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2008年4月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (71)

止まったり進んだり、気長にじわじわーと進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(2:20:08)から(2:23:26)までをば、「よいではないか、よいではないか」とあーしてみたりたりこーしてみたりすることにする。

「Mr.Kのオフィス」を出た後、スー=ニッキーは再び「階段」を下りる。このシークエンスは二つのショット……片方は階上から、もう片方は階下から階段を下りるスー=ニッキーをとらえるという構成になっているが、後者のショットでは彼女は息を荒くしており、この「階段」の長さを表している。(2:20:08)-(2:20:26)

続いて、「クラブ」の裏口から「ストリート」へと通じる裏通りに出る、スー=ニッキーのショットが提示される。位置関係からして、この「裏口」はカロリーナによってスー=ニッキーに指し示された「非常口(EXIT)」(2:14:05)であることが、その奥にのぞく「赤いカーテン」とともにみてとれる。そのまま、彼女は行き交う車や人通りが認められる「ストリート」の方向へと歩き去る。「Mr.Kのオフィス」おける「介入/コントロール」が終了し、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が、それと連動する「心理展開」とともに再び展開し始めたのだ。(2:20:06)-(2:20:40)。

その後、(2:20:40)からシークエンスは「ハリウッド・ブルバード」へと舞台を移す。この「ハリウッド・ブルバード」のシークエンス全体をどう捉えるかに関しては、これまたいろいろな考え方があるように思える。

たとえば、もっとも具象的に捉えるなら、「ハリウッド・ブルバード」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品の「ロケーション現場だ」ということになる。この見方に従えば、「インランド・エンパイア」によって提示される映像は、イコールその「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という映画作品の映像」であるか、さもなければ「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という映画作品の撮影風景の映像」のどちらかであるということだ。確かにこうした理解の範疇で「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスを観れば、そこで提示されている映像を「女優による現実と虚構の混同である」と捉えてしまうことも理解できる。なによりも、最初は明らかに「実在のロケーション」だった撮影現場が、「スー=ニッキーの(フェイクの)死」までのどこかの時点で、いつの間にか「撮影ステージ内のセット」に変わってしまっているのだから。

しかし、いったん「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」とする観点から見始めると、この「場所の混同」は、ある「作品内現実=虚構」の中における「作品内現実と作品内非現実の混同」といった単純な問題に還元しきれないほど、いろいろなものを内包していることに気がつく。たとえば、実際の映画製作を考えたとき、「ロケ撮影の素材」と「セット撮影の素材」を組み合わせて編集しシークエンスを構成することは、たびたび行なわれる手法である。そして、我々受容者は、そのような過程を経て作られたシークエンスを(特殊な例外をのぞいて)「同一の場所を舞台にしたもの」として問題なく認識してしまう……連続した二つのショットが実際にはそれぞれまったく違う場所で撮影されていることなど、まったく意識することなく。この「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいても、少なくとも(2:32:23)で(プロップの)撮影カメラがフレーム内に映り込むまで、観ている者はそこが「実在のロケーション」としての「ハリウッド・ブルバード」であることに何の疑いも抱かないのが普通だろう。以前にも述べたように、このシークエンスにおいてより重要なのは、そうした受容者側の「認知/認識(あるいは錯誤)」への言及である。わざわざモンタージュ理論を引用するまでもなく、これは「連続した映像」を関連づけて理解する我々の「認識能力」に負うところが大きい。そうした「認識能力」こそが「感情移入=同一化」の成立につながるものである以上、ここで描かれている「場所の混同」は、きわめて「自己言及的」なものだといえるだろう。もちろん、ここでいう「自己言及的」とは、「映画」による「映画の構造」への言及であるとともに、以前に述べた「破断される感情移入」の問題を含めた「受容者」による「自らの受容能力」の認識をも意味する。ロスト・ガールという「受容者の代表」をもつこの作品において、受容者に関する言及をもつことはまったく不思議ではない。「作品内現実という虚構」から離れた「受容者の現実」という安全な場所に身を置き、「インランド・エンパイア」を傍観者的に観ることは我々には許されないのだ*

その一方で、もっとも抽象的な観点から捉えたとき、「ハリウッド・ブルバード」が演技者=ニッキーの「内面的なもの(の一部)」を表しているのは明瞭である。であるからこそ、そこが彼女にとって「自己確認」を含めたさまざまな「認識」を獲得する場所となり得るのだ。そこが演技者=ニッキーの「ストリート」であり「内面」である限りにおいて、この「ハリウッド・ブルバード」と「撮影ステージ」との間で生じる「場所の混同」という事象は、彼女にとってこの二つの場所が「同義あるいは等価」であることを表している。そして、その後のシークエンスにおいて提示される、「階段」という「高低のアナロジー」を伴いつつ現れる「無人の映画館」から「スミシーの家の内部」に至るニッキーの道程(2:36:46)もまた、彼女の「内面」を表すものとして「感情移入=同一化」をキーにした観点から理解できるはずだ。他のリンチ作品と同様、この作品にもきわめて表現主義的な映像が散りばめられているのである。

……というような前置きをしつつ、以降のシークエンスをいくつかに分割しながらみていくことにしよう。

まず、スー=ニッキーが「ストリート」に戻ってくるのを、娼婦ヴァージョンの「ロコモーション・ガール」たちが取り囲むシーンである(2:20:40)-(2:21:07)。このショットで特徴的なのは、スー=ニッキーと「ロコモーション・ガール」たちが、三回にわたり長い間「視線の交換」を行なうことだ。この状態を説明する「台詞」は一切なく、存在するのは、「ロコモーション・ガール」たちのスー=ニッキーに対する問い掛け……「なにをしていたのか?(What've you been up to?)」あるいは「どこに行っていたのか?(Where'd you go?)(Where you been?)」というような「スー=ニッキーの不在」に関連した問い掛けだけである。となれば、我々はこの「視線の交換」自体から、それが伝えるものを読み取るしかないわけだ。この「映像表現」に対する解釈のひとつとして考えられるのは、スー=ニッキーによる、自分と「ロコモーション・ガール」の関係性の認識である。「ロコモーション・ガール」たちが自分の「情緒の記憶」であり、当然ながら自分と同一の「感情」を共有する存在であることを理解したということだ。現在のシークエンスに至る映像群のなかで、ニッキーとスーの、あるいはスー=ニッキー同士の「感情移入=同一性」が「視線の交換」によって成立/深化していることについては、これまでも何度か触れてきた。実は「同一の存在」であるニッキーと「ロコモーション・ガール」たちの「関係性の確認」も、これまた「視線の交換」によってなされることは当然といえば当然だろう。ここでも「観る者」と「観られる者」の関係、つまり「視線の問題」が、「内的なもの」の展開にからんでいるのである。

次いで、スー=ニッキーは、街路樹の陰に身を潜めるドリスを、「ストリート」の向こう側に再び「目撃」する(2:21:07)。前回「目撃」したとき(2:09:24)と異なって、ドリスを認めてもスー=ニッキーは直ちに逃げ出そうとはしない。この理由に関してもさまざまな捉え方が可能だろうが、まず思いつくのは、「インランド・エンパイア」の展開そのものからみたとき、「Mr.Kのオフィス」で行なわれた「介入/コントロール」を経て、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」が進行する局面に移行したことは確かだろう……ということだ。また、後述するように、「ロコモーション・ガール」と自分との関係性の理解を含めたスー=ニッキーによる「自己確認」が完了し、それによって獲得された「認識」がドリスという他者にも向けられ始めたと読み取るすることもできるのではないだろうか。

「私は娼婦よ(I'm whore)」という呟き(2:07:37)から始まったスー=ニッキーによる「自己確認」が完了したことは、「これを見て(Watch this move)」という台詞に続いて、彼女が「ロコモーション・ガール」たちに向かってみせる「指を鳴らす動作」によって示される(2:21:33)。もちろん、これは「スミシーの家」の居間にたむろする「ロコモーション・ガール」たちが行なった動作のリフレインである(1:28:04)。そこでは、この「指を鳴らす動作」が、「ロコモーション・ガール」の呼称のもととなった「ロコモーションにあわせた群舞」につながっていた。この「ロコモーション」の歌詞と「ロコモーション・ガール」たちが話していた会話の内容と合致していること、そしてそれが「情緒の記憶」を基にしたニッキーの「女性」あるいは「演技者」としての自己認識につながっていくことは、以前にも述べたとおりだ。当該シーンでは踊りに参加せずに「傍観者」だったスー=ニッキーが、今ここで「群舞」につながる「指を鳴らす動作」を「ロコモーション・ガール」たちに示してみせる……つまり、これは、スー=ニッキーが「ロコモーション・ガール」と自分の「同一性」を明確に認識したこと、彼女たちが自分の「裡なるもの」だと了解したことを表しているショットなのだ。

そして、そこに「ドリスを目撃する」という事象が重なったとき、「ストリート」で獲得した「自己認識」が自分だけに当てはまるものではなく、実は「普遍的なもの」であることをスー=ニッキーは知る。それを表すのが、直後に現れるスー=ニッキーの手に握られた「スクリュー・ドライバー」のアップのショット(2:22:14)と、それに続くドリスが「スクリュー・ドライバー」をスー=ニッキーの手から奪い取り、腹部を刺す映像(2:22:37)である。この「腹部に突き立てられるスクリュー・ドライバー」というモチーフもまた、「インランド・エンパイア」に繰り返し登場していることは、改めて指摘するまでもないだろう。たとえば(1:50:51)からの「ビリーの屋敷」のシークエンスにおいて、「スクリュー・ドライバー」によって表されるものが、ドリスとスー=ニッキーの両者が互いに対して抱く「悪意」という感情であり、互いを傷つけるものであることはすでに提示されている。また、「警察署」内部のシークエンスで提示された「ドリスの腹部に突き刺さったスクリュー・ドライバー」(0:36:08)、あるいはポーランド・サイドのシークエンスで「ロスト・ガールの腹部に突き立てられたスクリュー・ドライバー」(1:40:21)という形でも、この「スクリュー・ドライバーが表すもの」のモチーフはすでに現れている。こうしたモチーフの「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」によって描かれるものが、すなわち「トラブル=機能しない家族の抽象的概念」を構成するパーツを表す一事象であることは明白であり、それは段階的に「インランド・エンパイア」の受容者に対して提示され続けてきたといえる。そして、その最終的な「説明」が、この「ハリウッド・ブルバード」における「スー=ニッキーの刺殺」という事象であるわけだ。

*しかし、ここでややこしい疑問が出来する。ここに挙げたどのような意図に基づきこの「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスを編集構成したとしても、「コンティニュティ」を基本とする古典的ハリウッドの編集に従う限り、実は現状の形とそんなに変わらないのではないだろうか?……という疑問だ。つまり「女優の混乱」を描くにしても「受容者の認知/認識」を描くにしても、おそらくは提示される「映像」そのものは大きく変わらないのではないかということである。唯一方法論があるとすれば、「コンティニュティ」を破棄した編集になるのだろうが、おそらくはそれはリンチの意図するところではない。過去作品を含めて、リンチが「ハリウッド」および「ハリウッドの方法論」に固執していることは間違いないからである。

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