され、カット(3)がそうした「フレーム内フレーム」が取り外された状態であることだ。言葉を変えれば、前者が「ロスト・ガールの主観ショット」として提示されているのに対し、後者は「客観ショット」であることだ。だが、それは、実は後者が我々自身の「主観ショット」として機能していることと同義である。我々は、まずロスト・ガールと「視線」を「共有」する形で通路を走り抜ける二人の女性を目にし、次いで我々自身の「視線」で同じものを観る。つまり、我々はまず「ロスト・ガールの体験」を「体験」し、続いて我々自身が「ロスト・ガールが体験したもの」を「自らの体験」として「体験」する。この二つの「体験」を通じて、我々はロスト・ガールと自分たちが、ともに「受容者」である点で「等価」であることを認識するのである。

かつ、この女性たちは、「画面のこちら側」……つまり、「我々=受容者の側」に向かって走ってくる。この表現を大きな意味で捉えるなら、これは(「インランド・エンパイア」を含めた)「映画作品」が受容者によって受容され、「共有」されるものであるというリンチの考えの提示だ。そういう意味では、カット(2)およびカット(3)で二人の女性が駆け抜ける「廊下」を、後にロスト・ガールも通る(2:48:41)ことは見逃せない。「インランド・エンパイア」において、「共有」という概念はこういう形でも表現されており、それは最終的には、(この後提示される)ロスト・ガールによる「スミシーの家」の「共有」という概念にもつながっていくものだ。

しかし、後に明かになるように、この二人の女性が「こちら側」に向かって姿を消したあと、その「廊下」を通ってロスト・ガールの部屋に姿を現すのはニッキーである(2:47:27)。こうした表現によって表されるものが、ニッキーとこの二人の女性が「等価」であること……ひいては彼女が「ロコモーション・ガール」たち全員と「等価」であることは、あらためて指摘するまでもないだろう。これもまた「ロコモーション・ガール」たちが演技者=ニッキーの「裡なるもの」であることの傍証であり、リンチ作品においてはその「裡なるもの」とはイコール「感情」のことである。

上記のような事項を踏まえたとき、「インランド・エンパイア」において何度かリフレインされた「私を見て。私を前から知ってるか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before)」という「キー・ワード」が表すものが明確になる。この「キー・ワード」は、まず「ロコモーション・ガール」の一人からニッキー=スーに向かって発せられ、ついでスー=ニッキーから「ロコモーション・ガール」の二人に問いかけられ、最後にはロスト・ガールによって「ロコモーション・ガール」の二人に尋ねられる。「ロコモーション・ガールたち」を「ニッキーの裡に存在する、過去に経験した『感情』」として……「情緒の記憶」として捉えたとき、この女性たちによる「問いかけのリレー」によって表されるものが、そうした「感情」の「確認と共有」であることが理解できるはずだ。

たとえば、(1:09:21)でこの「キー・ワード」が発せられるのは、「スミシーの家」のベッド・ルームで就寝するピオトルケをスー=ニッキーが目撃し(1:07:52)、家の内部に「トラブル=機能しない家族」の根源が存在することを認識したのちである。ここでの「私を前から知っているか」という問いは、つまり「登場人物=スーがピオトルケを目撃した結果として抱えた『感情』を、演技者=ニッキーは味わったことがなかったか?」という問いかけと同義である。かつ、その問いかけが「ロコモーション・ガール」によって行われることは、これが演技者=ニッキーの「内面」における「自問自答」であることを指し示している。

ついで、(1:37:12)における「私を前から知っているか」という問いかけは、「スミシーの家」の「裏庭」で行われ、そこで発生する(であろう)事象を踏まえたものだ。この問いかけによって表わされるもの自体は、(1:09:21)と同様に「登場人物=スーが現在抱えているような『感情』を、演技者=ニッキーは味わったことがなかったか?」と同義である。だが、異なっているのは、ここでの問いかけがロコモーション・ガール=ニッキーではなく、スー=ニッキーによってなされていることだ。これによって提示されているものが、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」が形成されたこと、あるいは深化したことであるのは言うまでもない。ニッキーとスーが「等価」になったとき、「ニッキーの自問自答」は「スーの自問自答」になるのだ。

最後に、(2:11:16)における「私を前から知っているか」という問いかけは、ポーランド・サイドの「ストリート」上で、ロスト・ガールからロコモーション・ガールの二人に向かって行われる。この問いかけが、「ロスト・ガールが現在抱いている『感情』を、演技者=ニッキーは以前味わったことがあったか?」あるいは「スー=ニッキーが現在抱いている『感情』を、ロスト・ガールは以前に味わったことがあったか?」という問いかけと同義であることはいうまでもない。当然ながら、問いかけがロスト・ガールによってなされることは、受容者=ロスト・ガールが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を確立/深化させ、彼女がスー=ニッキーと「等価」になっていることを物語っている。「ニッキーの自問自答」は「スーの自問自答」を経て、「ロスト・ガールの自問自答」として「共有」されるのである。

そして、これらの「問いかけ」に対する答えは、すべて「イエス」だ。逆説的になるが、であるからこそ、演技者=ニッキーと受容者=ロスト・ガールの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」が成立するのである。

2008年5月24日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (82)

すわて、いよいよ押し詰まってまいりました「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業でありまする。今回は……ちゅーか、今回から何回かにわたって(2:45:37)から(2:52:33)まで。

前回でとりあげた「ファントムの崩壊」のシークエンスをもって、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」は完全に終結した。これで「インランド・エンパイア」の終結部分を構成する三つの事象のうち第一の事象がほぼ完了し、今回とりあげるシークエンスからは、その結果としての「ニッキーとスーの分化」が始まる。が、それと同時に、第二の事象である「受容者=ロスト・ガールのスー=ニッキーに対する『感情移入=同一化』の解体」に関する映像と、第三の事象である「分化したニッキー、スーのその後」に関する映像も、クロス・カッティングによって同時進行で提示される。そのため、作品の流れに沿って論じることは混乱を引き起こすことになるだろう。ここではシークエンスを整理して、まず「登場人物=スーに関連した事象」のみを切り出す形で映像を追いかけてみよう。

Rabbitsの部屋 (2:45:37)-(2:47:02)
(1)ロング・ショット。長椅子に座っているジャック・ラビットとジェイン・ラビット。左にジャック、右にジェイン。長椅子の後方にはスージー・ラビットが立っている。左手にある木の扉がゆっくりと開き始める。そのほうにゆっくりと頭を巡らせる三匹。
(2)より低くなり、若干右に寄った位置からのショット。開きつつある木の扉のほうにゆっくりと頭を巡らせる三匹。
[汽笛]
(3)上方からのショット。三匹のウサギたちは開かれた扉を見詰めている。突然、部屋の照明がすべて消える。開かれた扉の向こうから、まばゆい光が差し込み、激しく揺れ動く。
(4)「Rabbitsの部屋」の右手の壁のアップ。右から左へとパン。扉から差し込む光が、激しく揺れ動いて壁を照らしている。正面の壁を映しつつ、木の扉の一部がみえるまで、なおも左へパン。
(5)木の扉のアップ。扉は開かれ、上方にある通風窓も開けられている。扉の枠の上方にライトが見える。下方にパン。扉の枠越しに通路の壁が見える。開かれた扉に「4-7」の表示がある。通路から部屋の中に、後退しつつ入ってくるスーの後ろ姿。完全に部屋の中に入り、体を右に回転させつつ木の扉を閉めるスー。木の扉に背を預け、顔をゆがめている。部屋の内部の様子を認めた途端に、その表情は驚きに変わる。
(6)スーの主観ショット。左から右へとパン。「Rabbitsの部屋」の内部が見える。部屋は薄闇に沈んでいる。背の高いライト・スタンド(消えている)。アイロンとアイロン台。上方の角が丸まった壁の開口部と、その奥の木枠の窓。なおも右にパン。右上方に照明。向かい側の壁。そのまま下方にパン。一瞬、アウト・フォーカス。赤もしくは茶色の長椅子と床の一部がみえる。
(7)スーのアップ。木の扉に背中をあずけている。下の方向を見たあと、右のほうを見て何かを認める。左へ回り込みながら、右にパン。右のほうに向かってゆっくりと歩き始めるスー。それにつれて後退するショット。なおも歩き続けるスー。彼女の顔に下方からあたる光。左手背後のライト・スタンドがいつの間にか点灯している。右手の木枠の窓越しに、赤い傘のランプも点灯している。
(8)スーの主観ショット。青みかがったまばゆい光が真正面からさしている。それを中心に横一列に並んでいる小さな光。
(ディゾルヴ)

Rabbitの部屋 (2:50:07)-(2:51:37)
(ディゾルヴ)
(9)青味がかったまばゆい光が真正面からさしている。天井の小さな灯りの列が見える。光にクローズ・アップするとともにアウト・フォーカスへ。
(ディゾルヴ)
(10)スーのアップ。自分の顔と部屋の内部を照らしているまばゆい光を見詰めている。徐々に暗くなっていく光。目をせわしなく左右に動かしながら、光を見詰め続けるスー。少しクローズ・アップ。
[歓声と拍手]
ほのかな微笑みともつかぬ表情を浮かべるスー。
(オーヴァーラップで)赤い衣装のバレリーナが回っている。
(11)青味がかった映写機のまばゆい光が真正面からさしている。天井の小さな灯りの列が見える。少しイン・フォーカスに。ゆっくりと下から上へパン。

指摘するまでもないだろうが、この「登場人物=スーに関連する事象」はすべて「Rabbitsの部屋」の内部で展開されている。また、カット(1)-(3)をみればわかるように、ここでも(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」と同様、アングルやサイズを変えたカット割りが施されている。特に(1)と(3)のカットの間には、ウサギたちの動作に対してカッティング・イン・アクションによるコンティニュティー・エディティングが用いられており、「Rabbitsの部屋」のシークエンスに対する「編集の遷移」に、また新しい要素が付け加えられている。

カット(1)-(3)カット(5)の関連性によって、「Rabbitsの部屋」が、「暗い通路」にある「4-7の扉」の内部に存在することが明示されている。この「4-7」という「文字(あるいはテクスチャー)」が「普遍/一般」を表す限りにおいて、「Rabbitsの部屋」が「普遍/一般」と関連しているのは間違いない。この「関連性」を一言でいうなら、ウサギたちが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対して行ってきた「介入/コントロール」の最終的な目的が、その「普遍化/一般化」であることに尽きる。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「普遍化/一般化」するということは、それが作品として一定の評価を得たことと同義であり、かつ多数の受容者から「共有」されたこととも同義である。「工業製品」としてであれ「商品」としてであれ、あるいは「表現」としてであれ、「普遍化/一般化」の度合いがイコール「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品の成功の度合いであることは、論をまたないだろう。

当然ながら、スーが「4-7の扉」をくぐることは、彼女が(そして「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が)「普遍化」されたことを指し示すことになる。ウサギたちによる「介入/コントロール」の目的は達成された。カット(6)で確認できるように、役目を果たし「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入/コントロール」を終えたウサギたちは、「Rabbitsの部屋」から姿を消す。

この「普遍化の達成」は、スーによっても認識されている。それを明示しているのが、カット(10)の「歓声と拍手」の音声が被せられたスーの「表情」だ。特筆すべきは、そのスーの「表情」にオーヴァーラップして提示される「バレリーナ」の映像である。この「バレリーナ」が、(2:20:17)における「クラブ」の「ダンサー」の映像と「対置」されるものであることは明瞭だろう。「ストリート」に位置する「クラブ」での「ダンサー」がその煽情性において「娼婦たち」と等価であったのに対し、この「バレリーナ」は「普遍性の獲得」というポジティブな文脈の上に登場している。だが、「インランド・エンパイア」をここまで観てきた我々=受容者は、登場人物=スーの「感情」が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」をもとに形成されており、その「情緒の記憶」は必ずしもポジティヴなものではないことを知っている。であるならば、この「ダンサー」から「バレリーナ」へのイメージの変遷は、「ネガティヴな個例」が、「映画」というメディアを通して受容者に「共有」されることにより、「ポジティヴな普遍」へと昇華し得るというリンチの「思い」の提示に他ならない。

「Rabbitsの部屋」に入ったスーが、カット(7)において、自分の右方に認めたものについても触れておかなければならないだろう。それは、カット(9)で彼女が見詰めているものであり、すなわちカット(8)およびカット(9)カット(11)の映像によって提示されるものだ。カット(8)およびカット(9)ではあまり明瞭ではないが、カット(11)で、その映像がこちらに向けて投射されている「映写機の光」と「映画館」の天井にある「灯り」であることが明らかになる。カット(7)およびカット(10)でスーの顔を照らすのはこの「映写機の光」であり、「Rabbitsの部屋」とそこにいるスー自身が、実は「映画館のスクリーン」の中に存在していることが理解される。「Rabbitsの部屋」が「シットコムへのオマージュ」であるならば、これは「映画」だけでなく、受容装置として共通項をもつ「TVモニター」をも包括して表していると考えていいはずだ。ロスト・ガールが観ていた「モニター」がそうであったように、これもまたリンチによる「受容スタイルの変遷」に関する言及のひとつなのである。

同時に、このカット(8)およびカット(9)、そしてカット(11)によって提示される映像が、(0:03:16)の映像と対になっていることも見逃せないだろう。そこで提示されているのは「撮影カメラのレンズ」であり、明らかにカット(11)の「映写機の光」と対置されている。と同時に、この「撮影カメラのレンズ」と「映写機の光」の映像が、いわば「括弧」として機能していることも指摘しておきたい。この括弧のなかに囲まれたものが「映画について」の事項であり、加えてそれが「映画を作ることについて」の事項および「映画を観ることについて」の事項を内包しているのならば、この「括弧の付け方」にも明確な意図が働いているといわざるを得ない。これまた、リンチが「インランド・エンパイア」に対して「介入/コントロール」を行っていることの確実な証左である。

2008年5月22日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (81)

今日も今日とて、お気楽極楽に「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる日々である。今回は(2:44:26)から(2:45:37)までに関して何やらつぶやいてみる。

「4-7」の扉の前に辿り着いたニッキー=スーだが、それをくぐる前に、自らの「感情移入=同一化」を解体/終結させるという重要な作業が残っている。Mr.Kが示唆したように、その「作業」は、彼女が手にした「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」*で「映画の魔=ファントム」を撃つことによって達成される。「映画の魔=ファントム」は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」の成立/深化に対して機能しており、それを解体するためには彼を排除する必要があるからだ。

なにはともあれ、このシークエンスにおいて提示される具体的な映像を追いかけてみよう。

(1)ニッキー=スーの背後からのショット。慌てて左を振り向くニッキー=スー。右手に木の扉とその脇の照明が見える。
(2)
ニッキー=スーの主観ショット。暗い通路の奥から、ファントムが登場する。彼が前進し、照明の光の中に姿を現すにつれて、彼に向かってクローズ・アップ。彼は前の半ばまでにボタンのついた茶色のセーターを着ている。その下の黒いTシャツが覗いている。少し右に首を傾げ、ニッキー=スーをにらみつけつつ、彼女のほうに早足で近づいてくる。
(3)歯をむき出し、ファントムに向けて銃を構えるニッキー=スー。
(4)ニッキー=スーの主観ショット。ニッキー=スーをにらみつつ、早足で近づいてくるファントム。バスト・ショットまで。
(5)発砲するニッキー=スー。
(6)少しあおり気味のファントムのアップ。明るい光が彼の顔にあてられる。彼は目をつぶり、半ば口を開け、体を揺らす。下方に後退する視点。目を開き、右手を見ているファントム。右手には着の扉の脇の照明が、奥には木の扉が見える。なおも後退する視点。ニッキー=スーに向けて笑って見せるファントム。
(7)もう一度発砲するニッキー=スー。目をつぶっている。
(8)ファントムのアップ。彼の顔に当てられている光が、より光度を増す。顔の一部分がホワイト・アウトする。彼は目を閉じ、また開き、なおも口元に笑みを浮かべる。
(9)ニッキー=スーのバスト・ショット。口を開け、驚きの表情でファントムを見詰めるニッキー=スー。
(10)ミドル・ショット。体を揺らしつつ「4-7」の扉の前の通路に立っているファントム。彼の顔は光でホワイト・アウトしている。彼の左手はズボンのポケットに突っ込まれている。
(11)拳銃を構え、もう一度発砲するニッキー・スー。排莢され、左上方に飛ぶ薬莢。
(12)ファントムのアップ。明るい光が彼の顔に当てられている。口を開き、半ば目を閉じて、少し頭を揺らしている。
(13)ファントムを見詰めるニッキー=スー。口を開けたまま、少し後退する。
(14)ファントムのアップ。口を開け、閉じていた目をゆっくり開く。体と頭を揺らしつつ、右上方を見詰めるファントム。彼の顔に当てられている光が、少し強くなる。
(15)口を開いたまま、なおも後退するニッキー=スー。
(16)ファントムのアップ。彼の顔は恐ろしい変貌を遂げている。大きな青い目は見開かれ、大きな鼻と、歯をむき出した大きな口が笑っている。唇は赤い。
(オーヴァーラップで)炎
(17)緑色の壁をバックに、ニッキー=スーの右手に握られた拳銃のアップ。再び発砲される。銃口から伸びる炎。排莢口から火花とともに飛ぶ薬莢。発砲後、下に下がって画面から外れていく拳銃。
(18)ニッキー=スーの超クローズ・アップ。彼女の目から口の半ばまで。鼻から右耳の半ばまで。
(19)ファントムのアップ。彼の顔は溶解していく。両目と口は黒く開いた穴と化し、大きさのバランスも失している。その部分だけが、ざらざらした抵解像度の映像である。揺れる光が時々その顔を照らし、オーバーラップされた目と鼻と口が、顔の輪郭から時折外れる。口からだらだらと流れ続ける赤い血。
(20)ニッキー=スーの超クローズ・アップ。彼女の目から口の半ばまで。鼻から右耳の半ばまで。
(21)ファントムのアップ。少し引き気味のショット。溶解した彼の顔は、道化師を思わせる。なおも口から流れ続ける血。その目と鼻と口に向かって当てられている光が、揺れている。水中の泡のようなものが口から上方へと浮かび上がっていく。

このシークエンスの映像的特徴として挙げられるのは、ファントム関連のカットとニッキー=スー関連のカットの対比である。基本的にファントム関連の映像がニッキー=スーの「主観ショット」として、ほぼ固定された視点で提示されているのに対し、ニッキー=スー関連の映像には、部分的なクローズ・アップを含めてさまざまなサイズやアングルのショットが取り混ぜられている。言葉を変えれば、ファントムが静的に撮られているのに対し、ニッキー=スーは動的に撮られているのだ。こうした映像提示の差異自体が、このシークエンスにおける両者の関係性を表しているといえるだろう。能動的なアクションの「主体」はあくまでニッキー=スーであるが、このシークエンスの視線の対象としての「主体」はやはり「ファントム」だ。その意味で見逃せないのは、カット(8)で彼が浮かべる「微笑み」に似た表情である。演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を「普遍化」することが、彼女の「感情移入=同一化」に対して彼が機能することの要件であったならば、その目的はニッキー=スーが「4-7」の扉に到達したことで達成されたといえはしないだろうか。彼は十分に機能したのである。

だが、なんといっても印象に残るのは(あるいは全編を通じてもっともインパクトがあるのは)、撃たれた後のファントムがその容貌を変化させていく映像である。この「崩壊」によって表されているものが、まずは演技者=ニッキーや受容者=ロスト・ガールを「魅了」していた「映画の魔(法)」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語の終焉」とともに終結し、消え去るさまであるのは間違いない。

このファントムの「容貌の変化=崩壊」の過程は、非常に興味深いものだ。たとえばカット(16)における合成された目や鼻、そして口の「パーツ」は、おそらくニッキー(もしくはローラ・ダーン)の映像が「引用」されていると思われる。であるならば、まずこの第一段階の「変貌」によって表されているのは、「誰にでもなれる」演技者の特性への言及である。かつ、「ファントム=映画の魔」が機能する「感情移入=同一化」の根底には、こうした「他者にな(りき)る所為」があり、そしてその根底にあるのは人間が備える「何かを他のものになぞらえる能力」であるはずだ。演技者=ニッキーが自らの「感情移入=同一化」を最終的に解体させ、登場人物=スーとの分化を果たすに先立って、まず彼女は「ファントムの崩壊」を目撃することを通じて「演技者」としての「自己確認」を行うのである。

ついで、カット(19)およびカット(21)では、ファントムの容貌は「空白(ブランク)」に等しい無性格なものに変貌していく。とりあえず、これは演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」がほぼ解体されたことを表すと受け取るのが妥当だろう。が、同時にその崩壊した「容貌」が、どこか「道化師」を連想させるのも事実である。何度か触れてきたように、リンチはこの作品で「サーカス」をメディアのひとつとして捉えている。加えて、(1:56:32)にみられるような「道化師」のイメージの直截な引用も「インランド・エンパイア」には存在する。その根底にあるのは、「サーカス」というメディアの裡に存在し、「肉体を使った感情の伝達」を行う者としての「道化師」であるのは間違いない。そして、それはそのまま「映画」というメディアにおける「演技者」のイメージに重なっている。ならば、カット(16)と同様に、これもまたニッキーの「演技者としての自己確認」に通じるものであると捉えるのが妥当であるはずだ。いずれにせよ、リンチのこうした発想には、やはりフェデリコ・フェリーニが抱く「サーカス」と「道化師」に対するオブセッションからの影響を感じずにはいられない。

ファントムの「溶解」のイメージから直截に連想されるのは、たとえばリンチによる写真集「Snowmen」に収められた様々な「雪だるま」である。あるいは、こうした「溶解」のイメージそのものの根底には、たとえばリンチが「絵画」から「映画」へと領域を変える契機となった、「時間経過とともに変化する絵」という発想があるという見方も可能なのではないか。それはリンチが好んで自作に登場させる「炎」や「煙」といった「曖昧でミニマルな」モチーフにも反映されているといえるが、それを裏付けるように、カット(16)のファントムの映像に対して、「炎」のイメージがオーヴァーラップで提示されている。リンチの過去作品には……たとえば「ワイルド・アット・ハート」「ロスト・ハイウェイ」などに……しばしばこの「炎」のイメージは現れてきた。あるいは「ツイン・ピークス」では映像とともに、「炎よ、我とともに歩め(Fire, walk with me)」といった「言語フレーズ」の形で「炎」のモチーフは登場していることは、改めて指摘するまでもないだろう。これらの作品における「炎」のモチーフは、しばしば登場人物が抱く「激しい感情」の表れとして理解できる。そうした観点からカット(16)で提示される「炎」のイメージをみるなら、それによって表されているのは、やはり「感情移入=同一化」によって形成されたニッキー=スーの「感情」そのものであり、それが「映画の魔=ファントム」の崩壊とともに消滅するさまである。

蛇足ではあるが、このシークエンスにおいてニッキー=スーは「拳銃」を「4回」発砲している。これもまた、このシークエンスで提示される「普遍化/一般化」に通じるものとして捉えることが可能だろう。あるいは一歩踏み込んで、自らの「情緒の記憶」を「普遍化/一般化」することに対する、ニッキー=スーの「積極的な意思表示」として捉えることもできるのかもしれない。


*今更ながらだが、なぜ「拳銃」なのか? それは、単純に「撃つ=撮る=shoot」からの連想なのか? 「拳銃」に対置されるものであり「心理展開」に関するものである「スクリュー・ドライヴァー」と対比させたとき、なぜ「物語展開に関するもの」が「拳銃」として表されているのか、いくぶんかは理解できるような気がする。つまり、比較的複雑な機構をもつ「拳銃」が、精緻な構成を必要とする「物語」に関するものとして現れ、よりプリミティヴである「心理的なもの」が「スクリュー・ドライヴァー」として表されている……と、とりあえずは捉えておこう。

2008年5月20日 (火)

リンチ+ホドロフスキー+ヘルツォーク

本日のDugpa.comネタ。

な、なんとデイヴィッド・リンチが、あのアレハンドロ・ホドロフスキーの新作「King Shot」(2009年完成予定)のエグゼグティヴ・プロデューサーに名前を連ねることになったそうな。うっわー、ホドロフスキーの新作! んでもって、リンチとカップリング! いやあ、まさかこのよーなことが起きるとは、夢にも思わなんだ。長生きはするもんですなあ。「The Rainbow Thief」から19年ぶりの新作ですか。驚いた。

とはいえ、まだ現在はプリ・プロダクションの段階で、公式サイトもただいま制作中なありさま。なにはともあれ、期待しちゃうぞ(笑)。IMDbをみると、出演者の名前には、マリリン・マンソンやらニック・ノルティやら、一癖も二癖もあるよーな連中の名前が並んでいる始末だもんなあ(笑)。あ、ホロドフスキーの息子のアダンの名前もあるや。まだ詳しい作品内容まではわからないのだけど、「Variety」の記事によれば「violent metaphysical spaghetti gangster pic」なんだそーだ。うむ、ホドロフスキーのことだから、きっとそうなんでしょう……って、やっぱなんだ、そりゃ(笑)。

もいっぱつ、これまたスゴいんだけど、「Hollywood Reporter」の記事では、リンチはヴェルナー・ヘルツォークの新作「My Son, My Son,」にもエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加する様子。どわあ。

両作品とも、今年のカンヌでAbsurdaが配給権販売の窓口業務を行ったらしく、ってことはアメリカ国内の配給はAbsurdaになるのかな。うーん、「インランド・エンパイア」の配給元に困ってリンチがAbsurdaを作ったときは、リンチ、ダイジョーブかなあとか心配してたんだけど、まさかこういう具合に話が展開するとは思わなんだよ。確かに、Absurada立ち上げのときに、こうしたアート系の映画作品のアメリカでの配給状況について発言してたなあ、リンチ。そのころから、こういうこと考えてたのかなあ。もし、Absurdaが、今後もこうした系統の作品の配給業務を継続して行うようであれば、こりゃちょっと面白いことになりそうだ。

2008年5月19日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (80)

えー、Linux機で無線LAN接続成功。これで実用上のセッティングは一応終了ということで、後はテキトーにいじり倒したいと思います。

というよーなどーでもいい話をしつつ、あいも変わらず進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(2:42:21)から(2:44:26)までをば、こちらもテキトーにいじり倒すことにする。

これより先、エンド・ロールが終了するまで、「インランド・エンパイア」が提示するものは、大きくわけて三つある。一つ目はニッキー=スーが自らの「感情移入=同一化」を最終的に解体させ、演技者=ニッキーと登場人物=スーへと分離する事象である。二つ目は、ロスト・ガールがスー=ニッキーに対する「感情移入=同一化」を解体し、自らの「現実」に戻るという事象である。加えて、三つ目の事象として、分離した後の登場人物=スーと演技者=ニッキーのその後も描かれる。

そのうち、このシークエンスで提示されているのは、一つ目の"演技者=ニッキーが登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」を自ら終結させるまで"である。この「終結/解放」のプロセスは、(2:35:49)における「撮影ステージ4」の入り口でニッキー=スーとロスト・ガールとの「視線の交換」から始まり、「ファントムの崩壊」によって最終的に達成されることになる。

だが、まず、そこに至る前に、迷宮めいた「暗い通路」に足を踏み入れるニッキー=スーのシークエンスに対し、クロス・カッティング気味に挿入されるファントムのカットについて触れておきたい。

「スミシーの家」の廊下(2:42:37)
(1)暗い廊下。暗闇の中に扉が見える。扉が突然開く。半ば開かれた扉から、ファントムが姿を現す。その背後には、もっと奥まで続く通路がみてとれる。天井から梁が下がった開口部と、同じく梁が下がったアーチ状の開口部が茶色い薄闇のなかにみえる。ファントムが扉をくぐって出てきて、右手の方を見る。
(2)ファントムの主観ショット。「スミシーの家」の廊下が見える。その奥にはリビング・ルームと赤いソファが見える。
(3)ファントムのアップ。彼は左に向かい、小さな白い扉に向かって歩き始める。扉の前まで至ったファントムは左手をちらっとうかがい、また扉に目をやる。

カット(1)カット(2)およびカット(3)の連続性において、ファントムが姿を現したのは、「スミシーの家」の廊下にある「扉」……すなわち、「拳銃」を手に入れたニッキー=スーが再び「通路」に戻るために通った「扉」(2:41:18)であることがわかる。くわえて、その奥にあるのが現在ニッキー=スーが足を踏み入れている「暗い通路」であることは、カット(1)の映像のファントムの背後に見える「アーチ状の開口部」などの形状によって明らかだ。

この「扉」は、前回にも触れたように、(1:16:27)においてピオトルケが入って行った「扉」とも同一のものである。その時のピオトルケもまた、現在ニッキー=スーが進行中の「暗い通路」に入って行ったと考えるのは、一応の蓋然性をもつだろう。なぜピオトルケがこの「暗い通路」に入らなければならなかったのかについては、さまざまな捉え方ができるはずだが、個人的にはこの後に現れる「『4-7』の表示がついた扉」と関連があるように思われる。詳細については、「4-7の扉」について述べた後にということにしたい。

と同時に、カット(3)においてファントムが向かった「扉」が「『Axxon N.』の扉」であることは、その位置関係からしても明瞭だ。映像による明確な描写はないものの、この後、おそらくファントムがこの「『Axxon N.』の扉」を通ったであろうことは、この後に彼とニッキー=スーが「暗い通路」で邂逅することからみても間違いない。ここで注意をひかれるのは、彼が「スミシーの家」の内部から「『Axxon N.』の扉」をくぐっていることだ。つまり、直前のシークエンスにおいてニッキー=スーが辿った方向と「逆」の方向から、「『Axxon N.』の扉」を通っているわけである。ならば、これもまた、「インランド・エンパイア」にしばしば登場する「対置/対立の関係」のひとつと受け取ることが可能なはずだ。ニッキー=スーは、「感情移入=同一化」から自らを解放する「手順」として、この「スミシーの家」につながる「『Axxon N.』の扉」を通った。逆方向からこの扉をくぐる行為が何を表すのかは、明瞭だろう。「映画の魔=ファントム」は、あくまで「感情移入=同一化」の「成立/深化」に向かって機能するのである。

さて、一方でニッキー=スーは「暗い通路」の深部へと進む。このシークエンスには上述した「ファントムのカット」がインサートされており、実際にニッキー=スーがどのくらいの間「暗い通路」を進んだかは、映像からは明瞭ではない。いずれにせよ、映像からみてとれる「通路」は折れ曲がり、あるいは段差を伴っていて、この場所の「見通しの悪さ」を強調している。もちろん、リンチ作品が備える表現主義的な志向を考えるとき、こうした描写そのものがこの「通路」の性格を表しているのは間違いない。同様に、その「通路」の壁には「緑色のモチーフ」がみてとれ、この場所が「トラブル」を内包していることを提示している。

そして、ついにニッキー=スーの前に「4-7」の表示がついた「扉」が姿を現す。このあたりから具体的な映像を追いかけつつ、詳細にみていくことにしよう。

暗い通路 内部(2:43:50)
(4)ニッキー=スーの主観ショット。続いている通路。右手にはどうやら木の扉があるようだ。右手の壁に照明がある。左手はすべて壁だ。天井が途中で一段、低くなっている。右手の壁が一段、せり出している。正面奥には、木の扉がみえる。少し前進しつつ上から下へパン。
(5)少しあおり気味のニッキー=スーのアップ。彼女は半ば口を開けて、通路の奥を見詰めている。彼女の背後、左手の壁には照明が掛かっているのがみえる。
(6)ニッキー=スーの主観ショット。同じ通路の映像。
(7)ニッキー=スーの主観ショット。少しアップになった同じ通路の映像。
(8)ニッキー=スーの右肩越しの背後からのショット。右手に木の扉が見える。扉の両側に照明がある。奥へと続く通路が見える。扉を見詰めたまま、そちらのほうに向かってゆっくり進むニッキー=スー。
(9)ミドル・ショット。右手にある木の扉を見詰めつつ、通路をゆっくり前進するニッキー=スー。
(10)ニッキー=スーの主観ショット。右へ回りながらパン。木の扉が見える。扉には、「47」という金色の金属製の表示が見える。表示に向かってクローズ・アップ。
(11)ニッキー=スーのアップ。彼女は驚いた顔で木の扉とその表示を見詰めている。
(12)「47」の表示のアップ。「4」も「7」も金属製の釘で扉に止められている。表示に向かってクローズ・アップ。
(13)ニッキー=スーのアップ。口を半ば開いて扉を見詰めている。背後には緑色の壁。突然何かを右手に認め、そちらのほうを慌てて振り向くニッキー=スー。

このシークエンスには比較的細かいカット割が施されており、かつニッキー=スーの「主観ショット」も多用されていることがわかる。我々は彼女と視点を「共有」しつつ「暗い通路」を観ることになるわけだが、それはカット(12)のクローズ・アップで最高潮に達し、「4-7」という表示のついた扉の重要性が、映像的にも強調されているといえるだろう。

「4-7」という「文字」(あるいは「テクスチャー」)によって表されるものが「匿名性」であり、それがすなわち「一般性/普遍性」につながることについては以前にも何度か触れた。製作が中断された映画作品のタイトルとしてキングズレイによって言及される「4-7(VIER SIEBEN)」(0:33:26)は、まずは「完成しなかった映画作品」の抽象概念であり、「映画」が工業製品であり商品である限りにおいて、リンチにとっては「映画作品一般」とほぼ同義である。同様に、この「『4-7』の扉」によって表されるものも「一般性/普遍性」に関連しているという具合に、とりあえずは捉えておこう。

では、この「暗い通路」に「一般性/普遍性」を表す「4-7」が現れることによって、何が表されているのだろうか。

「スミシーの家」が、「トラブル=機能しない家族」が発生する場所であるという「共通項」において「『家』の抽象概念」の構成要素をなすものであり、他の「家々」とともに「一般性/普遍性」のなかに包括される「個別例」のひとつであることについては、繰り返し述べてきた。であるならば、「この「暗い通路」が、「スミシーの家」とつながると同時に「『4-7』の扉」にもつながっている*ことによって提示されているのは、「個別例」が「普遍」に変容し得る可能性である。というより、「個別例=スミシーの家」と「普遍=4-7」を結合させているのは、この「暗い通路」によって表されるものに他ならない。逆にいえば、それぞれの「個別例」が「普遍化」し「一般性」を獲得するのは、「暗い通路」によって「『4-7』の扉」につながれたときなのだ。これもまたリンチ独特の表現による、「映画」というメディアを介した「感情の共有」あるいは「概念の共有」についての言及であるといえるだろう。

かつ、「映画の魔=ファントム」が「バルト海地方」から姿を消すときにゴーディに向かって発言したとおり、「『インランド・エンパイア』に行く」こと(1:56:08)が最終的な彼の目的であったならば、この「暗い通路」こそが彼の言う「インランド・エンパイア」であるはずだ。ファントムが演技者=ニッキーや受容者=ロスト・ガールの「感情移入=同一化」の深化に対して機能していることに関しては、以前にも述べたとおりである。かつ、彼が演技者=ニッキーの「情緒の記憶」という「私的/個的なもの」を「普遍化」させ、不特定多数の一般的受容者によって「共有」されるものに"変容"させるべく働きかけていることに関してもこの回で記述した。「暗い通路」が「個別例」と「普遍」をつなぐものであるならば、「映画の魔=ファントム」がそこを最終目的地とし、ついにはそこに存在していることはあるいは当たり前といえるだろう。そして、「4-7」の表示がある「扉」の前で、彼とニッキー=スーが邂逅することも、実はおおいに予測されたことなのかもしれない。

上記のようなことを踏まえて考えるなら、ピオトルケが「スミシーの家」の廊下にある「扉」から、おそらくはこの「暗い通路」に足を踏み入れていたであろうことの意味が垣間みえてくる。これもさまざまな形で記述したように、ピオトルケは「夫の抽象概念」として「インランド・エンパイア」に登場している**。演技者=ニッキーの「夫」像(に関するニッキーの「情緒の記憶」)の反映であり、登場人物=スーの「夫」としても機能しているということだ。ある種「普遍化」され「記号化」されたキャラクターとして彼は描かれており、この「扉をくぐるピオトルケ」のカットは、それを補完し説明する役割を果たしている。「普遍なるもの」が「普遍」に通じる「通路」に足を踏み入れる、もしくは「普遍なるもの」が「普遍」に通じる「扉」からやってくる……当該カットによって提示されているのは、そういう事象なのではないか。

という具合にみていく限りにおいて、前述したニッキー=スーのこの「暗い通路」に対する感情の表象……「見通しの悪さ」は、「一般性/普遍性」を獲得することの困難さを表すものとして受け取ることが可能なように思える。すべての作品が(どのような形であれ)「一般性/普遍性」を獲得できるわけではない。もちろん、さまざまな「介入/コントロール」が作品に対して行われるのは、(どのような形であれ)「一般性/普遍性」の獲得を目的としてのことだ。

が、そう考え至るとき、もうひとつの可能性も浮上してくる。もしかしたら、この「暗い通路」の描写は、ニッキー=スーの「心象風景」ではなく、リンチ自身の「映画製作」に対する「感情」の表象なのではないか? 「リンチ・ワン」に現れる「『インランド・エンパイア』製作中の呻吟するリンチ」の姿をみるにつけ、そうした見方もあながち間違いではないように思えてくる。もしそうなのであれば、これもまたリンチの「私的な部分」の投影であるといえそうだ。

*あわせてこの「暗い通路」が、「スミシーの家」はもとより、「階段」を介して「Mr.Kのオフィス」や「映画館」、「撮影ステージ4」や「ハリウッド・ブルバード」など、キーとなるほとんどすべての「場所」とつながっていることも指摘しておきたい。そればかりかこの直後のシークエンスで明らかにされるように、「Rabbitsの部屋」にも、そして「ロスト・ガールがTVモニターを観ている部屋」にさえつながっている。

**リンチがピーター・J・ルーカスをはじめとして、一人の「演技者」に「複数の登場人物」を演じさせていることの意図は、この「抽象概念化」にある。同時に、それはそのまま「演技者=ニッキーが登場人物=スーを演じること」への言及にもなっている。

2008年5月16日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (79)

てなわけで、Linux機からの書き込み第一号(笑)。一応、無線LANカードの認識までは成功したんで、あともう一歩な感じ。乞うご期待(ナニをだ)。

それはそれとして、急行通過待ちの鈍行のごとく、進んだり止まったりチンタラ進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(2:40:58)から(2:42:21)まで。

ついにニッキー=スーは「拳銃=最終的な物語展開」を手に入れ、「インランド・エンパイア」自体も最終的な結末に向かって大きく動き始める。しかし、この後のニッキー=スーの移動経路をみる限りにおいて、「スミシーの家」と「暗い通路」の構造は簡単には理解しがたいものだ。まずはそのあたりを中心に、具体的な映像をみてみよう。

暗い通路 内部
(1)「暗い通路」から「『Axxon N.』の扉」越しのショット。左手に壁時計、真ん中に開かれっぱなしの「『Axxon N.』の扉」、右手に薄汚れた壁。扉越しに「スミシーの家」の内部が見えている。「スミシーの家」の短いほうの廊下の右手から、ニッキー=スーが現れる。扉のところで立ち止まり、リビング・ルームの方向を見る。
(2)「『Axxon N.』の扉」のあたりからのショット。ニッキー=スーはリビング・ルームの方に向かって、ゆっくりと廊下を歩き始める。廊下の途中、右手にある扉の内部に入るニッキー=スー。右にパン。映画館の階段から続く「暗い通路」の壁が見える。次に、そこから左に折れた青い光に照らされている通路が見える。ニッキー=スーのシルエットが青い光の通路を歩いてくる。なおも右へパン。
(3)ニッキー=スーの主観ショット。正面右手に壁時計。右手には通路の壁と閉ざされた「『Axxon N.』の扉」が見える。時計は「12:20」過ぎを指している。
(4)床を見下ろすショット。白と黒の波模様の床が見える。最初はゆっくりと、最後は模様が見えなくなるまで早く、後ろへと流れていく波模様。動きは、柱時計がかかった壁の左手にある開口部まで到達して、止まる。
(5)ニッキー=スーの背後からのミドル・ショット。右手には閉ざされた「『Axxon N.』の扉」、正面には右手に壁時計が掛かった壁。壁の左手には闇に沈んだ通路への開口部がある。その開口部に入っていくニッキー=スー。

位置関係からして、カット(2)でニッキー=スーが入っていくのは、(1:16:27)でピオトルケが入っていった扉だ。居間からの廊下の左手、ベッド・ルームにつながる廊下の手前左側にある扉である。ここまでのシークエンスにおいてニッキー=スーがこの扉の内部に入る映像はなく、その内部に(あるいはその先に)何があるのかを明示する映像も存在していなかった。カット(2)の後半のその扉に入ったニッキー=スーの動きをたどる限り、この扉は再び「映画館」の階段からつながる「通路」に戻っているようにみえる。通路を照らしていた「青い光」は幾分弱まっているようにも思えるが、基本的に以前表れた映像(2:39:03)と酷似している。一見すると、まったく同じ映像がリピートしているだけのようだが、もちろんこれはリピートではないし、ましてや物語記述のための「時系列操作」でもない。後者に関しては、カット(2)が長回しのワン・ショットであり、何の編集も施されていないことからも明瞭である。いずれにせよ、カット(5)をみればわかるように、ニッキー=スーが向かっている先は、柱時計の左にある開口部である。であるならば、最短距離となるのは、先ほど入った「『Axxon N.』の扉」から「スミシーの家」を出ることのはずだ。彼女がそうせず、この「奇妙な経路」を辿る理由は、はたして何なのか?

可能性としてまず考えられるのは、「Axxon N.」の出現ポイントによって表されてきたもの、あるいはその「機能」の問題である。これまでも繰り返し述べてきたように、「Axxon N.」は、演技者=ニッキーの登場人物=スーへの「感情移入=同一化」に対して機能し、必ず「視線の交換」をともなって出現してきた。そのうち、第一および第二の「Axxon N.」が「感情移入=同一化」の成立あるいは深化に関与し、それに対し三度目の「Axxon N.」がその解体に向けて機能していたことは以前にも述べたとおりである。そして、三回目の「Axxon N.」が「視線の交換」を表すシークエンスとの順序において以前二回表れたものと「逆順」になっており、それがゆえに「解体」を表すものとして理解できることについても前々回に触れたとおりだ。この「視線の交換」と「Axxon. N」の「順番」が問題なのであるならば、改めてこの「Axxon N.」の扉をくぐることは、再び「感情移入=同一化」の成立と深化の経路を辿ることになってしまう。である以上、少なくともここでは、ニッキーは「『Axxon N.』の扉」をもう一度くぐることはできないはずだ。

しかし、それよりも検討しなければならないのは、二回目に現れる「通路」が、一回目の「通路」と本当に同一のものであるのか……という素朴な疑問である。

これまた何度触れたように、「スミシーの家」とポーランド・サイドの「建物」は「個別例」と「普遍」の関係にあり、「スミシーの家」は「家の抽象概念=建物」のなかに呑み込まれるものである。それはすなわち、「建物の中に存在する家」の一軒一軒は、「個別例」と「個別例」の関係にあり、それらの一軒一軒と「スミシーの家」は「個別例」として「等価」であるということだ。同じように、カット(2)以降に現れる「通路」も、それ以前に現れた「通路」とは「抽象概念」の構成要素として本質的に「等価」であっても、「個別例」と「個別例」の関係にあるという意味においては、実は異なるものなのではないだろうか? またはカット(5)で見える「『Axxon N.』の扉」もまた別の「『Axxon N.』の扉」であって、その別の「扉」はニッキー=スーの「スミシーの家」ではない別の「家」につながっているのではないだろうか? リンチ作品において、表現主義的な「場所」の扱いが現れること……つまり、登場人物の「感情=内面にあるもの」によって、本来つながらない「場所」同士がつながる例が登場することに関しては、以前にも触れた。これらの事項を前提として捉えるなら、ニッキー=スーが辿る「奇妙な経路」の意味合いが、なんとなくみえてくる。これらの「扉」や「通路」の間にあるのは、やはり「普遍」と「個別例」の関係性、あるいは「個別例」と「個別例」の関係性である。「奇妙な経路」によって表されるものもまた、「家」や「扉」や「通路」がいくつも存在し「抽象概念」を形成しているという多重性であり、リンチ特有の表現主義にもとづくものであるといえる。

この「抽象概念」をキーにして考えるとき、カット(4)の「縞模様の床」、そしてそれを映すカメラ・ワークが、明瞭な意味を持ち始める。「イレイザーヘッド」や「ツイン・ピークス」に現れたのと同様この縞模様によって示唆されるものが、現在我々が観ている「スミシーの家」や「通路」がニッキーの「内面にあるもの」であることならば、それは「拳銃」を手に入れた彼女の「内的変化」にしたがって変容しているはずだと考えられる。そういう意味においても、このカット(2)以降の「通路」は、以前の「通路」と外見上は酷似していても同一のものではない。そして、このシークエンスにおけるニッキー=スーが辿る「奇妙な経路」と、それによって提示される”二つ”の「スミシーの家」と「通路」の関係構造自体が、彼女の「内的変化」を表していることになる。

しかし、だ。「スミシーの家」や「通路」がニッキーの「内面」にあるものであるならば、(1:16:07)のシークエンスにおける、「スミシーの家」の廊下にある扉にスー=ニッキーから隠れるようにしてピオトルケが入って行く映像は、また新たな意味を帯びてくる。

以前から述べているように、「インランド・エンパイア」は徹底的に「女性の視点」で描かれた映画であるのは確かだ。だが、ほんの少し見方を変えるなら、スー=ニッキーにとってピオトルケが「トラブル=機能しない家族」の要因であったように、ピオトルケにとってはスー=ニッキーこそが「トラブル=機能しない家族」の根源であったのではないだろうか? 「Mr.Kのオフィス」におけるスー=ニッキーの「告白」を、今一度、思い起こしてみよう。「酒をおごってもらうために男達といちゃついていた。別にたいしたことじゃない(I was screwing a couple guys for drinks. No big deal)」(1:35:12)という彼女の発言を最大限具象的に捉えるなら、これはピオトルケにとっての「トラブル=機能しない家族」以外の何物でもない。

……と考えると浮上してくるのが、あるいは「スミシーの家」はピオトルケの「内面」でもあり得るのではないかという可能性だ。それを表す映像は「インランド・エンパイア」からは大幅に「省略」されているものの、残された数少ないそれを表す映像が、この「スミシーの家」の廊下にある「扉」をピオトルケがくぐる映像なのではないか……ということである。「扉」をくぐったピオトルケの「行き先」がどこであったか……それは、この後のシークエンスにおいて明らかにされることになるわけだが、その「場所」によって表されるものを考えるとき、こうした捉え方はあるいは重要なポイントとなるはずだ。

同様に、カット(4)のカメラ・ワークが表すものに関しても、この後のシークエンスとの関係性において明らかになる。後のシークエンスで発生する事象が物語るように、「通路」がニッキー=スーの内的変化にしたがって「変容」しているとすれば、それは新たな「目的」へ至る経路としてだ。それを指し示すのが、このカメラ・ワークそのものであり、この後どこに進めばよいのかを彼女に(そして我々に)「示唆」するものであるといえる*。自らが手にした「拳銃」で自分が何をするのか、この時点でニッキー=スーが明確に理解しているのかどうか、映像からは判然としない。が、Mr.Kが自分のオフィスで(2:19:44)、あるいは「無人の映画館」のスクリーン上で(2:37:48)行った「彼はどこか近くにいる(He's around here someplace)」という言及に含まれた示唆によって、ニッキー=スーの「目的」は……つまり、これからとるべき行動は、すでに半ば明示されているのである。

*そういう意味では、この「カメラ・ワーク」自体が「介入/コントロール」の一端である。だが、それは、もはや「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」であるにとどまらず、「インランド・エンパイア」に対する「介入/コントロール」でもあり得る。

2008年5月11日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (78)

何を考えたのかよくわからんが、Linux導入中の大山崎であります。いや、いくらなんでも何を考えてるのかは自分のコトなんでわかってるんですが(笑)、要は古ーいポンコツのノートPCをば復活させられんかなーとか考えたわけでありますけども、これがまた無線LANやら何やらの設定で混迷中だったり。

んなわけでドライバと格闘しつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる日々である。今回は(2:39:54)から(2:40:58)までをば、どうにかしてみる。

「Axxon N.」の扉の内部
(1)
ドアの内側からのショット。ドアの内側の面は白である。ニッキー=スーがドアを細めに空け、内部を覗き込む。やがてドアを大きく開け、左手の方を覗き込む。
(2)ニッキー=スーの主観ショット。暗い廊下の先に、赤いソファと白い光のライト・スタンドが見える。そこは「スミシーの家」のリビング・ルームだ。ということは、暗い廊下は「スミシーの家」の廊下である。
(3)ニッキー=スーのバスト・ショット。彼女は右手の方を見る。
(4)「Axxon N.」の扉の外の通路から、「スミシーの家」の内部へ向けたショット。画面手前の左手の壁には壁時計が、中央には開け放たれた「AxxonN N.」が書かれた扉が、右手には汚れた壁が見える。床には白と黒の波模様が見える。開け放たれた「AxxoN N.」の扉越しに、「スミシーの家」の暗い廊下とリビング・ルームが見える。扉をくぐり、廊下を右手に折れて姿を消すニッキー=スー。

「Axxon N.」と書かれた扉を開いたニッキー=スーは、その中が「スミシーの家」の内部であることを知る。カット(2)が表すように、その暗い廊下の先に見えるのは、赤いソファが置かれた居間である。また、「Axxon N.」が書かれた扉は、たとえば(1:06:45)において現れていた、「スミシーの家」の居間から続く廊下の正面に見える扉であることがわかる。

「スミシーの家」のベッド・ルーム 内部
(5)ニッキー=スーの主観ショット。ベッド・ルームの入り口あたりからのショット。右から左へパン。緑の布カバーに覆われたベッド。ベッドの両側には小さなテーブルが置かれ、それぞれのテーブルの上には円錐型の傘に緑色をした陶器の本体のライト・スタンドが置かれている。ライト・スタンドは両方とも点灯している。一枚の絵がベッドの上の壁に掛けられている。引き続き左へパン。クローゼットの上に置かれた四角い傘に四角い本体のスタンド・ライト。これも点灯している。右手からフレーム内に入ってくるニッキー=スー。彼女の左の肩越しのショットになる。クローゼットに近づくニッキー=スー。一番上の引き出しを開ける。
(6)ニッキー=スーのアップ。箪笥の引き出しの中から見上げるショット。彼女の背後には、ベッド・ルームの白い天井が見える。
(7)ニッキー=スーの主観ショット。引き出しの中には、緑のコートの上に置かれた拳銃が見える。
(8)ニッキー=スーのアップ。まばたきを一度する。
(9)ニッキー=スーの主観ショット。拳銃に向かって延ばされるニッキー=スーの右手。
(10)ニッキー=スーのアップ。顔の上半分は画面から見切れている。首の右側に貼られたバンテージ。
(11)ニッキー=スーの主観ショット。右手で拳銃をとるニッキー=スー。右手の甲には「LB(赤い斜線で消されている)」という文字が見える。取り上げた下には緑色のコートが見える。
(12)ニッキー=スーのアップ。右手に拳銃を持ち、右の方に向くニッキー=スー。拳銃も画面左から右へ振られ、アウト・フォーカスになる。こちらに背中を向けるニッキー=スー。

ニッキー=スーは、「無人の映画館」の「スクリーン上の映像」によって受けた示唆(2:37:54)のとおりに(つまりはMr.Kの「介入/コントロール」によって告げられたとおりに)、「スミシーの家」のベッド・ルームにあるクローゼットの中に、「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」を見つけ出す。その「拳銃」の下にある「緑のコート」は、間違いなく(1:03:11)のシークエンスにおいて、ピオトルケが着ていたものだ。このコートは、「拳銃」とピオトルケの関連性を表すものとして、まずは理解できる。つまり、この「拳銃」はピオトルケによって「スミシーの家」に持ち込まれたものであり、「バルト海地方の家」で老人から渡されたもの(2:03:35)と同一であることの提示である。しかし、より気になるのは、コートそのものよりも、その「色」だろう。

この「緑」のモチーフによって表されるものが何であるか、いろいろな捉え方ができるかと思う。ここでは、「スミシーの家」のなかでも、特にベッド・ルームが「トラブル=機能しない家族」の「根源」が存在する場所として描かれていることを、重視しておきたい*。端的にいうと、「インランド・エンパイア」に限ったとき、「緑」のモチーフによって表されているのは「トラブル」そのものである……というのが個人的な見方だ。

実体化した「スミシーの家」に迷い込んだスー=ニッキーが、居間からまず一番最初に到達するのがこのベッド・ルームである(1:06:06)。スー=ニッキーは、このベッド・ルームに「緑色のカバー」が掛けられたベッドを目にし、それに横たわりライト・スタンドを消すピオトルケを見る。以前にも述べたように、「トラブル=機能しない家族」のかなりの部分が「夫婦間の問題」によって占められ、(その欠落を含めた)「セックスの問題」がからむことはいうまでもない。「緑のカバーを掛けられたベッド」自体がそうした「トラブル=機能しない家族」の根源的な発生を表すものとして現れていることは、たとえば(1:14:35)から(1:15:28)までのシークエンスをみても理解できるだろう。また、ニッキー=スーとデヴォン=ビリーの「情事」が行なわれ、ピオトルケがそれを「目撃」するのも「スミシーの家」のベッド・ルームにおいてであり、当然ながらその「情事」は、同じ「ベッド(の抽象概念)」の上で繰り広げられるのだ(0:56:35)。

話題は今回とりあげているシークエンスから離れるが、前述した(1:03:11)のシークエンスにおいて明示されているように、スー=ニッキーを「スミシーの家」に追い込んだものは、「緑のコート」を着た、当のピオトルケの「視線」そのものである。簡単にいえば、「スミシーの家の外部」にあったはずの「トラブル」が「スミシーの家の内部」にもそのまま存在することを、この(1:03:11)から(1:08:18)までのシークエンスは提示している。注意をひくのは、スー=ニッキーを「スミシーの家」に追い込むピオトルケが、「窓越し」に彼女を見ていることだ。つまり、ピオトルケがいるのも(抽象的なものではあるが)、実は「家」の内部であることをこの映像は表している。この「家」と「スミシーの家」の「位置関係の構造」は、後に現れるポーランド・サイドの「建物」と「スミシーの家」の関係性を表す映像(1:14:35)におけるものと同じなのだ。ただし、そこで表されているのは「普遍」と「個」の関係ではなく、「個(=ニッキー)」と「個(=スー)」の関係である。つまり、そこで表されているのは、やはり演技者=ニッキーが登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を深化させていく過程なのである。

加えて、「スミシーの家」がスー=ニッキーの「内面」をも表していると捉えるとき、そこに「外界」と人間の「内面」の関係性の問題が提示されているのも確かだ。「外界」が「内面」に影響を及ぼすという表現は、たとえば(2:06:16)の「嵐の裏庭」と「雷鳴が轟く居間」のシークエンスにおいても現れており、いうまでもなくこれもまた非常に表現主義的な発想に基づく映像である。そして、「トラブル=機能しない家族」もまた、「外界」で発生する問題であると同時に(あるいはそれ以上に)「内面」で発生する問題でもあることが、(1:03:11)から(1:08:18)までのシークエンスで起きている事象は表しているといえる。

……等々というような事項を念頭においたとき、今回とりあげている(2:39:54)からのシークエンスにおいて、ベッド・ルームのクローゼットによって表されるものが、そしてそこに「拳銃」と「緑のコート」が置かれているのが何故かがみえてくる。このベッド・ルームが「トラブル=機能しない家族」の問題が発生するところとして根源的な場所であるならば、クローゼットはその内部においても、もっとも隠匿された場所であるといえる。その中に置かれているものは「露わにしたくないもの」であり、あるいは「忘れておきたいもの」である。ニッキーにとって露わにしたくないもの……それは彼女自身の「トラブル」を表す「緑のコート」であり、「感情移入=同一化」をしていた間は忘れられていた「物語展開の終結」を表す「拳銃」だ。そして、Mr.Kの「介入/コントロール」の結果とはいえ、ニッキーが「トラブルの根源」であるベッド・ルームに入り、隠匿された場所であるクローゼットから「拳銃」を取り出す行為自体が、彼女の「感情移入=同一化」からの脱却と「(彼女の)現実」への復帰の意思を表しているといえるだろう。

さて、カット(11)に現れるニッキー=スーの右手の甲に書かれた「LB」の文字、そしてそれを取り消すかのように入れられた「赤いスラッシュ」に関しては、いろいろな考察や憶測が飛び交っているようだ。今のところ決定的と思われるような解釈はなく、明確にこれだといえるものは自分にもない。いずれにせよ、こうした表現そのものにリンチの絵画作品との共通点を見出せることだけは確かである。リンチのドローイングの多くに「文字」が散りばめられているが、そうした「文字」は基本的に「言語的な表意」を意図したものではない。それはリンチ自身による「言葉はまた、一つの質感(テクスチャー)でもある」**という言葉にも表されており、つまりリンチの絵画作品における「文字」は、「絵画そのもの」と同様に「視覚に訴えるもの」として、完全に地続きに扱われている。これは「インランド・エンパイア」という映画作品において同様で、そこに現れる「文字」や「数字」も絵画作品と同じく、具体的な「表意」を優先して意図したものではないと考えて差し支えないように思う。

それらの事項を踏まえたうえで、敢えてこの「LB(スラッシュ)」の「表意」を考えてみるなら、たとえば映像ソフトの「レターボックス収録」を指すというのはどうだろうか? であるならば、そこに「取り消し線(スラッシュ)」が必要である理由が納得できるように思われる。非スクイーズ「LB」仕様でのソフトでは、4:3比率のスタンダードサイズのTVモニターならまだしも、16:9比率のモニターでは一層映像の表示領域が小さくなってしまうからだ。少なくとも、それがリンチが唱える「映画=世界の体験」の条件からかけ離れたものであることだけは確かである。

*この後に登場する、ファントムとの遭遇に至るまでの「迷宮めいた場所」の通路の壁も「緑色」である。

**「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」P.294

2008年5月 6日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (77)

結局、ゴールデン・ウィークは近場を徘徊するだけで終わり、ウダウダと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話。んでは、今回は(2:38:51)から(2:39:54)まで。

このシークエンスには本当にいろいろなものが凝縮して提示されており、どこからどういう順番で述べたものか迷うぐらいだ。「階段」「時計」「スミシーの家」……以前から登場していたさまざまなモチーフが、このあたりから雪崩をうって一挙に収斂していく。では、シーンごとに区切って、詳細にみていくことにする。

映画館の階段 内部
(1)
ニッキースーの主観ショット。階上に続く折れ曲がった映画館からの階段。それを上っていく視線。

まず、Mr.Kの誘導によって「無人の映画館」から「スミシーの家」に通じる「階段」をニッキー=スーは上る。当然ながら、この「階段」もまた「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」を表すものであり、「映画館」とこの後に現れる「スミシーの家」との位置関係を明示している。その位置関係からわかるのは、「映画館」が「家」のレベルより「下方」にあること、つまり「ストリート」のレベルにあることである。

映画館の階上 内部
(2)
壁を照らす青色の光。ニッキー=スーの影が左から右へと動く。

また、この「階段」およびそこから続く「通路」自体が「青い光」による青のモチーフが現れており、ニッキーの内面において「感情移入=同一化」がまだ完全に切断されたわけではないことを物語っている。この「青い光」は、次のカット(3)においても継続して現れている。

暗い通路 内部
(3)
下から上を見上げるショット。少しティルト。暗い通路に青色の光が漏れている。ニッキー=スーのシルエットが画面奥から手前へと歩いてくる。右に折れる通路の角で、立ち止まるニッキー=スー。
(4)ニッキー=スーの背後からのショット。
(5)ニッキー=スーの主観ショット。なおも延びる暗い通路。通路の先には、新たなコンクリートの階段があるのが見える。
(6)新たな階段の方を見ているニッキー=スーのアップ。下からあおるショット。
(7)ニッキー=スーの背後からのショット。立ち尽くしたまま、左手の方を見るニッキー=スー。
(8)ニッキー=スーの主観ショット。左から右へパン。大きな壁時計が見える。時計の針は"12:13"をさしている。
(9)ニッキー=スーの右の肩越しのショット。右手に扉が見える。天井からは、平たい円錐形の傘がついた白い光の照明が下げられている。左へパン。ニッキー=スーの右からの横顔のアップになったところでパンが止まる。
(10)ニッキー=スーの主観ショット。鉄製の扉につけられた黒い板。黒い板に白い文字で書かれた「Axxon N.」。文字にズーム・イン。
(11)ミドル・ショット。画面の右寄りにニッキー=スー。真ん中には「Axxon N.」の文字がある扉。左手には壁時計が見える。ニッキー=スーは扉に近づき、それを開ける。床には黒と白の波模様が浮かび上がっている。

カット(5)に、鉄パイプの手すりがついた「別な階段」が認められる。映像から判断する限り、これは(1:21:10)や(2:14:27)に現れる「階段」と同一のものであるように思われ、であるならばこれは「クラブ」から「Mr.Kのオフィス」に達するものである。この後明らかになるように、ニッキー=スーが現在いる「通路」はカット(10)の扉から……「スミシーの家」の廊下にあるこれまで開けられたことのない扉から、その内部に通じている。逆にいえば、「スミシーの家」は「階段」を経由して「映画館」に、「撮影スタジオ」に、ひいては「ストリート」につながっているわけだ。また同時に「Mr.Kのオフィス」にもつながり、最終的には迷宮めいた場所から「47」の表示がついた扉のある「Rabbitsの部屋」や「ロスト・ガールの部屋」にも連結していることが提示される。これらの表現が抽象的なものであり、表現主義的な発想に基づいたものであるのは改めて説明するまでもないだろう。「人間の内面にある感情」に従い、ある場所が物理的時間的制約を越えてさまざまな場所につながる様子を、我々はリンチの過去作品において何度も「体験」してきた。「ヘンリーの部屋」は「ラジエーターの裏にある劇場」につながり、「アンディの家の二階」は「ロスト・ハイウェイ・ホテル」につながる。ここでも「スミシーの家」は演技者=ニッキーの(そして登場人物=スーの)「内面」を表すものとして、「ハリウッド・ブルバード」や「撮影ステージ4」、「クラブ」、「無人の映画館」と併置/対置され、つながる。そして、最終的には一般的受容者=ロスト・ガールによっても、この「スミシーの家」は「共有」されるのだ。

カット(8)に巨大な「柱時計」が登場しているのも注意をひく。間違いなくこれは「腕時計」と同じく「時間のコントロール」のイメージを付随させるものであり、「感情移入=同一化」から脱却しつつあるニッキーが「時間に対する見当識」を回復させていることを示唆している。であるからには、柱時計が告げる現在時間が「12時13分」……「真夜中過ぎ」であることは、まったくもって当然だといえるだろう。「9時45分」から始まった「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」は2時間あまりの「物理的」な上映時間を終え、「無人の映画館」を経て、ニッキーの「内面」における「忘我の時」も終わろうとしている。

カット(10)において、第三の(そして最後の)「Axxon N.」が、「スミシーの家」の廊下へと続く扉の上に発現する。これまでにも繰り返し述べたように、過去二回の「Axxon N.」は、演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」の成立あるいは深化を表すものとして登場してきた。それに対し、この第三の「Axxon N.」は、彼女の「感情移入=同一化」が解体に向かっていることを表すものとして発現している。それを明確に表しているのは、過去の「Axxon N.」において必ずともなわれ、第三の「Axxon N.」にも付随している「視線の交換」を表すシークエンスとの関係である。過去の「Axxon N.」が「視線の交換」に先だって発現したのと異なり、この第三の「Axxon N.」はそれらとは逆の順序で……つまり「無人の映画館」で行なわれた「視線の交換」の後に発現しているのだ。一方の手順が「感情移入=同一化」の「成立/深化」を表すなら、この「リバース」された手順が表すものが「感情移入=同一化」の「解体」でなくてなんだろうか。

カット(11)で明瞭になるように、通路の床にはいつの間にか「縞模様」が浮き出ている。「イレイザーヘッド」を始めとして、リンチ作品には何度も同様の「縞模様の床」が現れているが、これをなにを表すのかは定かではない。おそらくこれも「青のモチーフ」などと同様、リンチの根源的な部分で高度に抽象化されているものであるようだ。あえて「インランド・エンパイア」に限定して捉えるなら、「拳銃」を手に入れた後のニッキー=スーの移動経路と、それによって表される「スミシーの家」と「通路」の関係性がポイントになるように思われる。これについては、当該シークエンスについて述べるときに触れたい。

2008年5月 4日 (日)

「According to... David Lynch」を読む

チンタラ読み進めていたデイヴィッド・リンチ関連本「According to... David Lynch (a selection of his finest quotes)」をば、やっとこさで読了したので、とりあえずご紹介。

acordingDL
タイトルを読んでのごとく、この本は、リンチが1976年から2007年の間にあちこちで発言した言葉を集めた「発言集」である。リンチ自身の発言が約380、それにプラス周辺人物によるリンチに関する発言がおよそ70余り収録されており、テーマ別に12章に分けられているという具合。

当然ながら、TVや新聞やら雑誌やらの取材時に、リンチ自身が実際に発言したものをそのまま引っ張ってきているわけで、「なんかそんなコトを喋ってたなあ」というウロ覚えのリンチ発言を確実な形で確認できるのは、とってもありがたい。このあたりはいわく言い難い部分があるんだけど、「ンなこと、言ってたっけか?」というような、出所が怪しい孫引き曾孫引きの「リンチ発言の引用」がネット上に氾濫してしまっているのも確か。もし、リンチによる発言をナニガシか作品理解の参考資料として使うならば、まずは正確な発言を押さえておきたいわけで、そーゆー時にこの本は役に立つ感じ。

ただし、「資料本」としてこの本をみたとき、リファランス部分が弱いのがちょっと気になるところではある。まあ、こういう類の本は、本当に企画あるいは編者次第で、作りが読者のニーズに合致していれば「いい本」であるわけだけど、外れていれば評価が変わってくるもんだと思う。まったく同じ発言を材料に本を作るとしても、たとえば年代順に並べるのか、作品別に並べるのか、あるいはまったく全然違ったテーマに沿って並べるのか、索引部分をどう作るのか……といった作り方の方針によって、本の性格が変わってしまうからだ。この「According……」についていうなら、どちらかというと編者であるHelen Donlonさんは「読み物」として読まれることを想定していて、資料的に使われることはあまり意識していないという印象を受けた。

そのあたりは、各章の「テーマ」設定にも表れていて、割と編者の感覚的なものに拠っている感じ。たとえば一番最初の章が「Philadelpha」であるのは、そこがリンチの映画製作の出発点であるから理解できるとして、その後の章が「Surrealism and Visions of Lynchland」だったり「American Gothic」だったり、かと思えば「Angels, Demons and Dream Interpretation」なんてな章があったりで、正直なところ、あまり一貫性を感じない。もちろん、こうしたテーマそのものがリンチの発言内容をもとに設定されているのは理解できるし、それがダメってわけではない。だけど、何かに関するリンチの発言をこの本で調べたいと思ったとき、ちょいと捜すのに苦労するのは間違いないのだな。さすがに各章の中では、ある作品に関する発言は一箇所にまとめられてはいるものの、たとえば「インランド・エンパイア」に関する発言をまとめてピックアップしようとすると、ページをめくりまくって全部の章をチェックしなければならないわけで、時間がないときはちょっとイラつく。どっちにせよデータ・ベース的に使うのであれば、紙ベースよりも電子ベースのほうが利便性が高いのは当然なので、この本の電子版が出てくれれば解決する問題ではあるのだけども…… 出ないですかね?(笑)

というような本の構成上のことはともかく、収録されている「発言」自体は、非常に興味深いものが混じっている。たとえば「マルホランド・ドライブ」に登場するカウボーイに関連して、ハリウッドにおけるカウボーイ俳優たちの独特のスタンスというか立ち位置について、リンチは触れている(P96-97)。もちろん、カウボーイ俳優自体が現在のハリウッドではほぼ絶滅していて、あるいはリンチにとって彼らは、フェリーニにとっての道化師たちと同等の存在であるのかもしれないと思ったり。となれば、「マルホランド・ドライブ」に現れるカウボーイに関しても、また違った視点からの解釈ができるかもしれない。

ま、そんなこんなを差し引いても、リンチに関する基礎資料として、この本が有用であることは間違いない。とりあえず各ご家庭に一冊、確保しておくのもおヨロシイんじゃないかと。

P.S. あ、残念ながら、「チーズはミルクから作られる」という発言は収録されていませんでした(笑)。

2008年5月 2日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (76)

なんか「日光江戸村」が外国人観光客獲得に力を入れた結果、業績を伸ばしているという話を聞きました。どーせなら、日本全体を江戸時代風俗にしちゃったら、もっと外国人観光客が増えるかもしれんなあ。国家全体テーマ・パーク化(笑)

閑話休題、では卒爾ながら、「いんらんど・えんぱいあ」における「いめえじの連鎖」を追いかける作業にて候。今回は(2:36:39)より(2:38:51)までをばお伝えする仕儀。

「赤いカーテン」と「白い柱」の通路を通ったニッキー=スーは、大理石の柱の陰から現れる。ここがすでに「映画館」の内部であることは、彼女が左手に姿を消した後に映し出される大理石の壁と白い天井によって明らかだ。次のカットでは、すでに彼女は「無人の映画館」の内部にいる。

その「無人の映画館」で、ニッキー=スーは「スクリーン」に映し出される「映像」を観る。当然ながら、この「スクリーン」は、直前のシークエンスにおいて現れた「TVモニター」と「対置」されるものとして登場している。その「対置性」の前提としてあるのは、「映像を受容する手段」という機能的な意味における両者の「共通性」であり、このシークエンスにおけるニッキーが基本的に「観る者」であることを……つまり、「演技者」というよりはむしろ「受容者」としての存在であることをも伝えている。

その「スクリーン」にまず映し出されているのは、「映画館」に入ってきたニッキー=スー自身である(彼女の「主観ショット」として提示される)。演技者=ニッキーは「自分自身を観る者」になることによって……自らと「視線の交換」を行なうことによって、自分が「観られる者」であることの最終的な認識に至る。この認識に至る「過程/手順」が、直前のシークエンスで受容者=ロスト・ガールが「観る者」として自分を認識するに至る「過程/手順」のまさしく「裏返し」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。

この「映画館」のスクリーンに映し出されている「事象」は、大きく三つのパートに分かれている。まず、それぞれのパートで映し出されているものを具体的に引用したうえで、このシークエンスが表すものについて追いかけてみよう。

パート1
(1)
ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。空っぽの座席の列。スクリーンにはMr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーのアップが映されている。

スー=ニッキー: (スクリーン上で) I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle...
(2)バスト・ショット。スクリーンを見詰めているニッキー=スー。

スー=ニッキー: (画面外のスクリーン上で) watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up.
(画面外のスクリーン上で) [電話のベル]
(3)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。Mr.Kのオフィスの内部がスクリーンに映されている。木の壁の裏に歩いていくMr.K。
(スクリーン上で)[電話のベル]

Mr.K: (画面外のスクリーン上で) Hello?
スクリーン上のシーンが変わる。スー=ニッキーの手に握られたスクリュー・ドライバーのアップ。

Mr.k: (画面外のスクリーン上で) She's still here.
(4)ニッキー=スーのクローズ・アップ。
(5)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。スクリーンにはMr.Kのオフィスにいるスー=ニッキーが映されている。

Mr.K: (画面外のスクリーン上で) Krimp? Yeah, he's around here someplace. that's for sure.
(6)ニッキー=スーのアップ。

パート2
(7)ニッキー=スーの頭の左側からの肩越しのショット。スクリーンには「スミシーの家」のベッド・ルームにいるニッキー=スーの姿が映されている。箪笥の上に置かれた四角い傘に四角い本体のライト・スタンド。箪笥の向かって立っている彼女の姿は逆光になっている。引き出しを開けて、なにやら取り出している様子のニッキー=スー。

パート3
(8)ニッキー=スーのクローズ・アップ。彼女は何やらスクリーンに映し出されたものに反応する。
(9)ニッキー=スーの主観ショット。スクリーンには、この映画館の内部が映されている。いちばん後列の座席の後ろを何者かが歩いている。
(10)ニッキー=スーのクローズ・アップ。スクリーンを見詰め続けている。やがて、彼女は自分の右の方に頭を巡らせる。
(11)ロング・ショット。映画館の内部。何者かの影がいちばん後列の座席の後ろを歩いている。影は柱の後ろを通り、階上への階段の下のところで、階段のほうから射す青い光を浴びつつ立ち止まる。ニッキー=スーの方に向き直る影。どうやら男性らしい。
(12)右を向いたままのニッキー=スーのクローズ・アップ。再びスクリーンを振り返る。
(13)ニッキー=スーの主観ショット。スクリーンでは、扉のところに立ち止まったMr.Kが彼女を見詰めている。
(14)ニッキー=スーのクローズ・アップ。しばらくスクリーンを見詰めた後、右を向きMr.Kの方を見る。
(15)ミドル・ショット。Mr.Kは階段のところからニッキー=スーをしばらく見詰めた後、踵を返して階段を上り始め、姿を消す。
(16)右を向いたままのニッキー=スーのバスト・ショット。彼女は青い上着を脱ぐ。
(17)ニッキー=スーの主観ショット。階段へと続く誰もいない扉、座席の列、映画館の壁
(18)スクリーンには、誰もいない扉と階段が映されている。
(19)映画館の赤い座席の列。ある座席の上に、ニッキー=スーが着ていた青い上着が置かれている。
(20)階上への階段を上っていくニッキー=スーを映しているスクリーン。

文章にしたほうがかえってややこしい感じがしないでもないが(笑)、簡単にいえばパート1では(2:17:48)から(2:19:49)までの「Mr.Kのオフィス」のシークエンスが、パート2では(2:40:28)から(2:40:39)までの「スミシーの家の寝室」のシークエンスが、そしてパート3ではこの「映画館」内で発生している現在の事象が、「映画館」のスクリーンに映写されていることになる。

まず指摘できるのは、この「スクリーン」上に映し出されている「映像」自体がニッキーに対する明確な「介入/コントロール」であり、彼女がこれからとるべき行動を「ロジカル」に伝えるべく「構成」されているということだ。すなわち、三つのパートの「スクリーン上の映像」は、それぞれ「彼女がおかれている状況」「状況を終結させるための手段」「手段を手に入れるための方法」を表しており、「因果律」をもって提示されているのである。「映画の魔(法)=ファントム」がどこか近くにいる状況があり、その魔法から逃れるためには彼を消滅させなければならず、その手段である「拳銃」は「スミシーの家」のベッド・ルームに置かれていて、(後に明示されるように)「スミシーの家」はMr.Kが導く「階段」の先にある。より具体的な言葉に置き換えるなら、受容者あるいは演技者によって獲得された「感情移入=同一化」は、「物語」が「終結」を迎えることによって強制的に破られる……ということを「スクリーン上の映像」は伝えているのだ。

だが、ここで思い至るののは、その「終結」自体も(どのような形であれ)「作品」にあらかじめ内包されているはずだということである。加えて、よほどの例外を除いて*、その内包された「終結」もまた「物語」そのものによって、我々=受容者に伝えられる……そう、ちょうど「拳銃=最終的な物語展開」が、「スミシーの家=受容者の内面」のクローゼットに持ち込まれていたように(2:40:41)。当然ながら、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入/コントロール」がMr.K/ウサギたち/老人たちによって行なわれる限り、途中の「物語展開」や「心理展開」に対するのと同じく、「終結」もまた彼/彼女たちのコントロール下にあるのは当然である。そもそも「拳銃」が老人たちによってピオトルケに手渡されるのは(2:03:34)、そうした意味合いにおいてに他ならない。同様に、この「映画館」のシークエンスにおいても、Mr.Kが付随させる「介入/コントロール」のイメージは明瞭である。あるいは、この「映画館」によって表されるもの自体が、彼のコントロール下にあるといえるだろう。

そして、ニッキーが「青い上着」を脱ぎ、それを「赤い座席」に置いたいま……「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」と「心理展開」が最後の「合致」を達成し「終結」したことが彼女に了解されたいま、Mr.K/ウサギたち/老人たちによる「ON HIGH」に対する「介入/コントロール」もまた、「終結」することになる。

まったく別な見方をするなら、(「インランド・エンパイア」内における)「過去」「未来」「現在」という順に、「時系列」の入れ替えをともなって提示される「スクリーン上の映像」は、そのまま「映画製作」における「どのような順番に従って撮影されるか」の問題であり得るし、「フラッシュ・バック」等の「作品内の時間経過に対するコントロール」の問題であり得るし、あるいは受容者の「感情移入=同一化」の結果もたらされる「時間に対する見当識の失当」の問題でもあり得る。そのいずれであるにせよ、これもまた「映画」による「映画の記述」であり得ることは間違いない。

また、パート1およびパート2においては、スクリーン(とそれに映し出されている「映像」)は必ずニッキー=スーの肩越しに、映されている(カット(1)(3)(5)(7))。つまり、あくまで「客観視点」によって描かれているということだ(リンチ作品における「客観視点」がどのような意味を持つかは別として、だ)。ところが、パート3においては、スクリーン(および、それに映し出されている「映像」)は、ニッキー=スーの「主観ショット」として表れている(カット(9)(13)(18))。この表現は、ニッキー=スーが「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「終結」を明瞭にその内面で了解したことの強調としてまずは機能しているといえる。が、同時に、我々=受容者がニッキー=スーと「視線」をいまだ「共有」していることの証明として、この「主観ショット」は存在しているともいえるだろう。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語はその終結を迎えたが、「インランド・エンパイア」という作品が終わるのは、まだまだ先の話だ。

問題なのは、カット(20)である。すでにニッキー=スーはMr.Kの後を追って階段に向かい、スクリーンへ「視線」を向けるのをやめている。となると、このカット(20)において、「スクリーンの映像」を観ている者は、はたして誰なのか? そう、今まさに「インランド・エンパイア」を受容している「我々」しかいないのだ。いちばん最初の「スクリーンの映像」が「映画館に入ってきたニッキー=スー」だったこと、そしてそれが彼女の「主観ショット」として提示されたことを思い出してみよう。このカット(20)はその「ニッキー=スーの主観ショット」と対応するものであり、この瞬間、我々は「『インランド・エンパイア』の登場人物」としてのニッキーから「視線」を引き継いだのである。これもまた、非常に巧妙な「表現」だ。この直前のシークエンスをも含め、ここで主に描かれているのが「視線の問題」であると捉える限りにおいて、このカット(20)の「表現」自体が、「映画というメディア」が備える「登場人物と受容者による『視線の共有』」についての言及に他ならない。そして、この「視線の共有」こそが、「映画」が他のメディアに対して「感情移入装置」としての優位性を確保している「特性」のひとつであることは、いまさら繰り返すまでもないだろう。

*数少ない「例外」として思い当たるのが、たとえばコルタサルの小説作品「石蹴り遊び」だ。小説分野でいえば、以前にも触れたウイリアム・S・バロウズの諸作品やJ・G・バラードのコンデスド・ノベル、それに筒井康隆の短編「マグロマル」などの非ナラティヴな作品群も、基本的にその「終結」を規定するのは「原稿枚数」という物理的な要素しかないはずだという点で、もちろん「例外」だといえる。

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

最近のトラックバック