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2008年4月11日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (69)

さて、今度は誰も亡くならないうちにサクサク進めたいと思う今日この頃なのであった(笑)。前回からの続きで、同じく(2:16:44)から(2:18:51)までの後半をばたどってみよう。

実際の映像を観るとわかるように、ブロック(B)ブロック(C)の間のディゾルヴはかなり時間が長く、むしろ「オーヴァーラップ」として扱ったほうが妥当であるようにも思う。(4)の「家の内部を彷徨う女性」のショットは、ブロック(C)(5)の「スー=ニッキーのアップ」のショットに長時間被るように処理されており、(4)の映像と(5)の台詞の関連性/継続性を提示するものとして現れている。同時に、それは(3)(5)のショットにおけるスー=ニッキーの台詞の関連性/継続性をも表しているといえるだろう。

さて、問題なのは、ブロック(C)(5)でスー=ニッキーが語っている台詞の内容である。前回の文章と行ったり来たりもメンド臭いので(笑)、もう一度、ここでも再引用しておく。

スー=ニッキー: I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle... watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up. (しばらく口を開けたまま) I'm sittin' there... wondering... how can this be? (沈黙)

このスー=ニッキーによる「息子の死」の唐突な告白を、どう受け取るべきなのか。この「息子の死」を描く具体的映像は、このシークエンスには存在しない。それどころか、「インランド・エンパイア」のどこを探しても存在しないのだ。もちろん、この「息子の死」も、「インランド・エンパイア」が描く「トラブル=機能しない家族の抽象概念」の一構成要素に過ぎない以上、こうした具体的映像の「欠落(あるいは省略)」はさしたる問題ではないといえる。それがどのネスティングに属する「トラブル」であろうと……「登場人物=スー」「演技者=ニッキー」「受容者=ロスト・ガール」のうちの誰の「物語」であろうと(あるいはそれ以外の誰かの「物語」であろうと)、「インランド・エンパイア」のテクスト上は本質的な差異がないからだ。だが、それまでの事例をとおして我々は、この「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーが語っている事柄が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が内包する物語の「効率のよい省略形」であることを了解している。ここでは、その前提で話を進めることにする。

もし、この「息子の死」に対応する映像があるとすれば、それは結末近く、「スミシーの家」の居間における「夫の抽象概念=ピオトルケ」と「一般的受容者=ロスト・ガール」が交わす抱擁の傍らに立つ、「スミシーの息子(Smithy's Son)」(2:49:16)をおいてない。この「死んだ息子」という事象が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語内部で発生しているものであるならば、これまたいろいろなコンテキストにおいて「スミシーの息子」と「対置される関係」にあることがわかるだろう。すなわち、「もっとも内側のネスティング=登場人物=スー」で発生している事象と「もっとも外側のネスティング=受容者=ロスト・ガール」で発生している事象という配置の対置であり、「個別例」と「普遍」の対置である。また、「子供をなくした親」という形の「子供に関連したトラブル」の「個別例」として、「子供を生めない妻」(1:18:41)「子供を作れない夫」(2:16:32)と対置/併置されるものでもある。

だが、それよりももっと興味深いのは、「息子の死」に遭遇したスー=ニッキーが語る、その時自分が抱いた感情を表す「表現そのもの」だ。「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である限りにおいて、「客電が点灯する前の映画館」が彼女の感情を表す「表現」として使用されるのは、あるいはなんの不思議もないかもしれない。だが、その表現を子細にみたとき、ふとした疑問が頭をよぎる。スー=ニッキーが抱いたこの「感情」は、はたして実際に「体験」したものなのだろうか? それは、スクリーンに投影される「映画」がもたらす「感情移入=同一化」の結果ではないのか? スー=ニッキーがつぶやく「目の前を通り過ぎるもの」を「呆然と観るしかない」という発言は、あるいは「客電が点いたあと」「『どうしてこのようなことになったのか?』といぶかしく思う」という言及は、「映画」をのめり込むように観終えた受容者がもらす「感想」と、いったいどどのような差異があるのだろう?

このスー=ニッキーの発言と、後に登場する「無人の映画館」のシークエンス(2:36:57)との関連性については、改めて指摘する必要はないだろう。「無人の映画館」という「表現」と「映像」の合致はいうまでもなく、なによりもこの映画館のスクリーンに投影されているのは、まさにスー=ニッキーが「息子の死」を語るシークエンス(およびそれ以降)の映像なのである。以前にも述べたように、この「無人の映画館」のシークエンスで発生した事象によって、演技者=ニッキーは「観られる者」としての自己を確認し、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を解体させていくことになる。

つまり、この「Mr.Kのオフィス」と「無人の映画館」のシークエンスによって表されているものは、どちらも「登場人物」と「演技者」と「受容者」の関係性である点において同一なのだ*。大きな違いがあるとすれば、片方がその「構築/成立/維持」に言及し、もう片方はその「解体/破壊」に言及しているというところのみである。この二つのシークエンスは、まさしく「裏返し」の対置関係にある……そう、ちょうど「スクリーン」を挟んで、向こう側とこちら側にいるかのように。

これはある意味で、皮肉な状況であるようにみえるかもしれない。なぜなら、ニッキーのスーに対する「『感情移入=同一化』の解体」は、「『感情移入=同一化』を行なっているスー=ニッキーとしての自己」を「目撃」することによって進められるわけなのだから。だが、「インランド・エンパイア」では、「感情移入=同一化」の成立/深化もまた、「Axxon N.」の発現をポイントとしたスーとニッキーの(あるいはスー=ニッキーの)「目撃/視線の交換」によって進められたはのではなかったか? であるならば、この「解体の手順」もまた、「目撃/視線の交換」を介して行なわれるのは当然である。「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である限りにおいて、「受容者=演技者=登場人物」の間に介在する「『観る者』と『観られる者』の関係」……要するに「視線の問題」がキーになるのは、まったく当たり前のことなのだ。なぜなら、演技者を介して受容者と登場人物が「視線を共有できること」こそ、「感情移入装置としての映画」が持ち得る最大のアドバンテージなのだから。

それにしても……より大きな皮肉は、こうした「映画」というメディアが内包する「視線の問題」を、受容者である我々が普段あまり「意識」していないことだ。それほどまでに、我々は映画の登場人物と「視線を共有すること」に慣れ親しんでしまっており、何の違和感も抱かずにいる。それはあるいは古典的ハリウッド映像編集の「勝利」であるともいえる。だが、たとえば「インランド・エンパイア」が描写するこの「視線の問題」を「統合失調症の症例」などと錯誤してしまう例が出てくることこそ、実はいかに我々が漫然と「映画」を受容し、(「カットバック」などの形で)ほとんどすべての映画作品に発生しているはずの「視線の問題」を見逃していることの証明に他ならない。いずれにせよ、そのような受容者側の「意識」の問題も含めて、「インランド・エンパイア」という作品がいろいろなものを「あからさま」にしてしまっていることだけは確かだろう。

*「撮影スタジオ」から「無人の映画館」に移動する直前、スー=ニッキーは受容者=ロスト・ガールと「モニター画面」を介した「視線の交換」を行なう(2:36:09)。

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