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2008年3月24日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (63)

今週末はお花見だ! ネクタイ頭に巻いてドンチャン騒ぎだ! などと季節感を漂わせる記述を無理矢理ぶち込みつつ、その内実は季節変動などおかまいなしにウニウニと続ける「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(2:10:01)から(2:12:05)まで。

前回述べたシークエンスは、歩道の端に座り込みたむろする二人の娼婦の映像で終わり、右側の「娼婦」と彼女の「笑い声」をブリッジにして、シークエンスは「ポーランド・サイド」の「ストリート」に移る。この音声と映像によるブリッジが表すように、このシークエンスで提示される「ポーランド・サイド」の事象が、直前の「アメリカ・サイド」の「ストリート」で発生した事象からの「イメージの連鎖」によって、それに対置されるものとして喚起されていることは明白である。その「対置性」とは、直前のシークエンスが演技者=ニッキーと登場人物=スーに属するものであったのに対し、このシークエンスが受容者=ロスト・ガールに属するものであることだ。また、このシークエンスがロスト・ガールの「心象風景」を表していることも明瞭である。「」の「物語展開/心理展開」のエスカレーションを受けて、「アメリカ・サイド」の「ストリート」では、演技者=ニッキーが、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を手掛かりにして「自己確認の完了」を達成した。それとまったく同じようにして、今度は受容者=ロスト・ガールが、「ポーランド・サイド」の「ストリート」で「自己確認」を完了する……というのがこのシークエンスが提示するものである。

まずは、このシークエンスが提示する具体的な映像をみてみよう。

(1)大きな口を開けて笑っている娼婦(黒髪のカーリー)のアップ。左へパン。雪が積もったストリートと、コンクリートの支柱と鉄の柵のフェンスが見える。その向こうには黒々とした葉のない木々と、ずっと遠方の街灯が見える。通りを白と黒の馬の二頭立ての馬車が、一人の御者を乗せて右へと通り過ぎる。なおも左へパン。歩道のこちら側が見える。四人の女性が、離れてぽつんぽつんと立っている。いちばん近いところに立っているのは、黒いコートを着たロスト・ガールだ。
(2)襟に毛皮のついた黒いコートを着込み、毛糸の帽子をかぶったロスト・ガールのショット。彼女はかすかに首を左側に傾げている。彼女の顔にクローズ・アップ。その背後を、箱型の自動車が通り過ぎる。
(3)通りに向かって立っている、別の黒髪の娼婦(口髭の男の妻。(1:39:09)参照)が、自分の右手にいるロスト・ガールの方を見る。
(4)ロスト・ガールlのミドル・ショット。右へ180度パン。赤い帽子を被った娼婦が木の前に立って、ロスト・ガールの方を見詰めている。右側からもう一人の娼婦が画面に入ってくる。彼女はスパンコールの列がついた黒い帽子を被っている。ロスト・ガールの方を見詰める二人。
(5)ロスト・ガールのアップ。
ロスト・ガール:(ポーランド語で) Hey, look at me... and tell me if you've known me before.
(6)左側の娼婦が首を振る。右側の娼婦は手袋をはめた右手を上げ、ロスト・ガールに突きつけた人差し指を回し始める。
(7)ロスト・ガールのアップ。顎を突き出し気味に、二人の娼婦の方を見詰めている。
(8)二人の娼婦のバスト・ショット。右側の娼婦は人差し指を回すのをやめ、その手を自分の顎の下に当てる。互いを見交わす二人の娼婦。やがて二人は笑い始める。次第に大きくなっていく笑い声。
(9)ロスト・ガールのアップ。顎を突き出し気味にしたまま、頭を揺らしている。
(10)笑い続ける二人の娼婦。
(11)黒い木々。降りしきる雪。上方へパン。真っ暗な夜空。

このポーランド・サイドの「ストリート」は、アメリカ・サイドの「ストリート」と「対置関係」にある。その関係の根底にあるのは「不特定多数の受容者=ロスト・ガール」と「個の演技者=ニッキー」の関係性であり、つまりは「普遍」と「個別例」の関係に還元されることは繰り返し述べてきた。この「関係性上の差異」は、ポーランド・サイドとアメリカ・サイドの「映像上の差異」として表されており、たとえばポーランド・サイドの雪の冬に対置されるものとして、アメリカ・サイドの(そこの娼婦たちの服装が表すように)ロスの温暖な気候が配置されている。同じように「ハリウッド・ブルバード」では自動車が行き交うが、ポーランド・サイドの「ストリート」を通り過ぎるのは馬車である(カット(1))……といった具合だ。が、もちろん、こうした「差異=対置関係」を踏まえたうえでより重要なのは、この二つの「ストリート」が根底で備える「共通性」であるのはいうまでもない。「ストリートによって表されるもの」が「娼婦たち=女性たちが立つところである」という「共通性/等価性」は、「場所」や「時代」や「気候」あるいは「そこに立っているのが具体的に誰であるか」というような「瑣末な差異」を越えて、「インランド・エンパイア」全体を貫く根本的概念である。

そうした観点を踏まえたとき、直前のシークエンスでスー=ニッキーが達成した「自己確認の完了」を、ロスト・ガールがこのシークエンスにおいて、同じように達成しようとしていることが理解できるはずだ。(5)のカットでロスト・ガールが発する「ねえ、私を見て。前に会ったことがあるかどうか、教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before)」という「自己確認」のための問いかけは、もちろん、スー=ニッキーが「スミシーの家」の裏庭で、二人の女性(ロコモーション・ガール)に向けて発っした問いかけ(1:37:21)の「リフレイン」である。「個」が「普遍」のなかに呑み込まれ、もっとも外側のネスティングにおいて、ロスト・ガールはスー=ニッキーと同じ問いかけを共有する。そして、それに対する「回答」は、(6)(8)のカットに表されるように、「スミシーの家」の裏庭にいたのと同じ二人の女性によって……ロコモーション・ガールたちに「魅了」されることによってもたらされる(カット(6)(7)(8)(9))。これは明らかに同一モチーフのリフレインであり、ヴァリエーションとしての「図式化」だ。「ここはどこ?(Where am I?)」をキー・ワードにしてニッキーや「顔のない女性」が得た「自己確認への回答」と同じく、受容者=ロスト・ガールの「自己確認への回答」もまた、「映画の魔法」による「見当識の失当=感情移入」をとおして獲得されるのだ。

その「自己確認」は、やはり最終的には「他者」にも向けられることが、「口髭の男の妻」が、ロスト・ガールと並んで「ストリート」の「同じ側」に立っている映像によって提示されている(カット(3))。ロスト・ガールと「口髭の男の妻」の関係性は、スー=ニッキーとドリスの関係と重なり合っている。つまり、互いが互いの「トラブル=機能しない家族」の要因であり、「悪意=スクリュー・ドライヴァー」でもって傷つけ合う存在である点で、彼女たちは全員「等価」であるわけだ。なによりも、ロスト・ガールが「口髭の男の妻」によって「スクリュー・ドライヴァー」で刺し殺される映像(1:39:04)が、すでにそのことを明瞭に提示してはいなかったか? その映像は、「ビリーの屋敷」での修羅場において、ドリスの「心象風景」と並んで提示されなかったか?(1:53:35) 他の非ナラティヴなリンチ作品と同様、「インランド・エンパイア」においても、その中で発生する事象に対する「時系列操作」が一切行われていないことを前提とするなら、互いが互いの「悪意の対象」であることを理解するのは、ニッキーよりもロスト・ガールの方が先だったことになる。

さて、ロスト・ガールを「魅了」する女性が、ロコモーション・ガールの一員であることは映像によって明瞭に見てとれるわけだが、であるならば、この女性も演技者=ニッキーの「情緒の記憶」のひとつであり、ニッキーの裡にあるものなのは間違いない。それを前提に、解釈が分かれるであろう点は、彼女たちが発揮した「受容者=ロスト・ガール」を「魅了」する能力が、生得のものであるかどうかだ。それは演技者としてのニッキーが生まれながらに備えているものと捉えることも可能だと思うが、気になるのはロスト・ガールを「魅了」する(hypnotize)際のロコモーション・ガールが行なった「指を突きつけて回す」という仕種が(カット(6))、「映画の魔=ファントム」がドリスに「催眠術」をかけた(hypnotize)仕種(1:53:32)(1:53:39)とまったく同一であることだ。あるいは、スー=ニッキーが「映画の魔=ファントム」と接触したことによって「個別例」が「普遍性」に呑み込まれる契機を得た際に、彼女の裡にある「ロコモーション・ガール」たちもある種の「変質」を遂げたようにも理解できる。おそらく、この疑問に対する明確な解釈は得られないだろうと思われるが、いずれにせよこの二人の「ロコモーション・ガール」がロスト・ガールに対し、ファントムがドリスに対して発揮したのとまったく同じ「機能」を発揮していることだけは確実であるはずだ。

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