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2008年4月23日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (73)

世の中はもーすぐゴールデン・ウィークであるらしいのだが、今のとこ、なーんも予定がない大山崎であります。うーむ、暦どおりに出社な予感がしますでございますなあ、これは。てな私事はさておき、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話の続き。前回と同じく(2:23:26)から(2:32:23)まで。このシークエンスが大きく三つのパートに分けられると思われるのは前回述べたとおりで、今回はそのパート2(2:26:38)をば、いじくりたおしてみる。

さてこのパート2で主に提示されているのは、浮浪者2によってなされる「友人Niko」に関する言及である。まずは、これに関係した具体的映像および台詞を引用してみよう。

(20)浮浪者2: I went on the bus to Pomona last summer...
(21)スー=ニッキーのアップ。苦悶の表情。
浮浪者2: (画面外で) to visit my friend who lives there.
(22)浮浪者2:
(微笑みながら) Her name is Niko, I stayed for two weeks.
(23)浮浪者1:
My cousin comes from Pomona.
(24)浮浪者2のアップ。
(25)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: She has a place there and said I can stay there. (少し黙ってから) What time is it?
(26)浮浪者2:
I don't know... it's after midnight.
(27)浮浪者1:
After midnight?
(28)浮浪者2:
My friend Niko... who lives in Pomona has a blonde wig... she wears it at parties... but she is on hard drug and turning tricks now.
(29)浮浪者1のアップ。
浮浪者2: (画面外で) She looks very good in her blonde wig...
(30)浮浪者2:
just like a movie star. Even girls fall in love with her... when she is looking so good... in her blonde star wig. She blows kisses and laughs... but she has got a hole in her vagina wall...  [自動車の通行音] she has torn a hole into her intestine from her vagina.
浮浪者3: (背後から浮浪者2に) Shit, baby.

彼を振り返る浮浪者2。浮浪者3にパン。
浮浪者3: Why you tell us that shit.
(31)浮浪者2のアップ。浮浪者3を振り返った後、顔を伏せ気味に正面を向く。
浮浪者2: (再び浮浪者3を振り返りながら) She has seen a doctor, (前を向いて) but it is too expensive... and now she knows her time has run out.
(32)浮浪者1のアップ。
(33)浮浪者2:
She score a few more times... and then, like that... she will stay her home with monkey... (浮浪者3を振り返って) she has a pet monkey...  (再び正面を向き) This monkey shit everywhere, but she doesn't care...
(34)浮浪者1のアップ。
(35)浮浪者2:
This monkey can scream... it scream like it in a horror movie. (浮浪者3を振り返る)
(36)横たわっているスー=ニッキーの上方からのバスト・ショット。身を起こしてよつんばいになろうとしている。
(37)浮浪者2:
But there are those who are good with animals... who have a way with animals...

といった具合に、前パートの「ポモナ行きのバス」からの続きとして、浮浪者2による「ポモナに住む友人Niko」についての言及が行なわれている。このNikoに関するものとして述べられる「(偽)ブロンド嗜好」や「同性愛」、そして「薬物」や「性障害」などといった事象が、いわゆる「ハリウッド伝説」の構成要素を指し示していることは容易に想像がつく。リンチ作品においては、たとえばラジエーター・ガールやミステリー・マン等のように、ある「概念」が「登場人物」の形をとって現れることがあることを考え合わせると、この「友人Niko」を「『ハリウッド伝説』の抽象概念」を表す存在として捉えるのは、決して的外れではないはずだ。

と同時に、このあたりから、「三人の浮浪者たち」によって表されるものがなんであるか自体が、ぼんやりと立ち表れてくる。結論からいうと、彼女/彼たちは、「不特定多数の受容者」の抽象概念の一部として(つまりその「個別例」として)描かれているのだ。そもそも彼女/彼たちが「ヴァイン・ストリート」の歩道に(そしてそこに埋め込まれた「星々」の前に)、何をするでもなくあるいは寝そべりあるいは座り込んでいる映像から読み取れるのは、彼女/彼たちが付属させる「傍観者」のイメージだ。かつ、(25)で浮浪者1が「時刻」を尋ね、(26)で浮浪者2が「わからないけど、真夜中過ぎ」と答えることに表れているように、彼女たちが「感情移入=同一化」に起因する「時間に対する見当識の失当」を抱えていることも明らかである。前パートで浮浪者たちが議論していた対象が、決して「特定の人物」に帰属する「乗用車」ではなく「不特定多数の乗客」が乗る「バス」であることも、彼女/彼たちの「不特定性」「一般性」の表れとといえるだろう。

もし、この浮浪者たちを「不特定多数の一般的受容者」の一員とみるなら、当然ながら彼女/彼たちはロスト・ガールと「等価」であり、「併置」あるいは「対置」される存在であることになる。とはいえ、具体的な映像から読み取る限り、ロスト・ガールと浮浪者たちの間の差異はある意味で明瞭だ。その外見が表すように、彼女/彼たちは基本的にマイノリティに属し、それは浮浪者1と浮浪者2が話す「ブロークンな黒人英語」と「日本語訛りの英語」という形でも表れている。当然ながらこの「亜-異言語」は「成立しない会話」のヴァリエーションであるわけだが、このシークエンスにおいてより重要なのは、「英語すらも怪しい」浮浪者が……わざわざ[speaking English]とテロップが出るほどおぼつかない英語をしゃべる浮浪者2が、「友人Niko=ハリウッド伝説の混交物」について延々と語り続けるという表現そのものだ。こうした表現を通じて読み取れるのは、「ハリウッド映画の世界覇権(あるいは世界標準化)」および「その関連情報の拡散/伝播」である。後者が、前述したロスト・ガールに対する「マリリン・レーヴェンス・ショー」との係わりとも関係しているのはいうまでもない。「作品そのもの」あるいは「作品に関する情報」だけではなく(あるいはその一部として)、それに出演する「演技者=スターたちに関する情報」もまた伝播されると同時に共有され、場合によっては「伝説」と化して「感情移入=同一化」の対象となるのだ。この観点に照らすなら、前述した「成立しない会話」のモチーフも、このシークエンスにおいてはまた別な意味合いを帯びてくることになる。それはすなわち、「ハリウッド映画」が相互コミニュケーションも怪しいような幅広い層に受容されていることを補強する表現だ。

その一方で、浮浪者2にとって関心の対象となりうる「ハリウッド伝説」も、(30)の発言にあるように、浮浪者3にとっては「ヨタ話(shit)」でしかない。「作品に対する感情移入」と同じく、「ハリウッド伝説」もまた「ポモナ=感情移入の成立するところ」あるいは「インランド・エンパイア地区=受容者の内面」の領域に成立するものである限り、それを共有できる者とできない者がいるのは当然といえば当然なのだ。そう考えるとき、「見掛け上の問題」や「言語の問題」に留まらない、ロスト・ガールと浮浪者たちの「受容者としての差異」がみえてくる。そして、それが映像として明確に提示されるのが、三つ目のパートである「スー=ニッキーの(フェイクの)死」のシークエンスなのだが、それについては後述しよう。

面白いのは、カット(23)(25)で言及されているように、黒人女性である浮浪者1の「いとこ」もポモナに住んでいるらしいことである。さて、この「いとこ」が「従兄弟」であるのか、それとも「従姉妹」であるのか、非常に興味深いところだ。いずれにせよ、浮浪者1もまた、彼女なりの「作品に対する感情移入=同一化」をその「内面」に抱え、彼女なりの「ハリウッド伝説」を「共有」していることは間違いない。

また、このパートにおいても、「動物」に関する言及が「Nikoの飼う猿」という形でなされる(カット(33))。この言及からまず最初に連想されるのは、リンチのフェイヴァリット映画である「サンセット大通り」(1950)に登場する、「猿の葬儀」のエピソードだ。ノーマ・デズモンドの屋敷に迷い込んだ主人公ジョー・ギリスは、彼女が飼っていた猿の葬儀の打合せをするために訪れた葬儀屋と間違えられ、死んだ猿を見せられる。そして、そのまま彼女の屋敷に泊まった主人公は、夜中に、猿が庭に埋葬されるところを目撃するのである。デズモンドという失墜したスターの奇矯ぶりを表すエピソードであるとともに、その猿と同じように「飼われる」主人公の末路(それは冒頭に提示されているのだが)を暗示するエピソードでもある。はたして、この猿と主人公の「飼われる」という「等価性」と、「インランド・エンパイア」で繰り返し言及される「動物=自立性を保持しつつ、他者のコントロールを受ける存在」という概念が、リンチのなかで重なっているのかどうか。

だが、「Niko」によって表されるものを「受容者が抱く『ハリウッド伝説』の抽象概念」と捉える限り、ここで語られている「動物」は、受容者からみた「映画作品」あるいは「映画業界」そのものを指していると捉えるのがもっとも妥当なように思われる。となれば、「家で猿を飼う」という行為が何を指すのか、ぼんやりとながら理解できてくる。やはりここでも思い浮かぶのは、自宅のモニターでの鑑賞が主流になった「映画受容の形」であり、「関連情報」の氾濫である。また、「映画作品」に対する「コントロールの欠如」の結果が「猿があちこちに糞をする」行為として表象されるが、しかしNikoにとってそれは「気にならない」。なぜなら「ハリウッド伝説」である彼女にとって、「失敗した作品」そのものも(ひょっとしたら「中断された作品」をも含めて)その「伝説」の一部でしかないからだ。一方で、ちょうどその裏返しである「動物を扱うのが上手な者」の存在もここで言及されるが、実はそれもまた「ハリウッド伝説」を構成する一部に他ならない。このNikoの「傍観者」的なスタンスは、「スミシーを誰が演じるのか」をずっと気にしている「90歳の姪」(0:40:59)の対極にあるものといえる。Nikoはあくまで受容者の側に寄り添い、「90歳の姪」は作り手の傍らに立つのだ。

(てなことで、この項まだまだ終わらず)

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