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2008年3月16日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (61)

うはは。それにしても全然進まんな、こりゃ(笑)。と自分自身にあきれかえりながら、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(2:07:24)から(2:07:59)までを、かましてみる(短かっ!)。

便宜的、前回述べた(2:06:24)から(2:07:24)までのシークエンスとこのシークエンスを分割したが、実際はこのシークエンスは直前のシークエンスと一体となったものであり、それは両シークエンスがサウンド・ブリッジによって結合されていることからも理解できるだろう。

このシークエンスからしばらく、舞台は「アメリカ・サイド」の「ストリート」に移る。このアメリカ・サイドの「ストリート(によって表されるもの)」がニッキー自身の「ストリート(によって表されるもの)」であることは、「ポーランド・サイド」の「ストリート」とは異なって、そこが「ハリウッド・ブルバード」という固有の場所として特定されていることからも明らかだ。ニッキーが「演技者」である限りにおいて、彼女の「ストリート」が「ハリウッド・ブルバード」であるのは当然であるといえるだろう。このアメリカ/ポーランド両サイドの「ストリート」は、「個別例」と「普遍」という「対応関係」にあるといえる。つまり、「スミシーの家」と「ロスト・ガールの家がある建物」との間にあるのとまったく同一の「関係性」であり、その根底にあるのが「演技者=ニッキー」と「不特定多数の一般的受容者=ロスト・ガール」との間の関係性であることはいうまでもない。

まず、このシークエンスの冒頭を飾るのは、夜の「ハリウッド・ブルバード」に立つ8人の娼婦たちである。彼女たちが「ロコモーション・ガール」たちであることは容易にみてとれるが、服装やメイクの違いから理解できるように、彼女たちはその「ストリート」ヴァージョンである。スー=ニッキーやロスト・ガールはもちろん、ドリス・サイドや「口髭の男の妻」に至るまで、「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、「家」にいる「妻」としてのヴァージョンと「ストリート」に立つ「娼婦」としてのヴァージョンの二つの「姿」を持つ。後者は前者の「内面にある感情」を表すものといえるわけだが、この「対置構造」あるいは「並立構造」は、「インランド・エンパイア」全体の作品構造と密接につながっているものだ。同じように、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガール」たちも二つの「姿」を持ち、ここではニッキー自身の「ストリート」への移行に連動して「娼婦の姿」として表象されている。

それに続くカットでは、重要なキー・ワードがスー=ニッキーによって発せられる。

スー(A): I'm whore.
スー(A): (顔を歪めて) Where am I? I'm afraid! (笑う)

これらのキー・ワードは、「インランド・エンパイア」の冒頭、モノクロ画面のパートにおいて「顔のない女性」と「顔のない男性」によってポーランド語で交わされる会話において、明確に現れているものだ。

男性: You know what whores do? (0:02:24)
女性: Yes. They fuck.

女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......(0:02:54)

このシークエンスにおけるスーの発言が、「顔のない男女」が発する台詞の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」であることは明瞭である。スーのこの台詞が、「インランド・エンパイア」が内包する「感情移入装置としての映画」や「機能しない家族」といったテーマを結びつけ、集束させるものだということは、以前にも述べた。「トラブル=機能しない家族」というテーマは、ポーランド/アメリカの両サイドにおいて、さまざまな形で繰り返し変奏されるが、その「原型」がこの冒頭の「顔のない男女」によって演じられているわけである。こうしたテーマが、あらかじめ作品の冒頭で提示されていたことに、我々はこのスーの台詞によって気づく。

しかし、字面的にはまったく同じ「台詞」ではあっても、「顔のない女性」とスー=ニッキーとではニュアンスが大きく異なっていることは明瞭だろう。後者が前者の「ヴァリエーション」であるのは、この差異においてだ。「顔のない女性」の切迫具合とは裏腹に、スー=ニッキーの態度に不安はないようにみえる。要するに、スー=ニッキーは「顔のない女性」と違って「場所(空間)に関する見当識」を失っていないのだ。笑いを伴って発せられている「こわいわ」という台詞も、当然ながらスー=ニッキーの本心ではなく、彼女は何もこわがってはいない。なぜなら、彼女はいま、「自らがどこにいるか=自分が何者であるか」を「認識」したところであるからだ。そう考えるとき、このシークエンスのスー=ニッキーが表現しているもの自体が、冒頭で投げかけられた「顔のない女性」の「ここはどこ?」という問いかけに対する「回答」であり、ひいてはここに至るまでに(そしてこの後に)登場した(する)女性たちによって発せられる、たとえば「私を見て。私を前から知っているか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before.)」のような「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」でもあることが理解できるだろう。この「問いかけ」と「回答」という関係性が、「リフレインされる台詞」によって保証されているのだ。

これには、リンチによる「周到な仕掛け」があるように思えてならない。たとえば「訪問者1」やジャック・ラビットによっても「自分はどこにいたのか(Where was I?)」という問いかけがなされている(0:16:08)(2:05:46)ことからもわかるように、実は作中で繰り返し提示される「自分はどこにいるのか?」という問いかけには、二つの異なったイメージが付随している。ひとつは先ほどから論じてきた女性たちによって発せられる「自己確認のため問いかけ」であり、もうひとつは「映画=感情移入装置」が機能した結果による「場所(空間)に関する見当識の失当」である。そして、「場所に関する見当識の失当」に対応する「私はどこにいる(いた)のか?」という問いかけは、往々にして「時間に関する見当識の失当」を表す発言とセットになっていることは、たとえば「訪問者1」の「真夜中だと思ったら、9時45分だった(I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight)」(0:17:04)やジェーン・ラビットによる「What time is it?」(0:05:17)といった発言をみれば明らかだ。この文脈で捉える限り、後者のイメージは「場所」と「時間」に対する「見当識の失当」が対となって、「総体的な見当識の失当」を表しているとみなしてよいだろう。

となると、このシークエンスにおけるスー=ニッキーが、この複合的なイメージを付随させた「自分はどこにいるのか?」という台詞によって……このまったくの「リフレイン」によって「自己確認の完了」を表明することには、重大な意味合いが発生してくる。つまり、「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」が、「映画による見当識の失当」をとおして獲得されていることが、ここに集約され表象されているのだ。そして、ここでいう「映画による見当識の失当」が、演技者=ニッキーが(あるいは受容者=ロスト・ガールが)獲得した登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」と同義であることはいうまでもない。

だが、思い出してみよう。たとえば「口髭の男」もまた、通行人に時間を尋ねられて「9時45分である」といった「キー・ワード」を発していたのではなかったか(1:19:32)。彼がそのように「正確な時刻」を把握できているのは、ひとえに彼が所持している「腕時計」の所以であり、であるからこそ彼は「時間コントロール」のイメージを付属させていると捉えられたのではなかっただろうか。ならば、これらの「キー・ワード」は、ときとして「映画に対する時間的/空間的コントロール」のイメージをも複合的に付随させていることになる。

「インランド・エンパイア」の全体構造が、このシーケンスにおけるスー=ニッキーによって集約され表象されている。なぜなら、ニッキーが(あるいはロスト・ガールが)「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」を得る契機となった、スーに対する「感情移入=同一化」を獲得するに際して機能したものこそが、「時間/空間のコントロール」がなされた「映画」という名の「感情移入装置」なのだから。

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