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2008年4月21日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (72)

まいどお粗末ながら一席、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話でございます。今回は(2:23:26)から(2:32:23)までをば。

さて、腹部を刺されたスー=ニッキーは、「スクリュー・ドライバー」を抜き、ドロシー・ラムーアの「星」の上にそれを捨てて、「ハリウッド-ヴァイン」の交差点方向へと向かう。ドロシー・ラムーアについては、彼女の経歴を含めて何度か述べたので、ここでは詳述しない。

いずれにせよ、ここでドロシー・ラムーアの「星」が出てくることは、ニッキーの「自己認識」が、彼女の「女性」としての部分と「演技者」としての部分で重なり合っていることの具体的提示として受け止めていいように感じる。このあたりは(そのこと自体の是非はともかく)、「観られる者」としての「女性」と「演技者」の共通項として、つまり「性的なものの対象」として、ニッキーとロスト・ガールとスーザンが「感情」を共有していることの表れと受け止めるべきなのだろう。そのうえで留意しなければならないのは、ロスト・ガールの共感がまず登場人物=スーの「女性」の部分に向けられているのは当然として、同じように演技者=ニッキー個人の「女性」の部分にも向けられていることだ。登場人物であるスーを介して形成される「感情移入=同一化」だけでは「女性」と「演技者」を等号で結ぶことはあるいは難しいが、これに「演技者」個人に対する「受容者」の感情移入の要素が入ってくることで、その結びつきが補強されている。つまり、受容者=ロスト・ガールの「感情移入=同一化」は、「女性」としてのニッキーと「演技者」としてのニッキーの両方に向けられており、そのあたりを示唆しているのがたとえば「マリリン・レーヴェンスのTVショー」(0:20:45)のによって提示されるものであるわけだ。当然ながら、この番組を受容しているのもロスト・ガールなのである。

また、興味深いのは「赤信号のハリウッド・ブルバード」と「青信号のヴァイン(Vine)」の対比(2:24:10)である。もちろん、これが「赤と青のモチーフ」の表れであることはいうまでもないが、問題となるのはその提示のされかたである。この二つがこの場所において並列して提示されていることは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」がこの二つによって表されていることを表しているだけではなく、現時点においてこの二つが揃っていることの表れでもある。つまり、ウサギたち/老人たち/Mr.Kによる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入/コントロール」は効を奏し、その「物語展開」と「心理展開」は完全に合致し連動しているのだ。また、「Vine」は同一の発音である「vain(空虚な、中身のない、詰まらない)」を連想させるものだ。はたしてリンチがそれを意図したかどうかはわからないが、「ハリウッドは空虚で詰まらない」という揶揄を想起させる標識が実在すること自体があるいは大きな皮肉であり、なおかつハリウッド側が赤信号でありヴァイン側が青信号であることには、意図的なものを感じずにはいられない。あるいはこの標識は近在の者にとっては常套句的なジョークの対象であるのかもしれないが、それについてはもっと詳しい報告者を待ちたい。

また、Vine側の歩道を渡ったところで、スー=ニッキーの主観ショットとして映し出される店の看板が「HOLLYWOOD STAR FOOD MARKET」であるところなど、思わず訪問者1による「市場(いちば/しじょう)」への言及(0:15:10)への連想を促されると同時に、「映画」という「工業製品/商品」についての、あるいは「演技者」という「商品」についての皮肉を感じずにはいられない。

なにはともあれ、このようにして、スー=ニッキーは「ヴァイン・ストリート」の歩道で、三人の浮浪者たちの間に横たわる。このシークエンスはかなり長く、そこに表れているものも非常に複合したものであるといえる。あえて「構成要素」として分解するなら、このパートで表象されているものは大きく三つに分けられるように思われる。ここでは、それにしたがってこの(2:24:41)からのシークエンスを三つのパートにわけ、順を追ってみていくことにする。

まず、一つ目のパートは、「ポモナ行きのバス」が存在するかどうかの議論である。そのパートに対応する具体的な映像と台詞を引用してみよう。

(1)倒れこんだスー=ニッキーを見る浮浪者2(アジア系女性)と浮浪者3(黒人男性)。
(2)横たわったまま頭を上げて、倒れたスー=ニッキーを見る浮浪者1(黒人女性)。浮浪者1へクローズ・アップ。
(3)赤いシャツに茶色いジャケットのスー=ニッキーの腹部のアップ。腹部を押さえた彼女の左手は血にまみれている。彼女の左手の手首には、黒い革に銀色のリベットがうたれたブレスレットが見える。
(4)口を半開きにし、どこか上方を見上げているスー=ニッキーの顔のアップ。
(5)浮浪者1のアップ。

浮浪者1: You dyin, lady.
スー=ニッキーのアップから腹部までパン。
(6)浮浪者1のアップ。スー=ニッキーを見詰めている。
(7)スー=ニッキーの顔から浮浪者3と浮浪者2へのパン。二人の浮浪者の背後には、別の男性浮浪者が見える。彼は通りの方をまっすぐに見詰めている。
(8)浮浪者1のアップ。スー=ニッキーを見詰めている。
(9)スー=ニッキーを見詰めている浮浪者2のアップ。彼女の背後では浮浪者3もスー=ニッキーを見詰めている。浮浪者1の方に目をやる浮浪者2。
(10)
浮浪者1:(浮浪者2に) What you say about Pomona?
(11)浮浪者2のアップ。浮浪者1の言ったことを理解しようとしている。

浮浪者1: (画面外から) What you say about Pomona?
(12)浮浪者2:
(浮浪者1に) You asked about the bus.
(13)浮浪者1:
Can't get no bus to Pomona.
(14)浮浪者2:
You can get the bus for Pomona here... If you get on the subway first.
(15)浮浪者1:
I never can get no bus.
(16)浮浪者2:
(しばらく黙ってから) You can go all around Hollywood...
(17)スー・ニッキーのアップ。どこか上方を見詰めている。

浮浪者2: (画面外から) where I was, from Hollywood and Vine...
(18)浮浪者2:
and you can get to Pomona for $3.50... from Hollywood and Vine to Pomona.
(19)浮浪者1:
I never heard of no bus there.
(20)浮浪者2:
I went on the bus to Pomona last summer...
(21)スー=ニッキーのアップ。苦悶の表情。

浮浪者2: (画面外で) to visit my friend who lives there.

まず、カット(10)でいささか唐突に浮浪者2が口にする「ポモナ」についてである。「ハリウッド・ブルバード」および「インランド・エンパイア地区」との位置関係が形成するアナロジーに基づき、この「ポモナ」が受容者の「感情移入=同一化」そのものを表していると捉えられることについては以前にも述べたとおりだ。この観点に基づくなら、スクリュー・ドライバーで刺されたあとスー=ニッキーが辿った道程が表すものも、(これまた以前に触れたように)なんとなくみえてくる。彼女がとった行動が表すものは、「ハリウッド・ブルバード」から「ポモナ」へ、そして「インランド・エンパイア」へと向う試みである。言葉をかえれば、演技者=ニッキーの「内面」である「ハリウッド・ブルバード」から出発し、「感情移入=ポモナ」を経て、受賞者の「内面」である「インランド・エンパイア地区」まで、彼女が獲得した「自己認識」と「感情」を伝えようとする行為だ。また、「映画というメディアそのもの」という観点から捉えるなら、「感情移入装置」としての「映画」が、受容者に「感情」を伝達する道程をこの三つの場所の位置関係に重ねているのだともいえる。

その一方で、この「バスに関する議論」は、「インランド・エンパイア地区」に関する言及を残し、「バルト海地方」から姿を消した「ファントム」の行方を想起させるものだ。その後、彼が「スミシーの家」の隣家に到達したことが明示されていることからわかるように(1:59:39)、「インランド・エンパイア地区」というスー=ニッキーと同じ目的地があるものの、彼が辿った道程は彼女とはまったく異なっている。つまり、スー=ニッキーの道筋が「個=ハリウッド・ブルバード」から「普遍=インランド・エンパイア地区」へというルートであったのに対し、「ファントム」は「普遍=ポーランド・サイド」から「個=アメリカ・サイド」へという具合に逆方向を辿っているのだ。あるいはこのあたりに、「映画」というメディアに対するリンチの考えが表されているのではないかと思うのだが、どうだろうか。個々の作品が内包するのはあくまで登場人物に関連する「個」の事象だが、そこに「映画」というメディアが介在することで(そしてその「映画の魔法」が働くことで)、その「個別」の事象は「不特定多数の受容者」に共有され「普遍化」する。こうした「質的変化」は、「受容者」の「作品への関与」によって、言葉をかえれば「作品に対する解釈」によって成立するものであることが、このファントムが辿った「普遍=一般的受容者」から「個=演技者/登場人物」へのルートとして描かれているわけだ。

当然ながら、そこにさまざまな受容者がおり、さまざまな作品がある限り、この「道程」が完結せずに「無益(vain)」に終わってしまうこともあるはずだ。「作品」に対する「コントロール/介入」の失敗、受容者の「関与能力の欠如」、あるいは「製作が中断された映画」……「ポモナ行きのバス」が浮浪者2には存在し、浮浪者1には存在しないことに表されているように、この「伝達」が成功するかどうかは、「作品」と「受容者」の関係性に帰着する。

そして、このように正反対の二つのルートが並列して描かれていること自体が、「インランド・エンパイア」が、「映画を作ることの映画」であると同時に「映画を観ることについての映画」でもあることの表れであるといえるだろう。この二つのルートがともに「インランド・エンパイア地区」という最終目的地を目指していることに、「(映画監督や演技者を含めた)創作者」と「受容者」による「感情の共有」の姿が……リンチが理想とする「映画というメディア」の姿が現れているとみるのは感傷的過ぎるだろうか。

(この項、思いっきり続いたりする)

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