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2008年4月

2008年4月30日 (水)

「それぞれのシネマ」日本版DVD予約開始のことなど

昨年の7月25日付けのエントリーで触れた「Chacun son Cinema」のDVDだが、なんと日本版が発売されることになり、すでに日アマゾンでも予約受け付けが始まっているのを発見。うわ、マジっすか。そんなの、もう出ないと思ってたよ(笑)。

それぞれのシネマ

邦タイトルは「それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~」で、税込\4,935のところを現在26%オフの予約価格で\3,652也。発売は7月4日、ここんとこリンチづいてる角川エンタテインメントから。

概要および経緯をざくっと説明しておくと、昨年のカンヌ国際映画祭は60回目の開催だっつーことで、それを記念して33人(ありゃ、最初35人って言ってなかったっけか?)の映画監督に「映画館をテーマにして、好きなもん作ってチョ」と3分間の短編映画製作を依頼して、オープニングでそれを上映したんでありますな。で、製作を依頼された監督のなかにはリンチも入ってて、その作品もこのDVDには収められていと、ま、そーゆー次第でございます。あ、リンチの作品は、YouTubeにも上がってた「映画館で、でっかいハサミがあるやら、バレリーナが踊るやら」とゆーヤツね。にしても、「インランド・エンパイア」を作ったばかりのリンチには、「映画館」というテーマはドンピシャだったんではないかと思いました。実製作的にも、ひょっとしたらほとんど手持ちの素材だけで作れたんじゃないかなあ、ホントのとこは知らんけど(笑)。

なんかその後出た北米版DVDにはリンチ作品が収録されていないとかいうウワサを耳にしたんで、米アマゾンからのお取り寄せはパスしてました。が、日アマゾンの作品紹介を読む限りでは、日本版DVDにはちゃんとリンチの作品は収録されているみたいであります。これで収録されてなかったら、即刻返品ですとも、ええ返しますとも、断固として拒否ですとも(笑)。

ちなみに、参加した33人の映画監督のリストは以下のとおり。

テオ・アンゲロプロス/オリヴィエ・アサヤス/ビレ・アウグスト/ジェーン・カンピオン/ユーセフ・シャヒーン/チェン・カイコー/マイケル・チミノ/デヴィッド・クローネンバーグ/ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ/マノエル・デ・オリヴェイラ/レイモン・ドパルドン/アトム・エゴヤン/アモス・ギタイ/ホウ・シャオシェン/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/アキ・カウリスマキ/アッバス・キアロスタミ/北野武/アンドレイ・コンチャロフスキー/クロード・ルルーシュ/ケン・ローチ/デヴィッド・リンチ/ナンニ・モレッティ/ロマン・ポランスキー/ラウル・ルイス/ウォルター・サレス/エリア・スレイマン/ツァイ・ミンリャン/ガス・ヴァン・サント/ラース・フォン・トリアー/ヴィム・ヴェンダース/ウォン・カーウァイ/チャン・イーモウ

……ぜいぜい(笑)。他の監督の作品で観たことがあるのは、これまたYouTubeにアップされていたクローネンバーグのだけ。カウリスマキやらキアロスタミやらアンゲロプロスやら(こりゃ、早口言葉だな)の作品も観てみたいんで、うーん、やっぱ、返品しないかも…… って、あら、気がついたら、いつの間にか日本版公式ホームページまでありやがりました(笑)。なんか5月17日から、「ユナイテッド・シネマ豊洲」で劇場上映までするみたいっス。

2008年4月29日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (75)

暦どおりの休みどころか、休日出勤だった大山崎でございます。わはは、見通しが甘かったなあ。まあ、計画性がなくて行き当たりばったりなのは、いつものことですが。ほんでは、これまた無計画に進む「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(2:32:15)から(2:36:39)まで。

このシークエンスの最初で……正確にいえば直前のシークエンスの最後のショットの途中で、視点が後退していくにつれて画面に(フェイクの)カメラが映し出され、今まで我々が「作品内現実」として受容していた「スー=ニッキーの死」が「フェイク=作品内非現実」であったことが明示される。今まで何度も「作品内現実のフェイク=作品内非現実」としての撮影シーンが提示されてきたのにもかかわらず、この「フェイクのカメラ」を目にするまで、「ハリウッド・ブルバード」のシークエンス自体が「フェイク」であることに我々は気づけない。演技者=ニッキーによる登場人物=スーへの「同一化=混乱」と、受容者=我々による登場人物スーに対しての「感情移入=同一化」が、実は「同質」のものであることがこの一連のシークエンスによって暴かれる。

細かいところでいえば、撮影が終わった後も、浮浪者(の演技者)たちは横たわっているニッキー=スーを「放置」するばかりか、浮浪者1と浮浪者3に至っては彼女をまたぎさえする始末である。この彼女/彼たちのスー=ニッキーへの「関知」の低さは、徹底的だ。気になるのが、キンクズレイ監督が持っていたメガホンに、「K」のイニシャルが書かれていることである。これは容易にキングズレイと「Mr.K」との関連性を連想させるが、いうれにせよこの両者が「介入/コントロール」イメージを付随させているという共通性を備えているのは確かだ。かつ、キングズレイの職業である「映画監督」という立場自体が「動物=自律性を保持しつつ、他者のコントロールを受けるもの」であるなら、ウサギたちとの関連性をうかがわせる「Mr.K」自身も(文字どおりの)「動物」であるという点で、まったく「等価」な存在であるといえるだろう。

クランク・アップした後も、ニッキー=スーはキングズレイを始めとするスタッフたちの称賛に応えようともしない。メイクのスタッフに顔を直してもらったり、男性スタッフから渡された青い上着をはおったりはするものの、追いかけてきたキングズレイの賛辞や抱擁にも反応を示さない。ニッキー=スーの、いや演技者=ニッキーの登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」は継続しており、彼女の「時間や空間に対する見当識」は失当したままであることがうかがえる。興味深いのは、ニッキー=スーが一度女性スタッフ手渡されかけたローブを断り、その後男性スタッフから「青い上着」を着せ掛けられていることだ。この後の「無人の映画館」の「赤い座席」と対置されるものとしてこの「青い上着」が用いられていることを考えると、このニッキー=スーの選択自体に明らかにリンチの意図が感じられる。このローブが、(2:06:30)の「スミシーの家」のリビングルームでスー=ニッキーが着用しているものと同一なのかどうか映像からは判別がつかない。だが、もし同一であるならば、このローブを断る行為自体が、あるいはニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の解体を示すものだとも受け取れなくもない。

これ以降、(2:35:49)からしばらく、「インランド・エンパイア」が提示するのは、演技者=ニッキーの「感情移入=同一化」が解体されていき、スー=ニッキーが演技者=ニッキーと登場人物=スーに再び分化していく過程である。そして、そこでも「観る者」と「観られる者」の関係……すなわち「視線の問題」が介在しているのは、以前にも述べたとおりだ。では、まず第一の「視線の問題」が表出するシークエンスを……ニッキー=スーとロスト・ガールによる「視線の交換」を、具体的な映像を追いかける形でみてみよう。

撮影ステージ4 外部 (夜)
(1)ステージの外壁を下方にパン。「4」という表示から、少し開けられたステージの扉まで。ニッキー=スーが開けられた扉のところに歩いてくる。
(2)ニッキー=スーのバスト・ショット。扉のところから外を見回す。
(3)ニッキー=スーの主観ショット。右へパン。道路を挟んで向かい側にあるステージの建物が見える。右手にはステージ5がある。その前にはバンが駐車している。ステージ5とその右隣のステージ6の間には、廃棄物の大きな収集容器がある。引き続き右へパン。少し開けられたステージ6の扉。ステージ6の前にもバンが駐車している。ニッキー=スーの前にも廃棄物収集容器が。
(4)ステージ4の扉のところからステージ6を見上げるニッキー=スー。何かを感じ取り、まっすぐにこちらを見る。

ロスト・ガールの部屋 内部
(5)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。
(6)ロスト・ガールの部屋にあるモニターのアップ。画面には、ニッキー=スーがモニターの中からロスト・ガールの方を見ている映像が映し出されている。
(7)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。

ステージ4 外部 (夜)
(8)ステージ4の扉のところにいるニッキー=スーのバスト・ショット。しばらくこちらを見詰めた後、右の方を向く。

ロスト・ガールの部屋 内部
(9)ロスト・ガールのアップ。涙を流している。

ステージ4 外部 (夜)
(10)ステージ4の外に出るニッキー=スー。ローマ風の柱と赤いカーテンが見える(カット(1)-(4)では存在せず)。柱とカーテンの間を通り、左手の画面外に消えるニッキー=スー。

カット(1)によって「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影が行なわれていた場所が「ステージ4」であったことが、その建物の扉にある「4」という数字によって明示される。これまでもみてきたように、「インランド・エンパイア」には何度となく「4」のついた数字が登場してきた。「中断された映画」のタイトルとして提示された「4-7」、ポーランド・サイドのロスト・ガールの「家」がある建物の表示「40」など、どれも「普遍」「一般性」あるいは「抽象性」を表す記号として「4」のつく数字は登場している。ここでも、この撮影ステージが「抽象的な場所」として、つまり「撮影ステージの抽象概念」として登場していることが、この「4」という表示番号によって表されている。そのことは、カット(3)において、他の番号表示がついたいくつかの撮影ステージがニッキーの主観ショットによって提示されることによっても、明らかだ。たとえば(1:14:39)における「建物」のショットと、このカット(3)は同一の構造を備えている。ロコモーション・ガールによってポーランド・サイドに誘導されたスー=ニッキーが、「ストリート」を挟んて向かいの「建物」を望むショットによって表象されていたのは、「不特定多数の家=普遍」と「スミシーの家=個別例」の関係性だった。このカット(3)においても、「他の撮影ステージ」と「ステージ4」が「普遍」と「個別例」の関係にあること、そしてどちらも「撮影ステージ」という抽象概念の構成要素であることが表されている。「家」の中で発生している事象がすべて等価であるように、これらの「撮影ステージ」の内部で起きている事象もやはり「等価」であり、そこにはまた別のニッキーやスーがいる可能性が暗示されているのだ。

ついで、カット(4)でニッキー=スーが何かを感知して、画面のほうに(つまり我々のほうに)「視線」を向ける。その先にあるものはロスト・ガールの「視線」であることが次のカット(5)で明らかにされ、カット(6)ではこの二人が「モニター画面」を介在させた「視線の交換」を行なっていることが提示される。第一義的に捉えるなら、これは「観る者」「観られる者」の関係性が、つまり「受容者」と「登場人物=演技者」の関係性が、この両者によって認識されたことを表すものだ。言葉をかえれば、今まで「感情移入=同一化」によって「受容者=登場人物=演技者」という具合に完全な等号で結ばれていた関係性が、ここにきて崩れ始めるのである。そうした観点に立ったとき、カット(4)のニッキー=スーが「我々」のほうに「視線」を向けるという表現そのものにも、巧妙なものを感ずにはいられない。このショットによって、我々は気づいてしまうのだ……「インランド・エンパイア」を観ている「我々自身」と「ロスト・ガール」は「不特定多数の受容者」として「等価」であり、「我々自身」もまた「一般的受容者の抽象概念」のなかに呑み込まれる存在であることを。

続いてカット(8)では、ニッキー=スーが右手を向き、ロスト・ガールとの「視線の交換」は切断される。その視線の先にあるものは、以降のシークエンスで提示されるように、「映画館」に通じる階段へと続く通路である。ニッキーが獲得した「観られる者」としての認識を土台として、「イメージの連鎖」はTVモニターという「観られる場所」から離れ、彼女の本来の「観られる場所」……つまり(リンチにとって)本来「映画」が観られる場所である「映画館」へと移行していくのだ。

同様に、ロスト・ガールの「感情移入=同一化」も変容していくであろうことが、カット(9)の映像によって示される。彼女の「視線の交換」による「観る者」としての認識の獲得は、ある意味で皮肉ですらある。ロスト・ガールは自らが「観る者」であることを、TVモニター越しにニッキー=スーによって観られること……つまり、「観られる者」になることをとおして獲得しているからだ。ちょうど我々がスー=ニッキーに対して「感情移入=同一化」していることを、その「感情移入=同一化」を切断されることによって認識したのと同じく、ロスト・ガールは観られることによって逆に自分が「観る者」であることを確認する。

カット(10)では、「赤いカーテン」と「白い柱」が突如として登場する。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影現場として具象的に理解できるかと思った「ステージ4」も実は抽象的な場所であり、「心象風景」であったことがこの映像によって明示される。この「赤」のモチーフについてはもう詳述しないが、当然ながらこの「赤いカーテン」はクラブの裏通路に下がっていたものと「等価」である。そのクラブがカロリーナを始めとする「誘導」のイメージや「中間地点」のイメージを付随させていたことを考えるなら、ここで現れる「赤いカーテン」もまたニッキー=スーを「無人の映画館」に誘導するものとして捉えられるだろう。「白い柱」は次の「無人の映画館」のシークエンスやロスト・ガールがTVモニターを観ている部屋にも認められ(2:47:56)、映画館とその部屋が「観る場所」としての共通性を備えていることを表すとともに、「中間地点」としてのこの「通路」の性格を伝えているといえる。

2008年4月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (74)

ゴールデン・ウィーク突入にも関係なく進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話である。マコトにもって季節感に乏しいブログであるなあ……と我ながら感心したり呆れたり(笑)。今回も前回と同じく(2:23:26)から(2:32:06)までのシークエンスのうち、(2:29:18)からのパート3をば分解したり組み立てたり。

そして、三つ目のパートで提示されているのは、「スー=ニッキーの(フェイクの)死」だ。かなり長くなってしまうが、パート1およびパート2との比較検証のために、あえて省略せずに引用してみる。

(38)歩道によつんばいになるスー=ニッキー。
(39)浮浪者1のアップからクローズ・アップへ。
(40)スー=ニッキーと浮浪者1のツー・ショット。.歩道に血を吐くスー=ニッキー。
(41)浮浪者1のアップ。彼女にクローズ・アップ。彼女は血を吐くスー=ニッキーを見詰めている。
(42)なおも血を吐くスー=ニッキー。
(43)浮浪者2のバスト・ショット。フレームの右寄り。彼女もスー=ニッキーを見詰めている。
(44)浮浪者1のアップ。
(45)ミドル・ショット。閉ざされたシャッターの前の浮浪者1、スー=ニッキー、浮浪者2、浮浪者3。スー=ニッキーが体を横転させて、また仰向けになる。浮浪者1の枕に頭を乗せるスー=ニッキー。
(46)浮浪者1のアップ。彼女はスー=ニッキーを見ている。
(47)浮浪者2と浮浪者3のアップ。彼らもスー=ニッキーを見ている。
(48)上方からの浮浪者1とスー=ニッキーのツー・ショット。スー=ニッキーにクローズ・アップ。腹部を押さえながら上方を見詰め、あえいでいるスー=ニッキー。
スー=ニッキー: [うめき声]
(49)浮浪者2と浮浪者3のアップ。スー=ニッキーを見守っている。
(50)浮浪者1とスー=ニッキーのツー・ショット。 血で汚れた口を弱々しく動かすスー=ニッキー。浮浪者1がやさしくスー=ニッキーの髪に触れる。
浮浪者1: It's okay. You dyin' is all.
スー=ニッキーの顔のクローズ・アップへパン。
(51)浮浪者1のアップ。顔を伏せたあと、再びスー=ニッキーを見詰める。
(52)スー=ニッキーのアップ。彼女の顔の前に延ばされた浮浪者1の手。その手には使い捨てライターが握られている。ライターの火をつける浮浪者1。それに本能的に反応してスー=ニッキーは少し頭をひき、急なまばたきを二回する。
(53)浮浪者1のアップからスー=ニッキーのアップにパン。ライターの火がほのかにスー=ニッキーの顔を照らしている。スー=ニッキーはゆっくりと頭を動かしてライターの炎を見ようとする。
(54)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: I'll show you light now.
(55)スー=ニッキーのアップ。ライターの炎を見詰めつづけている。
浮浪者1: (画面外から) It burns bright forever.
(56)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: No more blue tomorrows.
(57)スー=ニッキーのアップ。ライターの炎を見詰めつづけている。
(58)浮浪者2と浮浪者3のアップ。二人はスー=ニッキーと浮浪者1を見詰めている。
(59)浮浪者1とスー=ニッキーのアップ。
浮浪者1: You on a high now, love.
(60)浮浪者3のアップ。彼は浮浪者2とスー=ニッキーを見詰めている。
(61)スー=ニッキーの顔の前のライターの炎と、ライターを握った浮浪者1の手のアップ。
(62)浮浪者1のアップ。
(63)スー=ニッキーの顔とライターの炎のアップ。口を開け、目を閉じるスー=ニッキー。ライターの火を消す浮浪者1。頭を少し右に倒して、息をひきとるスー=ニッキー。ライターを持つ浮浪者2手とスー=ニッキーの顔にパン。浮浪者1の手が左手に引っ込み、画面外に消える。
(64)浮浪者2と浮浪者3のアップ。スー=ニッキーを見詰めている浮浪者2。

さて、他のパートとの比較においてパート3をみたとき、顕著に認められる相違点が、スー=ニッキーが現れるショットの「頻度」である。具体的にあげるなら、パート1ではスー=ニッキーが映像として登場するのは6カット、パート2では1カットであるのに対し、パート3では13カットに及ぶ。少しでもスー=ニッキーが映されているカット数をパーセンテージでみるなら、パート1で約29%、パート2で約6%、パート3で約53%といった具合だ。

このようにして観る限りでは、パート1とパート2では、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の主人公であるはずのスー(そしてニッキー)が、一般的受容者である浮浪者たちから(そして「インランド・エンパイア」という作品自体から)あまり「関与」されていないこと、特にパート2では「放置」に近い扱いを受けていることがわかる。スー=ニッキーと三人の浮浪者たちの間には「会話」もなく、「視線の交換」すら行なわない。ほとんどのショットでスー=ニッキーは上方を見たままなので、彼女は浮浪者たちから一方的に「観られる」ばかりである。

敢えて抽象的に捉えるなら、これらの諸表現もまた「観られる者」としてのスー=ニッキー(登場人物=演技者)の表れであり、かつ浮浪者たちが付随させる「傍観者のイメージ」の表れである。しかも、腹部から血を流して倒れているスー=ニッキーに向かって「あんた、死にかけてるよ(You dyin', lady)」とまったく無表情に浮浪者1が声をかけたきり、目の前の出来事とは関係のない会話を続ける彼女たちの姿は、どう考えても「積極的な受容者」ではなく、どちらかといえば、自宅のTVモニターで(映画を含む)番組を眺めながらあれこれと会話を交わす、「受動的な視聴者」に近いものを思わせる。もしそうあるならば、これもまた、「インランド・エンパイア」が描く「映画受容の形の変化」……「映画館での鑑賞」から「自宅での視聴」への移行……を表す映像のひとつであることになる。

となると、感じずにはいられないのが、同じく「不特定多数の一般的受容者」の表れであるはずのロスト・ガールと、浮浪者たちの「受容姿勢の落差」だ。TVモニターで「映画」を受容」をしつつも、ロスト・ガールが涙を流すほど「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語に(そしてスーザンに)「感情移入=同一化」を果たしているのに対し、浮浪者たちはそこまで至っていないことをその「関与」の薄さで露にしている。この「差異」が、まさしく浮浪者たちが話していた「ポモナ行きのバスがあるかないか」=「『感情移入=同一化』の程度の差異」であることは、改めて指摘するまでもないだろう。浮浪者たちは、「台詞」だけでなくその「行為」によっても、受容者各人によって程度が異なる(=バスが存在したりしなかったりする)「感情移入=同一化」の問題について提示しているのである。

そのことは、このパートにおいても、絶命しつつあるスー=ニッキーへの浮浪者たちの反応がバラバラであることによって表されている。さて、三人の浮浪者たちのなかで、誰がもっとも深く「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に「感情移入=同一化」しているのだろうか?

パート3のカット(45)以降を観る限り、三人のなかでスー=ニッキーに(それは、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に、ということだが)もっとも関与しているのは、浮浪者3であるようにみえる。「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」と捉えるとき、カット(63)で浮浪者1が絶命するスー=ニッキーにライターの炎を見せる行為からまず思い当たるのは、「映画の物理的成立要素」……すなわち「光と影」のことだ。少なくとも、「映画館」での上映という形で「映画」というメディアが存続する限り、その「(アーク・ライトの)光」は永遠である。そして、ライターの火が消され、「光」が消滅することは、すなわち「映画作品の終わり」を意味すること、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が完結したことの表れとして捉えられる。だが、「受動的な視聴者」として浮浪者1を位置付けたとき、この「ライターの炎を消す行為」が「TVモニターの電源をリモコンで消す行為」に重なってみえるのは、うがちすぎだろうか? いずれにせよ、同じく「一般的受容者」であるロスト・ガールがTVモニターを通じての受容を行ない、その画面上に映し出される映像がザッピングされたり早送りされたりしている(0:03:21)のに対し、「インランド・エンパイア」において「映画館」で映像を観ている直接描写があるのは、(2:36:49)におけるスー=ニッキーだけであるのは確かなのだ。

浮浪者1が言及する「もう憂鬱な明日はこない」「あなたは高いところにいるのだから」という台詞は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」が内包する「物語」の中のものとして、つまり登場人物=スーに対して発せられたものとして、まずは具象的に理解されるかもしれない。だが、同時に、「インランド・エンパイア」が抱える抽象性を考えたとき、また別な意味をもって登場人物=スーに向けられていると考えられることは、結末近く、「Rabbitsの部屋」に立ち尽くす登場人物=スーの姿によって明らかにされる。また同時に、この言及が演技者=ニッキーにも向けられたものであることは、結末近くおよびエンド・ロールに現れる「青いドレス姿のニッキー」によって明らかにされる。これらの事項については、該当するシークエンスについて触れる際に詳述したいと思う。

(というわけで、やっとこの項、おしまい)

2008年4月24日 (木)

カンヌのポスターはダークでブロンド

本日じゃないけどDugpa.comネタ。

「第61回カンヌ国際映画祭」の公式ポスターが公開された。現物はこんな感じ。

cannnepos
デザインそのものはフランス人ポスター・アーチストのPierre Collier氏の手になるものなのだけど、「リンチの写真作品にインスパイアされた感じ」ってのがコンセプトであるらしい。リンチの功績を讃えてっつーことで、そーゆーことになった次第なんだそうだ。運営側は「リンチの映画作品と同じトーンを伝えている」と自画自賛気味のコメントをしたりしとりますが、うむ、確かに金髪で真っ暗けで「マルホランド」な感じですな。どうせなら「Distorted Nudesシリーズ」みたいに、女性の体がグニョーってなってたりウニューってなってたりしたら、もっとよかったんですけどね。あ、それじゃ、フランシス・ベーコン・トリビュートになっちゃいますか、そーですか(笑)。

いっそのこと、会場のデコレーションまで「リンチ風味」にしてくんないですかね? 海岸にビニール包装の死体を並べたりとか、スタッフが全員「白塗り」でビデオ・カメラ担いでたりとか。二度とカンヌで映画祭が開催できなくなるかもしんないけど(笑)。

2008年4月23日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (73)

世の中はもーすぐゴールデン・ウィークであるらしいのだが、今のとこ、なーんも予定がない大山崎であります。うーむ、暦どおりに出社な予感がしますでございますなあ、これは。てな私事はさておき、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話の続き。前回と同じく(2:23:26)から(2:32:23)まで。このシークエンスが大きく三つのパートに分けられると思われるのは前回述べたとおりで、今回はそのパート2(2:26:38)をば、いじくりたおしてみる。

さてこのパート2で主に提示されているのは、浮浪者2によってなされる「友人Niko」に関する言及である。まずは、これに関係した具体的映像および台詞を引用してみよう。

(20)浮浪者2: I went on the bus to Pomona last summer...
(21)スー=ニッキーのアップ。苦悶の表情。
浮浪者2: (画面外で) to visit my friend who lives there.
(22)浮浪者2:
(微笑みながら) Her name is Niko, I stayed for two weeks.
(23)浮浪者1:
My cousin comes from Pomona.
(24)浮浪者2のアップ。
(25)浮浪者1のアップ。
浮浪者1: She has a place there and said I can stay there. (少し黙ってから) What time is it?
(26)浮浪者2:
I don't know... it's after midnight.
(27)浮浪者1:
After midnight?
(28)浮浪者2:
My friend Niko... who lives in Pomona has a blonde wig... she wears it at parties... but she is on hard drug and turning tricks now.
(29)浮浪者1のアップ。
浮浪者2: (画面外で) She looks very good in her blonde wig...
(30)浮浪者2:
just like a movie star. Even girls fall in love with her... when she is looking so good... in her blonde star wig. She blows kisses and laughs... but she has got a hole in her vagina wall...  [自動車の通行音] she has torn a hole into her intestine from her vagina.
浮浪者3: (背後から浮浪者2に) Shit, baby.

彼を振り返る浮浪者2。浮浪者3にパン。
浮浪者3: Why you tell us that shit.
(31)浮浪者2のアップ。浮浪者3を振り返った後、顔を伏せ気味に正面を向く。
浮浪者2: (再び浮浪者3を振り返りながら) She has seen a doctor, (前を向いて) but it is too expensive... and now she knows her time has run out.
(32)浮浪者1のアップ。
(33)浮浪者2:
She score a few more times... and then, like that... she will stay her home with monkey... (浮浪者3を振り返って) she has a pet monkey...  (再び正面を向き) This monkey shit everywhere, but she doesn't care...
(34)浮浪者1のアップ。
(35)浮浪者2:
This monkey can scream... it scream like it in a horror movie. (浮浪者3を振り返る)
(36)横たわっているスー=ニッキーの上方からのバスト・ショット。身を起こしてよつんばいになろうとしている。
(37)浮浪者2:
But there are those who are good with animals... who have a way with animals...

といった具合に、前パートの「ポモナ行きのバス」からの続きとして、浮浪者2による「ポモナに住む友人Niko」についての言及が行なわれている。このNikoに関するものとして述べられる「(偽)ブロンド嗜好」や「同性愛」、そして「薬物」や「性障害」などといった事象が、いわゆる「ハリウッド伝説」の構成要素を指し示していることは容易に想像がつく。リンチ作品においては、たとえばラジエーター・ガールやミステリー・マン等のように、ある「概念」が「登場人物」の形をとって現れることがあることを考え合わせると、この「友人Niko」を「『ハリウッド伝説』の抽象概念」を表す存在として捉えるのは、決して的外れではないはずだ。

と同時に、このあたりから、「三人の浮浪者たち」によって表されるものがなんであるか自体が、ぼんやりと立ち表れてくる。結論からいうと、彼女/彼たちは、「不特定多数の受容者」の抽象概念の一部として(つまりその「個別例」として)描かれているのだ。そもそも彼女/彼たちが「ヴァイン・ストリート」の歩道に(そしてそこに埋め込まれた「星々」の前に)、何をするでもなくあるいは寝そべりあるいは座り込んでいる映像から読み取れるのは、彼女/彼たちが付属させる「傍観者」のイメージだ。かつ、(25)で浮浪者1が「時刻」を尋ね、(26)で浮浪者2が「わからないけど、真夜中過ぎ」と答えることに表れているように、彼女たちが「感情移入=同一化」に起因する「時間に対する見当識の失当」を抱えていることも明らかである。前パートで浮浪者たちが議論していた対象が、決して「特定の人物」に帰属する「乗用車」ではなく「不特定多数の乗客」が乗る「バス」であることも、彼女/彼たちの「不特定性」「一般性」の表れとといえるだろう。

もし、この浮浪者たちを「不特定多数の一般的受容者」の一員とみるなら、当然ながら彼女/彼たちはロスト・ガールと「等価」であり、「併置」あるいは「対置」される存在であることになる。とはいえ、具体的な映像から読み取る限り、ロスト・ガールと浮浪者たちの間の差異はある意味で明瞭だ。その外見が表すように、彼女/彼たちは基本的にマイノリティに属し、それは浮浪者1と浮浪者2が話す「ブロークンな黒人英語」と「日本語訛りの英語」という形でも表れている。当然ながらこの「亜-異言語」は「成立しない会話」のヴァリエーションであるわけだが、このシークエンスにおいてより重要なのは、「英語すらも怪しい」浮浪者が……わざわざ[speaking English]とテロップが出るほどおぼつかない英語をしゃべる浮浪者2が、「友人Niko=ハリウッド伝説の混交物」について延々と語り続けるという表現そのものだ。こうした表現を通じて読み取れるのは、「ハリウッド映画の世界覇権(あるいは世界標準化)」および「その関連情報の拡散/伝播」である。後者が、前述したロスト・ガールに対する「マリリン・レーヴェンス・ショー」との係わりとも関係しているのはいうまでもない。「作品そのもの」あるいは「作品に関する情報」だけではなく(あるいはその一部として)、それに出演する「演技者=スターたちに関する情報」もまた伝播されると同時に共有され、場合によっては「伝説」と化して「感情移入=同一化」の対象となるのだ。この観点に照らすなら、前述した「成立しない会話」のモチーフも、このシークエンスにおいてはまた別な意味合いを帯びてくることになる。それはすなわち、「ハリウッド映画」が相互コミニュケーションも怪しいような幅広い層に受容されていることを補強する表現だ。

その一方で、浮浪者2にとって関心の対象となりうる「ハリウッド伝説」も、(30)の発言にあるように、浮浪者3にとっては「ヨタ話(shit)」でしかない。「作品に対する感情移入」と同じく、「ハリウッド伝説」もまた「ポモナ=感情移入の成立するところ」あるいは「インランド・エンパイア地区=受容者の内面」の領域に成立するものである限り、それを共有できる者とできない者がいるのは当然といえば当然なのだ。そう考えるとき、「見掛け上の問題」や「言語の問題」に留まらない、ロスト・ガールと浮浪者たちの「受容者としての差異」がみえてくる。そして、それが映像として明確に提示されるのが、三つ目のパートである「スー=ニッキーの(フェイクの)死」のシークエンスなのだが、それについては後述しよう。

面白いのは、カット(23)(25)で言及されているように、黒人女性である浮浪者1の「いとこ」もポモナに住んでいるらしいことである。さて、この「いとこ」が「従兄弟」であるのか、それとも「従姉妹」であるのか、非常に興味深いところだ。いずれにせよ、浮浪者1もまた、彼女なりの「作品に対する感情移入=同一化」をその「内面」に抱え、彼女なりの「ハリウッド伝説」を「共有」していることは間違いない。

また、このパートにおいても、「動物」に関する言及が「Nikoの飼う猿」という形でなされる(カット(33))。この言及からまず最初に連想されるのは、リンチのフェイヴァリット映画である「サンセット大通り」(1950)に登場する、「猿の葬儀」のエピソードだ。ノーマ・デズモンドの屋敷に迷い込んだ主人公ジョー・ギリスは、彼女が飼っていた猿の葬儀の打合せをするために訪れた葬儀屋と間違えられ、死んだ猿を見せられる。そして、そのまま彼女の屋敷に泊まった主人公は、夜中に、猿が庭に埋葬されるところを目撃するのである。デズモンドという失墜したスターの奇矯ぶりを表すエピソードであるとともに、その猿と同じように「飼われる」主人公の末路(それは冒頭に提示されているのだが)を暗示するエピソードでもある。はたして、この猿と主人公の「飼われる」という「等価性」と、「インランド・エンパイア」で繰り返し言及される「動物=自立性を保持しつつ、他者のコントロールを受ける存在」という概念が、リンチのなかで重なっているのかどうか。

だが、「Niko」によって表されるものを「受容者が抱く『ハリウッド伝説』の抽象概念」と捉える限り、ここで語られている「動物」は、受容者からみた「映画作品」あるいは「映画業界」そのものを指していると捉えるのがもっとも妥当なように思われる。となれば、「家で猿を飼う」という行為が何を指すのか、ぼんやりとながら理解できてくる。やはりここでも思い浮かぶのは、自宅のモニターでの鑑賞が主流になった「映画受容の形」であり、「関連情報」の氾濫である。また、「映画作品」に対する「コントロールの欠如」の結果が「猿があちこちに糞をする」行為として表象されるが、しかしNikoにとってそれは「気にならない」。なぜなら「ハリウッド伝説」である彼女にとって、「失敗した作品」そのものも(ひょっとしたら「中断された作品」をも含めて)その「伝説」の一部でしかないからだ。一方で、ちょうどその裏返しである「動物を扱うのが上手な者」の存在もここで言及されるが、実はそれもまた「ハリウッド伝説」を構成する一部に他ならない。このNikoの「傍観者」的なスタンスは、「スミシーを誰が演じるのか」をずっと気にしている「90歳の姪」(0:40:59)の対極にあるものといえる。Nikoはあくまで受容者の側に寄り添い、「90歳の姪」は作り手の傍らに立つのだ。

(てなことで、この項まだまだ終わらず)

2008年4月21日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (72)

まいどお粗末ながら一席、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」話でございます。今回は(2:23:26)から(2:32:23)までをば。

さて、腹部を刺されたスー=ニッキーは、「スクリュー・ドライバー」を抜き、ドロシー・ラムーアの「星」の上にそれを捨てて、「ハリウッド-ヴァイン」の交差点方向へと向かう。ドロシー・ラムーアについては、彼女の経歴を含めて何度か述べたので、ここでは詳述しない。

いずれにせよ、ここでドロシー・ラムーアの「星」が出てくることは、ニッキーの「自己認識」が、彼女の「女性」としての部分と「演技者」としての部分で重なり合っていることの具体的提示として受け止めていいように感じる。このあたりは(そのこと自体の是非はともかく)、「観られる者」としての「女性」と「演技者」の共通項として、つまり「性的なものの対象」として、ニッキーとロスト・ガールとスーザンが「感情」を共有していることの表れと受け止めるべきなのだろう。そのうえで留意しなければならないのは、ロスト・ガールの共感がまず登場人物=スーの「女性」の部分に向けられているのは当然として、同じように演技者=ニッキー個人の「女性」の部分にも向けられていることだ。登場人物であるスーを介して形成される「感情移入=同一化」だけでは「女性」と「演技者」を等号で結ぶことはあるいは難しいが、これに「演技者」個人に対する「受容者」の感情移入の要素が入ってくることで、その結びつきが補強されている。つまり、受容者=ロスト・ガールの「感情移入=同一化」は、「女性」としてのニッキーと「演技者」としてのニッキーの両方に向けられており、そのあたりを示唆しているのがたとえば「マリリン・レーヴェンスのTVショー」(0:20:45)のによって提示されるものであるわけだ。当然ながら、この番組を受容しているのもロスト・ガールなのである。

また、興味深いのは「赤信号のハリウッド・ブルバード」と「青信号のヴァイン(Vine)」の対比(2:24:10)である。もちろん、これが「赤と青のモチーフ」の表れであることはいうまでもないが、問題となるのはその提示のされかたである。この二つがこの場所において並列して提示されていることは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」がこの二つによって表されていることを表しているだけではなく、現時点においてこの二つが揃っていることの表れでもある。つまり、ウサギたち/老人たち/Mr.Kによる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入/コントロール」は効を奏し、その「物語展開」と「心理展開」は完全に合致し連動しているのだ。また、「Vine」は同一の発音である「vain(空虚な、中身のない、詰まらない)」を連想させるものだ。はたしてリンチがそれを意図したかどうかはわからないが、「ハリウッドは空虚で詰まらない」という揶揄を想起させる標識が実在すること自体があるいは大きな皮肉であり、なおかつハリウッド側が赤信号でありヴァイン側が青信号であることには、意図的なものを感じずにはいられない。あるいはこの標識は近在の者にとっては常套句的なジョークの対象であるのかもしれないが、それについてはもっと詳しい報告者を待ちたい。

また、Vine側の歩道を渡ったところで、スー=ニッキーの主観ショットとして映し出される店の看板が「HOLLYWOOD STAR FOOD MARKET」であるところなど、思わず訪問者1による「市場(いちば/しじょう)」への言及(0:15:10)への連想を促されると同時に、「映画」という「工業製品/商品」についての、あるいは「演技者」という「商品」についての皮肉を感じずにはいられない。

なにはともあれ、このようにして、スー=ニッキーは「ヴァイン・ストリート」の歩道で、三人の浮浪者たちの間に横たわる。このシークエンスはかなり長く、そこに表れているものも非常に複合したものであるといえる。あえて「構成要素」として分解するなら、このパートで表象されているものは大きく三つに分けられるように思われる。ここでは、それにしたがってこの(2:24:41)からのシークエンスを三つのパートにわけ、順を追ってみていくことにする。

まず、一つ目のパートは、「ポモナ行きのバス」が存在するかどうかの議論である。そのパートに対応する具体的な映像と台詞を引用してみよう。

(1)倒れこんだスー=ニッキーを見る浮浪者2(アジア系女性)と浮浪者3(黒人男性)。
(2)横たわったまま頭を上げて、倒れたスー=ニッキーを見る浮浪者1(黒人女性)。浮浪者1へクローズ・アップ。
(3)赤いシャツに茶色いジャケットのスー=ニッキーの腹部のアップ。腹部を押さえた彼女の左手は血にまみれている。彼女の左手の手首には、黒い革に銀色のリベットがうたれたブレスレットが見える。
(4)口を半開きにし、どこか上方を見上げているスー=ニッキーの顔のアップ。
(5)浮浪者1のアップ。

浮浪者1: You dyin, lady.
スー=ニッキーのアップから腹部までパン。
(6)浮浪者1のアップ。スー=ニッキーを見詰めている。
(7)スー=ニッキーの顔から浮浪者3と浮浪者2へのパン。二人の浮浪者の背後には、別の男性浮浪者が見える。彼は通りの方をまっすぐに見詰めている。
(8)浮浪者1のアップ。スー=ニッキーを見詰めている。
(9)スー=ニッキーを見詰めている浮浪者2のアップ。彼女の背後では浮浪者3もスー=ニッキーを見詰めている。浮浪者1の方に目をやる浮浪者2。
(10)
浮浪者1:(浮浪者2に) What you say about Pomona?
(11)浮浪者2のアップ。浮浪者1の言ったことを理解しようとしている。

浮浪者1: (画面外から) What you say about Pomona?
(12)浮浪者2:
(浮浪者1に) You asked about the bus.
(13)浮浪者1:
Can't get no bus to Pomona.
(14)浮浪者2:
You can get the bus for Pomona here... If you get on the subway first.
(15)浮浪者1:
I never can get no bus.
(16)浮浪者2:
(しばらく黙ってから) You can go all around Hollywood...
(17)スー・ニッキーのアップ。どこか上方を見詰めている。

浮浪者2: (画面外から) where I was, from Hollywood and Vine...
(18)浮浪者2:
and you can get to Pomona for $3.50... from Hollywood and Vine to Pomona.
(19)浮浪者1:
I never heard of no bus there.
(20)浮浪者2:
I went on the bus to Pomona last summer...
(21)スー=ニッキーのアップ。苦悶の表情。

浮浪者2: (画面外で) to visit my friend who lives there.

まず、カット(10)でいささか唐突に浮浪者2が口にする「ポモナ」についてである。「ハリウッド・ブルバード」および「インランド・エンパイア地区」との位置関係が形成するアナロジーに基づき、この「ポモナ」が受容者の「感情移入=同一化」そのものを表していると捉えられることについては以前にも述べたとおりだ。この観点に基づくなら、スクリュー・ドライバーで刺されたあとスー=ニッキーが辿った道程が表すものも、(これまた以前に触れたように)なんとなくみえてくる。彼女がとった行動が表すものは、「ハリウッド・ブルバード」から「ポモナ」へ、そして「インランド・エンパイア」へと向う試みである。言葉をかえれば、演技者=ニッキーの「内面」である「ハリウッド・ブルバード」から出発し、「感情移入=ポモナ」を経て、受賞者の「内面」である「インランド・エンパイア地区」まで、彼女が獲得した「自己認識」と「感情」を伝えようとする行為だ。また、「映画というメディアそのもの」という観点から捉えるなら、「感情移入装置」としての「映画」が、受容者に「感情」を伝達する道程をこの三つの場所の位置関係に重ねているのだともいえる。

その一方で、この「バスに関する議論」は、「インランド・エンパイア地区」に関する言及を残し、「バルト海地方」から姿を消した「ファントム」の行方を想起させるものだ。その後、彼が「スミシーの家」の隣家に到達したことが明示されていることからわかるように(1:59:39)、「インランド・エンパイア地区」というスー=ニッキーと同じ目的地があるものの、彼が辿った道程は彼女とはまったく異なっている。つまり、スー=ニッキーの道筋が「個=ハリウッド・ブルバード」から「普遍=インランド・エンパイア地区」へというルートであったのに対し、「ファントム」は「普遍=ポーランド・サイド」から「個=アメリカ・サイド」へという具合に逆方向を辿っているのだ。あるいはこのあたりに、「映画」というメディアに対するリンチの考えが表されているのではないかと思うのだが、どうだろうか。個々の作品が内包するのはあくまで登場人物に関連する「個」の事象だが、そこに「映画」というメディアが介在することで(そしてその「映画の魔法」が働くことで)、その「個別」の事象は「不特定多数の受容者」に共有され「普遍化」する。こうした「質的変化」は、「受容者」の「作品への関与」によって、言葉をかえれば「作品に対する解釈」によって成立するものであることが、このファントムが辿った「普遍=一般的受容者」から「個=演技者/登場人物」へのルートとして描かれているわけだ。

当然ながら、そこにさまざまな受容者がおり、さまざまな作品がある限り、この「道程」が完結せずに「無益(vain)」に終わってしまうこともあるはずだ。「作品」に対する「コントロール/介入」の失敗、受容者の「関与能力の欠如」、あるいは「製作が中断された映画」……「ポモナ行きのバス」が浮浪者2には存在し、浮浪者1には存在しないことに表されているように、この「伝達」が成功するかどうかは、「作品」と「受容者」の関係性に帰着する。

そして、このように正反対の二つのルートが並列して描かれていること自体が、「インランド・エンパイア」が、「映画を作ることの映画」であると同時に「映画を観ることについての映画」でもあることの表れであるといえるだろう。この二つのルートがともに「インランド・エンパイア地区」という最終目的地を目指していることに、「(映画監督や演技者を含めた)創作者」と「受容者」による「感情の共有」の姿が……リンチが理想とする「映画というメディア」の姿が現れているとみるのは感傷的過ぎるだろうか。

(この項、思いっきり続いたりする)

2008年4月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (71)

止まったり進んだり、気長にじわじわーと進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。今回は(2:20:08)から(2:23:26)までをば、「よいではないか、よいではないか」とあーしてみたりたりこーしてみたりすることにする。

「Mr.Kのオフィス」を出た後、スー=ニッキーは再び「階段」を下りる。このシークエンスは二つのショット……片方は階上から、もう片方は階下から階段を下りるスー=ニッキーをとらえるという構成になっているが、後者のショットでは彼女は息を荒くしており、この「階段」の長さを表している。(2:20:08)-(2:20:26)

続いて、「クラブ」の裏口から「ストリート」へと通じる裏通りに出る、スー=ニッキーのショットが提示される。位置関係からして、この「裏口」はカロリーナによってスー=ニッキーに指し示された「非常口(EXIT)」(2:14:05)であることが、その奥にのぞく「赤いカーテン」とともにみてとれる。そのまま、彼女は行き交う車や人通りが認められる「ストリート」の方向へと歩き去る。「Mr.Kのオフィス」おける「介入/コントロール」が終了し、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が、それと連動する「心理展開」とともに再び展開し始めたのだ。(2:20:06)-(2:20:40)。

その後、(2:20:40)からシークエンスは「ハリウッド・ブルバード」へと舞台を移す。この「ハリウッド・ブルバード」のシークエンス全体をどう捉えるかに関しては、これまたいろいろな考え方があるように思える。

たとえば、もっとも具象的に捉えるなら、「ハリウッド・ブルバード」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品の「ロケーション現場だ」ということになる。この見方に従えば、「インランド・エンパイア」によって提示される映像は、イコールその「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という映画作品の映像」であるか、さもなければ「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という映画作品の撮影風景の映像」のどちらかであるということだ。確かにこうした理解の範疇で「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスを観れば、そこで提示されている映像を「女優による現実と虚構の混同である」と捉えてしまうことも理解できる。なによりも、最初は明らかに「実在のロケーション」だった撮影現場が、「スー=ニッキーの(フェイクの)死」までのどこかの時点で、いつの間にか「撮影ステージ内のセット」に変わってしまっているのだから。

しかし、いったん「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」とする観点から見始めると、この「場所の混同」は、ある「作品内現実=虚構」の中における「作品内現実と作品内非現実の混同」といった単純な問題に還元しきれないほど、いろいろなものを内包していることに気がつく。たとえば、実際の映画製作を考えたとき、「ロケ撮影の素材」と「セット撮影の素材」を組み合わせて編集しシークエンスを構成することは、たびたび行なわれる手法である。そして、我々受容者は、そのような過程を経て作られたシークエンスを(特殊な例外をのぞいて)「同一の場所を舞台にしたもの」として問題なく認識してしまう……連続した二つのショットが実際にはそれぞれまったく違う場所で撮影されていることなど、まったく意識することなく。この「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスにおいても、少なくとも(2:32:23)で(プロップの)撮影カメラがフレーム内に映り込むまで、観ている者はそこが「実在のロケーション」としての「ハリウッド・ブルバード」であることに何の疑いも抱かないのが普通だろう。以前にも述べたように、このシークエンスにおいてより重要なのは、そうした受容者側の「認知/認識(あるいは錯誤)」への言及である。わざわざモンタージュ理論を引用するまでもなく、これは「連続した映像」を関連づけて理解する我々の「認識能力」に負うところが大きい。そうした「認識能力」こそが「感情移入=同一化」の成立につながるものである以上、ここで描かれている「場所の混同」は、きわめて「自己言及的」なものだといえるだろう。もちろん、ここでいう「自己言及的」とは、「映画」による「映画の構造」への言及であるとともに、以前に述べた「破断される感情移入」の問題を含めた「受容者」による「自らの受容能力」の認識をも意味する。ロスト・ガールという「受容者の代表」をもつこの作品において、受容者に関する言及をもつことはまったく不思議ではない。「作品内現実という虚構」から離れた「受容者の現実」という安全な場所に身を置き、「インランド・エンパイア」を傍観者的に観ることは我々には許されないのだ*

その一方で、もっとも抽象的な観点から捉えたとき、「ハリウッド・ブルバード」が演技者=ニッキーの「内面的なもの(の一部)」を表しているのは明瞭である。であるからこそ、そこが彼女にとって「自己確認」を含めたさまざまな「認識」を獲得する場所となり得るのだ。そこが演技者=ニッキーの「ストリート」であり「内面」である限りにおいて、この「ハリウッド・ブルバード」と「撮影ステージ」との間で生じる「場所の混同」という事象は、彼女にとってこの二つの場所が「同義あるいは等価」であることを表している。そして、その後のシークエンスにおいて提示される、「階段」という「高低のアナロジー」を伴いつつ現れる「無人の映画館」から「スミシーの家の内部」に至るニッキーの道程(2:36:46)もまた、彼女の「内面」を表すものとして「感情移入=同一化」をキーにした観点から理解できるはずだ。他のリンチ作品と同様、この作品にもきわめて表現主義的な映像が散りばめられているのである。

……というような前置きをしつつ、以降のシークエンスをいくつかに分割しながらみていくことにしよう。

まず、スー=ニッキーが「ストリート」に戻ってくるのを、娼婦ヴァージョンの「ロコモーション・ガール」たちが取り囲むシーンである(2:20:40)-(2:21:07)。このショットで特徴的なのは、スー=ニッキーと「ロコモーション・ガール」たちが、三回にわたり長い間「視線の交換」を行なうことだ。この状態を説明する「台詞」は一切なく、存在するのは、「ロコモーション・ガール」たちのスー=ニッキーに対する問い掛け……「なにをしていたのか?(What've you been up to?)」あるいは「どこに行っていたのか?(Where'd you go?)(Where you been?)」というような「スー=ニッキーの不在」に関連した問い掛けだけである。となれば、我々はこの「視線の交換」自体から、それが伝えるものを読み取るしかないわけだ。この「映像表現」に対する解釈のひとつとして考えられるのは、スー=ニッキーによる、自分と「ロコモーション・ガール」の関係性の認識である。「ロコモーション・ガール」たちが自分の「情緒の記憶」であり、当然ながら自分と同一の「感情」を共有する存在であることを理解したということだ。現在のシークエンスに至る映像群のなかで、ニッキーとスーの、あるいはスー=ニッキー同士の「感情移入=同一性」が「視線の交換」によって成立/深化していることについては、これまでも何度か触れてきた。実は「同一の存在」であるニッキーと「ロコモーション・ガール」たちの「関係性の確認」も、これまた「視線の交換」によってなされることは当然といえば当然だろう。ここでも「観る者」と「観られる者」の関係、つまり「視線の問題」が、「内的なもの」の展開にからんでいるのである。

次いで、スー=ニッキーは、街路樹の陰に身を潜めるドリスを、「ストリート」の向こう側に再び「目撃」する(2:21:07)。前回「目撃」したとき(2:09:24)と異なって、ドリスを認めてもスー=ニッキーは直ちに逃げ出そうとはしない。この理由に関してもさまざまな捉え方が可能だろうが、まず思いつくのは、「インランド・エンパイア」の展開そのものからみたとき、「Mr.Kのオフィス」で行なわれた「介入/コントロール」を経て、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」が進行する局面に移行したことは確かだろう……ということだ。また、後述するように、「ロコモーション・ガール」と自分との関係性の理解を含めたスー=ニッキーによる「自己確認」が完了し、それによって獲得された「認識」がドリスという他者にも向けられ始めたと読み取るすることもできるのではないだろうか。

「私は娼婦よ(I'm whore)」という呟き(2:07:37)から始まったスー=ニッキーによる「自己確認」が完了したことは、「これを見て(Watch this move)」という台詞に続いて、彼女が「ロコモーション・ガール」たちに向かってみせる「指を鳴らす動作」によって示される(2:21:33)。もちろん、これは「スミシーの家」の居間にたむろする「ロコモーション・ガール」たちが行なった動作のリフレインである(1:28:04)。そこでは、この「指を鳴らす動作」が、「ロコモーション・ガール」の呼称のもととなった「ロコモーションにあわせた群舞」につながっていた。この「ロコモーション」の歌詞と「ロコモーション・ガール」たちが話していた会話の内容と合致していること、そしてそれが「情緒の記憶」を基にしたニッキーの「女性」あるいは「演技者」としての自己認識につながっていくことは、以前にも述べたとおりだ。当該シーンでは踊りに参加せずに「傍観者」だったスー=ニッキーが、今ここで「群舞」につながる「指を鳴らす動作」を「ロコモーション・ガール」たちに示してみせる……つまり、これは、スー=ニッキーが「ロコモーション・ガール」と自分の「同一性」を明確に認識したこと、彼女たちが自分の「裡なるもの」だと了解したことを表しているショットなのだ。

そして、そこに「ドリスを目撃する」という事象が重なったとき、「ストリート」で獲得した「自己認識」が自分だけに当てはまるものではなく、実は「普遍的なもの」であることをスー=ニッキーは知る。それを表すのが、直後に現れるスー=ニッキーの手に握られた「スクリュー・ドライバー」のアップのショット(2:22:14)と、それに続くドリスが「スクリュー・ドライバー」をスー=ニッキーの手から奪い取り、腹部を刺す映像(2:22:37)である。この「腹部に突き立てられるスクリュー・ドライバー」というモチーフもまた、「インランド・エンパイア」に繰り返し登場していることは、改めて指摘するまでもないだろう。たとえば(1:50:51)からの「ビリーの屋敷」のシークエンスにおいて、「スクリュー・ドライバー」によって表されるものが、ドリスとスー=ニッキーの両者が互いに対して抱く「悪意」という感情であり、互いを傷つけるものであることはすでに提示されている。また、「警察署」内部のシークエンスで提示された「ドリスの腹部に突き刺さったスクリュー・ドライバー」(0:36:08)、あるいはポーランド・サイドのシークエンスで「ロスト・ガールの腹部に突き立てられたスクリュー・ドライバー」(1:40:21)という形でも、この「スクリュー・ドライバーが表すもの」のモチーフはすでに現れている。こうしたモチーフの「リフレイン」あるいは「ヴァリエーション」によって描かれるものが、すなわち「トラブル=機能しない家族の抽象的概念」を構成するパーツを表す一事象であることは明白であり、それは段階的に「インランド・エンパイア」の受容者に対して提示され続けてきたといえる。そして、その最終的な「説明」が、この「ハリウッド・ブルバード」における「スー=ニッキーの刺殺」という事象であるわけだ。

*しかし、ここでややこしい疑問が出来する。ここに挙げたどのような意図に基づきこの「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスを編集構成したとしても、「コンティニュティ」を基本とする古典的ハリウッドの編集に従う限り、実は現状の形とそんなに変わらないのではないだろうか?……という疑問だ。つまり「女優の混乱」を描くにしても「受容者の認知/認識」を描くにしても、おそらくは提示される「映像」そのものは大きく変わらないのではないかということである。唯一方法論があるとすれば、「コンティニュティ」を破棄した編集になるのだろうが、おそらくはそれはリンチの意図するところではない。過去作品を含めて、リンチが「ハリウッド」および「ハリウッドの方法論」に固執していることは間違いないからである。

2008年4月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (70)

さて、これがまた「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を追っかける作業であったりするのだな。今回は前回の続きとして(2:18:51)から(2:20:08)までを追いかけるのであった。

前回も述べたように、このシーケンスはブロック(C)のシーンの続きである。スー=ニッキーの「息子の死」に関する告白から、そのままこのシークエンスは続いており、切れ目はない。以下に、このシークエンスの具体的な映像を、台詞と一緒に引用してみよう。

(1)Mr.Kのアップ。[電話のベル]
(2)スー=ニッキーのアップ。[電話のベル]
(3)Mr.Kのアップ。[電話のベル][電話のベル]
立ちあがるMr.K。[電話のベル]
(4)衝立のようになった木の壁の裏にある電話機に向かって歩くMr.K。[電話のベル]
壁の陰で Mr.Kが電話をとる。

Mr.K: (壁の陰で) Hello? Yeah. She is still here.
(5)スー=ニッキーの右手に握られたスクリュードライバーのアップ。

Mr.K: (画面外で) I don't think it will be too much longer now.
(6)スー=ニッキーのアップ。彼女の顔にズーム・イン。

Mr.K: (画面外で) Yeah. The horse to the well. Yeah. [chuckles] Huh? Yeah. He's around here someplace. That's for sure.
(7)木の壁。Mr.Kはその裏にいて姿は見えない。

Mr.K: (壁の陰で) Czerwone time.
(8)スー=ニッキーが立ち上がり、スクリュー・ドライヴァーとバッグを持ってドアに向かう。

ここでも「電話」がかかってくる。リンチ作品に現れる「電話」が、ときとして「伝達手段」というよりは「監視/追跡」のイメージを付随させているのは、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」の例をみても明らかだ。このシークエンスにおいてもこの「監視/追跡」のイメージは、「介入/コントロール」のイメージと複合して、Mr.Kではなくスー=ニッキーに対して機能しているといえる。「インランド・エンパイア」において、「電話」が「介入/コントロール」のイメージを付随させて登場するのは、たとえば(1:32:06)からのシークエンスでも明らかだろう。スー=ニッキーのビリー・サイドへの「電話」に「介入」するのは、「Rabbitsの部屋」にいるウサギたちなのである。後に触れるが、「Mr.Kのオフィス」という場所が付随させる「介入/コントロール」のイメージといった観点からして、このシークエンスでMr.Kが受け取る電話の相手は、同じく「介入/コントロールの場所」である「Rabbitsの部屋」にいると考えるのがもっともストレートだ。

「彼女はまだここにいる」というMr.Kの発言については、改めて詳述するまでもないだろう。「彼女」がスー=ニッキーを表すことは明瞭であるし、彼女が先ほど触れた「電話」を契機にして「Mr.Kのオフィス」を離れようとする……正確にいうと、その「電話を通じた会話/発言」をキーにして「ストリート」に戻ろうとするのもみてとることができる。同じように、「彼はどこかこのへんにいる。それは確かだ」という発言の「彼」が「ファントム」を指しているのも了解できるはずだ。ファントムが「ストリート」を通り、アメリカ・サイドにある「スミシーの家」の隣家にまで至っていることは、すでに提示済みである(1:59:39)。

Mk.Kが発言するその他の台詞群が、これもまた「リフレイン」や「ヴァリエーション」であるのは明らかだ。たとえば「馬は井戸に連れてこられた(The horse to the well)」という台詞は、バルト海地方の「部屋」で老人の一人によって発言されていたものである(2:03:29)。そこでの老人の発言がピオトルケに対してのものであったのと対照的に、Mr.Kの発言はスー=ニッキーに向かってなされる。また、そこではピオトルケが「拳銃」を渡されたのに対し、このシークエンスでスー=ニッキーの手に握られているのは「スクリュー・ドライヴァー」だ。「インランド・エンパイア」が提示する「リフレイン」や「ヴァリエーション」は、ときとしてこうした「対置関係」を明確にするために使われていることはいうまでもない。

また、「もうそんなに長くかからないと思う(I don't think it will be too much longer now)」という発言も、いちばん最初の「Rabbitsの部屋」のシークエンスにおいて、ジェーン・ラビットの台詞としてすでに現れている(0:06:20)。これもまた、「Mr.Kのオフィス」と「Rabbitsの部屋」の両者がもつ「介入/コントロール」のイメージの共通性……特に「時間コントロール」のイメージを思わせる発言である。もちろん、Mr.Kによるこの発言が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「時間」、つまりは「尺」に関するものであるのは間違いない。この直後、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に連動した「インランド・エンパイア」の映像は再び「ハリウッド・ブルバード」に舞台を戻し、「スー=ニッキーのフェイクの死」というクライマックスを迎えるのだから。

問題なのが、いちばん最後のMr.Kの発言である。北米版DVDに収録されているクローズド・キャプションの表示では、ここに引用したとおり「Czerwone time」となっており、実際のヒアリングでもそのように聞こえる。だが、日本版DVDにつけられているスクリプトでは、なぜかこの箇所は「Sure, I'm going into town」という台詞になっており、日本語字幕も「私が町に行きます」とされているのだ。どのような経緯でこの食い違いが発生したのかはわからないが、ここでは今までどおり北米版DVDを底本として解釈を進めていくことにする。

「Czerwone time」ときくと何のことだと思ってしまうが、実はこれはポーランド語と英語のチャンポンである。「Czerwone」というのはポーランド語で「赤い」を表す「czerwony」が形容詞変化したもので、早い話が「赤の時間だ(Red Time)」とMr.Kは発言しているのだ。つまり、この発言もまた「バルト海地方の家」のシークエンスにおける老人の「赤だった(It was red)」という発言(2:02:50)や、その直後の「Rabbitsの部屋」のシークエンスにおけるスージー・ラビットの「赤だった」という発言(2:05:32)の「リフレイン」であり、「ヴァリエーション」なのである。「インランド・エンパイア」におけるこうした「赤のモチーフ」が何を表しているかについては、ここでは改めての詳述はしない。

だが、より注目しなくてはならないのは、Mr.Kが「ポーランド語と英語を混交させた発言をする」という「表現」自体が表すものだろう。すでに何度か触れてきたように、「インランド・エンパイア」には、繰り返し「異言語」に関する言及が登場する。たとえば、訪問者1が話す言葉が東欧訛りであること(0:10:00)、ニッキーと老夫婦の成立しない会話(0:34:00)、キングズレイ監督が言及する「90歳の姪」の「古い外国語の言葉 (ancient foreign voice of hers)」(0:41:00)、スー=ニッキーがMr.Kに語るピオトルケの「わけのわからない外国語 (this foreign talk)」(2:15:59)……といった具合に、枚挙にいとまがない。なによりも、ファントムやロスト・ガールをはじめとする多くの「登場人物」たちがポーランド語の台詞を発している。以前も述べたとおり、これらの「異言語への言及」が、リンチ特有の「成立しない会話」のモチーフとして、つまり「コミュニケーション・ブレイクレダウン」の概念を表すものとして提示されているのはいうまでもない。だが、このシークエンスにおけるMr.Kの発言などをみる限りにおいて、「インランド・エンパイア」に現れる「異言語への言及」に対しては、また違った方向からのアプローチも可能であるようだ。

端的にいうなら、「映画というメディアがもつ言語」を表すものとして、つまり我々が普段使う通常の意味での「言語」ではない「抽象的なものを記述する言語」を表すものとして、こうした「異言語」が使われている局面があるように思える。その代表的な例が、「映画の魔=ファントム」がドリスに向かって「催眠術」をかける際に使われていた呪文(1:53:26)である。ファントムの機能が「『映画の魔法』の発動」=「感情移入=同一化」にむけて働くものであるかぎりにおいて、彼の使う「言語」こそが「映画の言語」に他ならない。そして、「インランド・エンパイア」では、この「映画の言語」を具体的に表すものとして「ポーランド語」が流用され、それと対置関係にある「通常の意味での言語」を表すものとして「英語」が使われているのだ。この作品のなかでリンチが「サーカス」をメディアの一種と捉え、「映画の魔法」の根源を古来からある「肉体を使った芸」に求めていることを考えると、「映画の言葉」が「「古い(ancient)言葉」であることもうなずけるだろう。かつ、このあたりは、リンチによる「映画」についての発言のいくつかを想起させるものである。

(この作品を)音楽のように捉えて欲しい。音楽は抽象的で言葉では表現されにくいと思われるが、一方で、映画に対しては人々の見方が異なり、音楽とは違った分かりやすい解説が求められる。理屈抜きで音楽を聴くのと同じで、映画も理屈抜きで体感して欲しい。映画でも抽象的な表現が用いられるが、自分の直観や感性を働かせれば理解できるはずだ。見た時に自分が感じたことを、もっと信用して欲しい。理解できたという感触を人に言葉で伝えるのは難しい。
(「マルホランド・ドライブ」日本公開時のインタヴュー)

シネマはかくも美しい言語です。あなた方には言葉の才能があるでしょう。しかしシネマは言葉を超えたものです。シネマと音楽は似ていて、美しく知的な旅のできるものです。言葉なしに語りかける。
(「インランド・エンパイア」日本公開時のインタヴュー)

Cinema is a laungage. It can say things -- big, abstract things. And I love that about it.
I'm not always good with words. Some people are poets and have a beautiful way of saying things with the words. But cinema is its own laungage.(中略)
I like a story that holds abstractions, and that's what cinema can do.
("Cinema" from "Catching the big fish")

「通常の言語」では基本的に置換不能であり、「音楽のように」「抽象的なものである」というのがリンチの「映画の言語」に関する概念だ。と同時に、一連の「映画の言語」に関するリンチの発言は、「抽象的なものを具象的に受け取ろうとせずに、抽象的なまま理解して欲しい」という、創作者としてごく当たり前の「受容者に対する要求」でもある。

話を戻して、上記のような事項を踏まえるなら、ここで現れる「ポーランド語/英語が混交した発言」という表現は、「映画の言語」を「通常の言語」に置き換えることを試みる際の、いわば「中間言語」として理解できる。映画に対するコントロールを行なうには、無理を承知で「映画の言語」を「通常の言語」に置き換えなければならない局面が必ず出るはずだ。我々が「通常の言語」をもって意思疎通を図る以上、そして映画製作が「共同作業」である以上、それは不可避な事態である。Mr.Kが発する「ポーランド語/英語が混交した発言」に関しても、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する彼の「介入/コントロール」への試みを表すものとして、それが提示する「理解不能性」をこそ「理解」すべきものなのだ。

2008年4月11日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (69)

さて、今度は誰も亡くならないうちにサクサク進めたいと思う今日この頃なのであった(笑)。前回からの続きで、同じく(2:16:44)から(2:18:51)までの後半をばたどってみよう。

実際の映像を観るとわかるように、ブロック(B)ブロック(C)の間のディゾルヴはかなり時間が長く、むしろ「オーヴァーラップ」として扱ったほうが妥当であるようにも思う。(4)の「家の内部を彷徨う女性」のショットは、ブロック(C)(5)の「スー=ニッキーのアップ」のショットに長時間被るように処理されており、(4)の映像と(5)の台詞の関連性/継続性を提示するものとして現れている。同時に、それは(3)(5)のショットにおけるスー=ニッキーの台詞の関連性/継続性をも表しているといえるだろう。

さて、問題なのは、ブロック(C)(5)でスー=ニッキーが語っている台詞の内容である。前回の文章と行ったり来たりもメンド臭いので(笑)、もう一度、ここでも再引用しておく。

スー=ニッキー: I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle... watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up. (しばらく口を開けたまま) I'm sittin' there... wondering... how can this be? (沈黙)

このスー=ニッキーによる「息子の死」の唐突な告白を、どう受け取るべきなのか。この「息子の死」を描く具体的映像は、このシークエンスには存在しない。それどころか、「インランド・エンパイア」のどこを探しても存在しないのだ。もちろん、この「息子の死」も、「インランド・エンパイア」が描く「トラブル=機能しない家族の抽象概念」の一構成要素に過ぎない以上、こうした具体的映像の「欠落(あるいは省略)」はさしたる問題ではないといえる。それがどのネスティングに属する「トラブル」であろうと……「登場人物=スー」「演技者=ニッキー」「受容者=ロスト・ガール」のうちの誰の「物語」であろうと(あるいはそれ以外の誰かの「物語」であろうと)、「インランド・エンパイア」のテクスト上は本質的な差異がないからだ。だが、それまでの事例をとおして我々は、この「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーが語っている事柄が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が内包する物語の「効率のよい省略形」であることを了解している。ここでは、その前提で話を進めることにする。

もし、この「息子の死」に対応する映像があるとすれば、それは結末近く、「スミシーの家」の居間における「夫の抽象概念=ピオトルケ」と「一般的受容者=ロスト・ガール」が交わす抱擁の傍らに立つ、「スミシーの息子(Smithy's Son)」(2:49:16)をおいてない。この「死んだ息子」という事象が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語内部で発生しているものであるならば、これまたいろいろなコンテキストにおいて「スミシーの息子」と「対置される関係」にあることがわかるだろう。すなわち、「もっとも内側のネスティング=登場人物=スー」で発生している事象と「もっとも外側のネスティング=受容者=ロスト・ガール」で発生している事象という配置の対置であり、「個別例」と「普遍」の対置である。また、「子供をなくした親」という形の「子供に関連したトラブル」の「個別例」として、「子供を生めない妻」(1:18:41)「子供を作れない夫」(2:16:32)と対置/併置されるものでもある。

だが、それよりももっと興味深いのは、「息子の死」に遭遇したスー=ニッキーが語る、その時自分が抱いた感情を表す「表現そのもの」だ。「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である限りにおいて、「客電が点灯する前の映画館」が彼女の感情を表す「表現」として使用されるのは、あるいはなんの不思議もないかもしれない。だが、その表現を子細にみたとき、ふとした疑問が頭をよぎる。スー=ニッキーが抱いたこの「感情」は、はたして実際に「体験」したものなのだろうか? それは、スクリーンに投影される「映画」がもたらす「感情移入=同一化」の結果ではないのか? スー=ニッキーがつぶやく「目の前を通り過ぎるもの」を「呆然と観るしかない」という発言は、あるいは「客電が点いたあと」「『どうしてこのようなことになったのか?』といぶかしく思う」という言及は、「映画」をのめり込むように観終えた受容者がもらす「感想」と、いったいどどのような差異があるのだろう?

このスー=ニッキーの発言と、後に登場する「無人の映画館」のシークエンス(2:36:57)との関連性については、改めて指摘する必要はないだろう。「無人の映画館」という「表現」と「映像」の合致はいうまでもなく、なによりもこの映画館のスクリーンに投影されているのは、まさにスー=ニッキーが「息子の死」を語るシークエンス(およびそれ以降)の映像なのである。以前にも述べたように、この「無人の映画館」のシークエンスで発生した事象によって、演技者=ニッキーは「観られる者」としての自己を確認し、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を解体させていくことになる。

つまり、この「Mr.Kのオフィス」と「無人の映画館」のシークエンスによって表されているものは、どちらも「登場人物」と「演技者」と「受容者」の関係性である点において同一なのだ*。大きな違いがあるとすれば、片方がその「構築/成立/維持」に言及し、もう片方はその「解体/破壊」に言及しているというところのみである。この二つのシークエンスは、まさしく「裏返し」の対置関係にある……そう、ちょうど「スクリーン」を挟んで、向こう側とこちら側にいるかのように。

これはある意味で、皮肉な状況であるようにみえるかもしれない。なぜなら、ニッキーのスーに対する「『感情移入=同一化』の解体」は、「『感情移入=同一化』を行なっているスー=ニッキーとしての自己」を「目撃」することによって進められるわけなのだから。だが、「インランド・エンパイア」では、「感情移入=同一化」の成立/深化もまた、「Axxon N.」の発現をポイントとしたスーとニッキーの(あるいはスー=ニッキーの)「目撃/視線の交換」によって進められたはのではなかったか? であるならば、この「解体の手順」もまた、「目撃/視線の交換」を介して行なわれるのは当然である。「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である限りにおいて、「受容者=演技者=登場人物」の間に介在する「『観る者』と『観られる者』の関係」……要するに「視線の問題」がキーになるのは、まったく当たり前のことなのだ。なぜなら、演技者を介して受容者と登場人物が「視線を共有できること」こそ、「感情移入装置としての映画」が持ち得る最大のアドバンテージなのだから。

それにしても……より大きな皮肉は、こうした「映画」というメディアが内包する「視線の問題」を、受容者である我々が普段あまり「意識」していないことだ。それほどまでに、我々は映画の登場人物と「視線を共有すること」に慣れ親しんでしまっており、何の違和感も抱かずにいる。それはあるいは古典的ハリウッド映像編集の「勝利」であるともいえる。だが、たとえば「インランド・エンパイア」が描写するこの「視線の問題」を「統合失調症の症例」などと錯誤してしまう例が出てくることこそ、実はいかに我々が漫然と「映画」を受容し、(「カットバック」などの形で)ほとんどすべての映画作品に発生しているはずの「視線の問題」を見逃していることの証明に他ならない。いずれにせよ、そのような受容者側の「意識」の問題も含めて、「インランド・エンパイア」という作品がいろいろなものを「あからさま」にしてしまっていることだけは確かだろう。

*「撮影スタジオ」から「無人の映画館」に移動する直前、スー=ニッキーは受容者=ロスト・ガールと「モニター画面」を介した「視線の交換」を行なう(2:36:09)。

2008年4月 9日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (68)

なんかここんとこ、ハナシの前振りが「お悔みシリーズ」と化しておりますが、今度はチャールストン・ヘストン氏がお亡くなりになってしまいました。謹んでご冥福をお祈りします。えーと、どこかにマイケル・ムーアのコメントとかは出てないっスか? ま、いいや(笑)。それはともかく、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を確認し続けるのであった。今回は前回の続きでもって、(2:16:44)から(2:18:51)までをば。

このシークエンスは、基本的に「Mr.Kのオフィス」の内部を舞台にして進行する。ただし、興味深いインサート・ショットが挟まれており、かつそのショット間のカッティングには「ディゾルヴ」が多用されているのが注意をひく。

ここで使われているディゾルヴをどう理解するかに関しては、いろいろと意見が分かれるかもしれない。ここでは、以前にとりあげたものと同様に、このシークエンスに現れるディゾルヴもまた、「フラッシュ・バック」や「フラッシュ・フォワード」などの「登場人物の思念を表す記号」としてではなく、「省略」を伴ったショット間の「時間の経過」を表しているとストレートに捉えることにする。その理由はいくつかあるが、以前にも述べた「インランド・エンパイア」が記述技法としての「時系列操作」を伴わない非ナラティヴな作品であること、そしてリンチ自身が「インランド・エンパイア」を「自分が作ったなかで、もっともシンプルな作品」と述べていることが最大の理由だ。個人的には、リンチ作品における表現の解釈に迷ったときは、「最大限に単純に、かつ最大限に抽象的に捉える」というのが基本姿勢である。

それはさておき、上記のような捉え方にしたがうなら、現在取り上げているシークエンスは、ディゾルヴを分割ポイントとして以下のような三つのブロックに分けることができる。

・ブロック(A)

(1)「Mr.Kのオフィス」内部
スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: (唇を歪めて) Like this-- Like... his face all red. His eyes were buggin' out.
(2)どこか
スーもしくはニッキーが、こちらを見下ろしている。
[hypnotic tone]
(ディゾルヴ)

・ブロック(B)

(3)「Mr.Kのオフィス」
(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: I figured one day... I'd just wake up and... find out what the hell yesterday was all about. I'm not too keen on thinkin' about tomorrow. And today's slipping by. (沈黙)
Mr.Kのアップ。
(4)どこかの室内 内部
逆光で影になったスー=ニッキーが、どこかの部屋の中を歩いている。(ディゾルヴ)

・ブロック(C)

(5)「Mr.Kのオフィス」 内部
(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: I guess after my son died... I went into a bad time... when I was watching everything go around me while I was standing in the middle... watching it... like in a dark theater... before they bring the lights up. (しばらく口を開けたまま) I'm sittin' there... wondering... how can this be? (沈黙)

(5)のシークエンスはこの後も継続して続いているのだが、これはこれで切り離して論じたほうがよいという判断のもとに、この箇所で分割した。

(2)(4)のショットのスー(もしくはニッキー)がはたしてどこにいるのか、映像からは非常に不明瞭だ。が、(4)のショットをみる限りにおいて、その映像がどこかの「家」の内部であるのは確実である。蓋然性の問題からいうと、「スミシーの家」の内部のものであるとみるのが、もっとも妥当だろう。それを補強するのが、(2)のショットで提示されている映像である。ここで提示されているのは、以前にも「上下に交わされる視線」の例としてとりあげた「上から見下ろしているスーあるいはニッキー」のアップだ。そして、たとえば(1:13:55)のシークエンスや(2:06:24)のシークエンスに現れる他例をみる限り、この「上下に交わされる視線」は、必ず「スミシーの家」の内部において発生しているのである。これらを考え合わせる限りにおいて、少なくとも(2)および(4)のショットが「スミシーの家」の内部であることを積極的に否定する映像は、「インランド・エンパイア」には見当たらない。

上記のようなことを踏まえつつ、まずブロック(A)をみてみる。(1)のショットの台詞で記述されている事項が、直前のシークエンスにおいて提示された「スミシーの家」の内部で発生した事象についてであることは、容易に理解されるだろう。つまり、(2:14:36)からの「Mr.Kのオフィス」内部のシークエンスとこのシークエンスとの間に、(2:16:09)から(2:16:43)までの「スミシーの家」の居間における「ピオトルケによるスーの殴打」のシークエンスがインサートされてる構造になっているわけだ。言葉をかえれば、スー=ニッキーがMr.Kに向かって記述している事項の「具体的映像」がこのインサート・ショットによって提示されていることになる。

次にブロック(B)をみる。ブロック(A)ブロック(B)の間は「甲高いノイズ[hypnotic tone]」によるサウンド・ブリッジが施されており、この二つのブロックの関連性が明示されている。このブロック(B)でもブロック(A)と同様に、(4)のシークエンスで提示されている(おそらくは)「スミシーの家」の内部の映像が(3)でスー=ニッキーが語る台詞に対応しており、それを「映像化したもの」として把握される。「どうしようもない昨日」「見通しのつかない明日」「滑り落ちていく今日」という認識は、これもまた「受容者側のもの」ではなく「記述する側のもの」として現れており、かつ「家」の内部において発生している。その漠然とした「自己確認の不明瞭さ」の状況は、薄闇の中、逆光に照らされて「スミシーの家」の中を彷徨う女性のシルエットの映像によって表されている。つまりは、これもまた、リンチ作品に繰り返し現れる「何かよくないことが起きるところとしての家」あるいは「『人間の内面』の表象としての家」のモチーフなのだ。

この(4)のショットと、(2)の「下方を見下ろすスーもしくはニッキー」のショットをともに並べてみたとき、「家」と「ストリート」の位置関係と同様、「スミシーの家」と「Mr.Kのオフィス」の位置関係もまた明確になる。このシークエンスの映像をみるかぎり、「インランド・エンパイア」の作品構造のなかで重要な要素となっている「高低のアナロジー」のなかで、「Mr.Kのオフィス」は「家」と「ストリート」の中間に位置している。それは「ストリート」から、あるいは「クラブ」からは「死ぬほど階段を上った」ほど高いところにあるが、それでもまだやはり「家」よりは低いところにあることが、この(2)(4)(1)(3)のショットの関係性によって明示されているのだ。

同時に、「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーの「語り」という形で表象される「効率の良い物語展開」の内容が、「スミシーの家」の内部で発生している事象と関連性があるということも、ブロック(A)における(1)(2)の関係性、あるいはブロック(B)における(3)(4)の映像の関係性において理解される。前述したように、これはすでに「ピオトルケによるスーの殴打シーン」のインサート・ショットによって提示済みの事項である。この「リフレイン」によって、それまでに現れた「Mr.Kのオフィス」の内部におけるスー=ニッキーの告白が、すべて「家」の内部で発生した事象を「効率的に記述したもの」であることが確認されることになる。

(目一杯引っ張りつつ、この項、続く)

2008年4月 6日 (日)

「David Lynch Decoded」を読む

というわけで以前にも紹介したリンチ関連本「David Lynch Decoded」を読了したわけでありますが。

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以前も触れたけれど、著者のMark Allyn  Stewart氏には「Hand of God」 シリーズをはじめとするホラー小説の著作があり、小説家が本業の方である。しかし、この本の著者紹介をみると、 この方、ウェブスター大で映画学の学位をとっているらしい。そういう意味では、映画を観る作業に関しても、 一応の訓練を受けたことがある方だと考えていいのだろうと思う。

Stewart氏がいちばん最初に触れたリンチ作品は「ツイン・ピークス劇場版」で、高校生のときのことであったらしい。 Stewart氏はいたくこの作品を気に入り、以降、ビデオ屋でリンチ作品を漁ることになった。ということは、TV版の「ツイン・ピークス」は観てなかったのか? という疑問もわくのだが、そこらへんの事情は本書ではつまびらかではない。ピークス・ファンでもなかった氏が「劇場版」を観に行く契機になったのはいったいなんだったのか、ちょっと興味深いところだ。

本書の構成に関しては、これまた以前も紹介したとおりで、リンチの諸作品に現れる「共通したモチーフ」を作品ごとに追いかけて、最終章でそれを総括するという形をとっている。いわば、リンチ作品に現れる「モチーフ」を「辞書化」しようという試みであるわけだ。氏の弁に従えば、たとえばヒッチコック作品における「緑」が「病的なもの」を表すように、リンチ作品に頻出する「青」によって表されるものも何か共通項があるはずである。よって、その「青によって表されるもの」を具体的な現れ方から探っていこう……という趣向である。作家分析の手口としては、まあ、真っ当過ぎるほど真っ当であるといっていいだろう。

本書のなかで、実際にStewart氏がリンチ作品における「共通モチーフ」として指摘しているものを列挙すると、「青」「犬(鳴き声だけを含む)」「電気」「赤いカーテン」などがある。また、「ラジエーター・ガール」や「キラー・ボブ」や「小人」、「ミステリー・マン」や「カウボーイ」といった(著者の表現を借りれば)「異世界からのキャラクター」もまた、共通するモチーフの表れとして分類されているようだ。

分析対象として俎上に上がっているリンチ作品は、「イレイザーヘッド」から「インランド・エンパイア」までの劇場用作品10本と、 TV版「ツイン・ピークス」である。「イレイザーヘッド」以前の「アルファベット」や「グランドマザー」には触れられていないし、「ホテル・ルーム」や「オン・ジ・エアー」などのTV用作品もとりあげられていない。また、リンチによる絵画作品に関しても一切言及されていないし、リンチ自身の発言や著作からの引用もない。そこらへんを切り離して、主として「劇場用映画作品」として発表されたもののみから分析作業をしようというのは、ある意味、潔いといえば潔い……のだが、リンチに関するその他の情報を丸っぽ無視するのも、ちょいと乱暴すぎゃしないかという疑問もわく。

……というようなことを思いつつ読み進んだのだが、少なくとも「マルホランド・ドライブ」までの作品に関する限り、著者の作品把握はそれなりに的確であるように感じる。細かいとことで「そりゃ、どうよ?」と引っかかる点はあるものの、クリテイカルな読み違いはない……というか、的確過ぎて「新しい視点」に欠けるという点で詰まらんといえば詰まらんのだが(笑)、それは的外れな批判というものだろう。というのは、実際に読み終えて感じた限りでは、Stewart氏はこの本をあくまで「リンチ入門書」として書いているからだ。この本に冒険的な論証や多角的な検討を期待するのは、そもそも間違いなんである。

だが、この「入門書」という位置付けを前提としても、やはりいろいろと食い足りない部分があるのも確かだ。そのひとつの表れがStewart氏が本書の中で選択している「用語」で、たとえば「ドッペルゲンガー」というような用語を、何の批判も注釈もなく「無造作」に使ってしまうのはいかがなものか。そうした「既成用語」を「ツイン・ピークス」のクーパー捜査官や「ロスト・ハイウェイ」のフレッドの説明に使ってしまうのは、どうも「理解しやすさ」と引き換えに「議論の発展性」を犠牲にしているような気がしてならない。そして案の定、Stewart氏の議論はそこで止まってしまう。リンチ作品の中で発生している「現象面」を延々と追いかけるばかりで、いい言い方をすれば非常にプラグマテイックなのだが、悪くいうとそれこそ「リーダーズ・ダイジェスト」的で表層的なんである。リンチの表現の「本質論」……たとえば、その根底にある「表現主義」への言及などに議論がつながっていかないのは、逆に「リンチ入門書」としてみた場合どんなものなのだろうか。

リンチ作品を言語化することの困難さのひとつに、その半具象的な表現をどう捉えるのか、すなわちどこまで具象的なもの(あるいは抽象的なもの)として捉えるのかという点があるのは、まあ、確かだ。このあたりの「揺らぎ」は本当に人それぞれで、リンチ作品を論じる際に各人がなかなか「共通認識」を持てないでいるのは、そこらへんに起因する部分がデカいんではあるまいかと思っている。そして、そうした「揺らぎ」は、とどのつまり、リンチ作品を言語化する際に選択される「用語」の「揺らぎ」に直結してしまう。そうした「用語の揺らぎ」は、どうにも「気持ちが悪い」。どのくらい「気持ち悪い」かというと、他人のパンツを借りてはいてみたぐらい「気持ち悪い」(笑)。

というような個人的な感想はどうでもいいとしても、このあたりの「用語選択」の具体的な問題として、 Stewart氏がリンチの諸作品から摘出した「共通モチーフが表すもの」を「言語との一対一の関係」でしか記述できていないことが挙げられる。たとえば「青のモチーフが表すもの」を単純に「秘密」という言語に置き換えることに、 Stewart氏はまったく抵抗感を抱いてない様子なのだ。わかりやすいといえば確かにわかりやすいし、「入門本」という本書の性格に合致しているといえば合致しているかもしれない。だが、当然ながら、リンチの映像が提示する「抽象的で複合的なイメージ」はこのような「言語との一対一の関係」では表せないので、どこかで概念的に「はみ出す部分」や「不足な部分」が発生してしまう。そうした「部分」を切り捨てて「総論化」することには、(ラカン派論者でなくとも)「過度の単純化(Oversimplified)」という批判を向けざるを得ないだろう。

なによりも、リンチ作品がそのような「言語との一対一の関係からはみ出した部分」を糊代にイメージを結節させていることを考えると、結果としてそれは全体的な作品構造に対する分析の不足につながっていかざるを得ない。それを証明するかのように、「インランド・エンパイア」に関する作品分析に入った途端、Stewart氏の筆は急に躊躇をみせ、明瞭さを欠いてしまう。他の作品には存在した全体構造に対する言及が欠落し、疑問形の文章が増える。作品解釈というよりは、Stewart氏のいう「共通モチーフ」の「辞書」を基に、作品解釈に至る道筋を模索している様子を読まされているかのような印象さえ受ける。そして、残念ながら、 Stewart氏の作業はうまく行っているとはいえない。「インランド・エンパイア」に対して、少なくともその全体構造の把握に対して、 Stewart氏の「リンチ辞書」は機能しないのだ。

Stewart氏のリンチ論の限界がどのあたりにあるか、このへんで明確に見えてきてしまう。「ドッペルゲンガー」や「秘密」や「異世界」といった「紋切型の用語」を安易に使ってしまうことに表れているように、氏には、「抽象的な映像」を「具象的な言葉」に変換することの困難性に対する認識が欠けているのだ。それは厳しい言い方をすれば、「抽象的なものを抽象的なものとして把握し論じる能力」の欠落を露呈していることと同義である。たとえば「デヴォンとニッキーのベッド・シーン」が青色の照明に包まれて行なわれるのは、それが不倫行為であり、「秘密」であるからだ……とStewart氏は論じる。だが、それが作品の全体構造とどう関係しているのか、 Stewart氏の「インランド・エンパイア」分析は明瞭にできないままに終わってしまう。要は氏の「インランド・エンパイア」分析は「あらすじ」の範疇を出ていないわけだが、非ナラティヴな作品の「あらすじ」など、何の役にも立たないのは自明のことである。

同じことは、著者が用いる「異世界からのキャラクターたち」という「用語」に対しても指摘できる。「ラジエーター・ガール」や「ミステリーマン」といったリンチ作品に登場するキャラクターたちが、ときとして「複合的かつ抽象的な概念」を表しているのは「青のモチーフ」などと同様である。これらのキャラクター自体を一括して「異世界から来た者」と言い表すことは、やはりこれまた「過度の単純化」と言わざるを得ない。なによりも、Stewart氏はこれらの「異世界」が結局何であるのか、まったく明瞭にできないままで終わる。巻頭言にStewart氏自身が「(リンチ作品は)奇妙なものを作りたいがために奇妙に作られている(weird for weirdness' sake)わけではなく、なんらかの意図がある」と述べているにもかかわらず、結局Stewart氏にとって(あるいはこの本の読者にとっても)「異世界」は「異世界」のままなのである。それはリンチ作品を「weird for weirdness' sake」と評することと、いったいどこがどう違うのだろう? もし、これらのキャラクターに共通項を求めるなら、むしろ重視しなければならないのは「抽象概念のキャラクター化」という手法そのものあり、ひいてはその根底にある「表現主義的な手法」によって表されているもののはずなのだが、Stewart氏はそこまでは議論を発展させない(もしくは、できない)。

いろいろ総合すると、「リンチ入門書」としても、あまりこの本をお勧めできないというのが正直なところだ。キツい言い方をするなら、この程度の議論はネット上でもすでに氾濫している。残念ながら、わざわざ金を払って読むほどの内容ではない、というのが偽らざる感想である。

2008年4月 3日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (67)

リチャード・ウィドマーク氏が亡くなったと聞いて、「あらま」な感じの大山崎です。ご冥福をお祈りします。「死の接吻」「情無用の街」「拾った女」のフィルム・ノワール三本立て個人的追悼上映会を計画中であったりするんでありますが、それはそれとして、ウニャウニャと「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業は継続中。今回は前回の続きということで、(2:16:32)から(2:16:43)までを追いかけてヨコハマ(古いって)。

このシーケンスは「スミシーの家」のリビング・ルームを舞台としており、直前直後の「Mr.Kのオフィス」のシーケンスにインサートされる形になっている。そして、そこで提示されているイメージは、間違いなく、直前のシークエンスでスー=ニッキーが語る「夫」についての台詞からの連鎖として喚起されているものである。つまり、「出ていく直前に奇妙な振る舞いをし」「外国語のような奇妙な言葉で、わけのわからないことをしゃべる夫(の抽象概念)」の「具体例」として、このシークエンスの映像は現れているわけだ。

ここで提示されている具体的な映像をストレートに捉えるなら、それは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」において描かれている「トラブル=機能しない家族」の「個別例」であり、登場人物=スーのネスティングに属するものといえる。ただし、「登場人物=スー」は「演技者=ニッキー」と「受容者=ロスト・ガール」に共有されているという視点でからみた場合、つまりより外側のネスティングからみた場合、他の「個別例」と同じく、このシークエンスで描かれている「トラブル」が最終的には「普遍」のなかに包括されていくものであることは、たとえばこのシークエンスでピオトルケが発する「台詞」からも理解することができる。確認のため、まず、このシークエンスにおけるピオトルケの台詞を引用してみよう。

ピオトルケ: I'm not who you think I am.
ピオトルケ: Are you listening to me?
ピオトルケ: I know it for a fact. I can't father children.

前述したとおり、もっとも具象的に捉えるなら……つまり視点を登場人物=スーのネスティングに限定して捉えるなら、このピオトルケの台詞は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語内部で発生している「トラブル」の具体的な状況を説明していることが理解できるはずだ。スーから妊娠したことを告げられたピオトルケが「ショックを受けた(It just has come as a shock to me)」(1:31:04)理由が、ここで明らかにされている。同時に、それはスーの不貞を働いた事実をも具体的に物語るものだ。

だが、より外側のネスティングから、つまり演技者=ニッキーや受容者=ロスト・ガールのネスティングからみたとき、これは明らかに以前のシークエンスで現れた「ポーランド・サイド」の映像において、「口髭の男の妻」が家を出ていこうとする夫に向かって発した台詞(1:18:41)の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」である。DVDの日本語字幕では、このあたりの「対置性」があまり考慮されていないのが返す返すも残念だ。念のため、「口髭の男の妻」が発する台詞の原文をここでもう一度引用し、その「対置性」を明確にしておこう。

女性: (男に) I can't give you children... I know that...
女性: (画面外から) Are you listening to me?
女性: (画面外から) I'm not who you think I am!

女性: (画面外から) I'll never let you have her!
女性: (無人のドアに向かって) Never...
女性: Never...

両者が発する「聞いているの(か)?」「自分はあなた(お前)が思っているような者ではない」という台詞の「同一性」はもはや見落としようがないとして、「自分は子供が作れない。それはわかっている」というピオトルケの台詞と、「自分は子供が産めない。それはわかっている」という「口髭の男の妻」の台詞が、立場的に完全に「裏返し」であり「対置」されるものであることが理解できるだろう。なおかつ、青字で引用した部分を比較すればわかるように、彼/彼女の台詞が発せられる順序もちょうど「逆順」に……いわば「Are you listening to me?」を中心軸にして「対象形」に配置されており、彼/彼女の「対置性」をより強調している。

結局のところ、この二つのシークエンスもまた、「インランド・エンパイア」が繰り返し変奏する「機能しない家族」というテーマの「ヴァリエーション」なのである。ポーランド・サイドとアメリカ・サイドという差異こそあれ、あるいは受容者=ロスト・ガールと登場人物=スーと演技者=ニッキーという差異こそあれ、そこで発生している事象はそれぞれが「普遍」の中の「個別例」であり、全部をひっくるめて「機能しない家族」の抽象的な概念を形成するものなのだ。

このように「インランド・エンパイア」には、さまざまな形の「機能しない家族の個別例」が順列組み合わせのごとく現れており、それはこれ以降のシークエンスにおいても続くことになる。

2008年4月 2日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (66)

さて、某集団主催の花見大会もつつがなく終わり……てか、某嬢が花粉症の薬のせいで桜も見ずにずっとぶっ倒れて眠ってたり、隣のシートにいたタイ方面のお嬢さん集団(だと思う、きっと)と国際交流を深めたり、気がつくとなぜか自宅の近くの居酒屋で二次会になってたり……などとゆーよーな些事もありましたが、いちおー怪我人も病人も逮捕者も出さずに終了で、いや、よかったよかった。よかった続きで延々続いた「前置き」が終わったところで、前回と同じ(2:14:36)から(2:16:09)までのシークエンスをば、今回はスー=ニッキーの台詞を中心に追いかけてみよう。

(1) I really don't understand what I'm doing here.
(2) (前の台詞に重なって) That's one hell of fucking climb getting up here.
(3) There was this man... I once knew.
(4) I'm trying to tell you so's you'll understand how it went. The thing is I don't know what was before or after.
(5) I don't know what happened first. And it's kinda laid a mind fuck on me.
(6) (画面外から) My husband.
(7) he's fucking hiding something. He was acting all fucking weird one night before he left.
(8) (画面外から) He was...
(9) talking this foreign talk, and... telling loud fucking stories.

大雑把に整理するなら、スー=ニッキーがここで語っていることは二つある。一つは、(3)(6)(7)(8)(9)で語られている「男=夫」の話であり、もう一つは(1)(2)(4)(5)といったその間に差し挟まれる彼女自身の「感想」めいたことだ。

ここで彼女が語る「夫」とは、具体的な誰かを指してるわけではなく、総体としての「夫」つまり「夫の抽象概念」を指しているのはいうまでもない。「以前、知ってた男のこと」であり、それは裏を返せば「今は知らない男のこと」である。このあたりはたとえば、以前に現れた「Mr.Kのオフィス」のシークエンスにおいて、スー=ニッキーが語った「男たちは変わってしまう。いや、変わるんじゃなくて、本性を表すの(A lot guys change. They don't change, but they reveal.  In time, they reveal what they really are)」(1:23:22)という台詞と表裏一体をなすものだ。同時に、彼は「何かを隠していて、姿を消す前は奇妙な振る舞いをしていた」ともスー=ニッキーは語る。これもまた、以前にスー=ニッキーが言った「彼は何かを明らかにした。今思えば、ずっと彼が何かを隠していたことがわかる。彼は何かを企んでいた。私に対して、心の中で何かを企んでいた(he revealed something. Looking back on it...  all along it was being revealed. He was planning something. Planning something with me in mind.)」という台詞と連続性をもったものであることが理解できる。どちらのシークエンスにおいても、本質的に同じことをスー=ニッキーは語っているのである。

だが、この一連の台詞のなかでもっとも興味深いのは、一番最後の台詞である。「外国語のような言葉を喋る」という示唆は、リンチ作品全般に繰り返し登場する「成立しない会話」というモチーフの現れと捉えるのが、とりあえずはストレートだろう。たとえば、(0:34:00)には、ポーランド語を話す老夫婦と、彼らの言葉を理解できないスー=ニッキーを描いたシークエンスが存在する。「ポーランド語は理解できないし、話せない」というニッキーの主張などまるで省みることなく、夫=ピオトルケは「思ったより彼女(ニッキー)はあなた方の言うことを理解していると思いますよ(I-- I think she understands more than she lets on)」などと根拠のないことを言う。互いに意思疎通ができないでいるという点において、「老夫婦とニッキーの関係」と「ニッキーとピオトルケの関係」は「等価」であり、重なるものとして描かれていることは明らかである。スー=ニッキーとピオトルケは、つまりは妻と夫は、それぞれが「異なる言語」で話しているかのごとく、相手を理解できないでいる。夫=ピオトルケが話す内容は、スー=ニッキーにとって「わけのわからない」ものとしてしか解されないのだ。「以前は知っていた」はずの男が「何かを隠したり」「奇妙な振る舞いをとったり」といったことを含めて、「Mr.Kのオフィス」でスー=ニッキーが話しているのは、夫=ピオトルケと自分の間に横たわる「コミュニケーション・ブレイクダウン」のことであり、「機能しない家族」の一要因のことなのである。

と同時に、そうした「夫に関すること」を話す間に差し挟まれるスー=ニッキーの「感想」めいたものも、同じくらい興味深い。

「何が起きたのか、あなたにわかってもらえるように話そうとしてるんだけど。問題は、何が先に起きたことで何が後に起きたことなんだか、さっぱりわからないことよ」「そもそも何が始まりだったのか、よくわからないのよ。頭の中をひっかき回されたみたいな感じ」

「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」として捉えるかぎりにおいて、このスー=ニッキーの台詞が物語るのは、つまりは「映画」に関連/起因する「見当識の失当」、特に「時間に対する見当識の失当」のことであるのは明白である。だが、ここで語られているのは、これまで現れた「ここはどこ?(Where am I)」などをキー・ワードにした「感情移入=同一化」の結果としての「時間に対する見当識の失当」とは、異なったもののように思える。 それを端的に表しているのが「わかってもらえるように話そうとしている」という発言が備えるイメージで、これは「受容する側」というよりはむしろ「記述する側」の立場に立ったニュアンスを内包しているといえるだろう。あえていうなら、これは「映画製作」時における「撮影の順序」に起因するものであるように思える。実際の撮影現場においては、作品内の「時系列」の優先順位は低い。つまり、多くの場合、シナリオで提示される時系列に従って、頭から順番に撮影が行なわれるとは限らないということだ。優先されるのはロケーションやセットの都合であり、極端な話し、たとえシナリオ上で二つのシーンの間に作品内では十年の月日が経っていたとしても、その舞台が同一ロケーション/セットであれば、連続して撮影されることも特殊なことではない。となれば、シナリオを読んでおらず作品の全体像を知らない者が映画の撮影順序だけを追いかけたなら、「何が先に起きて何が後に起きたのかさっぱり」で「そもそも何が始まりであったのかよくわからない」という感想を抱くことは間違いないだろう。

しかし、上記のような事項を考えた際、否応もなく思い浮かべてしまうのが「インランド・エンパイア」の製作にあたってリンチがとった、「あらかじめ完成したシナリオを用意しない」という方法である。今までも繰り返し述べたように、映像による「伝達」(それが具象的な「物語」であれ、抽象的な「概念」であれ)を機能させるのは、「編集」である。もちろん、特にハリウッドではプリ・プロダクションの段階でシナリオからストーリー・ボードを起こす等の検討作業が行なわれるケースがほとんどのようだが、実作業としてはポスト・プロダクションの段階で「素材」に編集作業が行なわれることで映像の「文脈」は最終的に成立する。純粋に「編集作業」のみに限定した場合、必要な「映像素材」さえ揃っているなら、あらかじめ完成されたシナリオが存在しようが、「インランド・エンパイア」のように断片的に用意されたシナリオによる撮影であろうが、実作業上は大差がないことになる。

……などと簡単に書いたが、理屈は理屈として現実を考えたとき、「インランド・エンパイア」の製作作業が非常に困難なものであっただろうことは想像に難くない。「リンチ1」で撮影中のリンチが吐露する「どのような作品になるか、まったくわからない」という「苦悩/泣き言」は、あらかじめ完成したシナリオを持ち、場合によっては撮影前にカット割りまで検討済みの状態で作品を作る場合には、比較にならないほど軽減されるであろうものだ。というより、「工業製品」であり「商品」である「映画」の側面、あるいは「投資の対象」としての「映画」の側面を考えると*、通常では考えられない方法論で「インランド・エンパイア」が作られたのは確かである。そう考えるとき、このスー=ニッキーが告白する「混乱」は、また違った意味を帯びてくる。これは、「インランド・エンパイア」を撮影中に、リンチ自身が抱えた「混乱」であり「苦悩」ではないのか。もしそうであるならば、これもまた、リンチの極私的な部分の作品への反映であるといえそうだ。

*しこたまマーケティング・リサーチをし、企画評価のプロを雇い、シナリオを書き直しまくり、巨額の資金を投入して、高いギャラの人気俳優をかき集め……それでもやはりコケるときにはコケるのが「興行」というものである。

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