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2008年4月29日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (75)

暦どおりの休みどころか、休日出勤だった大山崎でございます。わはは、見通しが甘かったなあ。まあ、計画性がなくて行き当たりばったりなのは、いつものことですが。ほんでは、これまた無計画に進む「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(2:32:15)から(2:36:39)まで。

このシークエンスの最初で……正確にいえば直前のシークエンスの最後のショットの途中で、視点が後退していくにつれて画面に(フェイクの)カメラが映し出され、今まで我々が「作品内現実」として受容していた「スー=ニッキーの死」が「フェイク=作品内非現実」であったことが明示される。今まで何度も「作品内現実のフェイク=作品内非現実」としての撮影シーンが提示されてきたのにもかかわらず、この「フェイクのカメラ」を目にするまで、「ハリウッド・ブルバード」のシークエンス自体が「フェイク」であることに我々は気づけない。演技者=ニッキーによる登場人物=スーへの「同一化=混乱」と、受容者=我々による登場人物スーに対しての「感情移入=同一化」が、実は「同質」のものであることがこの一連のシークエンスによって暴かれる。

細かいところでいえば、撮影が終わった後も、浮浪者(の演技者)たちは横たわっているニッキー=スーを「放置」するばかりか、浮浪者1と浮浪者3に至っては彼女をまたぎさえする始末である。この彼女/彼たちのスー=ニッキーへの「関知」の低さは、徹底的だ。気になるのが、キンクズレイ監督が持っていたメガホンに、「K」のイニシャルが書かれていることである。これは容易にキングズレイと「Mr.K」との関連性を連想させるが、いうれにせよこの両者が「介入/コントロール」イメージを付随させているという共通性を備えているのは確かだ。かつ、キングズレイの職業である「映画監督」という立場自体が「動物=自律性を保持しつつ、他者のコントロールを受けるもの」であるなら、ウサギたちとの関連性をうかがわせる「Mr.K」自身も(文字どおりの)「動物」であるという点で、まったく「等価」な存在であるといえるだろう。

クランク・アップした後も、ニッキー=スーはキングズレイを始めとするスタッフたちの称賛に応えようともしない。メイクのスタッフに顔を直してもらったり、男性スタッフから渡された青い上着をはおったりはするものの、追いかけてきたキングズレイの賛辞や抱擁にも反応を示さない。ニッキー=スーの、いや演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」は継続しており、彼女の「時間や空間に対する見当識」は失当したままであることがうかがえる。興味深いのは、ニッキー=スーが一度女性スタッフ手渡されかけたローブを断り、その後男性スタッフから「青い上着」を着せ掛けられていることだ。この後の「無人の映画館」の「赤い座席」と対置されるものとしてこの「青い上着」が用いられていることを考えると、このニッキー=スーの選択自体に明らかにリンチの意図が感じられる。このローブが、(2:06:30)の「スミシーの家」のリビングルームでスー=ニッキーが着用しているものと同一なのかどうか映像からは判別がつかない。だが、もし同一であるならば、このローブを断る行為自体が、あるいはニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の解体を示すものだとも受け取れなくもない。

これ以降、(2:35:49)からしばらく、「インランド・エンパイア」が提示するのは、演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」が解体されていき、スー=ニッキーが演技者=ニッキーと登場人物=スーに再び分化していく過程である。そして、そこでも「観る者」と「観られる者」の関係……すなわち「視線の問題」が介在しているのは、以前にも述べたとおりだ。では、まず第一の「視線の問題」が表出するシークエンスを……ニッキー=スーとロスト・ガールによる「視線の交換」を、具体的な映像を追いかける形でみてみよう。

撮影ステージ4 外部 (夜)
(1)ステージの外壁を下方にパン。「4」という表示から、少し開けられたステージの扉まで。ニッキー=スーが開けられた扉のところに歩いてくる。
(2)ニッキー=スーのバスト・ショット。扉のところから外を見回す。
(3)ニッキー=スーの主観ショット。右へパン。道路を挟んで向かい側にあるステージの建物が見える。右手にはステージ5がある。その前にはバンが駐車している。ステージ5とその右隣のステージ6の間には、廃棄物の大きな収集容器がある。引き続き右へパン。少し開けられたステージ6の扉。ステージ6の前にもバンが駐車している。ニッキー=スーの前にも廃棄物収集容器が。
(4)ステージ4の扉のところからステージ6を見上げるニッキー=スー。何かを感じ取り、まっすぐにこちらを見る。

ロスト・ガールの部屋 内部
(5)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。
(6)ロスト・ガールの部屋にあるモニターのアップ。画面には、ニッキー=スーがモニターの中からロスト・ガールの方を見ている映像が映し出されている。
(7)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。

ステージ4 外部 (夜)
(8)ステージ4の扉のところにいるニッキー=スーのバスト・ショット。しばらくこちらを見詰めた後、右の方を向く。

ロスト・ガールの部屋 内部
(9)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。

ステージ4 外部 (夜)
(10)ステージ4の外に出るニッキー=スー。ローマ風の柱と赤いカーテンが見える(カット(1)-(4)では存在せず)。柱とカーテンの間を通り、左手の画面外に消えるニッキー=スー。

カット(1)によって「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影が行なわれていた場所が「ステージ4」であったことが、その建物の扉にある「4」という数字によって明示される。これまでもみてきたように、「インランド・エンパイア」には何度となく「4」のついた数字が登場してきた。「中断された映画」のタイトルとして提示された「4-7」、ポーランド・サイドのロスト・ガールの「家」がある建物の表示「40」など、どれも「普遍」「一般性」あるいは「抽象性」を表す記号として「4」のつく数字は登場している。ここでも、この撮影ステージが「抽象的な場所」として、つまり「撮影ステージの抽象概念」として登場していることが、この「4」という表示番号によって表されている。そのことは、カット(3)において、他の番号表示がついたいくつかの撮影ステージがニッキーの主観ショットによって提示されることによっても、明らかだ。たとえば(1:14:39)における「建物」のショットと、このカット(3)は同一の構造を備えている。ロコモーション・ガールによってポーランド・サイドに誘導されたスー=ニッキーが、「ストリート」を挟んて向かいの「建物」を望むショットによって表象されていたのは、「不特定多数の家=普遍」と「スミシーの家=個別例」の関係性だった。このカット(3)においても、「他の撮影ステージ」と「ステージ4」が「普遍」と「個別例」の関係にあること、そしてどちらも「撮影ステージ」という抽象概念の構成要素であることが表されている。「家」の中で発生している事象がすべて等価であるように、これらの「撮影ステージ」の内部で起きている事象もやはり「等価」であり、そこにはまた別のニッキーやスーがいる可能性が暗示されているのだ。

ついで、カット(4)でニッキー=スーが何かを感知して、画面のほうに(つまり我々のほうに)「視線」を向ける。その先にあるものはロスト・ガールの「視線」であることが次のカット(5)で明らかにされ、カット(6)ではこの二人が「モニター画面」を介在させた「視線の交換」を行なっていることが提示される。第一義的に捉えるなら、これは「観る者」「観られる者」の関係性が、つまり「受容者」と「登場人物=演技者」の関係性が、この両者によって認識されたことを表すものだ。言葉をかえれば、今まで「感情移入=同一化」によって「受容者=登場人物=演技者」という具合に完全な等号で結ばれていた関係性が、ここにきて崩れ始めるのである。そうした観点に立ったとき、カット(4)のニッキー=スーが「我々」のほうに「視線」を向けるという表現そのものにも、巧妙なものを感ずにはいられない。このショットによって、我々は気づいてしまうのだ……「インランド・エンパイア」を観ている「我々自身」と「ロスト・ガール」は「不特定多数の受容者」として「等価」であり、「我々自身」もまた「一般的受容者の抽象概念」のなかに呑み込まれる存在であることを。

続いてカット(8)では、ニッキー=スーが右手を向き、ロスト・ガールとの「視線の交換」は切断される。その視線の先にあるものは、以降のシークエンスで提示されるように、「映画館」に通じる階段へと続く通路である。ニッキーが獲得した「観られる者」としての認識を土台として、「イメージの連鎖」はTVモニターという「観られる場所」から離れ、彼女の本来の「観られる場所」……つまり(リンチにとって)本来「映画」が観られる場所である「映画館」へと移行していくのだ。

同様に、ロスト・ガールの「感情移入=同一化」も変容していくであろうことが、カット(9)の映像によって示される。彼女の「視線の交換」による「観る者」としての認識の獲得は、ある意味で皮肉ですらある。ロスト・ガールは自らが「観る者」であることを、TVモニター越しにニッキー=スーによって観られること……つまり、「観られる者」になることをとおして獲得しているからだ。ちょうど我々がスー=ニッキーに対して「感情移入=同一化」していることを、その「感情移入=同一化」を切断されることによって認識したのと同じく、ロスト・ガールは観られることによって逆に自分が「観る者」であることを確認する。

カット(10)では、「赤いカーテン」と「白い柱」が突如として登場する。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影現場として具象的に理解できるかと思った「ステージ4」も実は抽象的な場所であり、「心象風景」であったことがこの映像によって明示される。この「赤」のモチーフについてはもう詳述しないが、当然ながらこの「赤いカーテン」はクラブの裏通路に下がっていたものと「等価」である。そのクラブがカロリーナを始めとする「誘導」のイメージや「中間地点」のイメージを付随させていたことを考えるなら、ここで現れる「赤いカーテン」もまたニッキー=スーを「無人の映画館」に誘導するものとして捉えられるだろう。「白い柱」は次の「無人の映画館」のシークエンスやロスト・ガールがTVモニターを観ている部屋にも認められ(2:47:56)、映画館とその部屋が「観る場所」としての共通性を備えていることを表すとともに、「中間地点」としてのこの「通路」の性格を伝えているといえる。

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コメント

全記事を楽しく、かつ驚嘆の思いで拝読しております。
劇中に登場する数字ですが、スタジオ「4」内のセットに「7」が現れる場面がありますね。
助監督のフレディー・ハワードが金を無心するシークエンス。デレクターズ・チェアに座ってるデヴォンとフレディーの後ろの壁に、くっきりと「7」が描かれてます。
「47」なのか、それとも「4-7」なのか?
改めてそれも検証しなくてはなりませんが(セリフでは「フォーティーセブン」ではなく「フォー・セブン」ですが・・)、
4と7はそれぞれ別の何かを表象するものと考えた方が良いのかも知れませんね。
47というと割り切れない素数で、「47+2=49 47×2=94」というのも何だか考えてみると臭い(苦笑)。 
ま、考え始めると切りがないですが・・・。

連投、恐縮です。
劇中でもっぱら印象的な色は赤と青な訳ですが、
大山崎さんも書かれてる通り、緑が出て来る場面が2つありますね。
一つは、スー=ニッキーが逃げ込んだクラブでカロリーナと思しき女性に示される緑の「EXIT」。
も一つは、ピオトルケ=クロルが着ていた緑のジャケット。
「EXIT」の解釈は字義通り、逃避・避退・回避なんだとすると、スタジオ4でに現れるジャケット姿の意味は、「そっちに行くな。危ない」という意味だったんでしょうかねぇ??
そして、ジャケットの上に置かれた銃でファントムを打倒して大団円という結末を見ると、緑は「解放と昇華」を表象する色なんでしょうか?

あ、ありますね、「スタジオ4」の「7」。見落としてました。ありがとうございます。これは面白い。

実は「スミシーの家」の寝室にあるベッドのカバーも「緑」なんですよね。ピオトルケの緑のコートとあわせて考えると、またいろいろな解釈ができそうです。

その他にも、いろいろ勘違いや見落としがあるかと思いますので、どうぞよろしく(笑)。

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