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2008年2月26日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (57)

いまだ国内版DVDを観ることあたわずの大山崎でございます。だれぞ、ワシに休みをくれ(笑)。

てな泣き言をこぼしつつ、今日も今日とて「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を追いかけるワタクシ。なにはともあれ、前回の続きということで、(2:01:35)から(2:05:17)まで。前回引用したこのシークエンスの台詞を参照しつつ、ウダウダと裏返してみたり表返してみたり、つっついたり叩いたり(笑)。

しかし、受容者が期待する「安全保証」を達成するためには、「映画=感情移入装置」に対する精緻な「コントロール」が必要とされるのはいうまでもない*。「ウサギたち」や「老人たち」が行っているのは、そうした「感情移入装置」の「機能保全」のための「コントロール」である。いかに効率よく「物語」を展開し、効果的に受容者の「感情移入」を獲得するか。そして、獲得した「感情移入」を継続させながら、いかに心地よい「混乱状態」に受容者を置き続けるか……「ウサギたち」や「老人たち」の「物語展開」に対する「介入」が主眼としてるのはそういうことだ。

そのあたりを端的に表していると思われるのが……

老人2: You understand she sent for you?

……という、ピオトルケに向けた老人2の発言である。「お前を呼びにやらせたのは彼女だ」という彼の言葉を信じるならば、実はこの「介入」の契機を作ったのはロスト・ガールによる「要請」である。作品を受容する彼女の心象風景は「ポーランド・サイド」の映像によって表され、すでに「口髭の男の死」をもって明示されているように、彼女の「同一化=感情移入」は「時間・時刻の認識」や「場所の認識」を危うくするほど深まっている。(その終結を含めた)更なる「物語の展開」が彼女(の状態)から要請され、「老人たち」はそれに応えてピオトルケをこの場に連れてきたのだ。この観点に立つなら、老人たちもまた受容者=ロスト・ガールに「使役」されるもの、すなわち「動物」でしかなく、彼ら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を「コントロールするものたち」にとって、受容者からの要請の「解決」は最重要課題である……というより、前述したように、それこそが「映画=感情移入装置」の「機能保全」を行う最終目的に他ならない。「コントロールするもの」たちは誰もが「スミシーを演じるもの=観客」のことを「気にしている」……そう、「90歳の姪(90-year-old niece)」(0:40:59)がそうであるように。

こうした諸事情に基づき、具体的な「介入」が、ピオトルケに渡される「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」という形で行われたあと、老人の一人がピオトルケに向かって「時間のコントロール」に関するイメージを付随させた発言をする。

老人の誰か: (画面外から) Right away! It's after midnight!

「私はどこにいるのか?(Where am I?)」と同じく、これまた明らかなリフレインだ。「9時45分」と並んで、「真夜中過ぎ」という時刻について発言した登場人物が、この作品には何人もいたはずだ。

訪問者1: Hmm. I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight. (0:17:04)

通行人: Excuse me, do you know the time? (1:19:32)
口髭の男: 9:45.

浮浪者1(黒人の老女): (少し黙ってから) What time is it? (2:26:58)
浮浪者2(アジア系の若い女性): I don't know... it's after midnight.
浮浪者1: After midnight?

彼/彼女たちは一様に「時間・時刻」について発言しているが、子細にみるとその発言には微妙なニュアンスの違いがあることがわかるだろう……そして、同時に、その「ニュアンスの違い」が各人の「立場の差異」を表していることも。たとえば、二人の浮浪者たちは、「時間・時刻」に対して曖昧な認識しか持っていない。それに対し、「腕時計」を持つ「口髭の男」は、他者に教えられるほど明快な「時間・時刻」に対する認識がある。また、訪問者1は、彼女の「外部性」を表すかのように、「時間・時刻」に対する見当識の失当「そのもの」について一歩ひいた形で語っている。これらの差異をとおして理解できるのは、「口髭の男」と「訪問者1」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の外部にある「時間・時刻」……「(映画外)現実の時間」を認識しているのに対し、浮浪者たちがそうした認識を持てないでいることだ。こうした差異が、「コントロールするもの」と「されるもの」の違いにつながっているわけで、「老人たち」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「内部時間=尺」をコントロールできるのは、「外部時間」に対する認識を保持しているからに他ならない。「ファントム=映画の魔」に魅了され、もはや「時間・時刻」に対する見当識を失当しているロスト・ガールやスー=ニッキーたちには、それは不可能なものだ。

老人たちの認識では、「時刻」はもう「真夜中を過ぎて」いる。結末に向かって用意を整える「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語には、もうあまり「時間=尺」が残されていないのだ。「今すぐに!」と老人が言うように、あるいは「赤だった」と言うように、「事態=物語の展開」は急がせられなくてはならない。「拳銃=最終的な物語展開の要請=終結」がピオトルケに引き渡され、彼はすみやかにそれをあるべき場所に……「ファントム」が近くに迫っている「スミシーの家」に持ち帰ることを要求される。

さて、老人たちとピオトルケの会話における「つながり」をもうひとつ挙げるなら……

老人2: Do you recognize her?
ピオトルケ: I don't see her...
老人2: You understand she sent for you?
ロスト・ガール: I don't know where I am...
ピオトルケ: I hear her now...
老人1: Do you see her?
ピオトルケ: (ロスト・ガールの方を見ながら) No
.

……という一連の台詞になる。ピオトルケには「ロスト・ガール」の姿が見えない。彼女のこの「不可視性」が、現状における「ロスト・ガール」とピオトルケの関係性を表すものであるのは、間違いない。ただし、その「関係性」がどういうものかについては、複数のコンテキストのうえで受け取ることが可能であるようだ。

たとえば、「不特定多数の受容者の総体」つまり「受容者の抽象概念」としてロスト・ガールを捉えるとき、彼女が、演技者=ニッキーの私的な「情緒の記憶」をもとにした存在であるピオトルケ**と「ダイレクト」な関係を構築できないのは当然であることのように思える。少なくとも演技者=ニッキーからの視点に立つ限り、受容者=ロスト・ガールとの「関係性」は間接的で「不完全」なものでしかあり得ない……まるで、「姿」が見えず「声」だけが聞こえるように。このロスト・ガールとニッキーの「関係性」は、二人が登場人物=スーを「共有」し、それぞれが「ストリート」に降り立つ過程を踏むことによって、最終的に二人の(いや、実質はスーを含めた三人の)「抱擁」(2:48:04)が実現するまでに深まる。ただし、その直後にスー=ニッキーの姿がディゾルヴで消え去る***ことで表されるように、彼女たちの関係は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の上映時間が続く限りの仮初めのものであることもまた、「インランド・エンパイア」は描いているのだ。

その一方で、ピオトルケを「夫の抽象概念」として捉えた場合、「妻の抽象概念」でもあるロスト・ガールの「不可視性」は、「トラブル=機能しない家族」の要因のひとつとして理解できるはずだ。少なくとも映像をみる限りにおいて、ロスト・ガールがピオトルケを「見た」という示唆もこれまた存在しない。ということは、実は彼らは、互いに相手の姿が見えていないのだ。この相互的な「不可視性」は、「『スミシーの家』における二人の抱擁」(2:49:27)まで継続することになるわけだが、その関係性の変化をもたらす契機になったのが、このピオトルケによるロスト・ガールの「声」対する認識である。この認識こそが、ロスト・ガールとピオトルケが互いの「Hello?」という「声」を認識しあうこと(2:49:27)の契機となるものであり、最終的に二人の「抱擁」につながっていくものなのだ。このようにして、「夫の抽象概念」であるピオトルケは「トラブル=機能しない家族」の存在と起因を悟るのである。

いうまでもなく、「インランド・エンパイア」の掉尾近くの「スー=ニッキーとロスト・ガールの抱擁」と「ロスト・ガールとピオトルケの抱擁」は、「対置」されるものとして、あるいは「連続性」をもって理解されるべきものだ。詳細は当該シークエンスを述べる際に触れたいが、この二つの「抱擁」へと続く「事情説明」あるいは「関係性変化の契機」が、このシークエンスにおいて提示されていることは記憶に留めておきたい。

*こうした(「映画」というメディアに限らず、架空のものまでを含めた)「感情移入装置」を題材にした作品の多くが、その「機能不全」のために発生する悲劇や喜劇を描いているのには理由があるわけだ。その裏には人間が等しく抱く、自らの「自己同一性」を失うことへの「恐怖」が存在しているのである。たとえばフィリップ・K・ディックの諸小説作品も、そうした「恐怖」に裏づけられているものだといえるだろう。

**ピオトルケの存在をそのように捉えるなら、受容者=ロスト・ガールが「老人たち」を「使役」して、ピオトルケを呼び寄せたことの意味がなんとなく理解できるようになる。ピオトルケが受け取った「拳銃」がスー=ニッキーの手に渡り彼女によって「使用」されるのも、このピオトルケがニッキーに「内包されるもの」であることを思えば納得がいく。

***このシークエンスにおけるロスト・ガールも、やはりディゾルヴで老人たちの前から消え去ることは偶然ではない。彼らは「スクリーン」によって(あるいは「モニター画面」によって)、本来は隔てられた「場所」にいるのだ。

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