フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (69) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (71) »

2008年4月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (70)

さて、これがまた「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を追っかける作業であったりするのだな。今回は前回の続きとして(2:18:51)から(2:20:08)までを追いかけるのであった。

前回も述べたように、このシーケンスはブロック(C)のシーンの続きである。スー=ニッキーの「息子の死」に関する告白から、そのままこのシークエンスは続いており、切れ目はない。以下に、このシークエンスの具体的な映像を、台詞と一緒に引用してみよう。

(1)Mr.Kのアップ。[電話のベル]
(2)スー=ニッキーのアップ。[電話のベル]
(3)Mr.Kのアップ。[電話のベル][電話のベル]
立ちあがるMr.K。[電話のベル]
(4)衝立のようになった木の壁の裏にある電話機に向かって歩くMr.K。[電話のベル]
壁の陰で Mr.Kが電話をとる。

Mr.K: (壁の陰で) Hello? Yeah. She is still here.
(5)スー=ニッキーの右手に握られたスクリュードライバーのアップ。

Mr.K: (画面外で) I don't think it will be too much longer now.
(6)スー=ニッキーのアップ。彼女の顔にズーム・イン。

Mr.K: (画面外で) Yeah. The horse to the well. Yeah. [chuckles] Huh? Yeah. He's around here someplace. That's for sure.
(7)木の壁。Mr.Kはその裏にいて姿は見えない。

Mr.K: (壁の陰で) Czerwone time.
(8)スー=ニッキーが立ち上がり、スクリュー・ドライヴァーとバッグを持ってドアに向かう。

ここでも「電話」がかかってくる。リンチ作品に現れる「電話」が、ときとして「伝達手段」というよりは「監視/追跡」のイメージを付随させているのは、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」の例をみても明らかだ。このシークエンスにおいてもこの「監視/追跡」のイメージは、「介入/コントロール」のイメージと複合して、Mr.Kではなくスー=ニッキーに対して機能しているといえる。「インランド・エンパイア」において、「電話」が「介入/コントロール」のイメージを付随させて登場するのは、たとえば(1:32:06)からのシークエンスでも明らかだろう。スー=ニッキーのビリー・サイドへの「電話」に「介入」するのは、「Rabbitsの部屋」にいるウサギたちなのである。後に触れるが、「Mr.Kのオフィス」という場所が付随させる「介入/コントロール」のイメージといった観点からして、このシークエンスでMr.Kが受け取る電話の相手は、同じく「介入/コントロールの場所」である「Rabbitsの部屋」にいると考えるのがもっともストレートだ。

「彼女はまだここにいる」というMr.Kの発言については、改めて詳述するまでもないだろう。「彼女」がスー=ニッキーを表すことは明瞭であるし、彼女が先ほど触れた「電話」を契機にして「Mr.Kのオフィス」を離れようとする……正確にいうと、その「電話を通じた会話/発言」をキーにして「ストリート」に戻ろうとするのもみてとることができる。同じように、「彼はどこかこのへんにいる。それは確かだ」という発言の「彼」が「ファントム」を指しているのも了解できるはずだ。ファントムが「ストリート」を通り、アメリカ・サイドにある「スミシーの家」の隣家にまで至っていることは、すでに提示済みである(1:59:39)。

Mk.Kが発言するその他の台詞群が、これもまた「リフレイン」や「ヴァリエーション」であるのは明らかだ。たとえば「馬は井戸に連れてこられた(The horse to the well)」という台詞は、バルト海地方の「部屋」で老人の一人によって発言されていたものである(2:03:29)。そこでの老人の発言がピオトルケに対してのものであったのと対照的に、Mr.Kの発言はスー=ニッキーに向かってなされる。また、そこではピオトルケが「拳銃」を渡されたのに対し、このシークエンスでスー=ニッキーの手に握られているのは「スクリュー・ドライヴァー」だ。「インランド・エンパイア」が提示する「リフレイン」や「ヴァリエーション」は、ときとしてこうした「対置関係」を明確にするために使われていることはいうまでもない。

また、「もうそんなに長くかからないと思う(I don't think it will be too much longer now)」という発言も、いちばん最初の「Rabbitsの部屋」のシークエンスにおいて、ジェーン・ラビットの台詞としてすでに現れている(0:06:20)。これもまた、「Mr.Kのオフィス」と「Rabbitsの部屋」の両者がもつ「介入/コントロール」のイメージの共通性……特に「時間コントロール」のイメージを思わせる発言である。もちろん、Mr.Kによるこの発言が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「時間」、つまりは「尺」に関するものであるのは間違いない。この直後、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に連動した「インランド・エンパイア」の映像は再び「ハリウッド・ブルバード」に舞台を戻し、「スー=ニッキーのフェイクの死」というクライマックスを迎えるのだから。

問題なのが、いちばん最後のMr.Kの発言である。北米版DVDに収録されているクローズド・キャプションの表示では、ここに引用したとおり「Czerwone time」となっており、実際のヒアリングでもそのように聞こえる。だが、日本版DVDにつけられているスクリプトでは、なぜかこの箇所は「Sure, I'm going into town」という台詞になっており、日本語字幕も「私が町に行きます」とされているのだ。どのような経緯でこの食い違いが発生したのかはわからないが、ここでは今までどおり北米版DVDを底本として解釈を進めていくことにする。

「Czerwone time」ときくと何のことだと思ってしまうが、実はこれはポーランド語と英語のチャンポンである。「Czerwone」というのはポーランド語で「赤い」を表す「czerwony」が形容詞変化したもので、早い話が「赤の時間だ(Red Time)」とMr.Kは発言しているのだ。つまり、この発言もまた「バルト海地方の家」のシークエンスにおける老人の「赤だった(It was red)」という発言(2:02:50)や、その直後の「Rabbitsの部屋」のシークエンスにおけるスージー・ラビットの「赤だった」という発言(2:05:32)の「リフレイン」であり、「ヴァリエーション」なのである。「インランド・エンパイア」におけるこうした「赤のモチーフ」が何を表しているかについては、ここでは改めての詳述はしない。

だが、より注目しなくてはならないのは、Mr.Kが「ポーランド語と英語を混交させた発言をする」という「表現」自体が表すものだろう。すでに何度か触れてきたように、「インランド・エンパイア」には、繰り返し「異言語」に関する言及が登場する。たとえば、訪問者1が話す言葉が東欧訛りであること(0:10:00)、ニッキーと老夫婦の成立しない会話(0:34:00)、キングズレイ監督が言及する「90歳の姪」の「古い外国語の言葉 (ancient foreign voice of hers)」(0:41:00)、スー=ニッキーがMr.Kに語るピオトルケの「わけのわからない外国語 (this foreign talk)」(2:15:59)……といった具合に、枚挙にいとまがない。なによりも、ファントムやロスト・ガールをはじめとする多くの「登場人物」たちがポーランド語の台詞を発している。以前も述べたとおり、これらの「異言語への言及」が、リンチ特有の「成立しない会話」のモチーフとして、つまり「コミュニケーション・ブレイクレダウン」の概念を表すものとして提示されているのはいうまでもない。だが、このシークエンスにおけるMr.Kの発言などをみる限りにおいて、「インランド・エンパイア」に現れる「異言語への言及」に対しては、また違った方向からのアプローチも可能であるようだ。

端的にいうなら、「映画というメディアがもつ言語」を表すものとして、つまり我々が普段使う通常の意味での「言語」ではない「抽象的なものを記述する言語」を表すものとして、こうした「異言語」が使われている局面があるように思える。その代表的な例が、「映画の魔=ファントム」がドリスに向かって「催眠術」をかける際に使われていた呪文(1:53:26)である。ファントムの機能が「『映画の魔法』の発動」=「感情移入=同一化」にむけて働くものであるかぎりにおいて、彼の使う「言語」こそが「映画の言語」に他ならない。そして、「インランド・エンパイア」では、この「映画の言語」を具体的に表すものとして「ポーランド語」が流用され、それと対置関係にある「通常の意味での言語」を表すものとして「英語」が使われているのだ。この作品のなかでリンチが「サーカス」をメディアの一種と捉え、「映画の魔法」の根源を古来からある「肉体を使った芸」に求めていることを考えると、「映画の言葉」が「「古い(ancient)言葉」であることもうなずけるだろう。かつ、このあたりは、リンチによる「映画」についての発言のいくつかを想起させるものである。

(この作品を)音楽のように捉えて欲しい。音楽は抽象的で言葉では表現されにくいと思われるが、一方で、映画に対しては人々の見方が異なり、音楽とは違った分かりやすい解説が求められる。理屈抜きで音楽を聴くのと同じで、映画も理屈抜きで体感して欲しい。映画でも抽象的な表現が用いられるが、自分の直観や感性を働かせれば理解できるはずだ。見た時に自分が感じたことを、もっと信用して欲しい。理解できたという感触を人に言葉で伝えるのは難しい。
(「マルホランド・ドライブ」日本公開時のインタヴュー)

シネマはかくも美しい言語です。あなた方には言葉の才能があるでしょう。しかしシネマは言葉を超えたものです。シネマと音楽は似ていて、美しく知的な旅のできるものです。言葉なしに語りかける。
(「インランド・エンパイア」日本公開時のインタヴュー)

Cinema is a laungage. It can say things -- big, abstract things. And I love that about it.
I'm not always good with words. Some people are poets and have a beautiful way of saying things with the words. But cinema is its own laungage.(中略)
I like a story that holds abstractions, and that's what cinema can do.
("Cinema" from "Catching the big fish")

「通常の言語」では基本的に置換不能であり、「音楽のように」「抽象的なものである」というのがリンチの「映画の言語」に関する概念だ。と同時に、一連の「映画の言語」に関するリンチの発言は、「抽象的なものを具象的に受け取ろうとせずに、抽象的なまま理解して欲しい」という、創作者としてごく当たり前の「受容者に対する要求」でもある。

話を戻して、上記のような事項を踏まえるなら、ここで現れる「ポーランド語/英語が混交した発言」という表現は、「映画の言語」を「通常の言語」に置き換えることを試みる際の、いわば「中間言語」として理解できる。映画に対するコントロールを行なうには、無理を承知で「映画の言語」を「通常の言語」に置き換えなければならない局面が必ず出るはずだ。我々が「通常の言語」をもって意思疎通を図る以上、そして映画製作が「共同作業」である以上、それは不可避な事態である。Mr.Kが発する「ポーランド語/英語が混交した発言」に関しても、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する彼の「介入/コントロール」への試みを表すものとして、それが提示する「理解不能性」をこそ「理解」すべきものなのだ。

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (69) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (71) »

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

「インランド・エンパイア」を観た(X回目)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (70):

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (69) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (71) »

最近のトラックバック