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2008年4月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (74)

ゴールデン・ウィーク突入にも関係なく進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。マコトにもって季節感に乏しいブログであるなあ……と我ながら感心したり呆れたり(笑)。今回も前回と同じく(2:23:26)から(2:32:06)までのシークエンスのうち、(2:29:18)からのパート3をば分解したり組み立てたり。

そして、三つ目のパートで提示されているのは、「スー=ニッキーの(フェイクの)死」だ。かなり長くなってしまうが、パート1およびパート2との比較検証のために、あえて省略せずに引用してみる。

(38)歩道によつんばいになるスー=ニッキー。
(39)浮浪者1のアップからクローズ・アップへ。
(40)スー=ニッキーと浮浪者1のツー・ショット。.歩道に血を吐くスー=ニッキー。
(41)浮浪者1のアップ。彼女にクローズ・アップ。彼女は血を吐くスー=ニッキーを見詰めている。
(42)なおも血を吐くスー=ニッキー。
(43)浮浪者2のバスト・ショット。フレームの右寄り。彼女もスー=ニッキーを見詰めている。
(44)浮浪者1のアップ。
(45)ミドル・ショット。閉ざされたシャッターの前の浮浪者1、スー=ニッキー、浮浪者2、浮浪者3。スー=ニッキーが体を横転させて、また仰向けになる。浮浪者1の枕に頭を乗せるスー=ニッキー。
(46)浮浪者1のアップ。彼女はスー=ニッキーを見ている。
(47)浮浪者2と浮浪者3のアップ。彼らもスー=ニッキーを見ている。
(48)上方からの浮浪者1とスー=ニッキーのツー・ショット。スー=ニッキーにクローズ・アップ。腹部を押さえながら上方を見詰め、あえいでいるスー=ニッキー。
スー=ニッキー: [うめき声]
(49)浮浪者2と浮浪者3のアップ。スー=ニッキーを見守っている。
(50)浮浪者1とスー=ニッキーのツー・ショット。 血で汚れた口を弱々しく動かすスー=ニッキー。浮浪者1がやさしくスー=ニッキーの髪に触れる。
浮浪者1: It's okay. You dyin' is all.
スー=ニッキーの顔のクローズ・アップへパン。
(51)浮浪者1のアップ。顔を伏せたあと、再びスー=ニッキーを見詰める。
(52)スー=ニッキーのアップ。彼女の顔の前に延ばされた浮浪者1の手。その手には使い捨てライターが握られている。ライターの火をつける浮浪者1。それに本能的に反応してスー=ニッキーは少し頭をひき、急なまばたきを二回する。
(53)浮浪者1のアップからスー=ニッキーのアップにパン。ライターの火がほのかにスー=ニッキーの顔を照らしている。スー=ニッキーはゆっくりと頭を動かしてライターの炎を見ようとする。
(54)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: I'll show you light now.
(55)スー=ニッキーのアップ。ライターの炎を見詰めつづけている。
浮浪者1: (画面外から) It burns bright forever.
(56)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: No more blue tomorrows.
(57)スー=ニッキーのアップ。ライターの炎を見詰めつづけている。
(58)浮浪者2と浮浪者3のアップ。二人はスー=ニッキーと浮浪者1を見詰めている。
(59)浮浪者1とスー=ニッキーのアップ。
浮浪者1: You on a high now, love.
(60)浮浪者3のアップ。彼は浮浪者2とスー=ニッキーを見詰めている。
(61)スー=ニッキーの顔の前のライターの炎と、ライターを握った浮浪者1の手のアップ。
(62)浮浪者1のアップ。
(63)スー=ニッキーの顔とライターの炎のアップ。口を開け、目を閉じるスー=ニッキー。ライターの火を消す浮浪者1。頭を少し右に倒して、息をひきとるスー=ニッキー。ライターを持つ浮浪者2手とスー=ニッキーの顔にパン。浮浪者1の手が左手に引っ込み、画面外に消える。
(64)浮浪者2と浮浪者3のアップ。スー=ニッキーを見詰めている浮浪者2。

さて、他のパートとの比較においてパート3をみたとき、顕著に認められる相違点が、スー=ニッキーが現れるショットの「頻度」である。具体的にあげるなら、パート1ではスー=ニッキーが映像として登場するのは6カット、パート2では1カットであるのに対し、パート3では13カットに及ぶ。少しでもスー=ニッキーが映されているカット数をパーセンテージでみるなら、パート1で約29%、パート2で約6%、パート3で約53%といった具合だ。

このようにして観る限りでは、パート1とパート2では、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の主人公であるはずのスー(そしてニッキー)が、一般的受容者である浮浪者たちから(そして「インランド・エンパイア」という作品自体から)あまり「関与」されていないこと、特にパート2では「放置」に近い扱いを受けていることがわかる。スー=ニッキーと三人の浮浪者たちの間には「会話」もなく、「視線の交換」すら行なわない。ほとんどのショットでスー=ニッキーは上方を見たままなので、彼女は浮浪者たちから一方的に「観られる」ばかりである。

敢えて抽象的に捉えるなら、これらの諸表現もまた「観られる者」としてのスー=ニッキー(登場人物=演技者)の表れであり、かつ浮浪者たちが付随させる「傍観者のイメージ」の表れである。しかも、腹部から血を流して倒れているスー=ニッキーに向かって「あんた、死にかけてるよ(You dyin', lady)」とまったく無表情に浮浪者1が声をかけたきり、目の前の出来事とは関係のない会話を続ける彼女たちの姿は、どう考えても「積極的な受容者」ではなく、どちらかといえば、自宅のTVモニターで(映画を含む)番組を眺めながらあれこれと会話を交わす、「受動的な視聴者」に近いものを思わせる。もしそうあるならば、これもまた、「インランド・エンパイア」が描く「映画受容の形の変化」……「映画館での鑑賞」から「自宅での視聴」への移行……を表す映像のひとつであることになる。

となると、感じずにはいられないのが、同じく「不特定多数の一般的受容者」の表れであるはずのロスト・ガールと、浮浪者たちの「受容姿勢の落差」だ。TVモニターで「映画」を受容」をしつつも、ロスト・ガールが涙を流すほど「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語に(そしてスーザンに)「感情移入=同一化」を果たしているのに対し、浮浪者たちはそこまで至っていないことをその「関与」の薄さで露にしている。この「差異」が、まさしく浮浪者たちが話していた「ポモナ行きのバスがあるかないか」=「『感情移入=同一化』の程度の差異」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。浮浪者たちは、「台詞」だけでなくその「行為」によっても、受容者各人によって程度が異なる(=バスが存在したりしなかったりする)「感情移入=同一化」の問題について提示しているのである。

そのことは、このパートにおいても、絶命しつつあるスー=ニッキーへの浮浪者たちの反応がバラバラであることによって表されている。さて、三人の浮浪者たちのなかで、誰がもっとも深く「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に「感情移入=同一化」しているのだろうか?

パート3のカット(45)以降を観る限り、三人のなかでスー=ニッキーに(それは、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に、ということだが)もっとも関与しているのは、浮浪者3であるようにみえる。「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」と捉えるとき、カット(63)で浮浪者1が絶命するスー=ニッキーにライターの炎を見せる行為からまず思い当たるのは、「映画の物理的成立要素」……すなわち「光と影」のことだ。少なくとも、「映画館」での上映という形で「映画」というメディアが存続する限り、その「(アーク・ライトの)光」は永遠である。そして、ライターの火が消され、「光」が消滅することは、すなわち「映画作品の終わり」を意味すること、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が完結したことの表れとして捉えられる。だが、「受動的な視聴者」として浮浪者1を位置付けたとき、この「ライターの炎を消す行為」が「TVモニターの電源をリモコンで消す行為」に重なってみえるのは、うがちすぎだろうか? いずれにせよ、同じく「一般的受容者」であるロスト・ガールがTVモニターを通じての受容を行ない、その画面上に映し出される映像がザッピングされたり早送りされたりしている(0:03:21)のに対し、「インランド・エンパイア」において「映画館」で映像を観ている直接描写があるのは、(2:36:49)におけるスー=ニッキーだけであるのは確かなのだ。

浮浪者1が言及する「もう憂鬱な明日はこない」「あなたは高いところにいるのだから」という台詞は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」が内包する「物語」の中のものとして、つまり登場人物=スーに対して発せられたものとして、まずは具象的に理解されるかもしれない。だが、同時に、「インランド・エンパイア」が抱える抽象性を考えたとき、また別な意味をもって登場人物=スーに向けられていると考えられることは、結末近く、「Rabbitsの部屋」に立ち尽くす登場人物=スーの姿によって明らかにされる。また同時に、この言及が演技者=ニッキーにも向けられたものであることは、結末近くおよびエンド・ロールに現れる「青いドレス姿のニッキー」によって明らかにされる。これらの事項については、該当するシークエンスについて触れる際に詳述したいと思う。

(というわけで、やっとこの項、おしまい)

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コメント

楽しく拝見しました。
ところで、「ON HIGH IN THE BLUE OMORROWS」の作者はLawrence Ashtonと作品中の映像から見て取れましたが、ローレンス・アシュトンなる人物について何かご存知でしょうか?

コメントありがとうございます。

結論からいうと、今のところよくわかりません。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」というタイトル自体が、おそらくドロシー・ラムーアの「Beyond the Blue Horizon」(1942)から引っ張ってきているので、彼女の周辺人物かなと疑ってみたんですが。そちら方面では手掛かりなしです。

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