フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (63) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (65) »

2008年3月28日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (64)

リンチがプロモーションで連れていた牛のヨダレのごとく、ダラダラと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。こないだも牛丼の大盛りをば美味しくいただいた大山崎なんですが、そういえば「BSE騒ぎ」っつーのは、その後いったいどーなったのよ? などとゆーよーな疑問を抱きつつ、今回は(2:12:05)から(2:14:36)までを俎上にのせてみる。

このシークエンスにおいて、舞台は再び「ポーランド・サイド」から「ハリウッド・ブルバード」へと戻る。このシークエンスに登場するスー=ニッキーが「スー(A)」であるのか「スー(B)」であるのか、映像からは明確には判別できず、おそらくはリンチが受容者に解釈を任せた部分であり、明確に仕掛けた混乱であろうことは以前にも述べた。だが、見方を変えれば、「スー(A)」と「スー(B)」が、「観る者」であり同時に「観られる者」でもあるという点でまったく「等価」であるならば、これがどちらのスー=ニッキーであっても本質的な「差異」はないともいえる。その観点に立つなら、この「混乱」をとおして描かれているのは、むしろ「スー(A)」と「スー(B)」の同一性の「強調」だ。

このシーケンスにおいて具体的に描かれているのは「クラブ」だが、この「場所」が伝えるイメージによって表されていると思われるものは、大きく分けて以下の二つになる。

一番目は、「インランド・エンパイア」に登場する様々な「メディア」のひとつとしての「クラブ」である。このことは、そこに「ダンサー=演者」がおり「観客」がいるという「構造」から明らかだ。そして、そこで扇情的に踊る「黒い山高帽を被り、黒い毛皮を持った女性ダンサー」は、ニッキーの「女優」という職業と重なり合っており、同時に「ストリート」に立つ娼婦たちをも連想させる。「ハリウッド・ブルバード」の「ドロシー・ラムーアの星」とそこに屯する「娼婦たち」と同様、この「クラブ」も「演技者」と「娼婦」をつなぐ等号として機能しているといえるだろう*。この図式をみる限りにおいては、「クラブ」は基本的に「ストリート」に属するものであるとみなせるはずだ。

二番目は、「中間地点」としての「クラブ」、もしくは「誘導するもの」としての「クラブ」である。「クラブ」の構造が、入り口こそ「ストリート」のレベルにありそれに面しているものの、入ってすぐの「階段」を登ってその「フロア=内実」にたどりつくようになっていることは見逃せない。「インランド・エンパイア」に繰り返し現れる「高低のアナロジー」に従う限りにおいて、この「クラブ」は構造的に「ストリート」と「より高い場所」の「中間地点」にあるといえる。そして、(2:140:36)以後のシークエンスに明示されるように、この「クラブ」から上方につながっているのは、「Mr.Kのオフィス」という「コントロール」のイメージを付随させている場所なのだ。そこへは「クラブ」から「死ぬほど階段をのぼった」すえに辿り行き着くわけだが、それに際して「誘導するもの」として機能しているのが、この「クラブ」でスタッフとして働き、スー=ニッキーが自分の知人であると主張するカロリーナという名前の女性である**

スー=ニッキー: (追い詰められたようにまわりを見回しながら、「クラブ」の入り口に立っているスタッフに向かって) Somebody's gonna fucking kill me!  Carolina! You got to let me in, man. You got let me in. I know that girl! Carolina. I know Carolina. [whispers] Let me in. Let me in.(2:12:21)

この女性の名前である「カロリーナ(Carolina)」のスペルが、「ノース・カロライナ(North Carolina)」と同一であることは指摘するまでもないだろう。映画監督リンチにとって「重要な地」となったノース・カロライナが、ここではスー=ニッキーを助け「Mr.Kのオフィス」に導く「重要な誘導者」として登場している。リンチにとってノース・カロライナが何を意味するか(あれとかこれとかそれとか)を考えたとき、「映画に対するコントロールの場」である「Mr.Kのオフィス」が「映画業界」のイメージと重なり複合しているという見方も、あるいは可能なように思えてくる。「クラブ」に入れてくれるように「懇願」し「許可」されるスー=ニッキーの姿が、ある意味で過去のリンチに(あるいは現在のリンチに)重なってみえるのは気のせいだろうか。

……といった具合に、「クラブが表すもの」に関する概説を終えたところで、スー=ニッキーが「クラブ」への入店を許可され、席に一度「誘導」されたあと、再びカロリーナに導かれて「クラブ」の「スタッフ専用口」を抜け(2:13:57)、店の裏手の「スタッフ用通路」に辿り着いてからの具体的な映像を追いかけてみよう。

(1)左手に開けっ放しの非常口。どこか左手の方にあるスポット・ライトの灯りが当たっている。赤いカーテンに覆われた通路が、画面の奥まで続いている。赤い服を着た女性スタッフ=カロリーナとスー=ニッキーが右手から現れる。カロリーナが画面手前の方を指差して、スー=ニッキーに何事か話しかける。
(2)(スー=ニッキーの主観ショット?)ドアが見える。ドアの上には、「EXIT」という緑に光る標識が見える。
(3)カロリーナが何かを囁きながらスー=ニッキーを逆の方向に向かせる。そちらの方を見るスー=ニッキー。二人の背後には赤いカーテンが下がっているのが見える。右へパン。延ばされたカロリーナの右腕。その手の人差し指は、非常口の反対方向、赤いカーテンの続く通路の奥の方を指差している。
(4)カロリーナが何事かをスー=ニッキーに耳打ちする。通路の奥に向かって歩き始めるスー=ニッキーを追って左にパン。
(5)手前の画面外からスー=ニッキーの背中に向かって延ばされ、ゆっくりと振られる赤い服を着たカロリーナの左腕。通路の奥に向かって歩くスー=ニッキー。やがてその先で通路を左に折れ、姿を消すスー=ニッキー。

まず指摘できるのは、「赤いカーテン」に表される「赤のモチーフ」である。以前にも述べたように、「インランド・エンパイア」において「赤のモチーフ」は「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の物語展開に関係するもの」として現れ、「青のモチーフ」によって表される「心理展開に関するもの」とは「対置関係」にある。「Mr.Kのオフィス」で発生している事象が「スー=ニッキーの語り」という「効率の良い物語展開」であるとするならば、そこに至る階段に通じる通路に「赤のモチーフ」が現れるのは当然である。もちろん、これは(1)(3)(4)(5)に登場する「誘導するもの=カロリーナ」が「赤いドレス」を着ていることにも、端的に表されているといえるだろう。

また、この(5)のカットにおけるカロリーナの伸ばされた「腕」の映像は、「バルト地方の家」の壁に掛かっていた「右手に蝋燭を持ち、左手が伸ばされている絵」(2:04:23)と関連性を感じさせるものである。この「絵」は、ピオトルケが老人の一人に促されて部屋を出ていくカットにおいて、その戸口の壁に掛けられていたものだ。「差しのべられた腕」と「赤」というモチーフ上の共通点もさることながら、その「バルト地方の家」の内部で発生した事象自体が「介入」であり「コントロール」であったことをあわせて考えるなら、この「絵」もまたあからさまな「誘導」のイメージを付随させているといえる。カロリーナが「囁き」をもって「スクリュー・ドライヴァー」を携えたスーニッキーを導くものである(カット(4))ならば、この「絵」は「蝋燭の灯り」でもって「拳銃」を受け取ったピオトルケを導くものであるといえるだろう。ここにも、リンチ作品における同一モチーフの「ヴァリエーション」の現れが顔を覗かせているといえるわけだ。しかし、考えてみよう。「蝋燭」と「囁き」……つまり「光」と「音」は、そのまま「映画」というメディアを成立させる構成要素ではないだろうか? であるならば、そこに姿を現すのはやはり「映画による誘導」というイメージであり、これもまた「インランド・エンパイア」が内包する「映画に関するテーマ」のひとつ……映画による「見当識の失当=感情移入」をとおした「自己確認」にも重なっていくことになる。

興味深いのは(2)のカットに登場する「出口(EXIT)」の標識だ。リンチにとってノース・カロライナが何を意味するかを考えたとき、まずカロリーナがこの「出口」を指差し、「クラブ」を出ていく選択肢があることをスー=ニッキーに教えたあと、次に「Mr.Kのオフィス」につながる階段の方へと彼女を誘導していることは、非常に示唆的であるといえる。あるいは、これは、「ブルー・ベルベット」を製作する直前のリンチの状況を反映したものであるとも捉えられるし、あるいは自身の現状をその当時に重ね合わせたことから派生するイメージであると理解することも可能だろう。いずれにせよ、このあたりは「誘導するもの」としてのカロライナ=カロリーナのイメージから連鎖したものと考えてよく、リンチの私的な部分の反映のひとつとして理解するべきものであるとここでは捉えておきたい。

*スー=ニッキーも、このカウンターの上で踊る「女性ダンサー」を見詰めている。ここにも、「観る者」と「観られる者」の関係性が発生しているといえる。(2:13:19)

**その他、入り口に立つ「黒いTシャツを着た男性スタッフ」(2:12:16)や「スー=ニッキーを席に案内する男性スタッフ」(2:12:52)など、「クラブ」に関連するシーンには「誘導するもの」のイメージが各所にみられる。

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (63) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (65) »

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

「インランド・エンパイア」を観た(X回目)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (64):

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (63) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (65) »

最近のトラックバック