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2008年3月22日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (62)

アーサー・C・クラーク氏が亡くなったそうで、ご冥福を祈りつつチミチミと進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。しかし、「幼年期の終わり」では、日本に降りてくるべきは閻魔様なのではないか……などというバカ話を某所でしていたことは内緒に(してねーよ)、(2:07:51)から(2:10:01)までを追いかけることにする。

スー=ニッキーが問題の台詞を発した直後、「ハリウッド・ブルバード」にたむろする娼婦ヴァージョンの「ロコモーション・ガール」たちが映し出されるが、この映像自体が一種のエスタブシッシング・ショットとして機能している。と同時に、「Black Tumbaline」が流れ始める。この曲の歌詞にある「何かがおかしいのがわかる(I know there's somethin' wrong)」というフレーズそのものが、たとえば「ビリー・サイドの屋敷」での修羅場において(1:51:42)、スー=ニッキーが発した「何かがおかしい(Something's wrong)」という台詞のリフレインである。もちろん、「インランド・エンパイア」においては、この「何かおかしいこと」というのは「トラブル=機能しない家族」に起因することだ。

さて、少々長めになるが、このシークエンスで提示されている具体的な映像を順を追って並べてみよう。実際にはこのシークエンスはかなり長く、便宜上、区切りのいいところで分割しつつ進行することにする。また、以前述べた「明確に仕掛けられた混乱」の項での記述にしたがって、ここでも前回触れたすでに登場しているスー=ニッキーを「スー(A)」、後に登場するスー=ニッキーを「スー(B)」と呼ぶことにする。

(1)明るいショー・ウインドーの灯り。暗い色のパンツ・スーツ姿のスー(B)が歩道をこちらに向かって歩いてくる。左手にバッグ、右手にスクリュー・ドライヴァーを持っており、すなわち「スミシーの家」の隣家の裏庭で「ファントム」と遭遇した直後(2:00:41)の姿だ。スー(B)はバスト・ショットになるまで近づいてくる。ふと、自分の右上方を振り仰ぐスー(B)。
(2)「Axxon N.」の文字と「左から右への→」が、左手の店の壁に白いチョークで書かれている。赤と白のサイン板の一部も見える。「Axxon N.」からスー(B)の顔へパン。彼女の口元には打撲傷がある。通りの向こうに何かを察知し、左後方を振り返るスー(B)。
娼婦: (画面外で)[笑い声]
(3)(スー(B)の主観ショット)通りの向こうのミドル・ショット。 スー(A)が二人の娼婦と笑いあっている。スー(A)がスー(B)を見る。通りを行過ぎる自動車。
(4)スー(A)を見詰めるスー(B)のアップ。
(5)(スー(B)の主観ショット) 通りの向こうのミドル・ショット。スー(A)と二人の娼婦が笑いあっている。スー(B)を見詰めているスー(A)。スー(A)がスー(B)にしかめっ面をしてみせる。
(6)それを目にして、おののき後ずさるたスー(B)のアップ。
(7)スー(A)のアップ。大きな口を開けて笑っている。
(8)スー(A)を見詰めるスー(B)。何かに気づき、左を振り返って背後を見る。
(9)(スー(B)の主観ショット)白いTシャツにジーンのショート・パンツ姿のドリスが、通りを渡ってスー(B)のいる歩道に向かって歩いてくる。通りの向こう側には三台の車が駐車している。通りのこちら側には一台。パトカーが右から左へ通り過ぎる。白い自動車が左から右へ走りすぎる。
(10)おののきながら、ドリスが近づいてくるのを見詰めるスー(B)。やがて、踵を返し、「Axxon N.」が書かれた店の黒い壁に沿って脇道へ歩き去る。店の壁には、公衆電話、「PRIVATE PROPERTY   NO TRESPASSING」と書かれた赤と白の標識、そして「6330」と白い文字で書かれた標識がある。左手の画面外へ去っていくスー(B)。「Axxon N.」へクローズ・アップ。
(11)背後を振り返りつつ、歩道を早足で歩くスー(B)。背後からそれを追いかけるショット。右手には店じまいした店舗の列が、左手には歩道際のゴミ箱と通りを行き交う自動車のヘッド・ライトが見える。歩道の舗装には「星」が埋め込まれているのが見える。
(12)走るスー(B)の足のアップ。歩道の「星」が通り過ぎていく。
(13)走るスー(B)の背後から、激しく揺れつつ追いかけるショット。
(14)スー(A)が右の方を見る。暗い色の車が通り過ぎる。
(15)(スー(A)の主観ショット)ドリスが歩道際の街路樹の陰に身を隠す。黄色い回転灯の明かり。
(16)ドリスのいる方向を見詰めたままのスー(A)の横顔のアップ。
(17)通りの向こう側を見詰めたままのスー(A)を左背後から収めたショット。娼婦(黒い短髪。黒いチューブ・トップに黒いミニスカート)が左手にこちらを向いている。左に向き直り、画面外に歩み去るスー(A)。その顔を収めつつ、後退するショット。
(18)娼婦(ブロンドのカーリー・ヘア)が公衆電話で話している。彼女の右手から近づくスー(A)。スー(A)は背後を振り返りつつ、何事かを娼婦に向かって一所懸命話しかける。しかし、電話に忙しい娼婦はうるさがり、「黙れ」と合図した右手を振ってスー(A)を追い払う。 娼婦はスー(A)に背を向ける。絶望的な表情を浮かべたスー(A)は、周りを見回した後、右の画面外に姿を消す。姿を消したスー(A)から電話を掛けている娼婦にパンし、近づいていくショット。彼女は通りを見ている。その顔に反射する行き交う自動車のライト。彼女の背後のビルに金属製の表示板がある。黒地に金色の文字で「6331」と読める。
娼婦:(受話器に向かって)I need to make a collect call.

このシークエンスでは、大きく分けて以下の二つの事象が提示されている。

まず一つ目は、「二回目のAxxon N.の出現」をポイントとした、「目撃される(観られる)側のスー=スー(A)」と「目撃する(観る)側のスー=スー(B)」という二人のスー=ニッキーの発生である。しかし、この「二回目のAxxon N.」で発生している事象は、「一回目のAxxon N.」直後のサウンド・ステージ内で発生した事象(1:01:51)とは大きく異なる。「一回目のAxxon N.」では、「観る」「観られる」の関係が一方的な固定されたものであったのに対し、このシークエンスの「二回目のAxxon N.」では、(5)のカットにみられるように、「観られる側のスー」のほうも「観る側のスー」を視認しており、彼女たちの視線は双方向であるのだ。なおかつ、同カットでスー(A)がスー(B)に「しかめ面」をしてみせることからわかるように、スー(A)はスー(B)に対して「自分が相手を視認したこと」を明瞭に伝えている。続くカット(6)では、そのスー(A)を目撃することによって、スー(B)も自分が「観る側」であると同時に「観られる側」でもあることを確実に了解している。

二つ目は、二人のスーによる(娼婦ヴァージョンの)ドリス・サイドの「目撃」である。まず(8)(10)のカットにおいてスー(B)が先にドリスを「目撃」し、次に(14)(16)のカットにおいてスー(A)が「目撃」する。(10)(17)のカットに表れているように、この「目撃」の結果、スー(A)とスー(B)がともにドリスを「脅威」と感じ、まったく同じ反応を示していることは映像的にも明らかだ。興味深いのは、(9)のカットで明示されているように、ドリスは最初「ストリート」の向こう側(スー(B)がいる側)におり、そこから道路を渡ってスー(A)のいる側に至っていることである。また逆にスー(A)からは、ドリスは「ストリート」の向こう側の街路樹の陰にいる状態で視認される(カット(15))。つまり、どちらのスー=ニッキーからも「向こう側」にいる(いた)存在としてドリスは認識されていることになる。

これらの事象を通じてまず了解されるのは、スー(A)とスー(B)の「等価性」「同一性」であり、ひいては演技者=ニッキーと登場人物スーの「等価性」「同一性」の強化……いうならば「スー」と「ニッキー」をつなぐ「『イコール』の強化」だ。それは「二回目のAxxon N.」の後に発生した事象と、「一回目のAxxon N.」後に発生した事象との「差異」に端的に表されている。「一回目のAxxon N.」のポイントで発生したのは、キングズレーたちと一緒にいたニッキーの姿が消える映像(1:02:31)に表されているように、「演技者=ニッキーの消失」と「スー=ニッキーの生成」であり、言い換えればニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の本格化だった。それに対し、この「二回目のAxxon N.」のポイントで発生しているのは、「観る者」と「観られる者」の境界の消失であり、「演技者」と「登場人物」の境界の消失である(もちろん、これは「受容者」と「登場人物」の境界の消失をも意味する)。すなわち、「完全なる感情移入=同一化」だ。

そのスー(A)とスー(B)の「等価性」を補強する「接合部品」として機能しているのが、このシークエンスにおけるドリスである。スー(A)とスー(B)はともにドリスを目撃するという「共通項」をもつが、それよりも問題なのは、その「目撃したこと」に対する二人のスーの反応がまったく同一であることだ。こうしたメンタリティの「同一性」こそ、「インランド・エンパイア」が内包する「感情移入装置としての映画」というテーマから敷衍されるものに他ならない。

しかし、ここでドリスという要素が入り、スー(A)とスー(B)の「視線の交換」に参加することによって、「観る」「観られる」の関係性は複雑化する。スー(B)はドリスを目撃した直後そこから立ち去る(カット(10))が、その「視線」はドリスによって引き継がれ、スー(A)を見ているのだ。それにともなって、「等価性」の問題も一層複雑化する。二人のスーは同じように通りの向こう側にいる(あるいは、向こう側から来る)ドリスを目撃するが、この「通りを挟んで」という「対置性」は、第一義的にはドリスが悪意を向ける対象がスー=ニッキーであるという「対置性」と重なっている。が、同時に、このシークエンスの頭で獲得した「自己確認の完了」を通じ、スー=ニッキーが「他者に対する認識」を獲得すること……つまり、ドリスもまた「ストリート」に立つ存在であり、自分たちと同様に「トラブル=機能しない家族」に傷つく「存在」であるという「等価性」の認識を獲得することにもつながるものだ。そして、最終的に、スー=ニッキー自身もまたその「トラブルの要素」であること、つまり互いが互いに「悪意=スクリュードライバー」を突きつけ傷つけあう「存在」として「等価」であることの認識につながるものである。それは、(0:34:33)からの警察署内部のシークエンスと(1:50:51)からの「ビリーの屋敷」での修羅場のシークエンスを経て、最終的に「ハリウッド・ブルバード」での「スーの死=ニッキーのフェイクの死」において具体的映像として提示されるものである。

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