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2008年4月 6日 (日)

「David Lynch Decoded」を読む

というわけで以前にも紹介したリンチ関連本「David Lynch Decoded」を読了したわけでありますが。

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以前も触れたけれど、著者のMark Allyn  Stewart氏には「Hand of God」 シリーズをはじめとするホラー小説の著作があり、小説家が本業の方である。しかし、この本の著者紹介をみると、 この方、ウェブスター大で映画学の学位をとっているらしい。そういう意味では、映画を観る作業に関しても、 一応の訓練を受けたことがある方だと考えていいのだろうと思う。

Stewart氏がいちばん最初に触れたリンチ作品は「ツイン・ピークス劇場版」で、高校生のときのことであったらしい。 Stewart氏はいたくこの作品を気に入り、以降、ビデオ屋でリンチ作品を漁ることになった。ということは、TV版の「ツイン・ピークス」は観てなかったのか? という疑問もわくのだが、そこらへんの事情は本書ではつまびらかではない。ピークス・ファンでもなかった氏が「劇場版」を観に行く契機になったのはいったいなんだったのか、ちょっと興味深いところだ。

本書の構成に関しては、これまた以前も紹介したとおりで、リンチの諸作品に現れる「共通したモチーフ」を作品ごとに追いかけて、最終章でそれを総括するという形をとっている。いわば、リンチ作品に現れる「モチーフ」を「辞書化」しようという試みであるわけだ。氏の弁に従えば、たとえばヒッチコック作品における「緑」が「病的なもの」を表すように、リンチ作品に頻出する「青」によって表されるものも何か共通項があるはずである。よって、その「青によって表されるもの」を具体的な現れ方から探っていこう……という趣向である。作家分析の手口としては、まあ、真っ当過ぎるほど真っ当であるといっていいだろう。

本書のなかで、実際にStewart氏がリンチ作品における「共通モチーフ」として指摘しているものを列挙すると、「青」「犬(鳴き声だけを含む)」「電気」「赤いカーテン」などがある。また、「ラジエーター・ガール」や「キラー・ボブ」や「小人」、「ミステリー・マン」や「カウボーイ」といった(著者の表現を借りれば)「異世界からのキャラクター」もまた、共通するモチーフの表れとして分類されているようだ。

分析対象として俎上に上がっているリンチ作品は、「イレイザーヘッド」から「インランド・エンパイア」までの劇場用作品10本と、 TV版「ツイン・ピークス」である。「イレイザーヘッド」以前の「アルファベット」や「グランドマザー」には触れられていないし、「ホテル・ルーム」や「オン・ジ・エアー」などのTV用作品もとりあげられていない。また、リンチによる絵画作品に関しても一切言及されていないし、リンチ自身の発言や著作からの引用もない。そこらへんを切り離して、主として「劇場用映画作品」として発表されたもののみから分析作業をしようというのは、ある意味、潔いといえば潔い……のだが、リンチに関するその他の情報を丸っぽ無視するのも、ちょいと乱暴すぎゃしないかという疑問もわく。

……というようなことを思いつつ読み進んだのだが、少なくとも「マルホランド・ドライブ」までの作品に関する限り、著者の作品把握はそれなりに的確であるように感じる。細かいとことで「そりゃ、どうよ?」と引っかかる点はあるものの、クリテイカルな読み違いはない……というか、的確過ぎて「新しい視点」に欠けるという点で詰まらんといえば詰まらんのだが(笑)、それは的外れな批判というものだろう。というのは、実際に読み終えて感じた限りでは、Stewart氏はこの本をあくまで「リンチ入門書」として書いているからだ。この本に冒険的な論証や多角的な検討を期待するのは、そもそも間違いなんである。

だが、この「入門書」という位置付けを前提としても、やはりいろいろと食い足りない部分があるのも確かだ。そのひとつの表れがStewart氏が本書の中で選択している「用語」で、たとえば「ドッペルゲンガー」というような用語を、何の批判も注釈もなく「無造作」に使ってしまうのはいかがなものか。そうした「既成用語」を「ツイン・ピークス」のクーパー捜査官や「ロスト・ハイウェイ」のフレッドの説明に使ってしまうのは、どうも「理解しやすさ」と引き換えに「議論の発展性」を犠牲にしているような気がしてならない。そして案の定、Stewart氏の議論はそこで止まってしまう。リンチ作品の中で発生している「現象面」を延々と追いかけるばかりで、いい言い方をすれば非常にプラグマテイックなのだが、悪くいうとそれこそ「リーダーズ・ダイジェスト」的で表層的なんである。リンチの表現の「本質論」……たとえば、その根底にある「表現主義」への言及などに議論がつながっていかないのは、逆に「リンチ入門書」としてみた場合どんなものなのだろうか。

リンチ作品を言語化することの困難さのひとつに、その半具象的な表現をどう捉えるのか、すなわちどこまで具象的なもの(あるいは抽象的なもの)として捉えるのかという点があるのは、まあ、確かだ。このあたりの「揺らぎ」は本当に人それぞれで、リンチ作品を論じる際に各人がなかなか「共通認識」を持てないでいるのは、そこらへんに起因する部分がデカいんではあるまいかと思っている。そして、そうした「揺らぎ」は、とどのつまり、リンチ作品を言語化する際に選択される「用語」の「揺らぎ」に直結してしまう。そうした「用語の揺らぎ」は、どうにも「気持ちが悪い」。どのくらい「気持ち悪い」かというと、他人のパンツを借りてはいてみたぐらい「気持ち悪い」(笑)。

というような個人的な感想はどうでもいいとしても、このあたりの「用語選択」の具体的な問題として、 Stewart氏がリンチの諸作品から摘出した「共通モチーフが表すもの」を「言語との一対一の関係」でしか記述できていないことが挙げられる。たとえば「青のモチーフが表すもの」を単純に「秘密」という言語に置き換えることに、 Stewart氏はまったく抵抗感を抱いてない様子なのだ。わかりやすいといえば確かにわかりやすいし、「入門本」という本書の性格に合致しているといえば合致しているかもしれない。だが、当然ながら、リンチの映像が提示する「抽象的で複合的なイメージ」はこのような「言語との一対一の関係」では表せないので、どこかで概念的に「はみ出す部分」や「不足な部分」が発生してしまう。そうした「部分」を切り捨てて「総論化」することには、(ラカン派論者でなくとも)「過度の単純化(Oversimplified)」という批判を向けざるを得ないだろう。

なによりも、リンチ作品がそのような「言語との一対一の関係からはみ出した部分」を糊代にイメージを結節させていることを考えると、結果としてそれは全体的な作品構造に対する分析の不足につながっていかざるを得ない。それを証明するかのように、「インランド・エンパイア」に関する作品分析に入った途端、Stewart氏の筆は急に躊躇をみせ、明瞭さを欠いてしまう。他の作品には存在した全体構造に対する言及が欠落し、疑問形の文章が増える。作品解釈というよりは、Stewart氏のいう「共通モチーフ」の「辞書」を基に、作品解釈に至る道筋を模索している様子を読まされているかのような印象さえ受ける。そして、残念ながら、 Stewart氏の作業はうまく行っているとはいえない。「インランド・エンパイア」に対して、少なくともその全体構造の把握に対して、 Stewart氏の「リンチ辞書」は機能しないのだ。

Stewart氏のリンチ論の限界がどのあたりにあるか、このへんで明確に見えてきてしまう。「ドッペルゲンガー」や「秘密」や「異世界」といった「紋切型の用語」を安易に使ってしまうことに表れているように、氏には、「抽象的な映像」を「具象的な言葉」に変換することの困難性に対する認識が欠けているのだ。それは厳しい言い方をすれば、「抽象的なものを抽象的なものとして把握し論じる能力」の欠落を露呈していることと同義である。たとえば「デヴォンとニッキーのベッド・シーン」が青色の照明に包まれて行なわれるのは、それが不倫行為であり、「秘密」であるからだ……とStewart氏は論じる。だが、それが作品の全体構造とどう関係しているのか、 Stewart氏の「インランド・エンパイア」分析は明瞭にできないままに終わってしまう。要は氏の「インランド・エンパイア」分析は「あらすじ」の範疇を出ていないわけだが、非ナラティヴな作品の「あらすじ」など、何の役にも立たないのは自明のことである。

同じことは、著者が用いる「異世界からのキャラクターたち」という「用語」に対しても指摘できる。「ラジエーター・ガール」や「ミステリーマン」といったリンチ作品に登場するキャラクターたちが、ときとして「複合的かつ抽象的な概念」を表しているのは「青のモチーフ」などと同様である。これらのキャラクター自体を一括して「異世界から来た者」と言い表すことは、やはりこれまた「過度の単純化」と言わざるを得ない。なによりも、Stewart氏はこれらの「異世界」が結局何であるのか、まったく明瞭にできないままで終わる。巻頭言にStewart氏自身が「(リンチ作品は)奇妙なものを作りたいがために奇妙に作られている(weird for weirdness' sake)わけではなく、なんらかの意図がある」と述べているにもかかわらず、結局Stewart氏にとって(あるいはこの本の読者にとっても)「異世界」は「異世界」のままなのである。それはリンチ作品を「weird for weirdness' sake」と評することと、いったいどこがどう違うのだろう? もし、これらのキャラクターに共通項を求めるなら、むしろ重視しなければならないのは「抽象概念のキャラクター化」という手法そのものあり、ひいてはその根底にある「表現主義的な手法」によって表されているもののはずなのだが、Stewart氏はそこまでは議論を発展させない(もしくは、できない)。

いろいろ総合すると、「リンチ入門書」としても、あまりこの本をお勧めできないというのが正直なところだ。キツい言い方をするなら、この程度の議論はネット上でもすでに氾濫している。残念ながら、わざわざ金を払って読むほどの内容ではない、というのが偽らざる感想である。

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