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2008年4月 9日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (68)

なんかここんとこ、ハナシの前振りが「お悔みシリーズ」と化しておりますが、今度はチャールストン・ヘストン氏がお亡くなりになってしまいました。謹んでご冥福をお祈りします。えーと、どこかにマイケル・ムーアのコメントとかは出てないっスか? ま、いいや(笑)。それはともかく、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を確認し続けるのであった。今回は前回の続きでもって、(2:16:44)から(2:18:51)までをば。

このシークエンスは、基本的に「Mr.Kのオフィス」の内部を舞台にして進行する。ただし、興味深いインサート・ショットが挟まれており、かつそのショット間のカッティングには「ディゾルヴ」が多用されているのが注意をひく。

ここで使われているディゾルヴをどう理解するかに関しては、いろいろと意見が分かれるかもしれない。ここでは、以前にとりあげたものと同様に、このシークエンスに現れるディゾルヴもまた、「フラッシュ・バック」や「フラッシュ・フォワード」などの「登場人物の思念を表す記号」としてではなく、「省略」を伴ったショット間の「時間の経過」を表しているとストレートに捉えることにする。その理由はいくつかあるが、以前にも述べた「インランド・エンパイア」が記述技法としての「時系列操作」を伴わない非ナラティヴな作品であること、そしてリンチ自身が「インランド・エンパイア」を「自分が作ったなかで、もっともシンプルな作品」と述べていることが最大の理由だ。個人的には、リンチ作品における表現の解釈に迷ったときは、「最大限に単純に、かつ最大限に抽象的に捉える」というのが基本姿勢である。

それはさておき、上記のような捉え方にしたがうなら、現在取り上げているシークエンスは、ディゾルヴを分割ポイントとして以下のような三つのブロックに分けることができる。

・ブロック(A)

(1)「Mr.Kのオフィス」内部
スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: (唇を歪めて) Like this-- Like... his face all red. His eyes were buggin' out.
(2)どこか
スーもしくはニッキーが、こちらを見下ろしている。
[hypnotic tone]
(ディゾルヴ)

・ブロック(B)

(3)「Mr.Kのオフィス」
(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: I figured one day... I'd just wake up and... find out what the hell yesterday was all about. I'm not too keen on thinkin' about tomorrow. And today's slipping by. (沈黙)
Mr.Kのアップ。
(4)どこかの室内 内部
逆光で影になったスー=ニッキーが、どこかの部屋の中を歩いている。(ディゾルヴ)

・ブロック(C)

(5)「Mr.Kのオフィス」 内部
(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle... watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up. (しばらく口を開けたまま) I'm sittin' there... wondering... how can this be? (沈黙)

(5)のシークエンスはこの後も継続して続いているのだが、これはこれで切り離して論じたほうがよいという判断のもとに、この箇所で分割した。

(2)(4)のショットのスー(もしくはニッキー)がはたしてどこにいるのか、映像からは非常に不明瞭だ。が、(4)のショットをみる限りにおいて、その映像がどこかの「家」の内部であるのは確実である。蓋然性の問題からいうと、「スミシーの家」の内部のものであるとみるのが、もっとも妥当だろう。それを補強するのが、(2)のショットで提示されている映像である。ここで提示されているのは、以前にも「上下に交わされる視線」の例としてとりあげた「上から見下ろしているスーあるいはニッキー」のアップだ。そして、たとえば(1:13:55)のシークエンスや(2:06:24)のシークエンスに現れる他例をみる限り、この「上下に交わされる視線」は、必ず「スミシーの家」の内部において発生しているのである。これらを考え合わせる限りにおいて、少なくとも(2)および(4)のショットが「スミシーの家」の内部であることを積極的に否定する映像は、「インランド・エンパイア」には見当たらない。

上記のようなことを踏まえつつ、まずブロック(A)をみてみる。(1)のショットの台詞で記述されている事項が、直前のシークエンスにおいて提示された「スミシーの家」の内部で発生した事象についてであることは、容易に理解されるだろう。つまり、(2:14:36)からの「Mr.Kのオフィス」内部のシークエンスとこのシークエンスとの間に、(2:16:09)から(2:16:43)までの「スミシーの家」の居間における「ピオトルケによるスーの殴打」のシークエンスがインサートされてる構造になっているわけだ。言葉をかえれば、スー=ニッキーがMr.Kに向かって記述している事項の「具体的映像」がこのインサート・ショットによって提示されていることになる。

次にブロック(B)をみる。ブロック(A)ブロック(B)の間は「甲高いノイズ[hypnotic tone]」によるサウンド・ブリッジが施されており、この二つのブロックの関連性が明示されている。このブロック(B)でもブロック(A)と同様に、(4)のシークエンスで提示されている(おそらくは)「スミシーの家」の内部の映像が(3)でスー=ニッキーが語る台詞に対応しており、それを「映像化したもの」として把握される。「どうしようもない昨日」「見通しのつかない明日」「滑り落ちていく今日」という認識は、これもまた「受容者側のもの」ではなく「記述する側のもの」として現れており、かつ「家」の内部において発生している。その漠然とした「自己確認の不明瞭さ」の状況は、薄闇の中、逆光に照らされて「スミシーの家」の中を彷徨う女性のシルエットの映像によって表されている。つまりは、これもまた、リンチ作品に繰り返し現れる「何かよくないことが起きるところとしての家」あるいは「『人間の内面』の表象としての家」のモチーフなのだ。

この(4)のショットと、(2)の「下方を見下ろすスーもしくはニッキー」のショットをともに並べてみたとき、「家」と「ストリート」の位置関係と同様、「スミシーの家」と「Mr.Kのオフィス」の位置関係もまた明確になる。このシークエンスの映像をみるかぎり、「インランド・エンパイア」の作品構造のなかで重要な要素となっている「高低のアナロジー」のなかで、「Mr.Kのオフィス」は「家」と「ストリート」の中間に位置している。それは「ストリート」から、あるいは「クラブ」からは「死ぬほど階段を上った」ほど高いところにあるが、それでもまだやはり「家」よりは低いところにあることが、この(2)(4)(1)(3)のショットの関係性によって明示されているのだ。

同時に、「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーの「語り」という形で表象される「効率の良い物語展開」の内容が、「スミシーの家」の内部で発生している事象と関連性があるということも、ブロック(A)における(1)(2)の関係性、あるいはブロック(B)における(3)(4)の映像の関係性において理解される。前述したように、これはすでに「ピオトルケによるスーの殴打シーン」のインサート・ショットによって提示済みの事項である。この「リフレイン」によって、それまでに現れた「Mr.Kのオフィス」の内部におけるスー=ニッキーの告白が、すべて「家」の内部で発生した事象を「効率的に記述したもの」であることが確認されることになる。

(目一杯引っ張りつつ、この項、続く)

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