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2008年4月 2日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (66)

さて、某集団主催の花見大会もつつがなく終わり……てか、某嬢が花粉症の薬のせいで桜も見ずにずっとぶっ倒れて眠ってたり、隣のシートにいたタイ方面のお嬢さん集団(だと思う、きっと)と国際交流を深めたり、気がつくとなぜか自宅の近くの居酒屋で二次会になってたり……などとゆーよーな些事もありましたが、いちおー怪我人も病人も逮捕者も出さずに終了で、いや、よかったよかった。よかった続きで延々続いた「前置き」が終わったところで、前回と同じ(2:14:36)から(2:16:09)までのシークエンスをば、今回はスー=ニッキーの台詞を中心に追いかけてみよう。

(1) I really don't understand what I'm doing here.
(2) (前の台詞に重なって) That's one hell of fucking climb getting up here.
(3) There was this man... I once knew.
(4) I'm trying to tell you so's you'll understand how it went. The thing is I don't know what was before or after.
(5) I don't know what happened first. And it's kinda laid a mind fuck on me.
(6) (画面外から) My husband.
(7) he's fucking hiding something. He was acting all fucking weird one night before he left.
(8) (画面外から) He was...
(9) talking this foreign talk, and... telling loud fucking stories.

大雑把に整理するなら、スー=ニッキーがここで語っていることは二つある。一つは、(3)(6)(7)(8)(9)で語られている「男=夫」の話であり、もう一つは(1)(2)(4)(5)といったその間に差し挟まれる彼女自身の「感想」めいたことだ。

ここで彼女が語る「夫」とは、具体的な誰かを指してるわけではなく、総体としての「夫」つまり「夫の抽象概念」を指しているのはいうまでもない。「以前、知ってた男のこと」であり、それは裏を返せば「今は知らない男のこと」である。このあたりはたとえば、以前に現れた「Mr.Kのオフィス」のシークエンスにおいて、スー=ニッキーが語った「男たちは変わってしまう。いや、変わるんじゃなくて、本性を表すの(A lot guys change. They don't change, but they reveal.  In time, they reveal what they really are)」(1:23:22)という台詞と表裏一体をなすものだ。同時に、彼は「何かを隠していて、姿を消す前は奇妙な振る舞いをしていた」ともスー=ニッキーは語る。これもまた、以前にスー=ニッキーが言った「彼は何かを明らかにした。今思えば、ずっと彼が何かを隠していたことがわかる。彼は何かを企んでいた。私に対して、心の中で何かを企んでいた(he revealed something. Looking back on it...  all along it was being revealed. He was planning something. Planning something with me in mind.)」という台詞と連続性をもったものであることが理解できる。どちらのシークエンスにおいても、本質的に同じことをスー=ニッキーは語っているのである。

だが、この一連の台詞のなかでもっとも興味深いのは、一番最後の台詞である。「外国語のような言葉を喋る」という示唆は、リンチ作品全般に繰り返し登場する「成立しない会話」というモチーフの現れと捉えるのが、とりあえずはストレートだろう。たとえば、(0:34:00)には、ポーランド語を話す老夫婦と、彼らの言葉を理解できないスー=ニッキーを描いたシークエンスが存在する。「ポーランド語は理解できないし、話せない」というニッキーの主張などまるで省みることなく、夫=ピオトルケは「思ったより彼女(ニッキー)はあなた方の言うことを理解していると思いますよ(I-- I think she understands more than she lets on)」などと根拠のないことを言う。互いに意思疎通ができないでいるという点において、「老夫婦とニッキーの関係」と「ニッキーとピオトルケの関係」は「等価」であり、重なるものとして描かれていることは明らかである。スー=ニッキーとピオトルケは、つまりは妻と夫は、それぞれが「異なる言語」で話しているかのごとく、相手を理解できないでいる。夫=ピオトルケが話す内容は、スー=ニッキーにとって「わけのわからない」ものとしてしか解されないのだ。「以前は知っていた」はずの男が「何かを隠したり」「奇妙な振る舞いをとったり」といったことを含めて、「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーが話しているのは、夫=ピオトルケと自分の間に横たわる「コミュニケーション・ブレイクダウン」のことであり、「機能しない家族」の一要因のことなのである。

と同時に、そうした「夫に関すること」を話す間に差し挟まれるスー=ニッキーの「感想」めいたものも、同じくらい興味深い。

「何が起きたのか、あなたにわかってもらえるように話そうとしてるんだけど。問題は、何が先に起きたことで何が後に起きたことなんだか、さっぱりわからないことよ」「そもそも何が始まりだったのか、よくわからないのよ。頭の中をひっかき回されたみたいな感じ」

「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」として捉えるかぎりにおいて、このスー=ニッキーの台詞が物語るのは、つまりは「映画」に関連/起因する「見当識の失当」、特に「時間に対する見当識の失当」のことであるのは明白である。だが、ここで語られているのは、これまで現れた「ここはどこ?(Where am I)」などをキー・ワードにした「感情移入=同一化」の結果としての「時間に対する見当識の失当」とは、異なったもののように思える。 それを端的に表しているのが「わかってもらえるように話そうとしている」という発言が備えるイメージで、これは「受容する側」というよりはむしろ「記述する側」の立場に立ったニュアンスを内包しているといえるだろう。あえていうなら、これは「映画製作」時における「撮影の順序」に起因するものであるように思える。実際の撮影現場においては、作品内の「時系列」の優先順位は低い。つまり、多くの場合、シナリオで提示される時系列に従って、頭から順番に撮影が行なわれるとは限らないということだ。優先されるのはロケーションやセットの都合であり、極端な話し、たとえシナリオ上で二つのシーンの間に作品内では十年の月日が経っていたとしても、その舞台が同一ロケーション/セットであれば、連続して撮影されることも特殊なことではない。となれば、シナリオを読んでおらず作品の全体像を知らない者が映画の撮影順序だけを追いかけたなら、「何が先に起きて何が後に起きたのかさっぱり」で「そもそも何が始まりであったのかよくわからない」という感想を抱くことは間違いないだろう。

しかし、上記のような事項を考えた際、否応もなく思い浮かべてしまうのが「インランド・エンパイア」の製作にあたってリンチがとった、「あらかじめ完成したシナリオを用意しない」という方法である。今までも繰り返し述べたように、映像による「伝達」(それが具象的な「物語」であれ、抽象的な「概念」であれ)を機能させるのは、「編集」である。もちろん、特にハリウッドではプリ・プロダクションの段階でシナリオからストーリー・ボードを起こす等の検討作業が行なわれるケースがほとんどのようだが、実作業としてはポスト・プロダクションの段階で「素材」に編集作業が行なわれることで映像の「文脈」は最終的に成立する。純粋に「編集作業」のみに限定した場合、必要な「映像素材」さえ揃っているなら、あらかじめ完成されたシナリオが存在しようが、「インランド・エンパイア」のように断片的に用意されたシナリオによる撮影であろうが、実作業上は大差がないことになる。

……などと簡単に書いたが、理屈は理屈として現実を考えたとき、「インランド・エンパイア」の製作作業が非常に困難なものであっただろうことは想像に難くない。「リンチ1」で撮影中のリンチが吐露する「どのような作品になるか、まったくわからない」という「苦悩/泣き言」は、あらかじめ完成したシナリオを持ち、場合によっては撮影前にカット割りまで検討済みの状態で作品を作る場合には、比較にならないほど軽減されるであろうものだ。というより、「工業製品」であり「商品」である「映画」の側面、あるいは「投資の対象」としての「映画」の側面を考えると*、通常では考えられない方法論で「インランド・エンパイア」が作られたのは確かである。そう考えるとき、このスー=ニッキーが告白する「混乱」は、また違った意味を帯びてくる。これは、「インランド・エンパイア」を撮影中に、リンチ自身が抱えた「混乱」であり「苦悩」ではないのか。もしそうであるならば、これもまた、リンチの極私的な部分の作品への反映であるといえそうだ。

*しこたまマーケティング・リサーチをし、企画評価のプロを雇い、シナリオを書き直しまくり、巨額の資金を投入して、高いギャラの人気俳優をかき集め……それでもやはりコケるときにはコケるのが「興行」というものである。

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