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2008年3月

2008年3月31日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (65)

んなコトで、かねてから話題に上がっていた「ロスト・ハイウェイ」の北米版DVDやら、「Polish Night Music」のCDやら、リンチ関連本2冊やらがドチャドチャ届いてナニやらドタバタしている状態の今日この頃。さーて、何から手をつけたもんかなと悩みつつ、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を追いかける作業である。前回からの続きということで、今回は(2:14:36)から(2:16:09)まで。

このシーケンスでまず最初に提示されるのは、カロリーナに導かれて「赤いカーテンの通路」を通ったあと、暗い「階段」を上るスー=ニッキーの映像である。「インランド・エンパイア」には、「家」と「ストリート」の関係を基軸にした「高低のアナロジー」が内包されていることは、繰り返し述べてきたが、このシークエンスに登場する「階段」もまた、その明瞭な現れのひとつである。この「階段の映像」自体は、これより以前のシークエンスですでに現れているものだが、それが意味するものについては、後述することにする。

(2:14:43)からのシークエンスでは、舞台は「Mr.Kのオフィス」内部になる。直前の「階段」の映像と「『Mr.Kのオフィス』に入るスー=ニッキーの映像」は「ディゾルヴ」でつながれており、その間の「省略」をもって、彼女が上った「階段の長さ」とそれに伴う「時間経過の長さ」を表している。同様に、「Mr.Kのオフィス」内においても、「ディゾルヴ」による編集(カッティング)は何度か行なわれているが、これについても後に詳述する。

まず、このシークエンスにおいて提示される具体的な映像とスー=ニッキーの台詞を順を追ってみてみよう。

(1)(ディゾルヴ)右手にスクリュードライバーを、左手にバッグを持って、スー・ニッキーがMr.Kのオフィスに入ってくる。
(2)Mr. Kはデスクについて、スー・ニッキーが入ってくるのを見ている。
スー=ニッキー:(画面外から)I really don't understand what I'm doing here.
スー=ニッキー: (前の台詞に重なって) That's one hell of fucking climb getting up here.

(3)(ディゾルヴ)デスクを挟んでMr.Kの向かいに座るスー=ニッキー。
(4)(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: There was this man... I once knew.
(5)Mr.Kのアップ。
(6)(ディゾルヴ)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: I'm trying to tell you so's you'll understand how it went. The thing is I don't know what was before or after.
(7)Mr.Kのアップ。
(8)スー=ニッキーのアップ。
スー=ニッキー: I don't know what happened first. And it's kinda laid a mind fuck on me.
(9)Mr.Kのアップ。
スー=ニッキー: (画面外から) My husband.
(10)スー=ニッキーのアップ。
スーニッキー: he's fucking hiding something. He was acting all fucking weird one night before he left.
(11)Mr.Kのアップ。
スー=ニッキー: (画面外から) He was...
(12)スー=ニッキーのアップ。

スー=ニッキー: talking this foreign talk, and... telling loud fucking stories.

前述したように、まず指摘できるのは(3)(4)(6)と何回も現れる「ディゾルヴ」によるカッティングである。この場合においても、つながれたカット間に「時間経過」が存在し、その間の映像が「省略」されていることを表すものとして理解していいだろう。

だが、同時に、この一連のシークエンスに現れるカットの一部が、すでにこれ以前のシークエンスにおいて提示済みであることも見逃せない。具体的にいうなら、(1:21:03)からのシークエンスにおいて、「カロリーナの差しのべられた腕」「『Mr.Kのオフィス』につながる階段」「オフィスに辿り着き、Mr.Kに向かって話すスー=ニッキー」などの映像が提示されており、基本的にこれらはこのシークエンスに現れる映像とまったく同一のものである。「差異」は、このシークエンスでは、途中のカットがいくつか「省略」されているだけだ。カット(2)(3)でスー=ニッキーが発する二つの台詞も、以前のシークエンスで発せられていたのと完全に合致する(1:21:44)。

単純に考えるなら、これらの映像はどちらかが「現在ではないシーン」であり、物語記述の手法としての「フラッシュ・バック(回想形式)」あるいは「フラッシュ・フォワード」であって、つまりは「時系列操作」であることになる。だが、「非ナラティヴな作品」においては、そのような形式理解は必ずしも当てはまらない。というより、こうした「物語記述の方法論」は基本的に「ナラティヴな作品」において機能するものであり、「非ナラティヴな作品」においては必ずしも同じように機能しない。そもそも「ナラティヴな作品」がナラティヴである理由は、作品内で提示される「(二つ以上の)出来事の因果関係」が存在していることにある。そこには必ず「原因=先に起きる出来事」と「結果=後に起きる出来事」という「時系列」が発生しており、そのうえで物語の記述方法として、「時系列」を入れ換える非リニアな形式が……たとえば「回想形式」が……倒叙法のひとつとして成立する。しかし、そもそも「出来事の因果関係」を描いていない「非ナラティヴな作品」においては、「出来事の因果関係」という成立要件がない。当然ながら「インランド・エンパイア」においても、こうした表現を物語記述上の「時系列操作」と理解するのは妥当ではないように思われる。

では、こうした映像群は何を表現しているのか。「インランド・エンパイア」が「非ナラティヴ」な作品であり、その中で提示される事象に対しては一切「時系列操作」が行なわれておらず、冒頭から結末まで提示される順番そのままにリニアに発生している……という観点に立ったとき、まずストレートに理解されるのは、このスー=ニッキーの「クラブの裏のスタッフ用通路」から「Mr.Kのオフィス」への訪問は、提示されるシークエンスの回数分発生しているということだ。つまり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」において「効率的な物語展開」が必要になり、「介入」が要請されるたびに、「Mr.Kのオフィス」の映像によって表される事象が発生しているということである*。たとえ「ポーランド・サイド」のシークエンスと「アメリカ・サイド」のシークエンスの間に「Mr.Kのオフィス」のシークエンスが挟まれていたとしても、この三つがそれぞれ「時制や場所が異なった世界」を提示しているわけではない。これらの映像群に「差異」があるとすれば、それは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」に沿って喚起されている登場人物=スーの「心象風景」と同一化した演技者=ニッキーと一般的受容者=ロスト・ガールの「心象風景」であったり、その「心象風景」を踏まえて行なわれる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に対する「コントロールするもの=ウサギ/老人/Mr.K/訪問者」の「介入」であったりする点である。もしそこに「因果律」が存在しているとすれば、それは非常に抽象的なものであり、提示される映像が内包する「複合的イメージの連鎖」によって成立しているものだ。

そして、現在論じてるシークエンスにおいても、「繰り返される映像」は、決してどちらかがどちらかの「回想」や「予感」などではない。どちらが「主」でどちらが「従」ということもなく、「同等」かつ「同質」のものとして理解されるべきものだ。この観点からみるかぎり、「ディゾルヴ」を用いた「省略」が行なわれているのは、単純に「インランド・エンパイア」自身の「効率のよい展開」……つまりは「尺」の問題に過ぎない。「同等」で「同質」であるがゆえに「省略」が可能なのであり、受容者の理解に差し障りがないのなら、省略できるものは省略するのが「映像編集」の基本である。となると、このシークエンスにおける「ディゾルヴ」の使用もまた、「Rabbitsの部屋」で使われていた各種の「カッティング」と同様、リンチの明確な意図によるものであるように思えてくる……そう、「効率的な物語展開」を描くシークエンスに対して、「効率的な省略」を意図した編集が施されているわけだから。

(前置き長いよ! この項は続くことになってしまいました)

*一回目の「訪問」の直前にあるのは、「赤い照明」に変化する「Rabbitsの部屋」のシーケンスであり、「Mr.Kのオフィス」の机に座るジャック・ラビットのカットである(1:20:13)。これらの映像が何を表すかについては、該当するタイプ・スタンプの回ですでに述べた。

2008年3月28日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (64)

リンチがプロモーションで連れていた牛のヨダレのごとく、ダラダラと続く「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。こないだも牛丼の大盛りをば美味しくいただいた大山崎なんですが、そういえば「BSE騒ぎ」っつーのは、その後いったいどーなったのよ? などとゆーよーな疑問を抱きつつ、今回は(2:12:05)から(2:14:36)までを俎上にのせてみる。

このシークエンスにおいて、舞台は再び「ポーランド・サイド」から「ハリウッド・ブルバード」へと戻る。このシークエンスに登場するスー=ニッキーが「スー(A)」であるのか「スー(B)」であるのか、映像からは明確には判別できず、おそらくはリンチが受容者に解釈を任せた部分であり、明確に仕掛けた混乱であろうことは以前にも述べた。だが、見方を変えれば、「スー(A)」と「スー(B)」が、「観る者」であり同時に「観られる者」でもあるという点でまったく「等価」であるならば、これがどちらのスー=ニッキーであっても本質的な「差異」はないともいえる。その観点に立つなら、この「混乱」をとおして描かれているのは、むしろ「スー(A)」と「スー(B)」の同一性の「強調」だ。

このシーケンスにおいて具体的に描かれているのは「クラブ」だが、この「場所」が伝えるイメージによって表されていると思われるものは、大きく分けて以下の二つになる。

一番目は、「インランド・エンパイア」に登場する様々な「メディア」のひとつとしての「クラブ」である。このことは、そこに「ダンサー=演者」がおり「観客」がいるという「構造」から明らかだ。そして、そこで扇情的に踊る「黒い山高帽を被り、黒い毛皮を持った女性ダンサー」は、ニッキーの「女優」という職業と重なり合っており、同時に「ストリート」に立つ娼婦たちをも連想させる。「ハリウッド・ブルバード」の「ドロシー・ラムーアの星」とそこに屯する「娼婦たち」と同様、この「クラブ」も「演技者」と「娼婦」をつなぐ等号として機能しているといえるだろう*。この図式をみる限りにおいては、「クラブ」は基本的に「ストリート」に属するものであるとみなせるはずだ。

二番目は、「中間地点」としての「クラブ」、もしくは「誘導するもの」としての「クラブ」である。「クラブ」の構造が、入り口こそ「ストリート」のレベルにありそれに面しているものの、入ってすぐの「階段」を登ってその「フロア=内実」にたどりつくようになっていることは見逃せない。「インランド・エンパイア」に繰り返し現れる「高低のアナロジー」に従う限りにおいて、この「クラブ」は構造的に「ストリート」と「より高い場所」の「中間地点」にあるといえる。そして、(2:140:36)以後のシークエンスに明示されるように、この「クラブ」から上方につながっているのは、「Mr.Kのオフィス」という「コントロール」のイメージを付随させている場所なのだ。そこへは「クラブ」から「死ぬほど階段をのぼった」すえに辿り行き着くわけだが、それに際して「誘導するもの」として機能しているのが、この「クラブ」でスタッフとして働き、スー=ニッキーが自分の知人であると主張するカロリーナという名前の女性である**

スー=ニッキー: (追い詰められたようにまわりを見回しながら、「クラブ」の入り口に立っているスタッフに向かって) Somebody's gonna fucking kill me!  Carolina! You got to let me in, man. You got let me in. I know that girl! Carolina. I know Carolina. [whispers] Let me in. Let me in.(2:12:21)

この女性の名前である「カロリーナ(Carolina)」のスペルが、「ノース・カロライナ(North Carolina)」と同一であることは指摘するまでもないだろう。映画監督リンチにとって「重要な地」となったノース・カロライナが、ここではスー=ニッキーを助け「Mr.Kのオフィス」に導く「重要な誘導者」として登場している。リンチにとってノース・カロライナが何を意味するか(あれとかこれとかそれとか)を考えたとき、「映画に対するコントロールの場」である「Mr.Kのオフィス」が「映画業界」のイメージと重なり複合しているという見方も、あるいは可能なように思えてくる。「クラブ」に入れてくれるように「懇願」し「許可」されるスー=ニッキーの姿が、ある意味で過去のリンチに(あるいは現在のリンチに)重なってみえるのは気のせいだろうか。

……といった具合に、「クラブが表すもの」に関する概説を終えたところで、スー=ニッキーが「クラブ」への入店を許可され、席に一度「誘導」されたあと、再びカロリーナに導かれて「クラブ」の「スタッフ専用口」を抜け(2:13:57)、店の裏手の「スタッフ用通路」に辿り着いてからの具体的な映像を追いかけてみよう。

(1)左手に開けっ放しの非常口。どこか左手の方にあるスポット・ライトの灯りが当たっている。赤いカーテンに覆われた通路が、画面の奥まで続いている。赤い服を着た女性スタッフ=カロリーナとスー=ニッキーが右手から現れる。カロリーナが画面手前の方を指差して、スー=ニッキーに何事か話しかける。
(2)(スー=ニッキーの主観ショット?)ドアが見える。ドアの上には、「EXIT」という緑に光る標識が見える。
(3)カロリーナが何かを囁きながらスー=ニッキーを逆の方向に向かせる。そちらの方を見るスー=ニッキー。二人の背後には赤いカーテンが下がっているのが見える。右へパン。延ばされたカロリーナの右腕。その手の人差し指は、非常口の反対方向、赤いカーテンの続く通路の奥の方を指差している。
(4)カロリーナが何事かをスー=ニッキーに耳打ちする。通路の奥に向かって歩き始めるスー=ニッキーを追って左にパン。
(5)手前の画面外からスー=ニッキーの背中に向かって延ばされ、ゆっくりと振られる赤い服を着たカロリーナの左腕。通路の奥に向かって歩くスー=ニッキー。やがてその先で通路を左に折れ、姿を消すスー=ニッキー。

まず指摘できるのは、「赤いカーテン」に表される「赤のモチーフ」である。以前にも述べたように、「インランド・エンパイア」において「赤のモチーフ」は「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』の物語展開に関係するもの」として現れ、「青のモチーフ」によって表される「心理展開に関するもの」とは「対置関係」にある。「Mr.Kのオフィス」で発生している事象が「スー=ニッキーの語り」という「効率の良い物語展開」であるとするならば、そこに至る階段に通じる通路に「赤のモチーフ」が現れるのは当然である。もちろん、これは(1)(3)(4)(5)に登場する「誘導するもの=カロリーナ」が「赤いドレス」を着ていることにも、端的に表されているといえるだろう。

また、この(5)のカットにおけるカロリーナの伸ばされた「腕」の映像は、「バルト地方の家」の壁に掛かっていた「右手に蝋燭を持ち、左手が伸ばされている絵」(2:04:23)と関連性を感じさせるものである。この「絵」は、ピオトルケが老人の一人に促されて部屋を出ていくカットにおいて、その戸口の壁に掛けられていたものだ。「差しのべられた腕」と「赤」というモチーフ上の共通点もさることながら、その「バルト地方の家」の内部で発生した事象自体が「介入」であり「コントロール」であったことをあわせて考えるなら、この「絵」もまたあからさまな「誘導」のイメージを付随させているといえる。カロリーナが「囁き」をもって「スクリュー・ドライヴァー」を携えたスーニッキーを導くものである(カット(4))ならば、この「絵」は「蝋燭の灯り」でもって「拳銃」を受け取ったピオトルケを導くものであるといえるだろう。ここにも、リンチ作品における同一モチーフの「ヴァリエーション」の現れが顔を覗かせているといえるわけだ。しかし、考えてみよう。「蝋燭」と「囁き」……つまり「光」と「音」は、そのまま「映画」というメディアを成立させる構成要素ではないだろうか? であるならば、そこに姿を現すのはやはり「映画による誘導」というイメージであり、これもまた「インランド・エンパイア」が内包する「映画に関するテーマ」のひとつ……映画による「見当識の失当=感情移入」をとおした「自己確認」にも重なっていくことになる。

興味深いのは(2)のカットに登場する「出口(EXIT)」の標識だ。リンチにとってノース・カロライナが何を意味するかを考えたとき、まずカロリーナがこの「出口」を指差し、「クラブ」を出ていく選択肢があることをスー=ニッキーに教えたあと、次に「Mr.Kのオフィス」につながる階段の方へと彼女を誘導していることは、非常に示唆的であるといえる。あるいは、これは、「ブルー・ベルベット」を製作する直前のリンチの状況を反映したものであるとも捉えられるし、あるいは自身の現状をその当時に重ね合わせたことから派生するイメージであると理解することも可能だろう。いずれにせよ、このあたりは「誘導するもの」としてのカロライナ=カロリーナのイメージから連鎖したものと考えてよく、リンチの私的な部分の反映のひとつとして理解するべきものであるとここでは捉えておきたい。

*スー=ニッキーも、このカウンターの上で踊る「女性ダンサー」を見詰めている。ここにも、「観る者」と「観られる者」の関係性が発生しているといえる。(2:13:19)

**その他、入り口に立つ「黒いTシャツを着た男性スタッフ」(2:12:16)や「スー=ニッキーを席に案内する男性スタッフ」(2:12:52)など、「クラブ」に関連するシーンには「誘導するもの」のイメージが各所にみられる。

2008年3月24日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (63)

今週末はお花見だ! ネクタイ頭に巻いてドンチャン騒ぎだ! などと季節感を漂わせる記述を無理矢理ぶち込みつつ、その内実は季節変動などおかまいなしにウニウニと続ける「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業であったりする。今回は(2:10:01)から(2:12:05)まで。

前回述べたシークエンスは、歩道の端に座り込みたむろする二人の娼婦の映像で終わり、右側の「娼婦」と彼女の「笑い声」をブリッジにして、シークエンスは「ポーランド・サイド」の「ストリート」に移る。この音声と映像によるブリッジが表すように、このシークエンスで提示される「ポーランド・サイド」の事象が、直前の「アメリカ・サイド」の「ストリート」で発生した事象からの「イメージの連鎖」によって、それに対置されるものとして喚起されていることは明白である。その「対置性」とは、直前のシークエンスが演技者=ニッキーと登場人物=スーに属するものであったのに対し、このシークエンスが受容者=ロスト・ガールに属するものであることだ。また、このシークエンスがロスト・ガールの「心象風景」を表していることも明瞭である。「」の「物語展開/心理展開」のエスカレーションを受けて、「アメリカ・サイド」の「ストリート」では、演技者=ニッキーが、登場人物=スーへの「感情移入=同一化」を手掛かりにして「自己確認の完了」を達成した。それとまったく同じようにして、今度は受容者=ロスト・ガールが、「ポーランド・サイド」の「ストリート」で「自己確認」を完了する……というのがこのシークエンスが提示するものである。

まずは、このシークエンスが提示する具体的な映像をみてみよう。

(1)大きな口を開けて笑っている娼婦(黒髪のカーリー)のアップ。左へパン。雪が積もったストリートと、コンクリートの支柱と鉄の柵のフェンスが見える。その向こうには黒々とした葉のない木々と、ずっと遠方の街灯が見える。通りを白と黒の馬の二頭立ての馬車が、一人の御者を乗せて右へと通り過ぎる。なおも左へパン。歩道のこちら側が見える。四人の女性が、離れてぽつんぽつんと立っている。いちばん近いところに立っているのは、黒いコートを着たロスト・ガールだ。
(2)襟に毛皮のついた黒いコートを着込み、毛糸の帽子をかぶったロスト・ガールのショット。彼女はかすかに首を左側に傾げている。彼女の顔にクローズ・アップ。その背後を、箱型の自動車が通り過ぎる。
(3)通りに向かって立っている、別の黒髪の娼婦(口髭の男の妻。(1:39:09)参照)が、自分の右手にいるロスト・ガールの方を見る。
(4)ロスト・ガールlのミドル・ショット。右へ180度パン。赤い帽子を被った娼婦が木の前に立って、ロスト・ガールの方を見詰めている。右側からもう一人の娼婦が画面に入ってくる。彼女はスパンコールの列がついた黒い帽子を被っている。ロスト・ガールの方を見詰める二人。
(5)ロスト・ガールのアップ。
ロスト・ガール:(ポーランド語で) Hey, look at me... and tell me if you've known me before.
(6)左側の娼婦が首を振る。右側の娼婦は手袋をはめた右手を上げ、ロスト・ガールに突きつけた人差し指を回し始める。
(7)ロスト・ガールのアップ。顎を突き出し気味に、二人の娼婦の方を見詰めている。
(8)二人の娼婦のバスト・ショット。右側の娼婦は人差し指を回すのをやめ、その手を自分の顎の下に当てる。互いを見交わす二人の娼婦。やがて二人は笑い始める。次第に大きくなっていく笑い声。
(9)ロスト・ガールのアップ。顎を突き出し気味にしたまま、頭を揺らしている。
(10)笑い続ける二人の娼婦。
(11)黒い木々。降りしきる雪。上方へパン。真っ暗な夜空。

このポーランド・サイドの「ストリート」は、アメリカ・サイドの「ストリート」と「対置関係」にある。その関係の根底にあるのは「不特定多数の受容者=ロスト・ガール」と「個の演技者=ニッキー」の関係性であり、つまりは「普遍」と「個別例」の関係に還元されることは繰り返し述べてきた。この「関係性上の差異」は、ポーランド・サイドとアメリカ・サイドの「映像上の差異」として表されており、たとえばポーランド・サイドの雪の冬に対置されるものとして、アメリカ・サイドの(そこの娼婦たちの服装が表すように)ロスの温暖な気候が配置されている。同じように「ハリウッド・ブルバード」では自動車が行き交うが、ポーランド・サイドの「ストリート」を通り過ぎるのは馬車である(カット(1))……といった具合だ。が、もちろん、こうした「差異=対置関係」を踏まえたうえでより重要なのは、この二つの「ストリート」が根底で備える「共通性」であるのはいうまでもない。「ストリートによって表されるもの」が「娼婦たち=女性たちが立つところである」という「共通性/等価性」は、「場所」や「時代」や「気候」あるいは「そこに立っているのが具体的に誰であるか」というような「瑣末な差異」を越えて、「インランド・エンパイア」全体を貫く根本的概念である。

そうした観点を踏まえたとき、直前のシークエンスでスー=ニッキーが達成した「自己確認の完了」を、ロスト・ガールがこのシークエンスにおいて、同じように達成しようとしていることが理解できるはずだ。(5)のカットでロスト・ガールが発する「ねえ、私を見て。前に会ったことがあるかどうか、教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before)」という「自己確認」のための問いかけは、もちろん、スー=ニッキーが「スミシーの家」の裏庭で、二人の女性(ロコモーション・ガール)に向けて発っした問いかけ(1:37:21)の「リフレイン」である。「個」が「普遍」のなかに呑み込まれ、もっとも外側のネスティングにおいて、ロスト・ガールはスー=ニッキーと同じ問いかけを共有する。そして、それに対する「回答」は、(6)(8)のカットに表されるように、「スミシーの家」の裏庭にいたのと同じ二人の女性によって……ロコモーション・ガールたちに「魅了」されることによってもたらされる(カット(6)(7)(8)(9))。これは明らかに同一モチーフのリフレインであり、ヴァリエーションとしての「図式化」だ。「ここはどこ?(Where am I?)」をキー・ワードにしてニッキーや「顔のない女性」が得た「自己確認への回答」と同じく、受容者=ロスト・ガールの「自己確認への回答」もまた、「映画の魔法」による「見当識の失当=感情移入」をとおして獲得されるのだ。

その「自己確認」は、やはり最終的には「他者」にも向けられることが、「口髭の男の妻」が、ロスト・ガールと並んで「ストリート」の「同じ側」に立っている映像によって提示されている(カット(3))。ロスト・ガールと「口髭の男の妻」の関係性は、スー=ニッキーとドリスの関係と重なり合っている。つまり、互いが互いの「トラブル=機能しない家族」の要因であり、「悪意=スクリュー・ドライヴァー」でもって傷つけ合う存在である点で、彼女たちは全員「等価」であるわけだ。なによりも、ロスト・ガールが「口髭の男の妻」によって「スクリュー・ドライヴァー」で刺し殺される映像(1:39:04)が、すでにそのことを明瞭に提示してはいなかったか? その映像は、「ビリーの屋敷」での修羅場において、ドリスの「心象風景」と並んで提示されなかったか?(1:53:35) 他の非ナラティヴなリンチ作品と同様、「インランド・エンパイア」においても、その中で発生する事象に対する「時系列操作」が一切行われていないことを前提とするなら、互いが互いの「悪意の対象」であることを理解するのは、ニッキーよりもロスト・ガールの方が先だったことになる。

さて、ロスト・ガールを「魅了」する女性が、ロコモーション・ガールの一員であることは映像によって明瞭に見てとれるわけだが、であるならば、この女性も演技者=ニッキーの「情緒の記憶」のひとつであり、ニッキーの裡にあるものなのは間違いない。それを前提に、解釈が分かれるであろう点は、彼女たちが発揮した「受容者=ロスト・ガール」を「魅了」する能力が、生得のものであるかどうかだ。それは演技者としてのニッキーが生まれながらに備えているものと捉えることも可能だと思うが、気になるのはロスト・ガールを「魅了」する(hypnotize)際のロコモーション・ガールが行なった「指を突きつけて回す」という仕種が(カット(6))、「映画の魔=ファントム」がドリスに「催眠術」をかけた(hypnotize)仕種(1:53:32)(1:53:39)とまったく同一であることだ。あるいは、スー=ニッキーが「映画の魔=ファントム」と接触したことによって「個別例」が「普遍性」に呑み込まれる契機を得た際に、彼女の裡にある「ロコモーション・ガール」たちもある種の「変質」を遂げたようにも理解できる。おそらく、この疑問に対する明確な解釈は得られないだろうと思われるが、いずれにせよこの二人の「ロコモーション・ガール」がロスト・ガールに対し、ファントムがドリスに対して発揮したのとまったく同じ「機能」を発揮していることだけは確実であるはずだ。

2008年3月22日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (62)

アーサー・C・クラーク氏が亡くなったそうで、ご冥福を祈りつつチミチミと進行する「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をたぐる作業である。しかし、「幼年期の終わり」では、日本に降りてくるべきは閻魔様なのではないか……などというバカ話を某所でしていたことは内緒に(してねーよ)、(2:07:51)から(2:10:01)までを追いかけることにする。

スー=ニッキーが問題の台詞を発した直後、「ハリウッド・ブルバード」にたむろする娼婦ヴァージョンの「ロコモーション・ガール」たちが映し出されるが、この映像自体が一種のエスタブシッシング・ショットとして機能している。と同時に、「Black Tumbaline」が流れ始める。この曲の歌詞にある「何かがおかしいのがわかる(I know there's somethin' wrong)」というフレーズそのものが、たとえば「ビリー・サイドの屋敷」での修羅場において(1:51:42)、スー=ニッキーが発した「何かがおかしい(Something's wrong)」という台詞のリフレインである。もちろん、「インランド・エンパイア」においては、この「何かおかしいこと」というのは「トラブル=機能しない家族」に起因することだ。

さて、少々長めになるが、このシークエンスで提示されている具体的な映像を順を追って並べてみよう。実際にはこのシークエンスはかなり長く、便宜上、区切りのいいところで分割しつつ進行することにする。また、以前述べた「明確に仕掛けられた混乱」の項での記述にしたがって、ここでも前回触れたすでに登場しているスー=ニッキーを「スー(A)」、後に登場するスー=ニッキーを「スー(B)」と呼ぶことにする。

(1)明るいショー・ウインドーの灯り。暗い色のパンツ・スーツ姿のスー(B)が歩道をこちらに向かって歩いてくる。左手にバッグ、右手にスクリュー・ドライヴァーを持っており、すなわち「スミシーの家」の隣家の裏庭で「ファントム」と遭遇した直後(2:00:41)の姿だ。スー(B)はバスト・ショットになるまで近づいてくる。ふと、自分の右上方を振り仰ぐスー(B)。
(2)「Axxon N.」の文字と「左から右への→」が、左手の店の壁に白いチョークで書かれている。赤と白のサイン板の一部も見える。「Axxon N.」からスー(B)の顔へパン。彼女の口元には打撲傷がある。通りの向こうに何かを察知し、左後方を振り返るスー(B)。
娼婦: (画面外で)[笑い声]
(3)(スー(B)の主観ショット)通りの向こうのミドル・ショット。 スー(A)が二人の娼婦と笑いあっている。スー(A)がスー(B)を見る。通りを行過ぎる自動車。
(4)スー(A)を見詰めるスー(B)のアップ。
(5)(スー(B)の主観ショット) 通りの向こうのミドル・ショット。スー(A)と二人の娼婦が笑いあっている。スー(B)を見詰めているスー(A)。スー(A)がスー(B)にしかめっ面をしてみせる。
(6)それを目にして、おののき後ずさるたスー(B)のアップ。
(7)スー(A)のアップ。大きな口を開けて笑っている。
(8)スー(A)を見詰めるスー(B)。何かに気づき、左を振り返って背後を見る。
(9)(スー(B)の主観ショット)白いTシャツにジーンのショート・パンツ姿のドリスが、通りを渡ってスー(B)のいる歩道に向かって歩いてくる。通りの向こう側には三台の車が駐車している。通りのこちら側には一台。パトカーが右から左へ通り過ぎる。白い自動車が左から右へ走りすぎる。
(10)おののきながら、ドリスが近づいてくるのを見詰めるスー(B)。やがて、踵を返し、「Axxon N.」が書かれた店の黒い壁に沿って脇道へ歩き去る。店の壁には、公衆電話、「PRIVATE PROPERTY   NO TRESPASSING」と書かれた赤と白の標識、そして「6330」と白い文字で書かれた標識がある。左手の画面外へ去っていくスー(B)。「Axxon N.」へクローズ・アップ。
(11)背後を振り返りつつ、歩道を早足で歩くスー(B)。背後からそれを追いかけるショット。右手には店じまいした店舗の列が、左手には歩道際のゴミ箱と通りを行き交う自動車のヘッド・ライトが見える。歩道の舗装には「星」が埋め込まれているのが見える。
(12)走るスー(B)の足のアップ。歩道の「星」が通り過ぎていく。
(13)走るスー(B)の背後から、激しく揺れつつ追いかけるショット。
(14)スー(A)が右の方を見る。暗い色の車が通り過ぎる。
(15)(スー(A)の主観ショット)ドリスが歩道際の街路樹の陰に身を隠す。黄色い回転灯の明かり。
(16)ドリスのいる方向を見詰めたままのスー(A)の横顔のアップ。
(17)通りの向こう側を見詰めたままのスー(A)を左背後から収めたショット。娼婦(黒い短髪。黒いチューブ・トップに黒いミニスカート)が左手にこちらを向いている。左に向き直り、画面外に歩み去るスー(A)。その顔を収めつつ、後退するショット。
(18)娼婦(ブロンドのカーリー・ヘア)が公衆電話で話している。彼女の右手から近づくスー(A)。スー(A)は背後を振り返りつつ、何事かを娼婦に向かって一所懸命話しかける。しかし、電話に忙しい娼婦はうるさがり、「黙れ」と合図した右手を振ってスー(A)を追い払う。 娼婦はスー(A)に背を向ける。絶望的な表情を浮かべたスー(A)は、周りを見回した後、右の画面外に姿を消す。姿を消したスー(A)から電話を掛けている娼婦にパンし、近づいていくショット。彼女は通りを見ている。その顔に反射する行き交う自動車のライト。彼女の背後のビルに金属製の表示板がある。黒地に金色の文字で「6331」と読める。
娼婦:(受話器に向かって)I need to make a collect call.

このシークエンスでは、大きく分けて以下の二つの事象が提示されている。

まず一つ目は、「二回目のAxxon N.の出現」をポイントとした、「目撃される(観られる)側のスー=スー(A)」と「目撃する(観る)側のスー=スー(B)」という二人のスー=ニッキーの発生である。しかし、この「二回目のAxxon N.」で発生している事象は、「一回目のAxxon N.」直後のサウンド・ステージ内で発生した事象(1:01:51)とは大きく異なる。「一回目のAxxon N.」では、「観る」「観られる」の関係が一方的な固定されたものであったのに対し、このシークエンスの「二回目のAxxon N.」では、(5)のカットにみられるように、「観られる側のスー」のほうも「観る側のスー」を視認しており、彼女たちの視線は双方向であるのだ。なおかつ、同カットでスー(A)がスー(B)に「しかめ面」をしてみせることからわかるように、スー(A)はスー(B)に対して「自分が相手を視認したこと」を明瞭に伝えている。続くカット(6)では、そのスー(A)を目撃することによって、スー(B)も自分が「観る側」であると同時に「観られる側」でもあることを確実に了解している。

二つ目は、二人のスーによる(娼婦ヴァージョンの)ドリス・サイドの「目撃」である。まず(8)(10)のカットにおいてスー(B)が先にドリスを「目撃」し、次に(14)(16)のカットにおいてスー(A)が「目撃」する。(10)(17)のカットに表れているように、この「目撃」の結果、スー(A)とスー(B)がともにドリスを「脅威」と感じ、まったく同じ反応を示していることは映像的にも明らかだ。興味深いのは、(9)のカットで明示されているように、ドリスは最初「ストリート」の向こう側(スー(B)がいる側)におり、そこから道路を渡ってスー(A)のいる側に至っていることである。また逆にスー(A)からは、ドリスは「ストリート」の向こう側の街路樹の陰にいる状態で視認される(カット(15))。つまり、どちらのスー=ニッキーからも「向こう側」にいる(いた)存在としてドリスは認識されていることになる。

これらの事象を通じてまず了解されるのは、スー(A)とスー(B)の「等価性」「同一性」であり、ひいては演技者=ニッキーと登場人物スーの「等価性」「同一性」の強化……いうならば「スー」と「ニッキー」をつなぐ「『イコール』の強化」だ。それは「二回目のAxxon N.」の後に発生した事象と、「一回目のAxxon N.」後に発生した事象との「差異」に端的に表されている。「一回目のAxxon N.」のポイントで発生したのは、キングズレーたちと一緒にいたニッキーの姿が消える映像(1:02:31)に表されているように、「演技者=ニッキーの消失」と「スー=ニッキーの生成」であり、言い換えればニッキーのスーに対する「感情移入=同一化」の本格化だった。それに対し、この「二回目のAxxon N.」のポイントで発生しているのは、「観る者」と「観られる者」の境界の消失であり、「演技者」と「登場人物」の境界の消失である(もちろん、これは「受容者」と「登場人物」の境界の消失をも意味する)。すなわち、「完全なる感情移入=同一化」だ。

そのスー(A)とスー(B)の「等価性」を補強する「接合部品」として機能しているのが、このシークエンスにおけるドリスである。スー(A)とスー(B)はともにドリスを目撃するという「共通項」をもつが、それよりも問題なのは、その「目撃したこと」に対する二人のスーの反応がまったく同一であることだ。こうしたメンタリティの「同一性」こそ、「インランド・エンパイア」が内包する「感情移入装置としての映画」というテーマから敷衍されるものに他ならない。

しかし、ここでドリスという要素が入り、スー(A)とスー(B)の「視線の交換」に参加することによって、「観る」「観られる」の関係性は複雑化する。スー(B)はドリスを目撃した直後そこから立ち去る(カット(10))が、その「視線」はドリスによって引き継がれ、スー(A)を見ているのだ。それにともなって、「等価性」の問題も一層複雑化する。二人のスーは同じように通りの向こう側にいる(あるいは、向こう側から来る)ドリスを目撃するが、この「通りを挟んで」という「対置性」は、第一義的にはドリスが悪意を向ける対象がスー=ニッキーであるという「対置性」と重なっている。が、同時に、このシークエンスの頭で獲得した「自己確認の完了」を通じ、スー=ニッキーが「他者に対する認識」を獲得すること……つまり、ドリスもまた「ストリート」に立つ存在であり、自分たちと同様に「トラブル=機能しない家族」に傷つく「存在」であるという「等価性」の認識を獲得することにもつながるものだ。そして、最終的に、スー=ニッキー自身もまたその「トラブルの要素」であること、つまり互いが互いに「悪意=スクリュードライバー」を突きつけ傷つけあう「存在」として「等価」であることの認識につながるものである。それは、(0:34:33)からの警察署内部のシークエンスと(1:50:51)からの「ビリーの屋敷」での修羅場のシークエンスを経て、最終的に「ハリウッド・ブルバード」での「スーの死=ニッキーのフェイクの死」において具体的映像として提示されるものである。

2008年3月18日 (火)

リンチの新作映画(でも、娘のほう)のハナシ

またもやDugpa.comネタ。

かねてから、リンチの娘であるジェニファー・チェンバース・リンチが「ボクシング・ヘレナ」(1993) に続く長編映画第二作目を製作中であるという話は耳にしていて、うむ、オトーサン以上に寡作であるなあ(笑)と感心したりしなかったりしていたのであった。リンチがエグゼクティヴ・プロデューサーとして参加してるらしいことはIMDbなどでも掲載されており、昨年の夏にカナダのサスカチュワン州レジャイナでの撮影は終了したという情報が出たっきりで、その後どーなったのかなーと思ってたら、いつの間にか完成していた様子。

タイトルは「Surveillance」で、ストレートに受け取るなら「監視」あるいは「見張り」ぐらいの意味ですかしらん。ネット各所に上がっている関連記事を読む限りでは、近未来を舞台にしたSFで、連続殺人犯を追いかけるFBIの捜査官(Julia Ormond)が三人の目撃者の話を聞くが、彼らの話すことが全然食い違っていて……というよーな話であるらしい(もちっとネタバレ気味の記事もあったけど、それはパスね)。IMDbの掲示板では、すでに「こりゃ、つまり、『羅生門』なんかいね?」という声も出てたりするが、まあ、このへんはどのような結末がついているのか(あるいは、ついていないのか)、実際に作品を観てみないとナントモかなあ、と。

あと、目に付いた情報といえば「ロスト・ハイウェイ」でフレッド役だったビル・プルマンが出演していることで、ここらへんはやっぱりオトーサンつながりですか? 一部では「リンチ父がシナリオを書いた」かのように読める情報も流れているみたいだが、クレジットを見る限りではシナリオは「リンチ娘」とケント・ハーパーの共同執筆になっているので、要注意(って、ナニをだ)。

で、コチラが撮影中のジェニファーとビル・プルマン(なんか、すげえ丸くなってないか?)

Surveillance
今のところ、上映されたのは、去る2月のベルリン国際映画祭期間中に併催された「ヨーロピアン・フィルム・マーケット(European Film Market)」においてのみっぽい感じ。Dugpa.comの記事によれば「評判は悪くない」らしいが、その元記事等は、大山崎は未確認状態。同じく、IMDbではドイツでの公開が7月17日からで決定しており、米国でも今年中に公開されるみたいなのだが(Dugpa.comの記事では8月公開)、現状、どのくらいの規模でどこで、といったような具体的な話は見つけられず。で、もちろん日本での公開情報は一切不明なんだけど、さて、どーなりますかね。

……つなわけで、しみじみと「ボクシング・ヘレナ」を観返してみようかなと思ったりしている今日この頃なのでありました。

3/23追記: ドイツ版のトレイラーがYouTubeにアップされました。

2008年3月16日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (61)

うはは。それにしても全然進まんな、こりゃ(笑)。と自分自身にあきれかえりながら、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(2:07:24)から(2:07:59)までを、かましてみる(短かっ!)。

便宜的、前回述べた(2:06:24)から(2:07:24)までのシークエンスとこのシークエンスを分割したが、実際はこのシークエンスは直前のシークエンスと一体となったものであり、それは両シークエンスがサウンド・ブリッジによって結合されていることからも理解できるだろう。

このシークエンスからしばらく、舞台は「アメリカ・サイド」の「ストリート」に移る。このアメリカ・サイドの「ストリート(によって表されるもの)」がニッキー自身の「ストリート(によって表されるもの)」であることは、「ポーランド・サイド」の「ストリート」とは異なって、そこが「ハリウッド・ブルバード」という固有の場所として特定されていることからも明らかだ。ニッキーが「演技者」である限りにおいて、彼女の「ストリート」が「ハリウッド・ブルバード」であるのは当然であるといえるだろう。このアメリカ/ポーランド両サイドの「ストリート」は、「個別例」と「普遍」という「対応関係」にあるといえる。つまり、「スミシーの家」と「ロスト・ガールの家がある建物」との間にあるのとまったく同一の「関係性」であり、その根底にあるのが「演技者=ニッキー」と「不特定多数の一般的受容者=ロスト・ガール」との間の関係性であることはいうまでもない。

まず、このシークエンスの冒頭を飾るのは、夜の「ハリウッド・ブルバード」に立つ8人の娼婦たちである。彼女たちが「ロコモーション・ガール」たちであることは容易にみてとれるが、服装やメイクの違いから理解できるように、彼女たちはその「ストリート」ヴァージョンである。スー=ニッキーやロスト・ガールはもちろん、ドリス・サイドや「口髭の男の妻」に至るまで、「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、「家」にいる「妻」としてのヴァージョンと「ストリート」に立つ「娼婦」としてのヴァージョンの二つの「姿」を持つ。後者は前者の「内面にある感情」を表すものといえるわけだが、この「対置構造」あるいは「並立構造」は、「インランド・エンパイア」全体の作品構造と密接につながっているものだ。同じように、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガール」たちも二つの「姿」を持ち、ここではニッキー自身の「ストリート」への移行に連動して「娼婦の姿」として表象されている。

それに続くカットでは、重要なキー・ワードがスー=ニッキーによって発せられる。

スー(A): I'm whore.
スー(A): (顔を歪めて) Where am I? I'm afraid! (笑う)

これらのキー・ワードは、「インランド・エンパイア」の冒頭、モノクロ画面のパートにおいて「顔のない女性」と「顔のない男性」によってポーランド語で交わされる会話において、明確に現れているものだ。

男性: You know what whores do? (0:02:24)
女性: Yes. They fuck.

女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......(0:02:54)

このシークエンスにおけるスーの発言が、「顔のない男女」が発する台詞の「リフレイン」であり「ヴァリエーション」であることは明瞭である。スーのこの台詞が、「インランド・エンパイア」が内包する「感情移入装置としての映画」や「機能しない家族」といったテーマを結びつけ、集束させるものだということは、以前にも述べた。「トラブル=機能しない家族」というテーマは、ポーランド/アメリカの両サイドにおいて、さまざまな形で繰り返し変奏されるが、その「原型」がこの冒頭の「顔のない男女」によって演じられているわけである。こうしたテーマが、あらかじめ作品の冒頭で提示されていたことに、我々はこのスーの台詞によって気づく。

しかし、字面的にはまったく同じ「台詞」ではあっても、「顔のない女性」とスー=ニッキーとではニュアンスが大きく異なっていることは明瞭だろう。後者が前者の「ヴァリエーション」であるのは、この差異においてだ。「顔のない女性」の切迫具合とは裏腹に、スー=ニッキーの態度に不安はないようにみえる。要するに、スー=ニッキーは「顔のない女性」と違って「場所(空間)に関する見当識」を失っていないのだ。笑いを伴って発せられている「こわいわ」という台詞も、当然ながらスー=ニッキーの本心ではなく、彼女は何もこわがってはいない。なぜなら、彼女はいま、「自らがどこにいるか=自分が何者であるか」を「認識」したところであるからだ。そう考えるとき、このシークエンスのスー=ニッキーが表現しているもの自体が、冒頭で投げかけられた「顔のない女性」の「ここはどこ?」という問いかけに対する「回答」であり、ひいてはここに至るまでに(そしてこの後に)登場した(する)女性たちによって発せられる、たとえば「私を見て。私を前から知っているか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before.)」のような「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」でもあることが理解できるだろう。この「問いかけ」と「回答」という関係性が、「リフレインされる台詞」によって保証されているのだ。

これには、リンチによる「周到な仕掛け」があるように思えてならない。たとえば「訪問者1」やジャック・ラビットによっても「自分はどこにいたのか(Where was I?)」という問いかけがなされている(0:16:08)(2:05:46)ことからもわかるように、実は作中で繰り返し提示される「自分はどこにいるのか?」という問いかけには、二つの異なったイメージが付随している。ひとつは先ほどから論じてきた女性たちによって発せられる「自己確認のため問いかけ」であり、もうひとつは「映画=感情移入装置」が機能した結果による「場所(空間)に関する見当識の失当」である。そして、「場所に関する見当識の失当」に対応する「私はどこにいる(いた)のか?」という問いかけは、往々にして「時間に関する見当識の失当」を表す発言とセットになっていることは、たとえば「訪問者1」の「真夜中だと思ったら、9時45分だった(I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight)」(0:17:04)やジェーン・ラビットによる「What time is it?」(0:05:17)といった発言をみれば明らかだ。この文脈で捉える限り、後者のイメージは「場所」と「時間」に対する「見当識の失当」が対となって、「総体的な見当識の失当」を表しているとみなしてよいだろう。

となると、このシークエンスにおけるスー=ニッキーが、この複合的なイメージを付随させた「自分はどこにいるのか?」という台詞によって……このまったくの「リフレイン」によって「自己確認の完了」を表明することには、重大な意味合いが発生してくる。つまり、「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」が、「映画による見当識の失当」をとおして獲得されていることが、ここに集約され表象されているのだ。そして、ここでいう「映画による見当識の失当」が、演技者=ニッキーが(あるいは受容者=ロスト・ガールが)獲得した登場人物=スーに対する「感情移入=同一化」と同義であることはいうまでもない。

だが、思い出してみよう。たとえば「口髭の男」もまた、通行人に時間を尋ねられて「9時45分である」といった「キー・ワード」を発していたのではなかったか(1:19:32)。彼がそのように「正確な時刻」を把握できているのは、ひとえに彼が所持している「腕時計」の所以であり、であるからこそ彼は「時間コントロール」のイメージを付属させていると捉えられたのではなかっただろうか。ならば、これらの「キー・ワード」は、ときとして「映画に対する時間的/空間的コントロール」のイメージをも複合的に付随させていることになる。

「インランド・エンパイア」の全体構造が、このシーケンスにおけるスー=ニッキーによって集約され表象されている。なぜなら、ニッキーが(あるいはロスト・ガールが)「自己確認のための問いかけ」に対する「回答」を得る契機となった、スーに対する「感情移入=同一化」を獲得するに際して機能したものこそが、「時間/空間のコントロール」がなされた「映画」という名の「感情移入装置」なのだから。

2008年3月15日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (60)

いろいろと道草をくいながらも続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を探る作業であったりする。なんか、ここんとこ口の中が草で一杯になってしまっているような気がするが、そんなことを言うと後ろから成吉思汗に「大草原の小さな家」で殴られ……

というような戯言はともかく、今回は(2:06:24)から(2:07:24)まで。

このシークエンスで提示されているのは、スー=ニッキーの「家」から「ストリート」への移行(あるいは降下)の過程である。大きな流れで捉えるなら、演技者=ニッキーが、「情緒の記憶=ロコモーション・ガール」による「ポーランド・サイド」の「ストリート」への誘導を経て、隣家の裏庭での「映画の魔=ファントム」との邂逅を決定的要因としつつ、登場人物=スーへの「感情移入=自己同一化」を深化させていく過程の最終状況だ。

直前のシークエンスからこのシークエンスへの移行に際しては、「Rabbitsの部屋」の内部にある「赤い傘のライト・スタンド」が窓ガラス越しにアップになった後の「電気的なノイズ(クラック・ノイズ)」がキューになっていることを再確認しておきたい。この「電気的なノイズ」は、すでに(1:07:59)からの「スミシーの家」の内部のシークエンスにおいて、明滅する赤い傘のライト・スタンドの映像に対しても用いられているものだ。つまり、スー=ニッキーが「ロコモーション・ガールたち」を初めて幻視するシーンへの移行時に……ということは「赤」のモチーフから「青」のモチーフへの移行時に……あるいは「物語展開」から「心理展開」への要請への移行時にこの「効果音」が使われているわけで、現在述べているシークエンスで発生している「移行」も前述したような「移行」と共通の性格を備えたものあることを明示している。リンチ作品全体を見渡すならば、これは繰り返し登場するリンチ特有の「電気に関するモチーフ」のヴァリエーションであるといえるだろうが、これについては後述することにする。

まず、このシークエンスにおいて具体的な「映像」として提示されているものを順番に挙げてみよう。

(1)半袖の灰色のシャツの上から青いセーターを着たスー=ニッキーが、暗闇の中、「スミシーの家」の「裏庭」と思われる場所に座っている。吹き降りの嵐だ。一瞬の雷光に照らされた後、再び闇に沈むスー=ニッキー。雷光。
(2)ローブ姿のスー=ニッキーが、暗闇の中、「スミシーの家」の居間にある赤いソファに座っている。雷光。またしても闇。
(3)暗い裏庭で座っているスー=ニッキー。土砂降りの雨。彼女にクロース・アップしていく視点。雷光。再びの雷光。
(4)(オーバーラップ)アウト・フォーカスで夜の通りを行き交う自動車のライト。[行き交う自動車の音]
(5)(オーバーラップ)スー=ニッキーのアップ。「スミシーの家」のリビング・ルームで赤いソファに座って、どこか上方を見上げている。
(6)(オーバーラップ)夜の通りを行き交う自動車のライトの、アウトフォーカスのショット。
(7)(オーバーラップ)スー=ニッキーのアップ。赤いソファに座って、どこか上方を見上げている。
(8)(オーバーラップする映像が変わる)「スミシーの家」のリビング・ルームで赤いソファに座って、どこか上方を見上げているスー=ニッキー。彼女の後ろで「ロコモーション・ガール」たちが踊っている。スー=ニッキーの顔へ(クローズ・アップしたあと、その周りを回って後頭部まで移動するショット。
(9)流れるライト。赤い火花。ホワイト・アウトするリビング・ルームで踊る「ロコモーション・ガール」たち。自動車の灯り。リビング・ルームの揺れ動くショット。[続く電気ノイズ]
(10)流れるライト。
(11)(オーバーラップ)悲鳴をあげるスー=ニッキーのアップ。

このシークエンスでも(5)(7)(8)のカットにおいて、やはり「上下に交わされる視線」が(上方に向けられた「幻の視線」であるが)発生していることに、まずは注目しておきたい。これもまた、「インランド・エンパイア」で繰り返し提示される「高低のアナロジー」の表れのひとつである。直後の(2:07:25)からのシークエンスにおいて明確に表されるように、「スミシーの家」の居間で赤いソファに座り上方を見詰めるローブ姿のスー=ニッキーは、「家」から「ストリート」へ移行する(あるいは下降する)過程にある。その結果発生した「高低差」によって、彼女はもはや上方にある「家」のレベルを見上げることになる。その視線の先にある「見上げられる対象」は、(1)(3)で提示される「裏庭で座っている青いセーター姿のスー=ニッキー」であると考えて差し支えないだろう。

(4)(6)のカットにあるように、スー=ニッキーには「夜の通りを行き交う自動車のライト」の映像が、その走行音とともに被せられている。これは、彼女がこれから移行しようとしている先が「夜のストリート」であることの、あらかじめの提示として捉えることが可能であり、「このシークエンス」と「(2:07:25)以降のシークエンス」との接続を明快にするものでもある。

また、(1)(3)のカットに現れる「裏庭のスー=ニッキー」と、(2)(5)に現れる「スミシーの家」の居間にいるスー=ニッキーが「等価」であり、かつ「対置関係」にあることは、この両者のいるカットのどちらにも「雷鳴・雷光」が現れていることからも明らかだ。前段で述べた(4)のカットは(3)と(5)のカットを接合するブリッジとしても機能しており、彼女(たち)の「対置関係」を補強していといえる。この「対置関係」は、第一義的には前に述べた「高低の関係」として捉えられるが、同時に、彼女(たち)がいる「家の内部」と「裏庭」という、「場所」の「対置関係」としても理解可能だ。この二つの「場所」は、「裏庭とサーカスの関係」の項で述べたように、そのまま「完全に私的なもの」と「半ば公的なもの」といったイメージに置換が可能であり、リンチ作品に現れる「家」を「人間の内面」を表すものとして捉えるならば、その「裡と外」、つまり「人間の内面」と「外界」のイメージにまで複合的につながっていく。

「外界」において発生している「嵐」は、「内面」においてもそこに現れる「雷鳴・雷光」として影響を及ぼしており、これは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」というナラティヴな映画作品における「物語展開」と「心理展開」の連動性を表すものとして捉えることも可能だろう。演技者や受容者の「内面=スミシーの家の内部」で発生している事象は、すべて「外界=ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の影響下にあるのである……そう、ちょうど「Polish Poem」の歌詞に、「外では風が吹き荒れ、私は息をすることもできない(The Wind blows outside / And I have no breath)」とあるように。

また、(1)(2)(3)に現れる「雷光」や「雷鳴」は、先に述べたように「電気のモチーフ」のヴァリエーションとして読み取られるべきものだ。同様に「スミシーの家」にいるスー=ニッキーにオーバーラップで被せられる(9)や(12)の「ライト」や「火花」も、こうしたモチーフのヴァリエーションとして理解できる。これらの「電気のモチーフ」は、たとえば「イレイザーヘッド」では、ヘンリーが初めて訪れたメアリーX宅の居間において、明滅して消える電気スタンド(0:27:29)として現われ、あるいは「マルホランド・ドライブ」では、アダム・ケシャーがカウボーイと「一回目の邂逅」を果たす牧場の照明(1:05:57)として現われる。いずれも「電気的なノイズ(クラック・ノイズ)」をともない、ヘンリーやアダム(=ダイアン)の心理的な状況(およびその変化)を表象するものだ。たとえばヘンリーの場合は、これから始まるメアリーXの両親との会話の内容に対する不安であったし、ケシャー(=ダイアン)の場合は自分の運命を決める契機(あるいはすでに決まっていた運命の確認)の開始であったりする。このシークエンスの場合においても、ニッキー=スーの「家(によって表されるもの)」から「ストリート(によって表されるもの)」に至る「心理的推移」がこれらの「電気のモチーフ」によって表されており、これまたリンチ作品に頻出するきわめて表現主義的な描写のひとつといえるだろう。

同時に、そこに演技者=ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガールたち」がおり、スー=ニッキーが「家」から「ストリート」への「移行」に際し、彼女たちも一緒に伴われていることがこの映像によって明示されている。これが表すものについては、次のシークエンスについて述べる際に詳しく触れたい。

(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」のシークエンスについて述べる際にも触れたように、このシークエンスには動的で激しい映像と編集が使われており、この「Rabbitsの部屋」に初めて発生した「カット割」と同様、スー=ニッキーの「心理的展開」の激しささ、そして急転する「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語展開」を表象しているわけである。

2008年3月12日 (水)

その後の「インランド・エンパイア」は統合失調症のハナシなのか?

もののついでと言ってはなんですが、この件で思うところなんかをいま少し。

「インランド・エンパイア」を「統合失調症」をキーにして解釈するアプローチを目にして、個人的にまず感じたのは、たとえば「気が狂ったように」という表現をそのまま「統合失調症を発症して」という語句に置き換えた文章を読んでるような「違和感」だったりしました。これは記号論的にいうなら、シニフィアンとシニフィエが混同されていることに対する「違和感」ということになるんでしょうか? 「映像」と「それが表すもの」が乖離したり捻れたりしている作品(リンチ作品に限りませんが)を評するに際しては、この両者の違いをしっかり押さえとかないと、いろいろワケがわからなくなるんじゃないかと思うんですが、どんなもんでしょう? ま、思い切りひらたく言ってしまえば「冗談を真にうけるな」ってことですかね(違うって)。

……というような「冗談」はおいとくとしても、半ばマジでいうなら、このような見方は、「表現者を殺す行為」につながり兼ねない危険性をはらんでいるように思います。「統合失調症」に対する一般の理解が広まるのは喜ばしいことなのでしょうが、映画作品の登場人物に対して安易に「精神分析理論」を用いたり「症例特定」を行ったりすることで、「作品論」として粗雑な議論をしてしまう危険性についても、また同時に理解されるべきでしょう。このあたりは、たとえば加藤幹郎氏の「ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学」(みすず書房)に収められている「ヒッチコックによるラカン 映画的欲望の経済」(トレヴィル)に向けての批判を、(多少割り引きつつ)参照されることをお勧めします。

作品に対するアプローチ自体はいろいろあってしかるべきかとは思いますし、実際、海外の「インランド・エンパイア」関連掲示板をみても、「統合失調症」をはじめとした「精神疾患」をキーにしたアプローチはいくつも目にします。こうしたアプローチが共通してもつ欠陥は、「映像」と「統合失調症の症例」との断片的な合致の説明はあるものの、それが「作品の全体構造」とどう関連性があるのかを明確に提示していない(あるいは、できない)点です。なんとか「統合失調症の症例」と「全体構造」を関連づけようと試みたあげく、「昔、どこそこで誰ぞが誰ぞを殺して……」というような具象的な「省略された物語」を無理矢理作り上げる方向に向かうばかりなんですが、最終的にそうした「時系列整理」や「人物関係の整理」は破綻をきたさざるを得ないので、第三者に対する説得性を持てないでいます。困った果てに、「リンチ作品に分析は不要」といった、根拠もなく論の体も成していない「個人の印象」に逃げるのでは、あまりに表現者の創作物に対する「リスペクト」に欠けるうえに、それまで「統合失調症の症例」を挙げてきたのはなんだったのか、それを通じて何を論じたかったのか、まったく理解不能です。なんか、「統合失調症」をネタに風呂敷を広げたはいいが、どう畳めばいいのかわからなくなっているのが透けてみえるのは大山崎だけでしょうか。もそっとリンチの過去作品との対比を含めて、いろいろな方向からきとんと裏をとり、その「表現」を真摯に読み取る作業が必要なんじゃないかと思うのですけども。

でも、なんでみんな、なんでそう性急に「インランド・エンパイア」に関して結論を出したがるんでしょうか?(笑) 作品に対してどのような姿勢をとるかは人それぞれだし、どーでもいいといえばどーでもいいんですが、せっかく高いDVDを買ったんだし、表から裏から右から左から上から下から、もっとじっくりネチネチ検証してもいいんでないの? とも思うんですけど。配給会社やDVDメーカーは、「観客」に次から次へと新しい作品を「消費」してもらわないと困るのかもしんないですけどね(笑)。あ、「インスタレーション」を買った方は、一度、英文シナリオと対比させながら観ると、また新しい「世界」が広がるかもしれません。

ま、そんなとこで。

2008年3月10日 (月)

リンチ本新刊(でもない)2冊詰め合わせのハナシ

またしてもDugpa.comネタ。

デイヴィッド・リンチ関係の書籍2冊の紹介。

一冊目は、その名もすげえ「デイヴィッド・リンチ解読(David Lynch Decoded)」 という昨年末に刊行された本。著者のMark Allyn Stewart氏は、著書としてホラー関係の小説が何冊かある人みたいなんだけど、いずれも読んだことがなく邦訳もされていない様子で、よくわからず。米アマゾンの紹介を読む限りでは、「赤いカーテンやら、ストロボ・ライトやら、踊る小人やらは、いったいどーゆー意味よ?」つなことで、リンチ作品に登場する「シンボル」が何を表しているかを解説している本らしい。

decoded

現在、日アマゾンでも入手可能で、「なか見!検索」で内容が少し読めるようになっている。目次をみる限りでは「イレイザーヘッド」から始まって「インランド・エンパイア」まで、作品ごとにリンチが提示する「シンボル」を追いかけた後、最終的にそれらを統括しつつ結びつける形で論じるという構成である様子。

そーゆー壮大な内容の本にしては、あの本文組で160ページっつのはちょっと短かすぎゃしないデスか? という疑問もわくのだが、案の定、ラカン派方面から「単純化しすぎてる(Oversimplified)」というツッコミを米アマゾンの読者評で頂いてたりなんかして(笑)。長くて複雑だったらいいってもんでないのも確かだが、リンチ作品の言語化っつーのが一筋縄ではいかないのもまた確かなんで、さて。

著者の公式サイトもコチラにあり。

もう一冊は、「デイヴィッド・リンチによれば(According to... David Lynch)」 というリンチの発言集。カバー写真がコレです、コレ(笑)。

accordingtolynch
昨年の10月末に刊行済の本みたいなのだけど、まだ米アマゾンにも内容紹介や読者評がなく、ちょいと内容がよくわからない。なんつか表現が難しいのだが、ご存知のとおりリンチ自身が決してボキャブラリーが豊富な人ではないだけに、あんまり断片的な発言ばかり集められてもよくわからんかもしれんと思ったりする(笑)。最低「いつ、どこで、何に関して」の発言であったのかぐらいは併記しといて欲しいんだけど、はたして現物はどーなっておるでしょーか?

著者(編者?)のHelen Donlonさんは、「リーダーズ・ダイジェスト」から出ている「小説のダイジェスト本」なんかのお仕事をされていた方みたいなんだけど、それ以上のことはこれまたよくわかりません(こればっかだな)。カバー写真からして、きっと「チーズはミルクから作られる」という発言も収められているほうに、5,000ブルー・ボックス(笑)。

とりあえず、二冊ともアマゾンでポチっておいたんで、詳しい内容紹介などは、またそのうちということで。

あ、「リンチ1」の北米版DVDは今年の8月に出るそうです。なんか特典がついていたら、それも買うのか?>自分(笑)

ほんでもって、オマケ。おそらくドイツのリンチ・ファンによる、手元に届いた「インランド・エンパイア」日本版DVD (インスタレーション版)を開封しつつ内容物を紹介する映像。まだ買ってない日本の皆様にもお役に立つかもなので紹介しとく。いきなり包装のビニールをハサミでじょきじょきやったうえに手でひっちゃぶいてらっさいますが、あれって上のほうが開かなかったっけか?(笑)

2008年3月 8日 (土)

「インランド・エンパイア」は統合失調症のハナシなのか?

評論家の竹熊健太郎氏が「『インランド・エンパイア』は、主人公の女優が統合失調症を発症することを描いた映画だ」という意見に「納得した」と自身のブログで発言されていて、正直なところ驚きました。「サルでも描けるまんか教室」などの氏の著作は過去に拝読させていただいたことがあり、鋭い分析能力とそれを平易に伝える方法論には強い感銘を受けたのですが、残念ながら、今回の「インランド・エンパイア」についての見解に対しては異を唱えざるをえません。

率直に申し上げて、「インランド・エンパイア」を「統合失調症」をキーにして解釈するのは、少なからず乱暴で表層的な理解であるように感じます。もし「インランド・エンパイア」を「統合失調症」をキーにしてみる観点が成立するならば、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」あるいは「ツイン・ピークス」はもちろん、自主制作作品で実質的なデヴュー作となった「イレイザーヘッド」やそれ以前の中編「グランドマザー」、あるいは最初は公式サイト限定で公開された「Darkened Room」など、かなりの数のリンチ作品が「統合失調症患者の内面を描いた作品」の範疇に入ってしまいます。なぜなら、これらの作品に存在する映像は、「インランド・エンパイア」とまったく同質の抽象的かつ表現主義的手法によって描かれているという共通性を有し、かつ、たとえば「何かよくないことが起きる可能性のある場所としての『家』」「その内部で発生するトラブル」などといったテーマやモチーフにおいても明瞭に重なっているからです。結果として、「インランド・エンパイア」が提示する映像群を「統合失調症」の具体的な諸症例として論じることは、リンチがその映画監督としての最初期から「統合失調症」に強い関心を払い、その具体的な症例を自作に反映し続けてきた……と主張するのに等しいのです。

竹熊氏ならご理解いただけるでしょうが、何かを題材にした作品を作る場合、その題材に対してそれなりの取材なり調査を行うのが普通であるかと思います。「統合失調症」のように「患者の人権」といった重要な問題を含み、軽々に扱えない題材であればなおさらでしょう。しかし、「インランド・エンパイア」の製作期間前後はもとより、過去にさかのぼって、たとえばクリス・ロドリーによるロング・インタヴュー集「映画作家が自作を語る デイヴィッド・リンチ」や、複数回にわたるリンチに対する直接取材をとおして書かれたMartha P. Nochimsonの評論「The Passion of David Lynch」、あるいはリンチ研究書の決定版ともいえるGreg Olsonの「Beautiful Dark」などをみても、リンチ自身が「統合失調症」に具体的な関心を持っている(あるいは過去に持ったことのある)事実を……少なくとも具体的な症例を調査し、こと細かく自作に反映させ続けてきた事実を裏付けるような発言や記述は見出せません。これは「インランド・エンパイア」公開と前後して刊行されたリンチ自身の著作である「Catching the Big Fish」や、その時期なされたインタビュー、あるいは(おそらくご覧になっているでしょうが)リンチに密着取材したドキュメンタリー「リンチ1」においても同様です。むしろ明確な形で残されているのは、「(リンチは)精神分析理論など一切知らないと主張し、彼の身近な人々がこの主張は真実だという保証している」という、まったく正反対の方向を示唆する「事実」です(「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ」 P.11)。こうしたリンチの姿勢は、現在に至るまで変わっていないと考えてよいでしょう。

初期の「イレイザーヘッド」の頃から、リンチ作品が「自身の非常に私的なもの」を反映させていることはたびたび指摘されています。そうした見地からして、「統合失調症の具体的症状へのリンチの関心」を表すものがリンチの言動あるいはその周辺に存在しないことは、「統合失調症」をキーにして「インランド・エンパイア」を理解すること、あるいはその映像に具体的な症例を求めることの妥当性に、根本的な疑義を投げかけるものです。

とはいえ、これらは「サブテキスト」に属するものであり、作品解釈の自由を縛るものではないという考え方もあるかと思います。確かに、もし「統合失調症」をキーにした解釈が「インランド・エンパイア」の作品全体とはもちろん、その細部とも整合性を持って成立するならば、たとえそれがリンチの意図したものと乖離していたとしても、ひとつの解釈として認められるべきだと自分も考えます。なによりもリンチ自身が述べているように、いったん作品として提出された以上、その解釈は観る者に任されるべきものだからです。しかし、たとえば……

・繰り返し言及される「動物」
「シルクの布に煙草の火で穴を開けて覗く行為」「腕時計」
・スーザンがMr.Kに語る「ノース・カロライナの海兵隊員だったファントム」と彼の「片足の妹」
・浮浪者たちによる「ハリウッド-ヴァインからポモナ行きのバスがあるかないか」の議論

……などの「インランド・エンパイア」が提示する映像イメージに対し、「統合失調症」をキーにしたアプローチは、いったいどのような解釈をもたらすのでしょう? こうしたリンチ独特の表現も、「それが表すもの」をなんら検討されることなく、すべて「統合失調症患者が抱く幻想」として片付けられてしまうのでしょうか? それでは「作品」から掬いとれるものよりも取りこぼすものの方が多くはありませんか?

「私的な部分」をポイントとしてみるなら、「インランド・エンパイア」の製作時期から公開時期にかけて、リンチが集中的に発言しているのは、(長年続けている「瞑想」についての言及を別にすれば)実は「映画というメディア」そのものについてです。iPhoneについて「こんな小さい画面で観たのでは、『世界』を体験したことにならない」とリンチが語る映像がYouTubeにも上げられていますが(もともとは、「インランド・エンパイア」の北米版DVDに特典として収録されている映像です)、この発言はリンチが「映画」というメディアをどう捉えているかを端的に示すものです。繰り返しインタヴューや自著「Catching the Big Fish」で述べているように、リンチにとって「映画」は「世界」であり、「映画を観ること」は「世界を体験すること」に他なりません。そして、そうした「体験」を可能にするのが「映画というメディア」がもつ「魔法」である、というのがリンチが「映画」に関して表明している基本的な考えです。

以上のような事項を踏まえたとき、「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」という観点から捉えるのは、一定の妥当性を持つはずです。この「映画についての映画」という観点には、「映画を作ることの映画」だけでなく「映画を観ることの映画」であること、あるいは「映画というメディアそのものについての映画」であることも含まれています。端的にいうなら、「演技者=ニッキー」と「観客=ロスト・ガール」がともに「登場人物=スーザン」を「共有」し、そのことを通じて「映画を作る者(演じる者)」と「映画を観る者」が同じ「感情」を共有する。この「感情移入=同一化」によって、「世界を体験すること」が成立する。そして、そうした「感情移入=同一化」を可能にするものこそが映画というメディアが備える「魔法」である……というのが「インランド・エンパイア」に対する個人的な大筋の理解です。細かい点は他項で述べているのでここでは詳述しませんが、作中、この「世界」「魔法」というキー・ワードがグレース・ザブリスキー演じる老婆によって、ニッキーに向って語られることはすでにお気づきでしょう。

「イレイザーヘッド」やそれ以前の作品から始まり、「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」を通じて、リンチは一貫して独自の表現主義的手法でもって登場人物の「感情」を描いてきました。「インランド・エンパイア」に現れる様々な映像表現に関しても、まずはニッキー=スーザン=ロスト・ガールが共有する「感情」をキーにした抽象的なものとして読み取られるべきものであり、決して「統合失調症の症例」などとして具象的かつ表層的に論じられるものではないはずです。

以上、ぶしつけな表現をまじえつつ、異議申し立てをさせていただきました。どうぞお気を悪くなされませんよう。

2008年3月 6日 (木)

「インランド・エンパイア」日本版DVD関連ネタ(米国編)

本日のdugpa.comネタ。

さて、「インランド・エンパイア」国内版DVD「インスタレーション」ヴァージョンの仕様は、やはりアチラのリンチ・ファンにとっても驚きであったようで、日アマゾンあるいはHMV Japan経由でさっそく手に入れた猛者たちの報告があいついでいる。まあ、この、あんまり他人様のことは言えないが、業が深いことよのう(笑)。アメリカからDVDを取り寄せる場合、どうやら日アマゾンよりもHMV Japanの方が送料が安いらしい。よし、覚えとこ(笑)。

なかには、どこで買ったのかしらないけど、「18,000 JPY」という価格表示を「18円」だと勘違いしたまま注文してしまったノルウェイの高校生なんかもいたりして、掲示板で「その千倍だ」と教えてもらって「んなの、わっかるワケねーだろーがああぁっっ!」と青くなりつつキレる騒ぎも勃発。本人、動揺して手が震えたらしく、ミスタイプ連発。ああ、こういう失敗を重ねて人は成長していくのだよなあ(ホントか?)、これぞ「カルチャー・ショック」というものだなあ(もっとホントか?)などと感嘆にふけることしきり。でも、てっきりキャンセルするのかと思っていたら、「やっぱ、届くのを待ちます」と言い切ったクリスチャン君(19)、キミはまだ若いのになかなか見どころがある(笑)。Way to go, Chrisitian1989! 請求が来てからパパに怒られて、「向こう一年間お小遣い支給ストップ」なんてなことになっても知らないけど(笑)。

「リンチ1」が本国に先駆けてソフト化されたのもさることながら、やはり「スクリプト」がついていることが向こうのリンチ・マニアにとって垂涎の的である様子。「『リンチ1』のDVDはそのうち自国でも出るかもしんないが、スクリプトはきぃっっっと出ねえっ!」っつーことで、思わずポチってしまった向きもいるよーなんだが、なーんか心理としてよく理解できてしまうところがナンだなあ(笑)。単独で書籍として出版してもそれなりに売れるんでないかなあ、たとえば「9,000 JPY」ぐらいで(笑)。

……というよーなリンチ・マニアならではの悲喜劇が拝める、アチラの掲示板はこちら

2008年3月 5日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (59)

ふわわ。諸般の事情があって文章の作成環境を変えてみたら、文章量の感覚が狂ってしまった大山崎でございます。大昔のDOS版モバイルギアなんか引きずり出してみたりなんかして、ホット・カーペットに寝っ転がって、うつ伏せになったり仰向けになったりしてキー・ボードを叩いていると、なんか七輪で焼かれているサンマになったよーな気分であります(笑)。ってなことを書くと、後ろからサンマにテトラポットで殴られ……。

……というようなどーでもいい話はさておき、相も変わらずな感じで「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をば追いかけることにする。「インランド・エンパイアを観た(X回目)(58)」からの続きということで、(2:05:17)から(2:06:25)までを落穂拾いな感じでいってみせう。

……の前に、このシークエンスでウサギたちが交わす会話を念の為に、再引用しておこう。

ジェーン・ラビット: (ジャック・ラビットに) I am going to find out one day.
スージー・ラビット: (手を休め、二匹を振り返って) It was red.
ジャック・ラビット: (ジェーン・ラビットを見て) Where was I?
ジェーン・ラビット: This isn't the way it was.
ジャック・ラビット: (立ち上がってジーイン・ラビットを見下ろしながら、変調した声で) It was the man in the green coat.
スージー・ラビット: It had something to do with the telling of time. (変調した声で)

あえて付け加えるなら、スージー・ラビットによる「赤だった(It was red)」という同じ台詞が、前々々回で触れた「バルト海地方の家」のシークエンスでは、老人2によって発せられていることに留意しておきたい。老人2がスージー・ラビットに変貌したことはこのシークエンスの頭において映像として明示されているが、両者の「同一性」「等価性」はこの台詞によっても明確に表されている。

また、「私はどこにいるのか?(Where am I?)」というジャック・ラビットの「場所に対する見当識を失った」発言に関しては、(0:04:04)からの「Rabbitsの部屋」において、すでにジェーン・ラビットによって……

ジェーン・ラビット: What time is it?

……という「時間に対する見当識を失った」発言がなされていることを指摘しておきたい。「インランド・エンパイア」に繰り返し登場する「見当識の喪失」を表すこの発言として、このジャック・ラビットとジェーン・ラビットの発言はセットになっているとも捉えられる。だが、同時に、このシークエンスにおいて「それは時刻を告げるものと関係があった(It had something to do with the telling of time)」とスージー・ラビットが発言していることも見逃せない。もちろんこの発言が作中に何度か登場する「(腕)時計」のことを指しているのは明瞭であり、つまりは「時間のコントロール」のイメージに関する発言であることはいうまでもない。他の登場人物たちと同様に「混乱」を抱えたとしても、ウサギたちはこのように自らの「錯誤」を認識する術を持ち、それを修正可能であるのだ。ジャック・ラビットの「場所に対する見当識の失当」がリカバーされることを表す発言は見当たらないが、おそらくは彼らはそれに対する修正を行う能力を備えているはずだ。

もうひとつ、この(0:04:04)からの「Rabbitsの部屋」との関連性を挙げるなら……

ジェーン・ラビット: I am going to find out one day.

……このジェーン・ラビットによる発言が、彼・彼女らの「会話」の皮切りとして、どちらの「Rabbitsの部屋」でもされていることが指摘できる。「インランド・エンパイア」には何度か「Rabbitsの部屋」が登場するが、ウサギたちの会話が行われるのは(0:04:04)からのものと、現在触れているシークエンスのみである。つまり、会話が発生している「Rabbitsの部屋」において、その会話はどちらもこのジェインラビットの発言によってスタートしていることになるわけだ。となると、この発言がなんらかの「キーワード」になっている可能性は否定できないだろう。「いつか見つけるつもりだ」……ウサギたちがいったい何を見つけようとしているのかは明瞭ではない。それは「なにかの混乱の解決」であるのか、あるいは「まったく新しい境地への到達」であるのか? が、むしろ問題となるのは、彼らが何らかの「希求」するものを持っているということなのだ、とここでは捉えておきたい。そしてそれは「Rabbitsの部屋」において行われている行為、あるいはそこで起きている事象に関係している。あえていうなら、これはウサギたちの「決意表明」であり、ひいては映画製作に携わる者としてのリンチ自身の「決意表明」ではないのだろうか? リンチは自分自身もまた「動物=他者のコントロールを受け、かつ自律しているもの」として捉えており……というより作品中に現れる「動物が表すもの」のイメージはそうしたリンチ自身の感情を出発点としており、それが(文字通り「動物」である)ウサギたちに投影されているのではないだろうか?

しかし、ジェーン・ラビットが言う「前はこんなじゃなかった(This isn't the way it was)」というのは、何を指しているのだろう? 肯定的な発言なのか、否定的な発言なのか。以前の「コントロールの対象」がこんなではなかったということなのか、それとも現在の「コントロールの対象」の範疇の話なのか。後者であるならば、これまた現在の「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のエスカレーションの状態を表すものと読み取ることが可能だろう。

ジャック・ラビットの「緑色のコートを着た男だ(It was the man in the green coat)」という発言が、「スミシーの家」へと逃げ込むニッキー=スーを窓越しに見詰めている緑色のコート*を着たピオトルケ(1:03:20)のことを指しているのは間違いない。その後「スミシーの家」に入り込んだニッキー=スーが、そのベッド・ルームで就寝するピオトルケが脱いでいるのは、やはりその緑色のコートである(1:08:03)。当然ながらこの発言は「ピストル=物語展開の要請」がピオトルケによって「スミシーの家」に持ち込まれたことを想定してのものであり、それはこの後、緑色のコートが「スミシーの家」のベッド・ルームにあるクローゼットの引き出しの中で、置かれていたピストルの下から姿を現わすこと(2:40:54)からも明瞭である。彼らは自分たちの「行動」の意味に自覚的であるし、それによって発生する事態にも予測ができていることが、この発言からもうかがえる。赤や青と異なって、緑がモチーフとして使われているのはこのコートにおいてのみであり、そういう意味では「ユニーク」な色であるといえる。あえていうなら、ピオトルケという「トラブルの根源」に付随するイメージを表すものと捉えることも可能かもしれない。

また、ジャック・ラビットのこの発言の直前から「Rabbitsの部屋」の照明は「赤」に変わっており、以降、ウサギたちの声は「変調」がかかったようになる。前々々回述べた「カット割り」とあわせて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」および「インランド・エンパイア」自体の「状況の変化」は、このような表現によっても表されているといえるだろう。そうした「状況の変化」を表しつつ、「Rabbitsの部屋」の奥の壁にある窓越しに撮られた「赤いシェードの電気スタンド」のアップで、このシークエンスは、終わる。このランプが「スミシーの家」に登場するランプと同一のものであるかどうかは、やはり明瞭ではないが、その「機能」するところは「同一」と考えていいだろう。すべてを「赤=物語展開への要請」に塗りつぶしながら、「スクリュー・ドライバー=最終的な心理展開の要請」と「ピストル=最終的な物語展開の要請」の両方が揃い、もはや時刻も「真夜中」を過ぎたいま、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」は最終的な局面に向けて激しく動き始めている……ウサギたち、演技者=ニッキー、受容者=ロスト・ガールの三者に、等しく「共有」されながら。

*おそらくは、「リンチ1」のなかで、リンチが自分で緑色に染めていたコートだ。

2008年3月 3日 (月)

リンチの新CD「Polish Night Music」発売のおオハナシ

本日じゃないけど、dugpa.comネタ。

「Polish Night Music」と題するデイヴィッド・リンチの新しいCDが3月25日に発売されるそーな。 dugpa.comにはかなり以前から紹介記事が掲載されていて、その後iTuneショップでのオンライン発売だの公式サイトでの発売だのという話があったのだけれど、やっとCDでの一般発売が決まった様子であります。あ、発売はやっぱりリンチの会社であるABSURDAからね。

polishnightmusic

収録されているのは2004年から2006年にかけてリンチの自宅スタジオで収録された4曲で、トータルの収録時間は77分。収録曲名は以下のとおりであります。

01 - Night - city back street 13:29
02 - Night - a landscape with factory 17:41
03 - Night - interiors 26:46
04 - Night - a woman on a dark street corner 18:51

Marek Zebrowskiとのセッションが含まれているらしいのだけど、どの曲だかはちょっとわからず。昨年開催されたパリでの作品展「The Air Is on Fire」でのオープニングでは、リンチがKORGのキーボード弾いて自作曲を披露していたんだが、その楽曲も収録されているのかしらん? ちょっとわかりません。わかったら、また報告することにします。

すでに米アマゾンはもちろん、日アマゾンでも予約可能になっております。日アマゾンでは税込¥1,926也ね。米アマゾンではなぜかジャンルが「サウンド・トラック」になっているのだけど、こりゃ、どーゆーこっちゃ。映画監督がCD出したら、全部「サウンド・トラック」なんスかね? とりあえず日アマゾンでポチっといたんで、届いたらまたレヴューなんか。

2008年3月 2日 (日)

「インランド・エンパイア」の日本版DVDを観た

ども、やっとのことで「インランド・エンパイア」の日本版DVDを観た大山崎です。

ずっと気になっていた本編の「タイム・スタンプ」は、どうやら日本版DVDも北米版も同一みたいで、いままで書いてきた文章は修正しなくていい感じであります。つなわけで、どちらのDVDでも現在掲載しているタイム・スタンプで該当シーンの映像を呼び出せますので、ああ、面倒が省けてヨカッタ(笑)。あ、ちなみに、チャプターがふられている個所も同じでした。日本版DVDのほうが北米版よりも映像が明るいのは、やっぱ観やすくてヨロシイですね。一応、日本版のほうにもモニター画面の調整メニューがありますが、ほとんど何もしなくても大丈夫でした。北米版だと目一杯、輝度を上げなきゃなんなかったんですけどね。

そのかわりといっちゃなんだけど、日本語字幕が「やっぱり」というかなんというか……結論からいうと、「インランド・エンパイア」の日本版DVDにつけられている翻訳字幕をもとに「作品解釈」をするのは問題がある……と大山崎としては言わざるを得ないです、残念ながら。もちろん翻訳というもの自体が備えるどうしょうもない限界というものはあるし、特に字数制限のある字幕の翻訳作業は難しいものであることは承知しています。それを認めたうえで、もう少しなんとかなるんじゃないかと感じる箇所がいくつもあるように思いました。

たとえば「Rabbitsの部屋」でのウサギたちの会話に、無理矢理「コンテキスト(文脈)」をつなげ(ようとし)た訳文をつけるのは、いかがなもんでしょうね? この箇所は「コンテキストの欠落」という手法自体に意味があるはずなので、それに対し翻訳で強引に文脈をでっち上げてしまうのは、かえって作品理解を阻害するものだと思うのですが。

また、リンチが意図的に「対置されるもの」「リフレインされるもの」として作っている台詞に対し、その意図を無視した訳文、あるいはそれと理解することが困難な訳文がつけられているのにもガッカリしました。たとえば、「こわいわ(I'm afraid)」というのは「ここはどこ(Where am I?)」とセットになっている台詞で、冒頭の「顔のない女性」によっても(ポーランド語で)発せられている「キーワード」のひとつです。ところが、「ハリウッド・ブルバード」でスーザンが言う「I'm afraid」に対しては「あたしはイカれた女」(2:07:37)という、どこをどう捜してもまるで原意には存在しない意味の訳文があてられており、これでは関連性がまったくわからないばかりではなく、「スーザンが表すもの」に関して観る者の誤解を招きかねないと思います(実際、この訳文に引っ張られたと思しき意見も散見されます)。ここはストレートに「こわいわ」でいい……というより、むしろその方が作品全体を通してみたとき、原意に即しているはずなのですが。あるいは、夫を見送る「口髭の男の妻」と、スーザンを殴打するピオトルケの両者が発する「対置関係」にある台詞も、その関係性が不明瞭な訳文になってしまっています。リンチのように同一モチーフの「リフレイン」や「ヴァリエーション」を多用する監督の作品に関し、これは作品理解のうえでかなりクリティカルだと思います。

このあたりは翻訳者の作品理解度とからんでくるし、なにせ一筋縄ではいかない作品なんで非常に難しい問題ではあります。しかし、その他にも(クリティカルではないものの)細かい問題がある訳文が散見され、ただでさえ簡単な理解を許さないこの作品が字幕のせいで余計に意味不明になっている可能性を危惧します。

というようなわけで、作品を解釈するうえでDVDに収められている日本語字幕を引用するのはいろいろ差しさわりが出そうなので、今後、台詞に関しては今までどおり、原則的に北米版DVDから原語のまま引用し、適宜独自の訳文をつける形で進行したいと思います。同じように、過去に書いた文章に関しても、日本版DVDの字幕にあわせる等の手直しはしません。「DVDの字幕と違うじゃねーか」と思われる箇所があるかもしれませんが、上記のような理由です。以上、業務連絡でした(笑)。

3/3追記:どうやらこの記事が紹介を受けたらしく、かなりの人数の方にアクセスをいただきました。遅きに失した感がありますが、大山崎としてぜひ明確にしておきたいのは、「字幕翻訳者の方あるいは配給会社に対する誹謗や中傷を意図して、この文章を書いたわけではない」ということです。読んでいただければわかると思いますが、こうした「翻訳上の問題」は翻訳作業全般に抜きがたくつきまとう問題であり、必ずしもそのすべてが「単純な誤訳あるいは悪訳」という問題に還元されるものではありません。一翻訳者ないしは配給会社の責を問うて抜本的解決が図れるものではない、と個人的には考えます。

以前にも書きましたが、「翻訳作業」は必ず翻訳者の「解釈」を必要とします。「インランド・エンパイア」のような非常に抽象的かつ難解な作品を自ら解釈し、「字数」や「納期」という制限を受けながらどこまで字幕を煮詰めることができるか……字幕翻訳者の方には非常に厳しい作業であったことは容易に想像できますし、その困難さを思うとき、僭越ですが同情こそすれ非難する気持ちにはなれません。

この問題は非常に根深いものであって、突き詰めれば「作品解釈のうえでの原語・原典主義」にまで還元されると思います。しかし、「創作物」であると同時に「工業製品」であり「商品」でもある「映画」の性格を考えるとき、「じゃあ原語で観ればいいじゃないか」というのはまったく問題の解決になりません。そもそもそれが不可能な観客のために「字幕」はあるはずであり、それ抜きで観客層を制限したのでは「興行」や「セル・ソフトのリクープ」自体が成立するかどうか、はなはだ疑問だからです。

……なんか書いてるうちに「必要悪」という言葉が脳裏をかすめてなんとも鬱な気分になり始めていますが(笑)、個人的には「少々字幕に難があろうが、公開されないよりは公開されたほうがマシ」「DVDが出ないよりは出たほうがマシ」「観られないよりは観られたほうがマシ」というのが現実的なスタンスであろうかと思います。翻訳があくまで「原意に対する近似値」であり、その「値」は翻訳者の解釈によって揺れ動くことを理解したうえで、我々はどのように作品に接するのか。かなり頭の痛いことではありますが、これは永遠に解決されない問題なのでしょう、きっと。

プラスに捉えるなら、今回の件はこうした翻訳にまつわる問題を再考する個人的な契機となりました。奇しくもリンチが「インランド・エンパイア」で描いているように、映画を観る作業は、映画館での「一期一会」から家庭内外での「リピート」あるいは「オンデマンド」へとその主軸をすでにシフトしています。「映画」がソフト化され観客の手元にずっと残ることが普通になった今、その「作品自体の価値」が繰り返し検証されるとともに、それにつけられた「字幕の価値」も同時に検証され続けることになります。こうした状況に、「映画字幕翻訳」という特殊な分野(と、あえていいますが)は、どのように対峙していくのでしょうか。

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