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2008年3月15日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (60)

いろいろと道草をくいながらも続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を探る作業であったりする。なんか、ここんとこ口の中が草で一杯になってしまっているような気がするが、そんなことを言うと後ろから成吉思汗に「大草原の小さな家」で殴られ……

というような戯言はともかく、今回は(2:06:24)から(2:07:24)まで。

このシークエンスで提示されているのは、スー=ニッキーの「家」から「ストリート」への移行(あるいは降下)の過程である。大きな流れで捉えるなら、演技者=ニッキーが、「情緒の記憶=ロコモーション・ガール」による「ポーランド・サイド」の「ストリート」への誘導を経て、隣家の裏庭での「映画の魔=ファントム」との邂逅を決定的要因としつつ、登場人物=スーへの「感情移入=自己同一化」を深化させていく過程の最終状況だ。

直前のシークエンスからこのシークエンスへの移行に際しては、「Rabbitsの部屋」の内部にある「赤い傘のライト・スタンド」が窓ガラス越しにアップになった後の「電気的なノイズ(クラック・ノイズ)」がキューになっていることを再確認しておきたい。この「電気的なノイズ」は、すでに(1:07:59)からの「スミシーの家」の内部のシークエンスにおいて、明滅する赤い傘のライト・スタンドの映像に対しても用いられているものだ。つまり、スー=ニッキーが「ロコモーション・ガールたち」を初めて幻視するシーンへの移行時に……ということは「赤」のモチーフから「青」のモチーフへの移行時に……あるいは「物語展開」から「心理展開」への要請への移行時にこの「効果音」が使われているわけで、現在述べているシークエンスで発生している「移行」も前述したような「移行」と共通の性格を備えたものあることを明示している。リンチ作品全体を見渡すならば、これは繰り返し登場するリンチ特有の「電気に関するモチーフ」のヴァリエーションであるといえるだろうが、これについては後述することにする。

まず、このシークエンスにおいて具体的な「映像」として提示されているものを順番に挙げてみよう。

(1)半袖の灰色のシャツの上から青いセーターを着たスー=ニッキーが、暗闇の中、「スミシーの家」の「裏庭」と思われる場所に座っている。吹き降りの嵐だ。一瞬の雷光に照らされた後、再び闇に沈むスー=ニッキー。雷光。
(2)ローブ姿のスー=ニッキーが、暗闇の中、「スミシーの家」の居間にある赤いソファに座っている。雷光。またしても闇。
(3)暗い裏庭で座っているスー=ニッキー。土砂降りの雨。彼女にクロース・アップしていく視点。雷光。再びの雷光。
(4)(オーバーラップ)アウト・フォーカスで夜の通りを行き交う自動車のライト。[行き交う自動車の音]
(5)(オーバーラップ)スー=ニッキーのアップ。「スミシーの家」のリビング・ルームで赤いソファに座って、どこか上方を見上げている。
(6)(オーバーラップ)夜の通りを行き交う自動車のライトの、アウトフォーカスのショット。
(7)(オーバーラップ)スー=ニッキーのアップ。赤いソファに座って、どこか上方を見上げている。
(8)(オーバーラップする映像が変わる)「スミシーの家」のリビング・ルームで赤いソファに座って、どこか上方を見上げているスー=ニッキー。彼女の後ろで「ロコモーション・ガール」たちが踊っている。スー=ニッキーの顔へ(クローズ・アップしたあと、その周りを回って後頭部まで移動するショット。
(9)流れるライト。赤い火花。ホワイト・アウトするリビング・ルームで踊る「ロコモーション・ガール」たち。自動車の灯り。リビング・ルームの揺れ動くショット。[続く電気ノイズ]
(10)流れるライト。
(11)(オーバーラップ)悲鳴をあげるスー=ニッキーのアップ。

このシークエンスでも(5)(7)(8)のカットにおいて、やはり「上下に交わされる視線」が(上方に向けられた「幻の視線」であるが)発生していることに、まずは注目しておきたい。これもまた、「インランド・エンパイア」で繰り返し提示される「高低のアナロジー」の表れのひとつである。直後の(2:07:25)からのシークエンスにおいて明確に表されるように、「スミシーの家」の居間で赤いソファに座り上方を見詰めるローブ姿のスー=ニッキーは、「家」から「ストリート」へ移行する(あるいは下降する)過程にある。その結果発生した「高低差」によって、彼女はもはや上方にある「家」のレベルを見上げることになる。その視線の先にある「見上げられる対象」は、(1)(3)で提示される「裏庭で座っている青いセーター姿のスー=ニッキー」であると考えて差し支えないだろう。

(4)(6)のカットにあるように、スー=ニッキーには「夜の通りを行き交う自動車のライト」の映像が、その走行音とともに被せられている。これは、彼女がこれから移行しようとしている先が「夜のストリート」であることの、あらかじめの提示として捉えることが可能であり、「このシークエンス」と「(2:07:25)以降のシークエンス」との接続を明快にするものでもある。

また、(1)(3)のカットに現れる「裏庭のスー=ニッキー」と、(2)(5)に現れる「スミシーの家」の居間にいるスー=ニッキーが「等価」であり、かつ「対置関係」にあることは、この両者のいるカットのどちらにも「雷鳴・雷光」が現れていることからも明らかだ。前段で述べた(4)のカットは(3)と(5)のカットを接合するブリッジとしても機能しており、彼女(たち)の「対置関係」を補強していといえる。この「対置関係」は、第一義的には前に述べた「高低の関係」として捉えられるが、同時に、彼女(たち)がいる「家の内部」と「裏庭」という、「場所」の「対置関係」としても理解可能だ。この二つの「場所」は、「裏庭とサーカスの関係」の項で述べたように、そのまま「完全に私的なもの」と「半ば公的なもの」といったイメージに置換が可能であり、リンチ作品に現れる「家」を「人間の内面」を表すものとして捉えるならば、その「裡と外」、つまり「人間の内面」と「外界」のイメージにまで複合的につながっていく。

「外界」において発生している「嵐」は、「内面」においてもそこに現れる「雷鳴・雷光」として影響を及ぼしており、これは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」というナラティヴな映画作品における「物語展開」と「心理展開」の連動性を表すものとして捉えることも可能だろう。演技者や受容者の「内面=スミシーの家の内部」で発生している事象は、すべて「外界=ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の影響下にあるのである……そう、ちょうど「Polish Poem」の歌詞に、「外では風が吹き荒れ、私は息をすることもできない(The Wind blows outside / And I have no breath)」とあるように。

また、(1)(2)(3)に現れる「雷光」や「雷鳴」は、先に述べたように「電気のモチーフ」のヴァリエーションとして読み取られるべきものだ。同様に「スミシーの家」にいるスー=ニッキーにオーバーラップで被せられる(9)や(12)の「ライト」や「火花」も、こうしたモチーフのヴァリエーションとして理解できる。これらの「電気のモチーフ」は、たとえば「イレイザーヘッド」では、ヘンリーが初めて訪れたメアリーX宅の居間において、明滅して消える電気スタンド(0:27:29)として現われ、あるいは「マルホランド・ドライブ」では、アダム・ケシャーがカウボーイと「一回目の邂逅」を果たす牧場の照明(1:05:57)として現われる。いずれも「電気的なノイズ(クラック・ノイズ)」をともない、ヘンリーやアダム(=ダイアン)の心理的な状況(およびその変化)を表象するものだ。たとえばヘンリーの場合は、これから始まるメアリーXの両親との会話の内容に対する不安であったし、ケシャー(=ダイアン)の場合は自分の運命を決める契機(あるいはすでに決まっていた運命の確認)の開始であったりする。このシークエンスの場合においても、ニッキー=スーの「家(によって表されるもの)」から「ストリート(によって表されるもの)」に至る「心理的推移」がこれらの「電気のモチーフ」によって表されており、これまたリンチ作品に頻出するきわめて表現主義的な描写のひとつといえるだろう。

同時に、そこに演技者=ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガールたち」がおり、スー=ニッキーが「家」から「ストリート」への「移行」に際し、彼女たちも一緒に伴われていることがこの映像によって明示されている。これが表すものについては、次のシークエンスについて述べる際に詳しく触れたい。

(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」のシークエンスについて述べる際にも触れたように、このシークエンスには動的で激しい映像と編集が使われており、この「Rabbitsの部屋」に初めて発生した「カット割」と同様、スー=ニッキーの「心理的展開」の激しささ、そして急転する「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」を表象しているわけである。

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