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2008年2月29日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (58)

サグラダ・ファミリアを建てるが如く、遅々として進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を確認する日々である……いや、こんな駄文の引き合いに出したら、後ろからガウディにレンガで殴られそうだなあ(笑)。え? ああ、あまりに「お約束どおり」でアレですが、まだ日本語版DVDは観てません(笑)。まあ、DVDが逃げるわけでもなし、いいんじゃないっスか?(ヤケクソ気味) そういえば、今度「早稲田松竹」でかかるみたいですね。あの映画館は、座席がいいからお気に入りでありマス。DVDで観るよか、そっちの方が先になったりなんかして(笑)。

てな馬鹿話はおいといて、今回は(2:05:17)から(2:06:25)までの「イメージの連鎖」を片づけることにする。ロスト・ガールが姿を消した直後のあたりからの実際の映像をみればわかるように、このシークエンスは前回取り上げたシークエンスから完全に継続している。長くなるので便宜上分割したが、実際には(2:01:36)から(2:06:25)まではひとつのシークエンスとして理解すべきものであるといえる。

というようなことを前提に、まず、このシークエンスの最初に提示されている具体的な映像をみてみよう。

老人2が自分の座っていた椅子を持ち上げ、テーブルの前、画面の手前側にそれを運んでくる。老人3と4も、ゆっくりと立ち上がる。老人4が座っていた椅子を画面の手前側に向ける。老人3は左手の窓際に歩いていく。老人2老人4が、テーブルの前に並べた椅子に、二人並んでこちらを向いて座る。

[train whistle blows]

家の中が、ゆっくりとディゾルヴで「Rabbitsの部屋」に変わっていく。それにあわせて、三人の老人もゆっくりとウサギに変わっていく。老人3はアイロンをかけているスージー・ラビットに、老人4は長椅子に座っているジャック・ラビットに、老人2は同じくジェーン・ラビットに変化する。

この一連の映像によって提示されているものが、要するに「コントロールするもの」としての老人たちとウサギたちの「同一性」あるいは「等価性」であることは、容易に理解されるだろう。と同時に、彼らがそれぞれの場所で行っていることの「同一性」「等価性」もまた、この映像によって保証されているといえる。つまり、「Rabbitsの部屋」で行われているコンテキストを欠いた会話も、実は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「コントロール」や「介入」の一環であることが明確にされているわけだ。また、(1:20:49)において、「Mr.Kのオフィス」にあるデスクにつくジャック・ラビットの映像が提示されていることからもわかるように、この「同一性」「等価性」は、「Mr.Kのオフィス」内部で発生している事象に対しても保証されることになる。

……という具合に、作品全体のなかにおける「Rabbitsの部屋」と「Mr.Kのオフィス」そして「バルト海地方にある家」の「同一性」「等価性」が説明されたあと、引き続き、移行した「Rabbitsの部屋」を舞台にした事象が描かれる。この(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」については、リンチ作品に表れる「赤と青のモチーフ」の項でも触れていので、そちらも参照していただけると幸い。

さて、ちょいと視点を変えて「編集面」からみた場合、このシークエンスの「Rabbitsの部屋」は他の「Rabbitsの部屋」と明瞭な相違点を備えている。このシークエンスの「『Rabbitsの部屋』の内部」において、ミドル-ロング-ミドル-アップ(窓越しのランプ)と4ショットにわたる「カメラ位置とサイズを変えたカット割り」が行われているのだ。それに対し、これ以前に登場した「Rabbitsの部屋」は……具体的なタイム・スタンプでいうと、(0:04:04)と(1:20:12)および(1:32:39)に現れる「Rabbitsの部屋」の映像は、すべてカメラ位置を固定したロング・ショットによって撮られている。

このように「編集」をキーにして一連の「Rabbitsの部屋」を比較したとき、非常に興味深いことに気づく。たとえば(1:20:12)の「Rabbitsの部屋」はロング・ショットのワン・カットだけで構成されている。(0:04:04)の「Rabbitsの部屋」は「モニターを観ながら涙を流すロスト・ガール」の映像と交互に提示され、両者は「ショット/カウンター・ショット」の関係にある。つまり、「モニターを観るロスト・ガール」と「彼女が観ている映像」の関係性が当該シークエンスにおいて提示されているわけだ。そして、(1:32:39)のシークエンスでは、「Rabbitsの部屋」は、「スミシーの家」のリビング・ルームから電話を掛けるスー=ニッキーのショットと交互に現れる。つまり、ここでは「同時進行する異なった場所の出来事」が提示される「クロス・カッティング」が施されていることになる。で、今回の「Rabbitsの部屋」における「カメラ位置の変更」および「被写体との距離の変更」を伴った複数のカットによる構成……という具合に並べてみていくと、「映画」が段階的に取り入れてきた「カッティング(編集)」の種類が、順番に登場していることになるのだ(必ずしも、実際に映画史に現れた順序どおりではないが)。

最初期の「物語=ナラティヴ」を備えた「映画」は、たとえばジョルジュ・メリエスの諸作品にみられるように完全にフィックスされたロング・ショットで撮られており、いわば「舞台劇の再現記録」とでもいうべきものだった。そこへ「火事だ!(Fire!)」(1901)(およびその米国版"リメイク"であるエドウィン・S・ポーターの「アメリカ消防士の生活」(1903))にみられるような、二つの同時進行するシーンが交互に提示される「クロス・カッティング」が持ち込まれ、G・W・グリフィスよって映像による物語記述のテクニックとして昇華されることになる。また、「舞台劇」と「それを観る観客」が交互に提示される「ショット/カウンター・ショット=カット・バック」は、登場人物が見ているものを受容者に提示することによる「視線の共有」につながる。あわせて「ロング・ショット」「ミドル・ショット」「クロース・アップ」などの異なるサイズのショットをつなぎ合わせてシークエンスを構成するテクニックが(これまたグリフィスによって)洗練されたものになったとき、「映画」は登場人物の心理を描写する点において跳躍的な進歩を果たした。これらの編集術の発達は、「時間操作」から「空間操作」そして「視線の操作」の獲得を経て、「古典的ハリウッド」の映像文法を確立するとともに、「映画」という「人間心理を描く感情移入装置」を成立させていく過程であったといえるだろう。これらの「Rabbitsの部屋」の「描かれ方」の変遷は、こうした「映画編集」の変遷と重なり合っているのだ。

もちろん、リンチが本当にこのような事項を意識していたのかどうかはわからない。だが、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する「コントロールを行う場」である「Rabbitsの部屋」の映像に対して、そのコントロールの最大手段である「編集」の数々が意図的に、まるで「見本市」のように施されているのだとしたら、それはそれで非常に面白いし、逆説的に「Rabbitsの部屋」に付随する「コントロールのイメージ」を補強するものでもあり得るだろう。

ただし、少なくともこのシークエンスの「Rabbitsの部屋」の編集に関しては、明快な意図があるように思われる。まず指摘できるのは、「インランド・エンパイア」という作品自体が、この後「ハリウッド・ブルバード」におけるスー=ニッキーの(フェイクの)死というクライマックスを控えており、それに対する緊迫感を演出するためにこのような編集が施されているのではないかということだ。それを裏書きするように、この「Rabbitsの部屋」から電気的なクラック・ノイズをキューに切り替わる直後のシークエンスにおいても、「短いカットの集積」*などといった動的な編集が施されているのは事実である。このシークエンスの「Rabbitsの部屋」で発生している「カット割り」は、そこへ向かうための「助走」であるのだ。かつ、ウサギたちがコントロールしている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が置かれている状態とのリンケージのうえに、この編集を位置付けることも可能であるように思う。つまり、クライマックスに向けて急激な「物語展開」と「心理展開」をみせている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」にあわせて、この「Rabbitsの部屋」で発生している事象もそのテンポを早めざるを得なくなっているのではないか……という見方もできるだろう。いずれにせよ、クライマックスに向けてカット割りのテンポを早めていくとい演出はごく一般的にみられる手法であり、このあたりもリンチ作品が備えるハリウッドの編集術との「親和性」を表す例であるように思える。

(うわ、また続いた)

*とはいえ、「MTV的編集」が登場して以降の「極端に細かいカット割り」に比べると、のんびりしたものだが。

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