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2008年3月 2日 (日)

「インランド・エンパイア」の日本版DVDを観た

ども、やっとのことで「インランド・エンパイア」の日本版DVDを観た大山崎です。

ずっと気になっていた本編の「タイム・スタンプ」は、どうやら日本版DVDも北米版も同一みたいで、いままで書いてきた文章は修正しなくていい感じであります。つなわけで、どちらのDVDでも現在掲載しているタイム・スタンプで該当シーンの映像を呼び出せますので、ああ、面倒が省けてヨカッタ(笑)。あ、ちなみに、チャプターがふられている個所も同じでした。日本版DVDのほうが北米版よりも映像が明るいのは、やっぱ観やすくてヨロシイですね。一応、日本版のほうにもモニター画面の調整メニューがありますが、ほとんど何もしなくても大丈夫でした。北米版だと目一杯、輝度を上げなきゃなんなかったんですけどね。

そのかわりといっちゃなんだけど、日本語字幕が「やっぱり」というかなんというか……結論からいうと、「インランド・エンパイア」の日本版DVDにつけられている翻訳字幕をもとに「作品解釈」をするのは問題がある……と大山崎としては言わざるを得ないです、残念ながら。もちろん翻訳というもの自体が備えるどうしょうもない限界というものはあるし、特に字数制限のある字幕の翻訳作業は難しいものであることは承知しています。それを認めたうえで、もう少しなんとかなるんじゃないかと感じる箇所がいくつもあるように思いました。

たとえば「Rabbitsの部屋」でのウサギたちの会話に、無理矢理「コンテキスト(文脈)」をつなげ(ようとし)た訳文をつけるのは、いかがなもんでしょうね? この箇所は「コンテキストの欠落」という手法自体に意味があるはずなので、それに対し翻訳で強引に文脈をでっち上げてしまうのは、かえって作品理解を阻害するものだと思うのですが。

また、リンチが意図的に「対置されるもの」「リフレインされるもの」として作っている台詞に対し、その意図を無視した訳文、あるいはそれと理解することが困難な訳文がつけられているのにもガッカリしました。たとえば、「こわいわ(I'm afraid)」というのは「ここはどこ(Where am I?)」とセットになっている台詞で、冒頭の「顔のない女性」によっても(ポーランド語で)発せられている「キーワード」のひとつです。ところが、「ハリウッド・ブルバード」でスーザンが言う「I'm afraid」に対しては「あたしはイカれた女」(2:07:37)という、どこをどう捜してもまるで原意には存在しない意味の訳文があてられており、これでは関連性がまったくわからないばかりではなく、「スーザンが表すもの」に関して観る者の誤解を招きかねないと思います(実際、この訳文に引っ張られたと思しき意見も散見されます)。ここはストレートに「こわいわ」でいい……というより、むしろその方が作品全体を通してみたとき、原意に即しているはずなのですが。あるいは、夫を見送る「口髭の男の妻」と、スーザンを殴打するピオトルケの両者が発する「対置関係」にある台詞も、その関係性が不明瞭な訳文になってしまっています。リンチのように同一モチーフの「リフレイン」や「ヴァリエーション」を多用する監督の作品に関し、これは作品理解のうえでかなりクリティカルだと思います。

このあたりは翻訳者の作品理解度とからんでくるし、なにせ一筋縄ではいかない作品なんで非常に難しい問題ではあります。しかし、その他にも(クリティカルではないものの)細かい問題がある訳文が散見され、ただでさえ簡単な理解を許さないこの作品が字幕のせいで余計に意味不明になっている可能性を危惧します。

というようなわけで、作品を解釈するうえでDVDに収められている日本語字幕を引用するのはいろいろ差しさわりが出そうなので、今後、台詞に関しては今までどおり、原則的に北米版DVDから原語のまま引用し、適宜独自の訳文をつける形で進行したいと思います。同じように、過去に書いた文章に関しても、日本版DVDの字幕にあわせる等の手直しはしません。「DVDの字幕と違うじゃねーか」と思われる箇所があるかもしれませんが、上記のような理由です。以上、業務連絡でした(笑)。

3/3追記:どうやらこの記事が紹介を受けたらしく、かなりの人数の方にアクセスをいただきました。遅きに失した感がありますが、大山崎としてぜひ明確にしておきたいのは、「字幕翻訳者の方あるいは配給会社に対する誹謗や中傷を意図して、この文章を書いたわけではない」ということです。読んでいただければわかると思いますが、こうした「翻訳上の問題」は翻訳作業全般に抜きがたくつきまとう問題であり、必ずしもそのすべてが「単純な誤訳あるいは悪訳」という問題に還元されるものではありません。一翻訳者ないしは配給会社の責を問うて抜本的解決が図れるものではない、と個人的には考えます。

以前にも書きましたが、「翻訳作業」は必ず翻訳者の「解釈」を必要とします。「インランド・エンパイア」のような非常に抽象的かつ難解な作品を自ら解釈し、「字数」や「納期」という制限を受けながらどこまで字幕を煮詰めることができるか……字幕翻訳者の方には非常に厳しい作業であったことは容易に想像できますし、その困難さを思うとき、僭越ですが同情こそすれ非難する気持ちにはなれません。

この問題は非常に根深いものであって、突き詰めれば「作品解釈のうえでの原語・原典主義」にまで還元されると思います。しかし、「創作物」であると同時に「工業製品」であり「商品」でもある「映画」の性格を考えるとき、「じゃあ原語で観ればいいじゃないか」というのはまったく問題の解決になりません。そもそもそれが不可能な観客のために「字幕」はあるはずであり、それ抜きで観客層を制限したのでは「興行」や「セル・ソフトのリクープ」自体が成立するかどうか、はなはだ疑問だからです。

……なんか書いてるうちに「必要悪」という言葉が脳裏をかすめてなんとも鬱な気分になり始めていますが(笑)、個人的には「少々字幕に難があろうが、公開されないよりは公開されたほうがマシ」「DVDが出ないよりは出たほうがマシ」「観られないよりは観られたほうがマシ」というのが現実的なスタンスであろうかと思います。翻訳があくまで「原意に対する近似値」であり、その「値」は翻訳者の解釈によって揺れ動くことを理解したうえで、我々はどのように作品に接するのか。かなり頭の痛いことではありますが、これは永遠に解決されない問題なのでしょう、きっと。

プラスに捉えるなら、今回の件はこうした翻訳にまつわる問題を再考する個人的な契機となりました。奇しくもリンチが「インランド・エンパイア」で描いているように、映画を観る作業は、映画館での「一期一会」から家庭内外での「リピート」あるいは「オンデマンド」へとその主軸をすでにシフトしています。「映画」がソフト化され観客の手元にずっと残ることが普通になった今、その「作品自体の価値」が繰り返し検証されるとともに、それにつけられた「字幕の価値」も同時に検証され続けることになります。こうした状況に、「映画字幕翻訳」という特殊な分野(と、あえていいますが)は、どのように対峙していくのでしょうか。

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